私の子供時代の記憶は、九州大分に引っ越してから始まる。読書ということで言えば、とある畳の部屋でうつ伏せの姿勢で森鴎外の「安寿と厨子王」を読み終えて、子供ながら何か感じるところがあったのか、暫くの間ページを眺めてじっとしていた記憶がある。勿論私はその頃は小学校に上がる前だったから、読書で得た感想を何か言葉に出して誰かに話をするという事もなかった。多分、引っ越したばかりで友達と遊ぶ機会もなかったので、一人で読書することが多かったのだろう。家には親の買ってくれた子供用の本がいっぱいあったので、読書には困らなかったようである。過去の私の読書歴は、今思い出してみると次のようであった。
1、子供時代・・・友達もなく、ポツンと一人で遊んでいた頃
○シートン動物記
内容は全く覚えていないが、狼の話に興味を持ったのは覚えている。私の家は一匹の犬を飼っていたが、姉がつけた名前は「ウルフ」だった。姉も当然同じ本を読んでいるはずで、私は「お下がり」を読んでいたから何の違和感もなかったのである。犬の名前がシートン動物記から取ったものかどうかは姉が亡くなっているので分からずじまいだが、姉は犬を大事に可愛がり、一人で世話をしていたようである。
○ファーブル昆虫記
私は何故か「糞転がし」の話が大好きだった。シートン動物記もそうだが、子供心に自然に生きるものへの興味と親しみを育んでくれた懐かしい本である。どちらも殆ど知識としては役に立たなかったが、活字で描かれる世界というものに空想の自由を満喫できたことは、私にとってその後の人生に何らかの影響を与えていたことは間違いない。
○少年少女文学全集
これも親が買ってくれて家にあった本である。やはり子供の頃に本格的な小説や物語を読んでおくことは、情操教育などと堅苦しいことを言わなくても、想像力を養うのに素晴らしい効果があると思う。当時は今のようにテレビやゲームのない時代だったから、外で遊べない時は家で読書するのが当たり前だった。読書といえば何か我慢して勉強するように思われるかもしれないが、当時の私にとって読書は「自分だけの世界に没入する魔法の杖」だったと思う。全集に収められている短編などを読んでいる間は、まだ見ぬ「現実そのもの」を垣間見る感覚だったのだろう。既に現実をあらかた知ってしまった今にして見れば、まだ世間知らずでピュアだった頃の懐かしい思い出である。
2、学生時代・・・大学ではオーケストラ部に入り、芸術にのめり込んでいた頃
○ゲーテとの対話
この本は、若い頃の私の精神的な拠り所「バイブル」だった。この一冊を抱えてふらりと旅行に出たこともあり、その頃の私の座右の書と言ってもいい本である。エッカーマンの素朴な問いに対するゲーテの含蓄のある言葉を理解するには私は少々若かったが、一つの理想の大人というものをゲーテに見出していたのは間違いない。私はこの本で、あらゆるものに対して「明確で論理的な答えが必ずある」ことを学んだと言える。それは、遠いヨーロッパ文化というものに憧れていた田舎の少年にとっては、芸術の深奥に触れた最初の体験かも知れない。
○エチカ
ゲーテと同じ時期にもう一人、深くその著作にのめり込んだ哲学者があった。スピノザである。私は西洋哲学にも興味があり、特に「プラトンの対話篇」には随分興趣を掻き立てられた。哲学的な内容がどうとか言うわけではなく、プラトンの描く「ディベートの世界」に惹かれたのである。中身よりその論理性が、私の理屈っぽい性格とぴったり合致していたのだろう。スピノザの哲学もどちらかといえば論理的で「そして何よりも直感的に分かり易かった」のだ。カントも一応は齧ってみたが、私の求めるように「明快な答えを導く論理」という意味では、カントの展開する論理は少し晦渋すぎたのである。つまり私は「快刀乱麻を断つ」が如き論理の明快さに心躍らされたのだと思う。このミーハー的性格は今でも変わってはいない。
○ギリシャ詩歌集
ゲーテやスピノザと共に、箱入りの世界文学全集の西洋古典の巻を愛読した。夏の暑い盛りに冷房の効いた新宿図書館に通い詰めて、西洋の詩人達の有名な抒情詩をノートに書き写して悦に入っていたのもこの頃である。特にギリシャのサッフォーやシモニデス、フィレンツェのダンテやペトラルカ、イギリスのシェイクスピアやバイロン、そしてパリのボードレエルやマラルメにランボー等々を読み漁った。この頃私は、若気の至りなのか自分もこのような「情熱的なソネットを歌い上げる吟遊詩人」になりたいと考えていたが、そもそも努力するということが生来不得手だったことが災いして、何の因果か「深く考えもせずに」ごく普通の会社員になってしまった。まあ、結果としては妥当な選択だったとは思うけど・・・。
3、社会人・・・働くという意識も余りない頼りない新社会人だった
○ユダヤ人と日本人
学校を出てから暫くは新しい環境に慣れるのが忙しくて何とか先輩の見様見真似で仕事を覚えていったが、仕事自体は思っていたようなクリエイティブなものではなかった。どちらかと言えば「肉体労働に近い営業」だったのは今思えば驚きである。そんなことは「入る前にチェックすべきだろう!」と言われそうだが、私は思いつかなかった。それでも社会でお金を頂くということはそういうもんだと自然に受け入れて、一心不乱に日夜業務に邁進した(まあ、流されやすい性格でもあったのだろう)。そんな日々を過ごして10年ほど経った頃、どういうわけか当時大評判だったイザヤ・ベンダサン著の「ユダヤ人と日本人」という本を読んだのである。学生時代にはドストエフスキイの「罪と罰」を一晩で読み切ったこともあったのだが、その頃はすっかり読書とも縁遠くなっていた。それが突然、また元のように読書に精を出すようになるとは、人生とは不思議なものである。そのキッカケとなったのが、この山本七平の出世作であった。
○オリオンミステリー
同じ頃義理の兄からこの本を借りて、一気に最後まで読み切った時の興奮を今でもハッキリ覚えている。エジプト大ピラミッドに秘められた謎を紹介した、今でいえば「宇宙人の正体!」などと言うのに近い異色の本だが、私は著者の描く古代宇宙の世界を完全に信じ込み、星々とピラミッドが同調したミステリーの永遠の虜になってしまったのである。これ以降、宇宙の起源や人体の仕組みなど、いわゆる「科学」に関する本、たとえばブルーバックスのような少し専門的な本は、本屋に行ったら必ず見るようにしている。
○邪馬台国はなかった
そうは言っても歳を取るとともに読書量は限られて来る。それでも通勤電車に乗ってる間は何とか読むことが出来た。そんな時に出会ったのが古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」である。それまでは大して興味がなかった古代史という世界に誘ってくれた画期的な本が、この「邪馬台国」の従来の説を打ち破る「徹底的に論理で突き詰めていく歴史解読の書」だった。私にとっては歴史書というよりも、爽快感が身体中を駆け巡る「謎解きノンフィクション」の傑作である。この本の1ページ1ページに書かれている「奇妙な事実」が、ものの見事に解き明かされる「あっと驚く手腕」には実際鳥肌が立った。この時、謎解きのワクワク感を存分に味わう喜びを知った私は、もう古代史の闇の中の迷路に「深く彷徨う」ことになっていたのである。古田氏には、それまでの「歴史に対する私の目」をパカっと大きく開いてくれたことに最大限の感謝を覚えずにはいられない。これは私のライフワークとなって今も続いている。
4、還暦後の人生・・・自分の好きなことを思う存分やれる様になった頃
○嵯峨野明月記私抄 上・下
堀田善衛に出会ったのは私が還暦を過ぎたある日に、東京駅の八重洲ブックセンターで文庫本の棚をぶらぶら眺めていた時であった。ちょっと面白そうだな、という気軽な気持ちで買った本である。ところが内容は全然違っていて、私が人生で初めて歴史上の人物と「面と向かって直に接した」ような気持ちになれた本だった。それが平安鎌倉初期の未曾有の混乱を生き抜いた、時代を代表する歌人・藤原定家だったのだ。勿論彼のことは百人一首の編者として名前は熟知していた。だが宮廷の人間関係や疫病・強盗そして持病などに苦しめられながら和歌を詠み、己の昇進に一喜一憂し、また古典を収集しつつ文化の保存に力を注ぎ、さらには子供の行く末を案じる一家の長として奮闘する姿を見せられると、まるで目の前に「藤原定家と言う人物」が生きているかのように錯覚するのであった。勿論私に定家の気持ちが分かると言う訳ではないが、数段親しみを覚える様になったのは間違いが無い。
○徒然草抜書
嵯峨野明月記を読んで一気に平安日記文学に興味を覚えた頃、色々買い漁った中の一冊が「小松英雄の徒然草抜書」だった。日本人の古典である徒然草を、平安日本語の「表現解析」という手法を使ってバッサリ切って見せた出色の文芸評論である。これで小松英雄にのめり込んだ私は、出版されているもの全て買い込んで読む、と言う暴挙にでた。単行本12、3冊はあっただろうか。結構な金額になったが全く気にはならなかった。まあ私が結婚していたら、こう言う「無駄遣い」はできなかっただろうけど。とにかく、一見どこにでもあるような在り来りの表現でも、一度違う角度で眺めたら「こんなに奥が深いのか」と言うことだけは、良くわかったつもりである。お陰で徒然草のエピソードなど「一般に流布した当時の出来事」については、結局記憶から抜けてしまったのは残念だった。徒然草は勿論の事、枕草子や方丈記など読んで置きたい本が山ほど残っている。私の人生が尽きる前に、もう一度トライしてみるのも良いかも。
○大和万葉旅行と大和古寺巡歴
これは通勤時間を楽しくするつもりで買った「遊び」の本である。堀内民一と町田甲一が書いているが、どちらも私は馴染みが無い作家だった。ただ講談社学術文庫で出ていたので、中身は確かだろうと思って買ったのである。しかし内容は期待に反して実に愛すべき素晴らしい本だった。奈良の美しい自然や寺社仏閣を、豊富な知識と歴史へのさりげない畏敬の念で綴った紀行本だが、何より奈良と言う風土に対する「著者の限りない愛着」がジワッと心に響く名作である。私が漠然と奈良に引っ越そうと思ったキッカケが、この2冊である。
5、人生の終の住処・・・いよいよ私も終わりの時が来たようである
実はこの大和万葉旅行と大和古寺巡歴の2冊をカバンに入れて、晴れた日に奈良を散策して回るのを「私の人生最後の夢」とする予定だった。だが、まだ引っ越しは出来ていない。今は新型コロナのこともあるし、さらには奈良が「古代史の中心だ」という過去の常識も、次々と書き換えられて「新しい古代の姿」が見えてきたのである。果たして私の「奈良愛」がどこまで続くのか、心許なくなって来た。あるいは全く別の本と巡り合って、まるで「新しい世界」へと急に気持ちが変わってしまうかも知れない。この先どうなるのか、まだ自分自身わからないのである。多分、私の流されやすい性格はまだまだ人生の地平へと彷徨い続ける事だろう。本と共に歩んできた私の人生。もしかして喫茶店でコーヒーを啜りながら自由に空想の世界に遊ぶことが、実は私にとっての一番の幸せなのかも・・・。
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