明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

最近ニュースに取り上げられた人々

2017-07-21 21:00:00 | 今日の話題
1 日ノ原重明

105歳の死ぬ間際まで現役医師を貫いた日ノ原重明は、はたしてそんなに偉いのか。逆説的に聞こえるかもしれないが105歳まで生きたから偉いのだとも言えて、長寿を差し引いて実際の人間だけ観察すれば、普通の街中のオジサンやオバサンと何ら変わらない人だとも言える。だから私がこのニュースを見て感じたことは「長生きって、そんなに偉いの?」と言うことだった。一概に長いからいいとも短いから不幸だとも言えないのが人生である。

こまめにケアして栄養や生活態度に気を配り、不幸にして病気に見舞われたら治療に専念してじっと回復を待つ。長生きの秘訣はそれしか思いつかないが、私が入院していた時、偉そうな医師が若い医師を数人引き連れて診察に来たことがあった。一通り脳梗塞に特有の麻痺をいくつかテストして確かめたあと、「脳梗塞の程度は、この検査をやってみればすぐ分かるぞ」的なことを若い医師達に言ってサッサと出て行った。私はあっけに取られて暫く呆然としていたが、治療もせず若い医師への練習台にされたことに、なんだかだんだん腹が立って来た。

ちょっと一言「若い人に勉強させたいのでご協力願えると助かります」とでも言ってくれれば、私もお世話になっている身であるから少しぐらいの事には喜んで協力したのに「なんだよ!」と悪態の一つも言いたくなる。悪気はないのだろうが「気が付かない」とすれば、医者として「根本的な医療への意識に欠けた所がある」としか思えない。こんな所が日ノ原重明先生とは雲泥の差なんだろうな、と思って「やっぱり偉い方に入るのかな」と考え直した。

ところで医学の進歩が目まぐるしい現代であるが、歳を取っても身体だけ20台の若さになったらこんなに素晴らしい事はないだろうに、とふと思った。内臓や脳は年相応に老化しいずれ死亡する時がくるとしても、外見だけでも若いままの自分の気に入った姿で生涯を過ごせないだろうか。それが出来たらスゴイけど、まぁ無理だろうということにしておこう。なぜなら歴史上の年齢関係が「見た目で判断すると無茶苦茶になってしまう」からで、徳川家康が20歳の顔・姿で「大御所様」なんて呼ばれることになって、それはそれで「外見が意味なくなってしまう」のだ。一番いいのは「自分だけ若くなる」だが、もし出来たとしても「私にはその技術は回っては来ない」ことだけは確かである。

当時の平均年齢が30歳位という時代に、安倍晴明は85歳まで生きたらしい。当然終末医療なんて洒落たものはない時代であるから、最後の最後まで現役のままだっだろうと推測される。日ノ原さんのような生涯現役で働く事にある種の美学を感じる人にとっては、終末医療なんかは無用なものである。そういう意味では、長生きするだけでは「良い人生とは言えない」し、ボーッとしてるだけの人生はまた「良く生きた」とは言えない。理想は、終末に当たっても「夢なかば」というのが最高なんじゃないかな、結果としてだけど。

2 松井一代

これは愛情の裏返しの錯乱というか、もう男には理解不能な女の業である。と思っていたら、こないだのワイドショーでオリラジの中田が解説していた内容に感心した。彼の分析で言うと松井一代は、全て計算して一つのドラマを演じていると言うのである。ブログに始まりユーチゥーブ・フェイスブック・ツィッター・LINEと、それぞれ特徴に合わせて使い分けて発信していて、完璧にメディアを味方につけている、というのだ。

世間では良かれと思って発信した自分の意見が、思わぬ反撃にあって炎上する事がある。そういう望まない炎上は、大抵びっくりして謝罪とか言い訳をしてるうちに自然と消えてしまうものだが、松井一代の場合はそうではない。泣落とし・脅迫・感謝、いくつもの手法を使って視聴者を飽きさせない技術は、炎上までも計算されているプロレベルだというのだ。これにはバックにIT業界に詳しいソーシャルネットワークの猛者がついている、と中田は解説する。フォロワー数だけでも相当だが、それを数週間に渡って惹きつけておくのは並大抵ではない。

そういう冷めた目で松井一代を眺めれば、「話題提供」という観点からは合格だろう。ワイドショーのプロデューサーでも、こうは上手くいかないのではないだろうか。だが松井一代という個人を見た場合、果たして万々歳と行くだろうか? 松井は船越英一郎に対して「世間という裁判の場に引き摺りだして決着(彼女にしてみれば勝利)」をつける意気込みだが、船越英一郎が松井を裏切って浮気をしたということが明らかになっても、「それが世間の目からすれば何なの?」というだけではないのか。

人の噂も75日とはちょっと長すぎるが、今年になって何人の人が「浮気しました、ごめんなさい」とあやまっただろう。本人達は真剣に悩み、半狂乱の修羅場を経ての謝罪会見であるが、過ぎ去ってしまえばなんてことはない。船越英一郎も、そろそろ幕引きにかかった方がいいかもしれないと思う。松井一代は討ち死に覚悟で、「一件落着したら、もう日本には住まないつもり」だそうだ。個人的恨みつらみに付き合わされる視聴者こそ「いい面の皮」である。まぁ私は最初っから見てないが。

3 佐川啓介と大山のぶ代

大山のぶ代は、脳梗塞で倒れてから4年後に認知症を発症している。同じ脳梗塞繋がりの私としては、他人事ではない感じだ。私が脳梗塞を患ってはや三年目がそろそろ終わろうとしている。あと2年大人しくしていれば、危険水域を脱したと言えるのだが。生活習慣の悪癖は、ちょっとやそっとの我慢では治らないのだ。佐川啓介は妻の大山のぶ代を残して先に死ぬわけにはいかないと常々語っていたそうだが、結局ガンには勝てなかったということになった(大山のぶ代はこのことを知っているかどうか)。

このニュース、先に逝かざるを得ない佐川の悔しさと後に取り残されて生きてしまったの大山の悲しみは、我々の人生に大きな教訓を残してくれる。つい先日亡くなった小林麻央は、ある意味人生を精一杯生きた満足感の中で幸せだったとも言えるが、佐川啓介の場合は何も残らない「ただ虚しいだけの死」のようにも私には思える。何故こんなにも人生に違いが出たのか。それは守られる側が周囲の力及ばず亡くなるのと、守る側が逆に力尽きて死んでしまう「差」だろうか。

私としては、やはり守られる側が先に逝ったほうが順序として良いように思う。佐川の場合でも大山⇒佐川の順番だったら、それほど考えさせられる悲劇にはならなかったのじゃないかと感じた。余計なお世話だが、大山が認知症だというのが一層涙を誘う要因である。だが大山は「佐川が誰だかわからなくなっている」のだろうか。認知症の怖さはここにある。ポツンポツンと断片的に残っている記憶が段々薄れて来て、脳の機能が失われていく病気だと言う事はわかっているが、その途中の経過状態については良くわかってないというのが現状である。

今日リハビリ施設で言語訓練の部屋の壁に貼ってあった新聞の切り抜きに書いてあったが、シロタゾールという「脳梗塞の治療薬が、認知症患者の病状を改善する」という治験があるらしいのである。これはもしかすると脳梗塞の患者は、アルツハイマーには「なりにくい」ということか?と、勇気凛々・元気百倍、なんだか胸のつかえが下りたような気になった。私の人生は脳梗塞を患ったが、幸い軽かったせいで何も変わってない。むしろこれを機会に色々考えることがあり、余分な贅肉を捨ててスッキリした気がするくらいだ。

これからも色んな人の訃報に接する事になると思うが、「死ぬことに慣れてくる年齢」に私もなったということか。最近は誰それが亡くなったと聞いても、余り感じるものがなくなってきた。やはり親子・夫婦・兄弟の結びつきは特別なものであり、われわれ他人が口をさし挟んで「偉大な功績を云々する」などということは、厳に慎むべきじゃないかと思う。親族が故人への想いを心に深く刻み込めば、それが最高の送る言葉になるんじゃないだろうか。いずれは私たちも送られる側にならざるを得ない。その時、見ず知らずの人からあれこれ言われても、さして嬉しくはないような気がする。

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