明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

考えるヒント(16)年齢考

2023-01-06 20:59:00 | 今日の話題

去年の大晦日から今年にかけて、私は正月らしい事を何一つしなかった。紅白歌合戦は高校生の時に一度見たきりだし、大晦日の「年越し蕎麦」も食べた記憶がほとんど無い。勿論おせち料理や餅とか雑煮なども、ここ50年ほどは全く無縁である(私の家では正月料理というものに余り重きを置いていなかったように思う)。正月だなんだと言っても何か季節がガラッと変わる訳でなし、ただ年号が2023と一年増えただけ、という感覚に過ぎないのだ。その他は何一つとして、普段の他の日と変わらないのである(我ながら、何と殺伐とした考えだろうか?)。

年齢も今年の誕生日が来ると世間的には73歳に「なる」わけなのだが、これは満年齢なので、厳密には73年目が終了して「74年目が始まった」と言うのが正しいのではないか、と密かに私は思っている。世の中は、この年齢というものを〇〇歳に「なる」と未来形で受け止めているが、これは人生を「〇〇が完了した」と過去形で捉える考え方である。

つまり、20歳に「なる」というのは20年間を既に生きたという「完了」の意味であり、厳密には「21年目」という新しいステージに「入った」と考えた方が生産的である。それが小学校卒業みたいなものと違うのは、完了と「同時に」間断なく新しく「次の歳が始まる」からである。小学校卒業は中学入学までにまだ間があるのだ。

実際に、小学校に入学するとか大学進学とか社会人デビューとかのあらゆる「人生の節目」を表現する年数は、切り替わった初年度から1年、2年と数えているではないか。和暦で言うならば今年は令和5年であるが、これは令和5年が「始まった」と言う意味に使っている。令和5年という年は、令和になってから「5年目」の年ということだ。

つまり、すべての表現に何年目と「目」を付ければ、話は至極簡単になる。例えば創業天保13年の老舗の16代目当主、なんていうのも「16人目」ということ。だから、73歳の誕生日は73年目が終わり「人生74年目の初日」であると言うのが正しい、というか間違いが無いのだ。人々が誕生日を祝うのは一つの年齢という区切りが終わり、新しい年齢が今日から始まるので「お祝い」するのである。73年も生きた、と過去形で考えるよりは、これから人生74年目に入ると未来思考で考えるほうが、余っ程楽しいと思うのだが・・・。

そこで私は年齢の数え方を、次のように変更することを提案したい。

① 誕生日

誕生日というのは生まれた日の循環を祝う。だから1年経った次の誕生日は、計算すると1年と1日目だ。これは「2年目」の最初の日でもある。現行の二十歳の誕生日は、実は「20歳の満了」を意味している。これは小学校の卒業みたいに「終わった」という感覚である。だから二十歳の誕生日は、本来は「21歳の始まり」を祝う日とするべきである。これなら中学校の入学式と同じく、「晴れやかな感覚」だとも言えるではないか。

② 年を聞く

あなたはいくつですか?と聞かれたら、大学生とかもう社会人と言うのと同じく、21年目に入っているという意味で「21です」と答えることにしよう。もし誕生日から2か月経っていれば20歳「と」2か月という過去完了形ではなく、21歳「の」3か月目です、と現在進行形で言うのか正しい。まあ、これは習慣だから、全員が同じように言っていれば、何れ誰も何とも思わずに普通の表現として受け入れられるだろう。

③ 個人の権利

公的権利なども「お酒は二十歳から」ではなく、お酒は「21歳から」とすべきである(アメリカでは、酒を買うのには「21歳」の証明が必要とのこと。但し、21歳の誕生日まで酒は買えないのかどうか、は定かではない。私は20歳を過ぎたら、と解釈しているが)

④ 人生の節目

還暦のお祝いは暦が一巡りするわけだから、本来は「61年目に突入」した時点でのお祝いである。だから60歳ではなく「61歳」を祝うべきだ(実際は現在でも61回目の誕生日なのだが、「呼び方だけ」が頑なに60と言っている)。これ、何とかならないかなぁ・・・。

ま、以上の提案はそれとして、この「数え年」という考え方は、ものを「数える方法」としては極々当たり前だったと言える。日本では昔は正月元日が来ると、誰もが同じように「一つ年を取った」ものである。だから新しい年の初めを祝い、色々あってもとにかく一年を越して、人生の年輪を一つ加えられたことを「神に感謝する」のである。これは何事も一つ、二つと数えるのは人間にとっては普通であり、「年」も考え方は同じだったのだろう。人類が「ゼロ」という概念を発明したのは、古く5世紀頃のインドだという。この「ゼロ」が輸入されたのはいつかは知らないが、少なくとも年齢に関しては、明治になるまでは「数え」だったと聞いている。

そういう意味では日本では個人の誕生日はそれとして、社会全体で「新年を祝う」という風習が残っていて、それはそれで喜ばしい行事である。そこで人生の出来事や人類の歴史など、「何年・・」という表記を全て「何年目」と改める、というのはどうだろう。例えば西暦紀元794年という年は今までキリストの生まれた年から「794年目」の一年間を表しているが、これは世紀で言うと「8世紀の出来事」になる。私はこの西暦と世紀でいつも悩んでしまうのだ。どうして7百何年の出来事なのに「8」世紀なのだろうか。7百何年なら同じ数字の「7」世紀で良くない?

・・・私は昔から相当な潔癖症で、この「700年代が8世紀」だという数の不一致が、どうしても許せないのである・・・。

この794年というのは桓武天皇が平安京を開いた年だが、世紀で言うと8世紀というのは、実は世紀を「数え年」と考えてみると筋が通っているのだ。つまり世紀の始まりの〜00年は、数えで言うと「何百年目」という表現と同じである。1世紀は00年から99年までで、20世紀は1900年から1999年までとなる。・・・あれ?、1年ズレてるよ!?

実は西暦1900年は19世紀で、1901年になって始めて20世紀に入るというわけである。正確に言うと、実際は「0年」というのは無くて、1年から始まって100年経つと桁が繰り上がって1世紀になる。つまり世紀という表現は西暦の「百の桁の数字」を言うのではなくて、1から始まる年数表記の「桁上り表記」と定義されているみたいなのだ。紀元の初年は紀元1年だから、世紀も1世紀だと言うわけである。本来は「10」というのは1、2、3・・・のグループの最後尾であって、まだ桁は「上がっていない」のだ!(この桁上りというのが曲者で、桁上りと言っていながら実際には数は元のままで、呼び方=単位を新しくしただけである)。因みにインドでは、ちゃんと0世紀と表記する年数管理法があるらしい(本当かなぁ)。

正月から何だか難しい話になってしまって申し訳ないが、こういうことを一年中考えているのが「私という人間」である。これは性分だから仕方ない。というか、考えることが「楽しい」とも言える。まあ、変人なんだろう。困ったもんだ。

さてこれは本当は、何か10とは「別の記号」を当てて10個目をキチンと表示すべきではないだろうか。例えば10個目は「じゅう」と言って、10個が集まって一つ上の単位として桁を上げ、「とう」を単位名にして11、12、13・・・と数えるとピッタリ整合性が取れる。つまり、しち、はち、きゅう、じゅう、と数え、その次はとういち、とうに、とうさん・・・と言えば良い。そして99つまり「9とう9」の次は「9とうじゅう」、つまり100=百である。実数の10の呼び名を「桁上がりの単位名」としても流用してしまったことからくる「呼び名の混乱」なのだ。つまり「10=とう」というのは桁名であって、「実際の数では無い」というのが私の主張である。

千円を表すのには百円玉を10枚でも良いのだが、現実には「百円玉10個」を表す言い方=数字が「無い」のである!。

しかしこれは百円玉をそう呼ぶから間違いが起きるのであり、かりに百円玉を「ドラ」と呼び、千円札を「ムン」と呼ぶとすれば解決する。1500円つまり15ドラは、10ドラが1ムンだから「1ムンと5ドラ」に言い換えられるのである。例えば「月」を1月から12月まで数えて、それで一年とするのと一緒だ。12月を桁上りして「翌年の始め」と考える人はいないのではなかろうか。要するに、桁表示名を変えれば何の問題もないのである。

話をもとに戻すと、百円玉10個を無理やり言うとすれば「10百円」となる!。これは正確には数字が桁上りする過程で10個目が桁上りして、1の位は「ゼロで何も無い」ということを表している。つまり「1つの10」と「ゼロ個の1」」の意味である(何だか縄文時代に戻ったみたいだが・・・)。だが、碁石を勘定するのに、大抵の人は10個ずつ並べて何列あるから何十と数え、余った端数を足して何十何個と表現する。年数で言えば100年毎に1世紀と数え、余った端数を足す方法だ。例えば794年は700年=7世紀と94年である。これなら何の問題も無く理解できる。

結局我々は、長い年月の「ある特定の期間」を捉えてそれを表す場合に、区切りや単位として「〇〇年」と言っている。これは、その下の単位である「月」を使えば、1年=12ヶ月とも表現出来るわけだ。同じように1日、2日、3日と数えれば、31日で「ひと月」となる。31個の実体を「表現として」新たに単位をつけて「別の名」で呼ぶ。ただ、それが少々複雑に絡み合っているだけなのである。

私はこれをアナログの「デジタル変換」と呼んでいる。つまり12ヶ月という連続したアナログの「期間」を、年という呼び名でデジタル変換し、それを1年、2年、3年・・・と数えられるものにしたのである。実際はあくまで「連続したもの」なのだが、ついつい勘違いしてしまう。

私達人間はそれぞれ一人だが、実はタンパク質や脂肪などの何兆という細胞の「集合体」である。そして細胞は、そのまたさらに細かい物質やアミノ酸や何やらの集まりで出来ている。我々は他人を「誰々さん」などと気安く呼んでいるが、実は何百兆のまた何百兆倍の分子や原子や電子が集合した存在なのだ。しかもそれらの原子と原子はくっついている訳ではなく、ある距離を取って「宇宙に浮いている」という。例えて言うならば、私達の身体を構成する物質は、サッカー場の真ん中に「スイカ一個がポツンと置いてある」ような状態で、それぞれが離れて存在しているのだと言う。

「だから何だ!」と言われそうだが、まあそういう事だ。ただの、つまらない知識である。こうしてつらつら考え事をしていると、正月などは「アッと言う間」に過ぎてしまう。

私は2023年は表示通り「20世紀」とし、2099年までそれを続けて2100年じゃ20百年と表記を変更。2101年目の正月元日になったら、初めて「21世紀」と表記するのが年数表記法としては正しいのではないかと考えている。つまり「99年の次は100年」ではなく、新しい記号を導入するのだ。そうすれば、数字の桁上りを10ではなく「11から」にすることが出来、10個ずつの単位を桁上がりすることが出来るのである。これでようやく西暦57年の光武帝の金印授与は2桁だけの表示で「世紀」は無しになり、101年目から「1世紀」になるのだ。念願のモーツァルトの活躍したのが「17世紀」になって、万事目出度し目出度し!である。

これで「世紀」は常に年数の百の桁と一致する事になる。現在は100は桁上りして3ケタになってしまうが、今度の改正で99の次は9じゅう「とう」みたいに、10を表す新しい数字をつけて桁上りしないでおく、という方法を取りたい。これは年と月の関係で考えれば12月は年の内であり、まだ「新年になっていない」のは明らかだからだ。

まあ、表記法だけの事だから学問としての数学には影響ないとは思うが、こればっかりは分からないから専門家のご意見を待つことにしよう。ただ、私が得意分野としている古代史を研究していると、いつも〇〇世紀と年数表記との間で「勘違いしそう」になるのだ。例えば645年の大化の改新は・・・?、というのが「7世紀の出来事」だと言うことを理解するまでに、いつも0.5秒ほど時間を無駄にしている。これが解消されるだけで、何だか長年の胸のつかえが下りる気がするではないか?

以上、しょうもない無駄話だが、暇つぶしに考えた「一つの考察」としてお読み頂ければ幸いである。



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