空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

保守とリベラル

2024年07月10日 | 読書・TV感想
保守とリベラルとの選挙が世界中で生まれている。
戦争、核兵器反対、差別反対と、仮に実現困難であっても
「正しいことを言い続けることが大切だ」がリベラルの主張で、
「いくら正しいことを主張しても実現できないのであれば価値がない」
が保守の主張である。

確かに平等は正しい。
細胞レベルでは西欧人も東洋人も、障害者も健常者も、男も女も、
黒人も白人も区別はない。従い差別はあってはならないことだ。
しかし現実には2
車の免許には視力検査があって差別が行われている。このように
社会での生存には、社会と折り合いをつけながら生きている存在だ。
正しくても実現できなければ意味がない。
そうした現実に目を向けるべきだ。リアリズムと呼ばれる考え。
それが人間存在の根本だ。

「幸せ」は人々によって異なるものであり、
個々の価値観や経験によって定義される。
幸せは個人や文化によって異なるが、
共通の要素として、自己の満足感や希望を持つことが
挙げられている。
大前提として
「人間存在とは何か」という根本的な問題に関連してくる。

要は
今(の現実)を重視するのか、
魂(思い)を重視するのかである。






「現実よりも希望や正しさの方を優先する」
希望や夢を抱き続けることが幸福だ。
戦争反対と言い続けることが重要だ。
観念としては宗教に近く、リベラリズムと呼ばれる。
一方では
「何が正しいのかよりも、何が本当なのかが優先される」
実現しないものに価値はない。
戦争・核兵器反対と言い続けるよりも、
具体的に何をやれば、
どうすればそれらは実現するのかが優先される。

人間は何に力を注ぐべきか。
国家も同様に国力や経済力このような現実優先が保守と呼ばれる。
何が実現できるものなのか、自己利益の優先である。
それが幸せにつながるという考え。
従い、実現できないものはあきらめ、次の道や別の道に進む。




結論:

仏教でいわれる「こだわり・執着を捨てる」とは
偏桃体思考から離れることで、
得と感じるか、損と感じるかの参照点(基準)を
下げることで幸せを感じる、すなわち
ノーベル賞学者ダニエル・カーネマン博士の言う
「参照点の違いによって、人の価値判断は変化する」
である。



幸せの基準値「参照点」が低い人が幸せになる。
これは前頭葉(スロー)思考によって可能であり、
それにより初めて幸せをもたらす。

戦争・核兵器反対と言い続けるよりも、
今何をすれば、
どうすればそれらは実現するのかが優先される。
人間は何に力を注ぐべきか。
国家も同様に国力や経済力このような現実優先が保守と呼ばれる。
何が実現できるものなのか、自己利益の優先である。
それが幸せにつながるという考え。
従い、実現できないものはあきらめ、次の道や別の道に進む。
自己利益優先の考えで、米国ではトランプの存在が象徴的だ。
英国やフランス選挙のように、世界中でどちらを優先すべきかの選択が
今盛んにおこなわれている。

こだわりを抱き続ける(リベラル)、こだわりを捨てる(保守)。
二者択一ではなく、双方を取り入れることが幸福につながる。






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幸せな気分になる人

2024年06月14日 | 読書・TV感想
幸せな気分になれる人
身近にある小さな幸せを見つけて満足する、
あるいは
どうせ死ぬのだから
好きなことをしてワクワクした思い出づくり。
または
このような偏桃体思考から離れることで、
得と感じるか、損と感じるかの参照点(基準)を
下げることで幸せを感じる、すなわち
ノーベル賞学者ダニエル・カーネマン博士の言う
「参照点の違いによって、人の価値判断は変化する」
から
幸せの基準値「参照点」が低い人が幸せになる。
このような
前頭葉思考が安心をもたらす。


一方、
飛行機をキャンセルしたことで助かった!
「生きているだけで丸儲け」
こうして死期を自覚することは、
どうでもいいことに時間を使わないようになる。
それは自由で幸福なことだ。ハイデガー

こうした
奇跡的な幸運に恵まれなくても、
老人に対して「生きているだけで丸儲け」
の合理性を発見した。

ウサギのような弱い動物の群れは
生き延びるために老ウサギを大切にする。
それは猛獣に襲われた時、
老ウサギが犠牲になって子ウサギが助かるからだ。

ホモ・サピエンスにも生き延びるために
ウサギの群れのような
子供の命を守るために老人を大切にする
その遺伝子がつくられているから、
今でも
「老人は子供を守るために価値ある存在だ」
皆んながそう思って生きている。

現代において
老人が子供を守る事態が本当に来るのか?
それはどんな事態なのか?
誰もわからなくても問題ない。
老人は価値ある存在だと思えれば良い。
それがダニエルカールマン博士の
いつか来るかもしれないうわさ話を信じる
前頭葉(スロー)思考の合理性だ。
同時にこれが老人に対する
「生きているだけで丸儲け」の合理性だ。
そしてそのことに感謝できれば最高の気分となる。

いずれにせよ、すべてが
幸せになることを捨てて、
幸せを感じる生き方だ。





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空海の「虚往実帰」

2024年05月05日 | スクラップブック
老子の言葉で
 人に魚を与えれば一日生かすことができるが、
人に魚釣りを教えれば一生養うことができる。
というのがある。

この逸話(教訓)は
モノにすがって生きることを戒める道徳とは異なり、
メンタル的な面での解決策、
それにより救済される場合がある。
道徳だけでは解決策にならないという主張だ。

例えば、
自由主義のみでは損得勘定優先となって
損した得したに媚びるようになる。
結果的に「魚をもらって得したような気になる」
知らず知らずに自由からは逸脱し、
損得に媚びた不自由な身となる。
自由を維持するためには
モットモットの意識だけでは危うい存在だ。
捨てるという意識・感情も必要だ。
「もらうことを捨てれば(魚釣り方法を)得ることになる」
呼吸と同様、吸うだけでなく吐く(捨てる)ことも必要だ。
あるがままを捨ててこそあるがままとなれる。
ハッピーを捨ててこそハッピーになれる。
純粋を捨ててこそ純粋になる。
悟りを捨ててこそ悟れる。
不完全なものの可能性により、
完璧を捨ててこそ完璧となる。
モットモットを捨てることで儲ける。
そこから
「生きているだけで丸儲け」といった
心の変化が生まれる。



美徳や理想の観念(魚を与える)だけでは
パワーにならないし、
いつまでもひたすら堪えて待つ思いだけでなく、
心の変化が可能となる対処法(魚釣り方法を)も必要である。
要は
感じる(観じる)心で見えてくる。
それを実社会に活かすことだ。

色即是空
空即是色 

実社会から仮想空間に赴き、
空から実社会に帰るという空海の「虚往実帰」に
通じる言葉でもある。




ところで
「誰かに頼ったり、誰かに頼られたり」
この二項で人間関係が生まれ、そこからの道徳だ。
生まれて死ぬまでの長期にわたる関係で、
道徳通りにはいかない場合も多くある。
たとえ失敗しても、あるいは生きづらさを実感しても
メタバースと呼ばれる仮想空間で希望を取り戻して、
実社会に帰ってくる方法が「虚往実帰」だ。
「実」である現実世界と「虚」である仮想空間、
片方だけでは関係・改良は生まれない。
心の持ち方には双方による動的平衡が必要だ。
こうして対立二項での共存作用がとても重要だ。
それを「融合」や「重ね合せ」と呼ぶ。
例えば波動の干渉は仮想空間での演算により
実体空間で波の強度として現れる。

量子の世界でも、
スピンの回転方向が、
左と右の対立した形で共存している場合がある。
「重ね合せ」と呼ばれる。
量子コンピュータはこれを利用して、
0と1とを一体化させて重ね合せた形で
計算を実行する。
その計算結果だけが現実社会へ提示される。
ここでも「虚往実帰」だ。

 


 現実社会で人間が考え、
その正しさにこだわろうとするのが
道徳のような一極集中型で、
例えば民主主義、権威主義、全体主義、共産主義など、
いずれも後戻りのない決めつけ型の一極集中だ。
しかし
たまたま運良く旨くいった方が褒め称えられ、
運悪く旨くいかなかった方はすげ替えられるだけの話だ。
要は正しいから良くなることではない点だ。
だからこそ問題は膨大の数の日常だ。
そもそもいちいち正しいかどうかの合理性について
検証するわけでもないし、
即断即決の扁桃体思考に加えて、
感情による評価ミスで多くの トラブルが生まれる。
そして正しいかどうかではなく、
運が良かったかどうかで決められるのであれば、
結果として
運悪く全てを否定されたとしても、
信じるものがなくなったとしても、
絶望回避する方法に、
メタバースのような仮想空間での
自分の思考を自分で眺める方法だ。
つまり、魚の釣り方である
心の変化が可能となる対処法だ。

仮想空間では、
過去の人々との相互作用によって、
「感じる(観じる)心で見えてくる」
そこから夢や希望を取り戻し、
実社会に帰って元気を取り戻し、
またダメなときにはメタバースに戻るという
試行錯誤が可能だ。
例えば古来からの試行錯誤では、
「和(重ね合わせによる相互作用)を以て貴しとなす」
日日是好日
これらが「色即是空・空即是色」のリセット思考だ。
若い年代ではやり直しができるから、
何時でも戻ってこられる虚構のメタバースを基地にして
大いにチャレンジしてみることだ。
要は如何にして好ましく捉えられるか、
これが魚釣りの教えなのであろう。
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幸福の原理

2024年04月07日 | スクラップブック
幸福の原理:メンタルの安定と心の平和
それを得るため、メンタルと心の原理を知る。
それによって
原因の一つである評価ミスを防ぐことが出来るし、
同時に
自分の感情の起伏を眺めることでも、
今ある幸せに気づくことも出来るようになる。

頭の毛や唾は普段丁寧に扱われる人体備品だが、
一旦床に落ちてしまえば瞬時に汚物扱いとなる。
これはとりもなおさず
扁桃体の評価ミスで引き起こされている。
同じようにして
扁桃体思考はどうでもいいことであっても、
関わらずにはいられない程の重大事件で、
無視することなどできないと感じるものだ。
これは脳での危機管理に関連する、
進化の過程で培われた
ネガティブな感情を処理する
最優先の独裁者的部位のなせる特性だ。

日常のほとんどが
この扁桃体思考(感情主体の独裁者)である。
心配事に取りつかれ
不安にさいなまれている最中は、
どうでもいいことでも,
おとぎ話であっても
とてもリアルに感じられる。
そしてむしろ
現実化しないことに不安を覚え
悩みとして抱え込む

そのことに気が付かなければ
思い込みのようにして評価ミスを起こす。
「取り越し苦労」で、人生を浪費してしまい、
「いまを楽しみながら生きること」ができなくなる。
(長期化による精神障害の危険)
扁桃体思考は一極集中(何が正しいか)の
効率優先であって、
生きる意味の合理性(何が本当かの試行錯誤)
にまで深められない。
合理的な思考による一極集中化であれば、
気が付くことでリセットして
引き返すことができるが、
扁桃体思考による評価ミスから進んでしまった
一極集中化では、
気が付かないままで進行するので、
元の状態に戻るのが極めて困難だ。


扁桃体思考を抑制するためには、
前頭前野を刺激(前頭葉思考)することだ。
例えば
眼に見えないものに価値を見いだす
合理性による評価判断だ。
自分に正直に生きる幸せ、
目的を持つことが幸せ
感謝する幸せ、
人のため、人を幸福にする幸せ
家族と一緒にいる幸せ
などについてだ。


参考:
感情主体の扁桃体思考における象徴的な具体例と特徴
マネーによる幸せ(比べてみるための眼で見える幸せ)
刺激的な幸せ(比べるために普通のことに満足できない)
この様なことには限りがないこと(長期化の危険性)であり、
苦しみを生むものである。
しかも心の安定とは関わりのないことである。

改善することと否定することは異なる
ダメな・無価値な人間だ、ではなく
価値ある人間だと肯定する。
自然を眺めるように、自分の気持ちの起伏を眺める。
自然とのつながりに気が付く事、
自分のこだわりを他に委ねる事。




余談:
西欧の個の意識や主観・観念は我執・こだわりである。
一方、我が国での基本は我執・こだわりを捨てて、
自然と(善と悪とが)一体となる(無分別の)観念である。
それによって
新たに生まれた秩序で悩み・争いから解放され救済される姿勢だ。
善を行うとかえって対立を生むことがあるからだ。
(扁桃体思考により何もしない人間が悪に見える)
善いことの意識(分別することや自己都合)を捨てることで、
初めて真の善となる。(善と悪の一体化)
息を吐く(捨てる)ことで息を吸うことができる。
「吐くことと吸うことは一体である」
ハッピーでなければいけないと思っている限り、
ハッピーになれない。
「ハッピーを捨ててこそハッピーになれる」



2024年4月7日 日野市
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長期の扁桃体思考によって生まれる心の汚物

2024年03月13日 | 記事のコメント
悩むことと考える事とは異なるので、
この違いを良く認識すべきである。
悩むとは一つのことにとらわれて、
くよくよと或いは
ぐるぐる堂々巡りする状態を
扁桃体思考(一極集中の状態)といい、
一旦リセットしながら思いを巡らせ
考える状態の思考を
前頭葉思考(試行錯誤の状態)という。

感情は
ホモ・サピエンスの大脳周辺系の発達(突然変異)と
大いに関連しているとされる。
主に扁桃体(刺激反応)、とともに
海馬(記憶)、帯状回(痛み)の発達だ。
これらの要素としては
集団社会とのつながりや言語の生成などから、
一極集中や試行錯誤に関与する。
「認知革命」と呼ばれているもので、
集団の中での問題解決能力や共感能力の獲得である。
しかしこれらの獲得とのトレードによって、
人間は悩みを抱えることとなった。

扁桃体は、生存に関わる重大なものかどうかを
一瞬のうちに評価する機能だ。
集団生活における安心や恐怖、
好き嫌いの反応が扁桃体に任されているので、
特に怒り・悲しみの様なネガティブ感情の
コントロールには心の安定が必要である。
こうした判断や決断が
感情に振り回されない様にする為には、
扁桃体の活動を制御することが必要だが、
身の安全を司る進化により制御不可能だ。
そこで感情の独裁者とも呼ばれる。
従い感情の管理者と呼ばれる前頭前野によって
制御するしかない。

   

悩むとは考えるとは異なり思い込みから始まり、
一極集中化へ進行して行く過程と同じだ。
悩みの多くは扁桃体思考といって
人間の感情をつかさどる部位で起る。
元来は進化の危機管理のために発達したもので、
瞬時の対処ができるようにするための機能である。
深い考察は行わず、
とっさに行動するための機能である。
(思考の停止・固定)
眼に見えない現象でも最悪のケースを予見して、
回避行動を起こそうとする部位だ。
したがって
前頭葉のような時間のかかる合理的な機能を司る、
考える部位と違って、感情による判断ミスを起こす。
例えば
口の中にあるはずの唾が床に落ちれば、
本来非常に貴重なものであるにもかかわらず
汚物と判断して捨ててしまう。
あるいはまた
オリンピックのメダリストにもかかわらず、
銀メダリストになると不幸になるという
他との比較で自己蔑視してしまう原因も同様だ。
この直感主体の扁桃体思考で行われているために、
判断ミスをして
不必要な心配事や悩み事を抱えてしまう。
感情がそういう思考に仕向けてしまうのであって、
特徴的・象徴的な例を挙げれば、
「みんなで渡れば怖くない」
英国ヘンリー王子の「スペア」等々
日常生活のほとんどがこうした扁桃体思考なので、
一人でいる時間が少ないと
スロー(前頭前野)思考の機会も少なくなって、
扁桃体思考であふれてしまう。

ダニエル・カーネマンという
ノーベル賞心理学者が云う、
「心配が現実化するわずかな可能性」を、
心は無意識に探し続け、私たちはそれをまるで
「確実に起こること」であるかのように受け止めてしまう。
心配ごとに取りつかれ不安にさいなまれている最中は、
それがとてもリアルに感じられる。
「取り越し苦労」で、人生を浪費してしまい、
「いまを楽しみながら生きること」ができなくなる。
「私たちが日々心を悩ます心配事や悩みの多くは、
かなり的外れで、ほとんど現実化しない」

人間の観念や正義では
何かにこだわった状態であって、
暴走状態になる危険な状態だ。
何かにこだわってしまう状態とは
扁桃体思考のことでもある。
同じく何かに悩むことでも扁桃体が関与していて、
後戻り困難な一極集中化へと進む端緒となる。
いずれにせよ扁桃体だけで長期に考えないことだ。
インプットされた情報には
感情の判断ミスかもしれない不安の原因を知り、
あるいは心の底を打ち明ける能力だ。すなわち
ミスでなければその感情を適時・適所にて
吐き出すことで、なんとか感情をコントロールできる。
ただし吐き出すときには
汚物をまき散らさないようなマナーが必要だ。<参考>
いずれにせよ
常に理性(前頭葉思考)と感情(扁桃体思考)との
バランスが必要である。





参考:大愚 元勝 福厳寺住職。
「心の炎症」を整える
感情と理性との戦い
我慢するのではなく
心の汚物(エネルギー)を吐き出す処の
オブツダン「御仏壇」。
何時間でも、何回でも聞いてもらえる場所だ。
感情はやり過ごす。
そして理性は決して失わないことだ。
コメント

生きているだけで丸儲け

2024年03月01日 | 読書・TV感想
日々是好日は
「生きているだけで丸儲け」の生き方でもあり、
あるいは
今日という日は二度とない、
今日しかないと思って全力で生きる。
というこだわりの一極集中型の要素でもある。
ところで「生きているだけで丸儲け」の中には
得した損したこだわりの感情も存在している。
「生きているだけ」ではない、こだわりの感情の中で、
災害のような大損失に見舞われた時にはどうするかだ。

問題は日々是好日の
「どんな日でも毎日が好い日だ」では
済まされなくなった時にどうするかだ。

一方で「今日しかない」「今日だからできる」
というこだわりの一極集中で過ごしているうちに、
くよくよ考えること(偏桃体思考)が自然に
なくなることもある。
こだわりのような一極集中型がリセットされている状態だ。
「生きているだけで丸儲け」においても、
儲けていると思っているから
損した得したのこだわりがなくなる。

さて、生命が生きるために選んだ堅牢ではなく破壊、
つまり生きるために壊し続ける動的平衡状態のように
良い悪いではなく、損した得したでもなく、
一極集中か試行錯誤かではなく、
ハッピーかどうかでもなく、
人間の観念とは関係のない
自然の営み、外部環境によって
生き残りやすかったどうかで決まる場合もある。
要は単に「生きているだけ」なのであれば
儲けは捨てた状態だ。
捨てたことによって初めて儲けとなる。
こだわりを捨てるというこだわりだ。
義なきを義とす:親鸞のスタンスだ。
人間の観念に対応する外部環境は
無限に存在するから、その結果、進化のように
無限に枝分かれさせる要素が生まれている。
したがって
何が正しいのか、何が楽しいのか、何が得するのか
のこだわりではなく、
何を選択すれば生きやすいのかで決まる。
要は動的平衡によって、
こだわりを捨てるという
一極集中で生きているうちに
一極集中(こだわり)が消える現象だ。

なにも人間が決めつけることをしなくても、
自分の直感(扁桃体思考)による決定のエラーを
修正することや、こだわりを捨てて、
自然に任せながら後戻りやリセットを行う
試行錯誤や試考錯誤の前頭葉思考だ。つまり
善い悪いの中で生きているうちに
善い悪いのこだわりが消えてしまう。
具体的な前頭葉思考は
他人と相談する、書物やAIの様な他の考えを利用する。
何が正しいかではなく何が本当かを観察してみる。
何が本当に生きやすいのかを体現してみる。

感情をつかさどる扁桃体思考と
合理性を追求する前頭葉思考の均等化が
大切だ。
コメント

ファースト&スロー

2024年02月26日 | 読書・TV感想
感情をつかさどる扁桃体思考と
合理性を追求する前頭葉思考の均等化が
大切だ。

日常ではほとんどが扁桃体思考であって、
健康やマネーがいくら合理的だとしても
日常が楽しくなければハッピーにはならない。
問題は困難と遭遇した時に
扁桃体思考だけで乗り越えようとしないことが
重要だとノーベル賞心理学者D.カーネマンが言う。
ファースト&スロー、2014より
精神科医によれば
ファーストが扁桃体思考にスローが前頭葉思考に
対応するのだそうだ。

前頭葉思考は怠け者で
意識的に努力しないと働かない。
しかも疲れると働かないという特徴がある。
したがって日常のほとんどが
扁桃体思考の独裁者に支配される。
これが一極集中の形骸である。
戦争反対と叫ぶだけでは感情支配による
扁桃体思考のままの一極集中型だ。
これではコンサートホールで盛り上がるのと
変わりがない。
悩み(ファースト)は考える(スロー)と異なり、
扁桃体思考であり堂々巡りしている状態だ。
本質は(前頭葉思考)どうすれば戦争が防げるかである。
一極集中(ファースト)から試行錯誤(スロー)への
切り換えが大切だといわれる。
また、何が正しいのかがファーストであり、
何が本当かがスローに該当する。
コメント

何が本当なのか

2024年02月05日 | 記事のコメント
何が正しいのか
ではなく、
何が本当なのか
に注目すべきである。

「戦争反対」は正しい
従い非武装化による戦争回避だ
しかし実際には
ウクライナは武装していなかったために
ロシアに侵攻された
すなわち
「武装強化することで戦争が回避される」
が本当のことだった。


「平等」は正しい
しかし実際には
車の運転には
十分な視力を持った人のみが運転できるように
視力検査が行われる。その結果
不合格者は差別され排除される。
すなわち
「安全のために平等は制限され差別する」
が本当のことだ。


「多様性社会・多文化共生」は正しい
しかし
単一民族である日本に対しては
多様な文化・文明が存在することが善と信じ、
日本という固有の文明が
グローバル全体主義に飲み込まれることを
阻止したいと一部において考えられている。
すなわち
「日本独自の文化のために多様化は制限される」
が本当のことだ。


「車の排ガス規制」は正しい
従いEUにおいて車のEV化が進められた。
しかし実際には
発電所において
発電時にCO2が排出されているし、
なおかつ
バッテリーの製造時にも、あるいは
廃棄時にもCO2がより多く排出されている。
さらには
EV車の充電時間が長い、
充電設備のインフラ投資、
あるいはコスト問題
エネルギーのロシア依存や
中国のEV車進出の問題、
なおかつ
ドイツ、英国の車産業での雇用不安により、
「EV車はガソリン車より多くCO2が排出されている」
が本当のことだったことが
明確化してきた。


君主は善良で慈悲深い人間である
従い
「このことを称賛すべきだ」
は正しい。
しかし
イタリアの哲学者マキャベリは
現実を見れば
そうした君主は必ず没落するとして、
「愛される君主より
恐れられる君主のほうが安全だ」
が本当のことだと主張した。


「物事をプラスで受け止める、
過去にこだわらず今を楽しむ、
許すことを学ぶ、こうした習慣が
幸せにつながる」は正しい。
しかし
ノーベル賞心理学者である
ダニエル・カーネマン

幸せかどうかは、
正しいか正しくないかよりも、
何が多くの習慣となっているかよりも、
「何が記憶に残っているかによって決められる。
記憶に残らない経験は
どうでもいいものとなる。」が本当だ。
何故山に登るのか?
つらい苦しい(経験の)登山であっても
最後に目的地にたどり着いた記憶により
すべてが幸福に包まれる。


「心身が健全であることが幸せである」は
正しい。しかし
ノーベル賞心理学者である
ダニエル・カーネマン
幸せかどうかは、
経験よりも記憶のほうが優先される。
従い
どれだけ長い間幸せだったかよりも
どれだけ満足だったかが優先される。
すなわち
「オハイオに住むより
カルフォルニアに住んでいるほうが
幸せだと感じる。
つまり、
健康やマネー、学歴の経験(総量依存)よりも、
「日常生活にて満足できている(無苦痛依存)と
感じられるほうが幸せだ」が本当である。
したがい
政治政策は
苦痛を減らすことを目標とすべきで、
幸せは
自分の好きなことをする時間を増やせばよい。


「心がきれいな人に出会えれば幸せである」
は正しい。
しかし
親鸞聖人は
全ての人に「清浄の心無し」といい、
「心の中を他人には見せられない」
が本当だ。
かつ、心と言動とは異なるものだ。
すなわち
「真実の心無し」も本当だという。
このような人間の姿は
昔から変わらないし、変わりようもない。
にもかかわらず
仏から賜った「真実の心」の本質により
仏の真実信心にあるがままに接することで
(悲痛な声に耳を傾け寄り添っていただき、
苦痛が減らされたことにより)
心が汚いままでも救済され、
本当の幸せになった事に感謝する。
これが浄土真宗親鸞の教えとなった。



「雇用多様化政策」は正しいことだ
しかし
能力主義は人種差別だとしてアメリカにおいては
能力ではなく肌の色で雇用を決めて
かえって「人種間の溝を深め、黒人暴動が激化した」
が本当のことだった。

アメリカにおけるCRT
 (Critical Race Theory 批判的人種理論)
「マイノリティーを優遇すべきだ」は正しいことだ
白人であるだけで特権を得てきたのだから
マイノリティーを優遇して贖罪すべきだ
しかし
BLACK LIVES MATTER により
実際にはマイノリティーを優遇した結果
「米国社会が分断された」
が本当のことだった。


参考
近年の警官による殺人のうち、
黒人が犠牲となった比率は白人の約2∙5倍。
また、黒人が逮捕され収監される比率は白人の5~6倍で、
これは黒人男性の3人に1人、
トランスジェンダーの黒人女性の2人に1人が
一生に一度は刑務所を経験し、
黒人女性の2人に1人が伴侶を収監された経験を持つ計算である。

コロナ禍の人種格差も明らかになった。
米国疾病予防管理センター(CDC)の2020年8月の統計によると、
黒人の陽性者率は白人の2∙6倍、入院率は4∙7倍、死亡率は2∙1倍。
社会のインフラを支える仕事に従事する人や、
人口過密な貧困地域に住むことを余儀なくされている人が多く、
医療保険未加入率が高いことも格差の一因だった。


大国のGDP





中国の状況 (2024年1月)
「コロナ禍でも経済活動は適切であった」
しかし
何が本当なのか?
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日本での国民性の歪み

2023年12月16日 | 読書・TV感想
2023年12月15日は
記憶に残る日となった。
大谷選手のドジャーズ入団会見と、
日本での国会議員裏金疑惑の報道が
重なったからだ。
要は
金に対する無執着さと金に対する執着とが
重なった状況だ。
問題は20代の若者が金にこだわりのない
野球へのひたむきさと、
60、70代の老人が金に執着する
醜い姿とが折り重なっていたからだ。
特に老人が金に執着する姿ほど
醜いものはない。
その老人たちが政治家だったというから
さらに驚きだ。

法律を作る政治家が金のために法律を無視し、
一方、大谷選手の野球プレーにこだわった
歴代最高の契約金1000億円は、
契約終了まで無利子での
後払いにしたという内容だった。



年を取って老後を迎えれば、
平穏でのんびり過ごせる姿を
若者に見せるだけで、
老人の役割は果たせる。それには
食うだけの金があれば十分で、
それ以上の余剰は不要だ。
70歳前後の政治家が
自身の裏金作りに奔走している姿はまさに
恥の概念が消滅してしまった姿だ。
この国のモラルが崩壊し、世代での役割が
ねじれた状態となってしまっている状況を
どう立て直せばよいのか。


白熱教室でのサンデル教授が大谷選手について
紹介する。同時に日本人の国民性について、
自分より他人との共同性、
「助け合い」「おかげさま」の精神だという。
また、大谷(日本人)が持つ優れた能力
礼に始まり礼に終わる姿。
ひたむきに努力する姿勢と成功した後でも
一人で成し遂げたものでないという
謙虚な意識についてだ。



これは
「日日是好日」の関係にも当てはまる。
若者のスタンスでは現在を採用する。
過去や未来にこだわらず、今日こそが良い日だ
という一極集中型だ。





一方、老人ではいつでも良い毎日だという
道徳型の姿勢だ。



これこそ
老人と若者の世代間での役割分担の姿ではないか。
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認知革命の価値と形態

2023年10月09日 | 読書・TV感想
ホモ・サピエンスの認知革命とは
眼で見た現実と想像の現実との
コミュニケーションによって
試行錯誤を行い、外部の環境に
適用できるようになることだ。
即ち
多数の人間が分裂することなく、
大集団としてそれぞれがうまく
連携しながら適材適所で
個々の能力を発揮できるように
なることだ。



ところで認知革命での形態と価値には
二通りある。(一極集中か試行錯誤か)





例えばある集団が敵の襲来に
さらされるようになれば、
想像のコミュニケーションによって、
「こう組み合わせれば敵に襲われにくくなる」
との試行錯誤が働く。
複数の組み合わせや
適材適所の大集団であればあるほど
連携が働き効果的となる。
しかしある環境下に於いて
試行錯誤が繰り返されて、一旦
適材適所が最適化されてしまえば
(教義や思想によって、あるいは
最強の指導者によって
決められてしまえば、)
今度は一極集中型へと進む。
一極集中化に於いては非効率な
個々の試行錯誤はかえって邪魔になる。
ところが効率は良いが
外部の環境変化に対しては
対応できなくなる。



さて、
ロシアの権威主義での
一極集中化においても
侵攻される前に侵攻する
との意識が働き、
益々最強での支配秩序を目指すこととなった。
そこに非効率な試行錯誤は無用である。
それは更なる
個々の自由制限につながってゆく。


我が国においても
かつて多様性が許容されていた
日本神道の精神にもかかわらず、
尊王攘夷思想の一極集中へと歩んだ結果、
いばらの道への経験となった。




このことから、一極集中の
「武装侵攻」なる行為に対しては、
一極集中によって対抗するのではなく、
「こう組み合わせれば敵に
襲われにくくなる」といった
試行錯誤を持続的に行うための、
自由と民主の基本方針を守ることで、
我が国はこのたびの
武装侵攻されたウクライナを
支援することとなった。


200万年前にホモ・サピエンスが
獲得した認知革命によって、
我らの生き方は試行錯誤と、それぞれの
連携によって成し遂げられる。
ところがある一定の環境下で
最適化を目指した結果、
一極集中となれば、こんどは
試行錯誤の自由は無くなり、
環境の変化によって一極集中は
崩壊する。その繰り返しだ。
何万年経とうがその形態は
あまり進化していないように見える。
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空想上の現実からの離脱について

2023年09月15日 | 記事のコメント
200万年前から1万年前まで、
多数の人種族が進化の枝分かれとして発生した。
言語及び火や道具を使う能力はほぼ同等であった。
特にネアンテルタール人は
知能や筋力が発達していて、
サピエンス人より狩りが上手であった。
しかし、群れは100~150人以上になると
分裂自壊してしまうのだったが、
7~3万年前にホモ・サピエンスだけが、
脳神経細胞における突然変異によって、
認知革命(コミュニケーション能力)を獲得した。
その結果、義理・人情のように
眼に見えない観念・概念を
赤の他人達が互いに了解し信じることで、
分裂することなく
大集団として活性化することができた。
いわば権威主義的集団組織能力により、
ホモ・サピエンスは他の全ての人類種族を
駆逐してしまった。




うわさ話や虚構を信じる能力は
大集団を作る事ができる一方、
陰謀論に惑わされるということでもある。
例えば守護神としての権威が
「この戦いによって死んだとしても、
地上よりもっと素晴らしい場所に
生まれ変わることができるぞ!」と言えば
それを信じて死ぬまで闘うことができる。
ネアンテルタール人はこのような
守護神やあの世を信じる能力がなかったので
戦いには敗れてしまった。
要は種族の誇り、絆、
家族のために命を落とす様な事ができなかった。



従い、ホモ・サピエンス人は
権威主義的な集団であれば、
(自由も制限されるものの)
迷いや苦悩からも解放される。
要は誰もがその秩序の存在を信じることで、
集団の組織的安全も強化される。
一方で認知革命は眼に見えない想像アイデアで
新たな技術の思考錯誤も可能になった。
それは一人の天才に依存するのではなく、
複数の想像の重ね合わせ(試行錯誤)によって
「こうすればいいのでは?」といった
新たなものが次々と現れてくるからだ。
即ち試行錯誤を繰り返すことにより、
新たな道具を実現してきたことによる。
改良やアイデアといった自分以外に対する
(天才一人による思考より)
興味からくる多様性である。
多様性により技術革新が生まれ、
進化が促せるからだ。



虚構と呼ばれる想像上の現実によって、
想像上のアイデアによる思考錯誤と
新たな改良・技術のみならず、
眼に見えない概念や観念についての
コミュニケーションも可能となった。



虚構からの離脱
(想像上の秩序における試行錯誤)

眼に見えない概念や観念についても、
石器改良のように
コミュニケーション能力によって
対立の双方を保持したままで、
時と場合によっては眼で見た現実とも
比べてみることも可能になった。
変化の中での継続には多様性が必要である。
多数の観念、あるいは多数の価値観との
思考錯誤によって折り合うこともできる。

権威主義組織や信仰だけでなく
道徳のように
こうした方が良いのでは?と
選択する自由を残すことだ。
要は
お互いが認め合い尊重する方の能力だ。





そもそもユバル・ハラル著
「サピエンス全史」によれば、
宗教、国家、紙幣などは
想像上の秩序と呼ばれ、
その虚構によって
赤の他人が協調して行動できる様になった。

共通の了解として、
例えば同じ神を信じているならば
互いに信頼関係が生まれる。 ただ
弱い立場の人間は権威主義に熱狂してしまう。
本当は人間に生きる目的はなくても、
苦からの解放のために
あえて想像上の目的を創り出す。
しかし苦の量は減ることはなかった、
というのが歴史の現実である。

本来人生とは迷いと選択の連続であって、
「迷い続ける自己」の姿が本当の姿だ。
選択の自由を維持する民主主義は
選択のシステムであって陰謀論にも対抗できる。
さらには、
虚構と呼ばれる大多数での共有了解一辺倒では、
地動説のような大いなる誤解やら、
恐竜が絶滅した様に、人間が決められない
偶然による変化に対して脆弱である。そもそも
生物では突然変異という変化は常に行われている。
こうした外部環境の変化に対応するためにも、
安定を維持するための試行錯誤のような
「動的平衡状態」が必要である。


天才物理学者のアインシュタインは
「スピノザの神なら信じる」と答えたそうである。
スピノザは人格神を否定しており、
人の善悪を判定し、悪を罰するような人格神、
神の意志での信仰とは分別すべきだという。
虚構と呼ばれる想像上の現実の世界においても、
万物に魂が宿る観念や、
自然の驚異に触れたときに
畏敬の念を抱くことは許容されるものの、
区別するとは人格神に対し否定もしくは
選択の余地を残すという事であって、
権威や信仰ではなく道徳領域とすることだ。





仏教における魂の存在
古来の神道においては、
神は自然のあらゆるものに宿る
という観念を受け継ぐ。
その大いなる力により我らをお守りいただき、
願いを叶えていただく。
同様にして
仏教においては、死ねば肉体は滅するが、
霊魂は残り阿頼耶識として宿る。
お盆の迎え火や送り火などは
こうした霊の存在に依るものである。
そうした観念により我が国でも
親子や地域での
コミュニケーションがはかれている。
問題は霊の存在を縁起の観念として
「業の世界」にまで拡張させ、輪廻の思想と
因果の法則によって、
この世の善と悪を分別するという点である。

そもそも仏教の本質は輪廻、
因果応報からの解脱でもある。
執着しない、こだわらない、ありのままで分別しない、
のように。
業(カルマ)の観念から離れることが
仏教の本質であることに留意すべきである。
業の世界には
いつまでも深くこだわらないことが必要だ。
神仏にすがり、おびえて過ごすだけでなく、
個人によって選択できることが望ましい。
インドでは牛を崇拝し、タイではナマズを放流して
幸運を呼び込むのだそうである。
アニミズム信仰のように、
業の世界においても信仰の領域に於いては
一方向に偏向しがちとなる。
たとえ解脱が困難であったとしても
状況によって選択できるよう、
道徳のレベルにしておくことだ。



親鸞の歎異抄によれば
「因果応報によって不幸に苦しんでいる人を
救済するのが弥陀の本願である」とある。
(第十三条)
いわば他力救済であって、
自力解脱ではない救済法である。
また、石器改良のような試行錯誤のように
こうした方がいいのではといった、
どちらを選択すべきかのような道徳でもない。

全ての結果には必ず「因」と「縁」がある。
同時に
「因」とは自分の意志による自由からなされている。
業は果報を生じる因となる。
善も悪も「業縁」によるものだが、
その縁により不幸にして苦しんでいる人を救う。
善人が幸せに、悪人が苦難に見舞われるだけであれば
皆善行の実践を選ぶだけだ。
しかし、現実には逆の場面に多々遭遇する。
仏教では偶然による運命観を否定する。

悪をしないのは私が立派なのではなくて、
そうした「業縁」に会わないためだ。
もし「業縁」に会ってしまえば、
どんな恐ろしいこともしでかすであろう。
これは、いかなる因果関係にも依らず無関係に、
差別することなく平等に救われるという
断言の信仰である。
その弥陀の本願と出会うことで救済される。






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本地垂迹(ほんじすいじゃく)と空観方程式の関係

2023年08月22日 | 記事のコメント
「空観方程式」でのやり方は、
例えば電子スピンの回転方向において、
右回転と左回転とを
一つのものにするのではなく、
重ね合せ、スーパーポジション
融合、一体化、無分別化のように
混ざった状態のままでの考えだ。
あたかも二つの対立集団が
空っぽの(眼には見えない観念の)
神輿を担ぐような状態だ。
弁証法のように
対立状態にある人間の観念を、
対立状態のない一つの形にしてしまう
ことではない。
一つの形は
選択できない状態にすることであって、
柔軟性に欠ける。
逆に混合状態のままで進められれば、
状況によって柔軟に姿勢を変えられる。


電子スピンにおいても、状況によって
スピン回転方向を変えて対処している。
これにより磁性の特性が変化することで
メモリなどに利用されてきた。


私たちは宇宙の大原則である
「エントロピー増大則」に支配されている以上、
築き上げたものは崩れ、
秩序あるものは無秩序化する。
生物は堅牢になることを諦め、
自分で自分の細胞を壊すことを選んだ。

「動的平衡」の視点から「不安定な社会」を見る
  生物学者 福岡伸一教授

不安定な状況を創り出すことで、
あらゆる変化に対応できる高次元の
「安定」を実現する。





空観方程式のやり方も、片方を排除するこのない
混在・融合の考え方の応用だ。

  

   
 
       


ここでは、この考えをもとに
我が国古来からの神道と、
6世紀に渡来してきた仏教との
対立状態について
どのようにして融合したかについて
考察してみる。

古来日本人は、
山や海、森や木、岩などの自然物に
多くの神々が宿ると信じ、
アニミズム(自然・精霊信仰)や
先祖の霊魂を大切にし、
平安を祈ってきた。
しかも神道と仏教は
信仰対象も異なる存在だが、
両者「多神教である」点が共通だ。

そして神仏習合の観念は
「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」
の思想で成り立つ。
本地垂迹とは、
仏が人間に恵みを与え、救うために
仮の姿である神として現れる
という考え方だ。
神あるいは仏のどちらかを選ぶのではない。
同時に進める方法だ。



神か仏か、
どちらが正しいのかではなく、
ただ一つの答えを見つけるのではなく、
いくつもの答えを考える。
一方が変えられない状態であっても、
「因」と「縁」の相互で可能性を探る。
要は一つのことにこだわらないことだ。
動的平衡状態のように対立二項を
バランスさせ調和させる神輿のように。また、
色即是空・空即是色のように
やり直ししながら進む状態だ。
それにより、
あらゆる変化に対応可能な
高次元の「安定」を実現する。




さて、歴史上(日本書紀)においては
崇仏の蘇我氏と排仏(神道)の物部氏
との対立記述となっているが、
神仏習合の観念であれば、対立して
一方を排除する必要はないように思えるのだが・・・。


ところで物部氏に勝利し、
仏教を広めたとされる聖徳太子の名称が
最近の教科書から姿を消したそうであるが、
そもそも聖徳太子の名称は俗名であって、
厩戸皇子と日本書紀には記されているそうだ。
もし厩戸(うまやど)の前で生まれたとなれば、
クリスチャンではなかったかとの説もある。
しかも
物部氏と戦ったのは聖徳太子のほかには
蘇我馬子である。
これにも「我よみがえる」との名前であり、
新約聖書のストーリーと重なる。
しかも
「馬子」も馬小屋を連想させるには十分だ。

もし、キリスト教と神道(物部氏)との対立
であったのであれば、
一神教と多神教の対立であって、これこそ
十分に考えられる状況だ。
その後の歴史(壬申の乱)においては、
蘇我馬子の孫にあたる
蘇我入鹿が聖徳太子一族と、山背大兄皇子とを
皆殺しにしたことになっている。即ち馬と鹿によって
日本史が大きく変化したことになる。
それにより、以後
仏教と神道が融合して、神仏習合の観念が
高次の安定を得て1000年間、
明治の廃仏毀釈まで継続した。

ちなみに廃仏毀釈や尊王攘夷の思想は、
選択肢が無く、融通性の無い思想により、
熱狂はするものの不安定となって、
いばらの道を進むこととなった。


尚、余談であるが
聖徳太子には「未来記」「未前記」なる
予言書があると聞く。
それによれば
「都(平安京)ができてから1000年後に
黒龍が来るため都は東に移される」とある。
これは黒船ペリーのことで明治維新を迎え、
東京遷都となり、予言が的中している。さらに
「それから200年が過ぎたころクハンダが
来るために東の都は分裂する」とあって、
これは
近代日本史40年周期説に合わせてみても
この予言が良く合いそうだ。下図
40年周期説では分裂後に衰退がはじまる。








付録:仏教における魂の存在
古来の神道においては、
神は自然のあらゆるものに宿る
という観念を受け継ぐ。
その大いなる力により我らを
お守りいただき、願いを叶えて
いただく。
同様にして仏教においては、
死ねば肉体は滅するが、霊魂は残り
阿頼耶識として宿る。
お盆の迎え火や送り火などは
こうした霊の存在に依るものである。
問題は霊の存在する世界を
「業の世界」といって、
この世の善と悪を決めるというのである。
健康状態や人間関係に不具合があったり、
原因不明の不具合など「業の世界」の
なせることにしてしまうのである。
このような状況は明らかにやり過ぎだ。
面倒とは思わずに、病院に行くなりして
原因と対峙してほしいものだ。

ブラックスワンが存在しないことを
証明できないと同様、
霊魂が存在しないことも証明できない。
そのことを利用して、
霊を清めるなどと言って商売する者も
現れているから要注意だ。





そもそも仏教の本質は
霊魂、輪廻からの解脱でもある。
魂の観念から離れることが仏教の
本質であることに留意すべきである。
業の世界にいつまでも深くこだわらない
ことが必要だ。
インドでは牛を崇拝し、タイでは
ナマズを放流して幸運を呼び込む
のだそうである。アニミズム信仰
のように、業の世界においても
信仰の領域においては
一方向に偏向しがちとなる。
たとえ解脱が困難であったとしても
状況によって選択できるよう、
道徳のレベルにしておくことだ。






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高校野球での想い

2023年08月07日 | 読書・TV感想
甲子園での高校野球について

長年にわたり
関西地域や四国地域からは東北地方に比べて
出場校が多いけれども、突出して破天荒な選手は少い。
なぜだろうか

甲子園に出ようとするには
善い行いが決められていて、
それ以外の行為はしてはならない・・・
からではなかろうか。

逆に甲子園出場にこだわることが少ない学校では、
してはいけない行為だけが決められていて、
あとは何をやってもかまわない。
だからアメリカのプロ野球で二刀流をやってみようと
型破りなことを考える選手が生まれる。

逆に甲子園にこだわる学校からは、
決められたことしかやらない選手や
言われたことしかできない選手が
育ってしまうのではないだろうか。

日本の高校野球のシステムは、
野球人口の拡大には有効なシステムなのかもしれないけれど、
自由な発想のできる人間形成には不向きなシステムではなかろうか。


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何を守って生きてゆく?

2023年07月02日 | 読書・TV感想
朝ドラ「らんまん」 (65回よりの文字おこし)

家というのはなんじゃろ
血筋、金、格式、何を守ってきたがじゃろう
それより今ここにおる 
おまんらが幸せなのが肝心ながじゃ
この先も健やかに幸せに生きていく
家の願いじゃのうて己の願いに生きていくことが....


今更なんじゃ!
これまで散々本家と分家を区別して
わしら分家を見下してきたがは誰じゃ!


わしがそうさせてきた、けれど時が変わった
この先は本家分家と上下の別なく互いに手を取りおうて
商いに励んでいってほしい






役に立つ観念かどうかは人間が決めるのではなく、
自然環境や偶然のめぐり合わせが、そして何よりも
その場その時代での外的環境によって作用される。
例えば時代の移り変わり、感情、インパクトである。
従って、その時代には命がけで守り続けていた
絶対的な観念でさえも、
もともとは無価値なものであったとの立場が
ここでも一層鮮明になる。









人々は何を恐れ何を守って生きてきた?

本家分家の区別を守ることで
村組織・秩序を守ってきた。
自由や平等の観念が犠牲となるけれど、
それよりも従来のしきたりの方が役に立つ。
即ち誰もが決められた秩序で定められた
作業をこなしてゆけば、
誰もが食う事に困ることがない。
長年にわたって
従来通りの変化のない秩序が保たれる。
昔からの役割分担で、
定められた取り分でお互いが納得して
生きて行ける。
これが戦もなく、
もめ事もなく平和で何よりだった。

集団での組織防衛には
格差や差別の問題が付きまとうものだ。
何よりも
活気や熱意には格差や差別が障害となる。
特に我が国においては鎖国の状態では、
活気や熱意よりも、波風の立たない
競争の無い整然とした秩序の方が
役に立つ状態が長期間続いた。

ところが産業革命は、
世界的な交流が活発になるにつれ
国家の力や富の大きさが注目される。
やがて商工業の発展は、村から都会に
出ることで現金収入と自由が得られる
という認識が拡散する。この外部環境が
長年続いた村の掟の観念を打ち砕く。
格差や差別の観念と相まって、
大勢が同一の新たな観念を共有し
熱狂してしまう。

一方、
尊王攘夷など信条や正義の観念では、
正しいか正しくないかの一辺倒となって、
人間が多数の観念を勝手に序列化してしまう。
この場合は必ずモットモットとなって、
パワーバランスが崩壊したという外部環境の中で
不安定で悲惨な道に進んでしまいがちだ。

従って、進化の法則と同様に、
血筋を守る観念も、接ぎ木による新たな観念も
正義、信念、自由や霊魂、お家の観念も、
無限にある観念を同列に扱って序列化しない。
その中から人間が価値を決めるのではなく、
外部環境がその場その時で
選別・淘汰し、ただそれを繰り返すだけだ。

一旦秩序が崩壊すれば、革命的な改革がない限り、
平和な秩序に戻ることの保証がない。
富国強兵をあきらめて、元の村秩序に戻ることは
ほぼ不可能だ。




人間が考える観念の序列

「観念は無価値である」と唐突に主張しても
直ぐには受け入れられない。
こういう場合には事例で示すのが良い。
象徴的には独裁政治の中で
被支配者達が正しいか正しくないかを主張しても、
聞いてもらえないのなら価値がないのと同然だ。
独裁政治と同様な立場にある外部環境が
人間の観念を評価・選別するのであれば、やはり
人間にとって観念は価値がないのと同然だ。
無価値なものを都合で序列化しても無意味だ。
進化でも同様に、
勝手に人間が序列化した進化の図は誤りとされる。
(下図)
要は無価値なものだと自覚したうえで、自分に合う
観念を選択し、肯定してゆくことだ。
失望したり後悔したりすることがなくなるために。
それが「らんまん」での脚本に今回登場した
ということだ。










参考:
東京八王子南大沢にある牧野標本館には
おびただしい実物標本(16万点が収蔵)が保管され
データべース化されている。
参考に牧野博士が宮崎、高知、岩手早池峰で採取した
スイフヨウヒメウコギカトウハコベ
データベースにリンクする。
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人間が考える観念に価値がないとすれば分別が無くなる

2023年06月27日 | 読書・TV感想
人間が考える観念について
奈良富雄丸山古墳から盾と刀剣が出土した。
盾の防御性や鏡や剣の神秘性とが一体化して
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念の存在を示すものだ。



物品を死者と共に埋葬しとうとする観念は
我が国のみならず古代文明発祥の地からは
多数発掘されており、人間共有の観念だ。
死者を丁寧に葬ることと次の世界での
安寧を求める姿勢でもある。
しかし科学技術発展の環境変化により
物品の埋葬が必ずしも丁寧な埋葬と
結びつかない状況となった。
ところが
物品が伴わない観念については
環境の変化にも関わらず
今なお多くの人々によって肯定されている。
観念は「楽しいから」「楽になるから」などが
一般的であるが、
「観念の通りに行動しないから悪いことが起きる」
と言われれば、ブラックスワンの証明と同様に
反証できない。そしてその点を利用して
【カルマ(業)を浄化し、新しく生まれ変わりたいあなたへ】
こうした商売上のうたい文句が堂々と貼り付けられたり、
場合によっては
高額なツボを購入させたりする違法性の商売迄
いまだに存在する。ここではそうした
輪廻転生や無分別の観念について考察する、






思い込みやトラウマ、
常識といったこともすべて観念だ。
観念とは人間の考えたものでありながら、
役に立つかどうかは人間ではなく、
自然選択と同様に、感情や経験などを含む
生き残りやすかったかどうかの
外部環境が決める。
感情や経験の種類は無限にあるので
観念も無限に存在する。
さらに「観念」自体には
善い・悪いという判断は存在しない。
なぜなら、善と悪も観念に過ぎないから。
観念の間に善悪の差がないのであれば
進化の枝分かれと同様に
無限に枝分かれして同格で存在する。

しかし、
辟邪(へきじゃ)の観念と
無分別(平等)の観念を比べると,
無分別の観念の方を役に立ちそうな
優れた観念と感じてしまう。
このように勝手に分別・序列化してしまう。
自分のみに特化された外部環境の中で
役に立つ観念は存在することを意味する。
さらには自分の力では何ともしがたいような
困難を経験すると
信仰の観念にも強く引き寄せられる。
信仰は科学と異なり、
無いことの証明ができない関係性から
「こうなっている!」と断定することが可能だ。
(目的論的世界観)
信仰をもつ人がどう向き合い、生きたのか。
多数の語りの中に同一の観念が生きる。
例えば
仏教では無分別という「空」の観念のほかに
「因果応報」という教えの観念がある。
縁が来たときに、因と縁が和合して、
因果応報によって目に見える運命となって現われる。
現在の出来事は過去の結果であり、
現在の行為は将来の原因になる。そして
善い業(善行)には良い結果が、
悪い業(悪行)には悪い結果が訪れるとされる。








さて、輪廻転生の観念においても
善い行いと悪い行いは、
一つ上の状態である「業」という
過去の行いに依存して決められる。
輪廻転生の思想に業(カルマ)という状態を
結びつけた(生み出した)点が止揚の思想
(弁証法)と同一である。
良いことも悪いこともむくい、すなわち
業のはたらきによって生じると説く。
しかし
人間の観念を序列化しない無分別の
観点から眺めれば、善と悪とを
別の世界であるカルマの世界で決めている。
輪廻転生とカルマの間で
分別・序列化がなされている。
カルマの世界を特別扱いしているようなものだ。
本来は
偶然に引き起こされた結果においても、
因果応報に結び付けられてしまう。
善い結果と悪い結果が分別されて
過去の行いとに結び付けられる。
偶然の結果ということは、例えば
恐竜が絶滅して哺乳類が勢力を付けたことや、
地球に生命が誕生したことなど。
そもそも進化の多様性は突然変異という偶然に依って
引き起こされた様に、かなりの頻度になると思われる。
キリンの首が長いのも、象の鼻が長いのも偶然に依るものだ。
にもかかわらず、
因と縁によって引き起こされた結果であると
強く断定されてしまう。その結果
生まれ変わってやり直すといった
思い込みに依る観念が誘発されてしまう。

「因果応報」の観念においても、偶然という要素を
取り入れなければならないだろう。
因と縁が和合する場合に、
何らかの偶然が働いた結果が引き起こされることもある。
種と田んぼから米が作られるだけでなく、
種と田んぼから大豆が生まれる場合だって考えられる。
同様に
善い業(善行)には良い結果だけでなく、
何らかの偶然に依って、
善い行いから悪い結果が引き起こされる場合もあるし、
悪い行いから善い行いが訪れることもありうる。
進化の突然変異から見れば何ら不思議なことではない。







西洋の哲学者ニーチェは「永劫回帰」の中で
「人間の観念には価値がない」といった。
全てに価値がないのであれば分別しようがなく、
「無分別」の教えに近づく。
そうであれば人間の観念に進化の法則と同様に
序列化は存在しない。
辟邪の観念と無分別の観念は同格として存在し、
因果応報も同様に価値の序列は無く同格である。
哲学を引き合いに出すまでもなく、そもそも
善い悪いの基準も曖昧であり、
かつ偶然を考慮すれば、確かに
固定化された価値など存在しない。これは
独裁政治の中で善い悪いを論じても
意味が無いのと同様である。
人間に役に立つものかどうかを
独裁政治のような外部環境が決めるのであれば
人間が考える観念には価値がない。

無限にある観念を
序列化することに価値がないのであるならば、
カルマの世界が輪廻転生の世界から
序列化されて尚、善悪を決めていること自体が
無価値であるということだ。一方
全ての観念には価値がない訳ではなく、
中には自分の経験上において
役に立つ観念も確実に存在する。
ご先祖様がこの世に帰ってくるという
盆の観念により、親子や孫と親交の機会
となってとても有用である。
無限の観念の中から
自分に役立ちそうな観念を選択して、
自分のものとして再定義し肯定する。
いずれにせよ、
他の大勢が肯定している観念に
惑わされないことが重要だ。

社会や他人からけし掛けられたありもしない
観念にとらわれて、達成できなくても、
あるいは
無益な価値判断を押し付けられても、
失望したり、余計な不幸を背負わなくてもいい。
今この瞬間を味わって力強く生きることだけだ。
過去のことをクヨクヨと悔やんだり、
将来をアレコレ心配する必要がなくなる。
















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