目を大きく開けて歩くというのは、歳をとって老いる事への抵抗でもある。このところ年のせいか、昼間目が半開きでどうにも活力が出てこない。今日テレビで箱根駅伝の予選会を見たが、中央大はカスカスで予選会突破したようである。個人的には、駅伝などは大学の本分にもとるもので、遊びでやるならまだしも学業そっちのけで青春だの男の意地だのとは世も末だと思うが、なにしろ正月の楽しみは相棒とこれしかないから仕方がない。それにしても中大は87回連続出場が途絶えなくてよかった。しかし記録はいつかは途切れるもの。途絶えさせる役割を背負う選手達は、どんな気持ちだろうかと思うとやるせない。努力が足りないと言うけれど、他の大学も頑張っているのである。結局は才能や天分ということなのだろう。連続出場などは、あまり真剣に考えることもない記録だと言える。そう考えると、襷を繋ぐことに異常な執念と、また繋げなかった悲哀と感動を覚える日本人という人種民族に、駅伝というゲームは不思議なまでに独特である。やはり日本の正月は、相変わらず箱根なのか、昭和だなァ。
ここでテレビを見たら、何てこと「中央大学があと一つの11位で予選会落選だと!」の驚きのニュースが流れた。これだからテレビは最後まで見ないといけないと言う見本である。しかし中央も落ちたもんだねぇ、いっそ30位くらいなら諦めもつくのに11位だなんて。しかも44秒差だって、可哀想に。だがお約束の泣き崩れる選手の姿は、流石に低調の中大だけにテレビでは確認できなかった。もう良いんじゃない?連続出場なんて。中身は四年で入れ替わるんだから、87回と言ったって実体は何もない。ただ中央大学という名前だけが連綿と続くだけである。こういう名前だけの抽象的な存在に実際の人間以上の重きを置くのは、全体主義・精神主義の見本である。中央大学は私の母校ではあるが、別段何か思い入れがあるわけでもない。強いていうなら、私の母校は昭和47年当時の、御茶ノ水にあった中央大学である。そう言えば、順天堂大学はどうしたんだっけ。伝統なんてものは、その程度。そう言えば、東大や学習院大学も出場してたけど、あっさり落ちてたね。学校も変われば生徒も変わる。伝統なんて、実は無いのかも知れない。大学が選手育成に金をかければ別だが、それ程の価値は箱根には無いだろう。やはりお遊び、それより大事なことがあるというのが正論である。
ここでテレビを見たら、何てこと「中央大学があと一つの11位で予選会落選だと!」の驚きのニュースが流れた。これだからテレビは最後まで見ないといけないと言う見本である。しかし中央も落ちたもんだねぇ、いっそ30位くらいなら諦めもつくのに11位だなんて。しかも44秒差だって、可哀想に。だがお約束の泣き崩れる選手の姿は、流石に低調の中大だけにテレビでは確認できなかった。もう良いんじゃない?連続出場なんて。中身は四年で入れ替わるんだから、87回と言ったって実体は何もない。ただ中央大学という名前だけが連綿と続くだけである。こういう名前だけの抽象的な存在に実際の人間以上の重きを置くのは、全体主義・精神主義の見本である。中央大学は私の母校ではあるが、別段何か思い入れがあるわけでもない。強いていうなら、私の母校は昭和47年当時の、御茶ノ水にあった中央大学である。そう言えば、順天堂大学はどうしたんだっけ。伝統なんてものは、その程度。そう言えば、東大や学習院大学も出場してたけど、あっさり落ちてたね。学校も変われば生徒も変わる。伝統なんて、実は無いのかも知れない。大学が選手育成に金をかければ別だが、それ程の価値は箱根には無いだろう。やはりお遊び、それより大事なことがあるというのが正論である。
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