明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

今日の気付き(21)どうでも良い事ですが・・・

2020-02-04 22:06:18 | ニュース
1、東出昌大の失敗に学ぶ
他人の不倫ネタって、面白おかしく叩いて盛り上がるだけの「一過性の話題」に過ぎないと言える。当人のことなどを考えてるヤツは「独り」もいないのは間違いないのだ。それにしても東出と唐田は嫌われていて、特に女性から「道で出会ったらツバ吐きかけそうな勢い」で毛嫌いされている、といういから何とも可哀想である。不倫で世間から批判された芸能人はゴマンといるのに、東出は清潔なイケメンのイメージが強かったせいか、「評価が半端なくマイナス」なのが痛々しい。これほど叩かれる原因は分からないが、彼の何処がいけなかったのか、社会心理学としては解明されるべきだろう。

ところがコロナウィルスの猛威が「日本にもドンドン蔓延して来た」途端、トンと話題にもならずどっかに消えてしまったのは皮肉である。つまり「東出と唐田は最低だが、今はそれどころじゃない」って事だろう。何とも分かりやすい自分勝手なワイドショーの取り上げ方である。コロナウィルスのニュースが如何に大事なことであろうと、東出や唐田にしてみれば「一つも問題は解決していない」のだ。いつでも再燃させられる「予備のニュース」ということで一応取ってあるってわけだ。本人たちにとっては堪ったもんじゃないだろうが、芸能人というのは因果な商売である。

この三流「覗き趣味的」ワイドショーの視聴者は、今やネットにその場を移して「無差別テロ」の様相を呈してきているから恐ろしい。私もこないだ調子に乗って、ちょっと自慢げなことを書いたら早速叩かれた。殆ど読者のいない私でさえこの有様だから、売出し中の若手イケメン俳優が話題になったりした日にゃ「とめどなく弄くり倒される」のは当たり前である。皆んなして「好き勝手な評価」を仲間内でワイワイ言って楽しんでいるわけだが、それを聞いた本人は「どうすることも出来ない」のだ。人気商売の辛さはここにある。

昔は恋愛沙汰を「芸の肥やし」と言って容認した時代があった。聴衆は芸を見に来る。だから舞台や銀幕で演じられる役柄と、私生活での役者の行動とは「別」なのが当然だった。それがいつから「一緒」になったのだろうか。東出の行動は、単なる「女好き」で済まされる種類のことである。杏が妊娠中であろうがなかろうが、それは杏が「そういう女好きな男」を選んだに過ぎない。よく言えば「それでも、そんな東出が好き」であり、悪く言えば「自業自得」である。だから不倫の問題は良くも悪くも「杏が決めること」で、出来ればそっとして欲しいのでは無いだろうか。だがそういう風に受け取って貰えないのが今の1億総ネット社会である。

で、喧々諤々意見が飛び交うが、「次の話題が出てくると」あっという間に話題に上らなくなる。良いように振り回されて「役者としての努力が全部水の泡」になった挙げ句に、再起のチャンスも与えられず「記憶の外」に放り出された東出は、惨めな存在としか言いようが無い。こういう、絶望の淵から「今度はサイコパスの犯人役」とかで再登場して、日本アカデミー賞でも取ったらそん時は、「やっぱ東出って凄いよね」ってなるんだが。果たして、彼にその役者魂があるかどうか、ここからが男の見せ所である。ここで世間の逆風をプラスに転じて、己の魅力に変えてこそ「本物の俳優」と言えるんじゃ無いだろうか。まあ、こういう私も「言いたいことを言ってるだけの一人」だけなのだが・・・。

2、コーヒーの二度出し
コンビニで買ったドリップ・コーヒーは、家で淹れると「どうしても薄〜い」のが難点だった。それで一度出したコーヒーを「もう一度フィルターを通して」、コーヒー豆を二度ドリップするようにして濃くしたのである。これでコーヒーショップ並の「本格的な飲み味」になった(あくまで、個人の感想です)。これは皆さん普通にやっている手法なんだろうが、私はようやく「今にして」気がついたわけである(何とも間抜けだ)。知らないというのはしょうがないが、「気がつくのが遅い」というのは「決して恥ずべきことではない」などと、自分を正当化するのが何とも痛い、今日此頃である。

ついでに言うと、ドトールでは私はアイスコーヒーを頼むのだが、最近は「氷なし」を頼むようにしている。氷を入れると最後の方には氷が溶けて、水っぽい「コーヒー味のただの水」になるのが嫌なのだ。今頃の寒い季節ならホットコーヒーを飲めばいいのだが、ホットは「ソーサーとカップ」で出されるので、歩いて席に着くまでに「こぼれてびちゃびちゃになる」のがどうにも我慢できないのである。何か上手い方法はないもんだろうか。

3、昔の歌謡曲はストーカーだらけ
昔のカラオケ楽曲を連続で流す番組をCSで見ていたら、中西保志の「最後の雨」が聞こえてきた。それで急に私は、この曲は完全に「ストーカー」の気持ちを歌っているな、と感じたのである。この中で彼は「自分の恋しい感情のことばかり」を切々と歌い上げるが、相手の気持ちや意思を考慮するシーンは「一切出てこない」。全てが「自分の感情」だけである。その他の楽曲も似たり寄ったりの作り方で、二度と戻らない喪失感や独りぼっちの孤独が延々と謳われるが、全部独りよがりである。つまり、昔の歌謡曲というのは皆んな同じような問題が根幹にあって、「共感力の欠如」がベースにあるのだ。これじゃあ昭和生まれは全員「ストーカーあるいはモラハラ」である、と言っても過言ではない、ガビーン!

愕然とした私は何とか「そうではない」ということを証明する楽曲を探したが、そこにハイ・ファイ・セットが歌う松任谷由実の代表曲「卒業写真」が流れてきた。サビの「人混みに流されて〜」の部分で聞こえてくる「山本潤子のファルセットボイス」が堪らなく気持ち良い。ユーミンの歌声もそれなりに味があって良いが、山本潤子のは何時聞いても心に響く「グッと来る美しい声」の絶品ボイスである。ちなみに彼女の生まれ故郷は奈良県天川村という超田舎だそうだ。ハイ・ファイ・セットというグループからは想像できない田舎育ちでビックリだが、人の能力とは「個人に宿る」という良い見本である。・・・ちょっと関係なかった。

結局は「卒業写真」の主人公も「私を叱って〜」と心情を吐露しているわけで、立派なモラハラと言って間違いではない。かぐや姫の神田川も「あなたの優しさが怖かった〜」と言うのだから完全に、依存症患者の精神崩壊症状である。こうして、すべての楽曲にある「病理」を数え上げると切りがない。ああ昭和歌謡よ、君がストーカーやセクハラ・パワハラ・モラハラのオンパレードから抜け出せなかったのは何故なんだ?

というわけで、我々昭和生まれの人間の過去は、ストーカーまみれの時代感覚の中で育ってきた感情を「美しい」と感じるように教育されてきたのである。ニワトリのヒヨコが「この世で最初に見たものを母親と思い込む」ように、今では犯罪と言われ唾棄されている感覚を、素晴らしいと思い込んできたのだ。これはもう、今更反省してもしょうがない。そう刷り込まれているのである。で、何を言いたいかというと、昔の歌は「歌詞は深く考えずに、メロディを楽しめ!」なのである。昭和歌謡の歌詞は色々問題山積みだが、「曲は最高!」と胸を張って断言して何の問題も無い。歌詞はやや〇〇っぽいけど、そこに込められた感情は「美しい」、そう考えて正解なのである。

だから若い人には「何と言っても、メロディが昭和歌謡の魅力だ」とアピールし、自信を持ってカラオケでガンガン歌って欲しいのだ。これは、70才でカラオケデビューした私の皆さんへの希望です。

4、年取ってからのテンションの上げ方
生き物全般に言える事だが、年を重ねるごとに何事にも興味が湧かず、テンションが下がったまま上がらない人が増えてくる。つまり人が年取っているかどうかは、この「テンションの高いか低いか」による、というのが私の「人を見分けるコツ」である。個人的な感覚だが、TVの番組「町中華で飲ろうぜ」に出演している「坂ノ上茜のような感じ」が、若さの代表だ。勿論このまんまでは「奇天烈おじさん」だから、もう少し分別のある知的な雰囲気を追加できれば、ほぼ完成である。要は、「明るく楽しく、人にはポジティブ」をモットーにすれば、当たらずと言えども遠からず、となる。そのためには先ず「自分自身が楽しく」ならなければ話にならない。だが年を取ると、何もかもが既に経験していて答えがわかっているわけで、そのため何を見ても虚しく空っぽで嘘くさく見えてくるのは、仕方がないのじゃ無いだろうか。

いやいや、それをグッとこらえて「何だか知らないけど、楽しい」というように自分のテンションを上げられれば、それで周りから「若く見える」のである。自分の身の回りのもの全てに対してこの感覚を持つことが出来たら、あなたは確実に「10才は若くなっている筈」なのだ。論より証拠に何かを他人と話をする時「そりゃあ凄い!」といった「新鮮な驚き」の感情を表現出来れば、相手も話しに引き込まれて乗ってくることは必定である。相手が楽しいと思って話に花が咲くようになってくれば、もう「孤独に陥る」ことはないのである。

秘訣は自分の無知を曝け出すことにある。何でも知っている「長屋のご隠居」は、今のネット社会には不要以外の何物でもない。いつしかそんな「無用の長物」になり、仲間からは煙たがれ、そうして社会から打ち捨てられる狷介な老人になってしまうともう、「そこから復帰する」のは無理である。そうなる前に、「いつでもテンションを上げられる柔軟な生き方」を身につけることが肝要というわけだ。畢竟、何事にもエネルギッシュであることが「若さを保つポイント」であると言える。しかし、滅多矢鱈にハイテンションでは、「ただの小煩い老人」になるだけだ。大阪の商店街なんかで見かける「おしゃべりなオッサン」は、まさにこういう「痛い老人」である。では、ちょうど良い「テンションのレベル」は、どう見分けるのか?

それは相手が決めることである。つまり、「今話しをしている相手」の表情を、ひたすら注意深く観察することで答えが見つかる筈だ。コミュニケーションの方法なんて、そんなに難しいことではない。自分の言っている事が「相手に伝わっているか」どうか、ちょっと確かめて見るだけである。それが上手に出来れば、老後は安泰というわけだ。嘘はいけないが、相手に合わせるのは「コミュニケーションの根本」である。その相手に合わせるために、「テンションを上げる」ことが大いに役に立つというわけだ。今より少し1段階テンションを上げるだけで、人間関係が上手くゆく。これは私が70年生きてきて、やっと到達した結論である。まあ、何とも大したことのない理論だが・・・。

5、リハビリの成果
今日新たに気がついたことだが、ちゃんと発音するのに必要なことは、1ゆっくりしゃべる、2顎を引く、3舌を意識して動かす、そして4顎や舌に力を入れた後すぐに力を抜くこと、である。それに加えて、1音ごとに「区切り」を入れること。これで、だいぶ聞き取りやすくなるようだ。病院やリハビリ施設の先生方は、こういう具体的な改善方法については、どなたも「全く教えてくれなかった」。ただ「ぱたから練習」とか「ブレス練習」など、いつもやっている基礎的な強化運動を盲目的に教えるだけである。それは勿論役に立つ方法だとは思うが、何故役に立つのかは「教えてくれない」ままである。だから患者は「ただ信じるしかない」のだ。患者は医者に「言われたとおりにすればいい」と扱われる。これは医者と患者という関係が作り出す「上から目線の感覚」だろうか。あるいは母親が赤ん坊に対するような感情なのかも知れない。だが患者はレッキとした大人であり、生まれたての赤ん坊では無いのである。

医者は健康で元気なんだから経験がないのはしょうがないとは思うが、私は「少し障害の経験のある医者」のほうが、具体的なアドバイスが出来て患者には勇気を与えられる気がするのだ。先生だって苦労してリハビリをした経験がある、だから「あなたも努力すれば報われる日がきっと来るよ」って、自信を持って言って貰いたいのである。障害は仕方がないが、障害から立ち直る努力に「水をかけ」てはいけない。患者は回復していると自覚することで、天にも登る幸せを感じるものである。それは誰より私が実感している事である。普通の人は、言葉をどうやって発音したら良いかなんて「1mmも考えたこと無いのが殆ど」だろう。物心がつく頃には、誰でも自由に喋れるようになっていた筈だから。だが年を取ってから「飲み込み障害・発語障害」を抱えた人にとっては、喋れないという事は深刻な社会適応障害なのである。だから私はリハビリの途中で気がついた「健康な人には分からない」リハビリのコツみたいなものをブログに書いていくことで、少しでも同じ障害を持つ人の助けになればと思っている。

私は脳梗塞を患い、最初は全く喋れなかった。それが今では、少しだが会話が出来るまでに回復してきた。これは「凄い」ことでも何とも無くて、元々身体的機能はあるのだから、喋れないのは「神経の伝達方法に欠陥」があるだけなのだ。それを「意識してつなげる努力をする」ことで、元のように喋れるようになると私は思っている。つまり現在の私には「会話を増やして」実地の発語練習をする段階に入ってきたと言える。例えばコンビニでパック入り牛乳を買うと、レジで女の子に「ストローはいりますか?」と聞かれるが、以前は手を振っていらないことを示していただけだった。しかし今日から、口で「ストローはいりません」と言うことにしようと思っている。或いは「コップで飲むから大丈夫です」と言う方法でも良いかも(ちょっと余計かな)。何であれ、言葉にして伝えることで回復が加速するのは間違いない。だが普通に会話できるようになると、人々の関心が薄れてくるようになった。

どういうことかと言うと、今までは「普通じゃなかった」から皆んな障害者に接するように優しくしてくれたし、私も「そんな気遣い」を有り難く感じてもいた。それが、だんだん会話が「普通になってくる」と逆に、みんなの視線が「素っ気なく冷たいように」感じて来たのである。まあそれで普通なんだから、今までが「過剰に丁寧に扱われていた」だけなのだがそれにしても、何だか寂しい気もしないでもない・・・。

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