1、まず推進派の反応
賠償額が4人合計14兆円だと聞いて、「そんな額、絶対払えないじゃん」と呆気にとられたと聞く。賠償額は損害の額と責任の範囲を裁判官が計算して請求するようだ。被告が払えるか払えないかではなく、実際の損害額から算出しているのだと思う。つまり、原発事故の被害というのは「それだけ巨額だ」と言うことである。それにしても個人の賠償額としては、史上最高額だそうだ。原発推進派としては、「こういう判決が出ると、これから原発をやろうとする人がいなくなる」ことの方が心配という意見である(被害を受けた人のことは余り気にしてないらしい)。まあ、こういう人達には、原発のような危険なものを扱う資格は無いと思うけど、そういう人が政府の役人の中にいるのも事実である。
2、判決の意味
被告4人には、これから起きる「かも知れない」津波の原発に与える危険性を、十分予想し認識することが出来た、と認定している。これは危ないと分かっていたのに、その「対策を怠って」会社に甚大な損害を与えたという意味である。この判決を見ると、福島の事故は「十分防ぐことが出来た」となる。現在いくつかの原発が原子力委員会の審査を受けており、この審査基準で合格の判定が出れば運転は一応可能となるみたいだ(但し、県と近隣自治体の承認が必要)。つまり原発は、ちゃんと規則を守って運用すれば安全である、と裁判所は考えているということである(そこが問題なのだが)。今回の被告は「それを守っていなかった」ということ。裁判官の考えは、すべての危険は「事前に予知が可能」であり、対策さえ万全にしておけば「原発は安全」ということらしい。対策を取っていないから事故が起きる、というロジックである。あとは被害額の算出と責任の度合いによって賠償額を算出するだけ、という事務屋の考えとも言えそう。
3、では、原発事故が起きる「すべての要因」を想定できるのか?
① 自然災害・・・地震・地割れ・洪水・台風・津波・落雷・竜巻・その他、ありとあらゆる天災がこれに含まれる。特に過去に発生した大災害の規模を参考にし、学術的な研究や予知のデータなどを含めて「想定し得る」災害について、十分に防ぐことが出来るレベルの対策を講じておけば安全と判断する。しかし過去になかったからといって、今後も無いとは言い切れないのではないだろうか。例えば突然巨大地震が発生して、原発密集地帯である敦賀が「丸ごと断層隆起」したらどうなるか?。何十万年に一度という地殻変動だって「明日起こらないとも限らない」のが地球活動の神秘なところである。そうなったときに「1週間で沈静」して、また普段の生活に戻れるか、それとも核爆発が連鎖的に起こって「福井・能登・石川・富山、それに風向きによっては京都・滋賀」までもが、人の住めない死の世界となって、「10万年という気の遠くなる時間」が過ぎるまで、我々から永遠に失われるか。・・・それが原発とその他の施設との違いである。原発事故は死なないまでも、「片足切断」みたいに、取り返しがつかないもの被害を及ぼすものなのだ。
② 人的災害・・・対策を講じていても、その操作を誤ってしまうと事故が起きる。アメリカであった裁判の例だが、電子レンジで猫を温めて死なせてしまったのは「マニュアルで猫を温めてはいけない」と書いてなかったからである、と会社側の不備を主張して勝訴したそうである。人間のやることには「想定できないこと」が起こりうる、という実例だ。こういうとんでもないことに限らず、何があっても不思議はないのが人間である。スイッチを入れ忘れるとか時間を勘違いするとか、間違えるはずのないことが「実際には起きる」。つまり、どんなに安全な対策を講じていても、それを適切に運用しなければ事故は防げない。今回の津波防護壁を作っておかなかったというのは「最も分かりやすい」人的災害の例であろう。事故原因は津波の浸水によって電源喪失という異常事態が起きたからなのだが、この電源喪失という事態は「不思議でもなんでもない」普通の状態なのである。これは本来の電気を送る送電線が何かの事故で使えなくなった時に、予備電源として「万一の為に」備えているものである。それが不測の事態で機能しなかった(被告側の主張。この不測の事態ということが裁判の争点である)。しかし核燃料というものは一旦臨界に達したら「もう安全な状態」は理論上ありえない物質なのである。安全を維持するためには、冷やし続けなければならないのだ。つまり「何かやってないと」すぐ爆発する危険物なのである。何もしていないことが「即、危険な状態」になる。これは、他の人工装置、例えば水力発電や火力発電や風力発電や太陽光発電とは「真逆の性質」である。こんな危険なものは、人間にはとても制御出来ないと考えるのが普通の感覚だろうと思う。それを制御できるというのは、人間の「思い上がり」ではないだろうか、私はつくづくそう思う。
4、事故は想定範囲なのか
自動車事故でも航空機事故・船舶事故でも、それぞれ万一の場合を想定して運用している。最も深刻な被害は「死亡事故」であろう。だから万一の為に、運用業者は「保険」に加入している。被害の額に応じて、保険の額も高くなるわけだ。では、原発事故も保険を掛けておけばいいじゃないか、というと「そんなことはない」のである。今回の裁判の例でもわかるように、原発事故の補償額は天文学的数字になる。このとんでもなく高額な賠償金額を保険で賄うとなると「当然、莫大な保険料」を支払うことになるわけだ。つまり、割に合わないのである。だから原発事故は一回やったら「それでジ・エンド」、あらゆるものが死んでしまう。福島の事故では東京電力という1会社に責任を負わせる形にしているが、運用を許可している時点で「国家も賠償責任から逃れることはできない」と私は思う。つまり、裁判で言っていることに従えば、福島原発は津波防御壁を作らなかった時点で「安全対策不備」なのだから、原子力委員会は運転中止命令を出さなければいけなかったのである。この運転可否判断を行う担当者の責任は、東電旧経営陣4人の責任以上に「重い」と言わざるを得ない。
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結論:それでもあなたは原発に賛成ですか?
政府役人が、賠償額が「とても払えない額」であることに憂慮している、という点については、私は「いくら高くても構わないじゃない?」と答えることにしている。だって原発は安全なんだから、事故なんて起きるはずがないのである。起きるはずのないことについてどんなに高い額を設定しても、それは発生しないわけだから「問題ない」という考えだ。なんなら「事故ったら死刑」でも構わないと言える。ビビっている政府役人には、「気にするなよ、事故なんて有り得ないんだから」と、肩をポンと叩いて笑ってあげればよい。
・・・というのは私の逆説的「ジョーク」である。
私はそれとは反対に、「事故は必ず起きる」という立場だ(実際にチェルノブイリ・スリーマイル、それに福島と三回も起きてしまった)。この政府役人は、実はどんなに対策を取っていても「事故は起きる」ということを知っているから、事業をやろうという人が出なくなるのを恐れているのだと言える。彼らは事故を「前提として」事業を組み立てているのである。これが原発推進派の「本音」であろう。原発事故は必ず起きる。彼らはそのことを熟知ているのだ。だから原発は、わざわざ人の住んでいない辺鄙な場所に建設するのである。もし事故が絶対に起きないのであれば、大消費地である東京や大阪などの人口密集地の真ん中に建てれば、何十キロも送電線を引く必要もないし、途中の電力減少もないから最適の筈ではないか。つまり、電気の「地産地消」というわけだ(個人宅の屋根に太陽光発電設備をつけるというのは、これである)。いっそ皇居に原発を作ったら?、というのも逆説的であるが理に適っていてグッドな案である(ちょっと過激すぎる?)。しかし、万一の事があったら大変だから、福島とか柏崎刈谷とか伊方とか川内とかの「海沿い」の寒村に作られているのが現状である。・・・じゃ、万一の事」って、「どゆこと?」と聞いてみたいのだが、答えられる人はいないだろう。推進派の県知事や経済界の人間も、もし万一の事が現実になったら、その段階で「すべてが終わり」になることぐらい分かっているのである。
分かっているなら、やめようよ!
今回の賠償額を聞いてびっくりした人は、原発事故というのは「それだけの、取り返しの付かない被害をもたらす大災害なんだ」と思っていただきたい。私は原発は「人間が手を出すべき道具では無い」と思っている。だから自分用には「太陽光発電パネルとバッテリー」の併用による自家発電ライフを満喫し、もし天気が悪くて発電できなければ、その時にはロウソクとかランタンで「我慢」するのが理想だ。人間、昔は「夜寝て、昼に働いた」ものである。電気がなければ、また昔の生活に戻るだけ。そう思えば、それほど大変なことでもない。むしろ核に汚染された列島に住み続けるよりは、よっぽど気が楽ではないか(これは私の本音である)。
いつ爆発するかわからない原発に怯えて暮らすより、自由でのびのびと、自然の恵みを体いっぱいに浴びて人生を謳歌する生き方を、私は選びたい。それが後進国の貧しい生活であったとしても・・・である。
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