空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

輪廻転生とカルマが決める善と悪

2023年06月07日 | 記事のコメント
輪廻転生は
生まれ変わりの観念であって、
初期宗教における観念に近い。
輪廻転生とは、人が何度も生死を繰り返し、
新しい生命に生まれ変わること。
特に動物に生まれ変わる様な思想は
アニミズムといわれる。アニミズムは
古代宗教に分類されている。
人や動物などに霊魂が宿るとする信仰だ。

輪廻転生とは、
何度も生まれ変わることである。
人生は一度きりではない。
以前にも別の姿で生きていて、
これからも
別の姿に生まれ変わり生きてゆく。

現在の行いは過去の「むくい」に影響される
といった観念である。死ねば肉体は滅するが
精神は存在し続ける。即ちこの前世から現世、
来世へと流れて行く業(カルマ)が存在している。
阿頼耶識と呼ばれる世界であって、縁が来たときに、
因と縁が和合して、
因果応報によって目に見える運命となって現われる。
現在の出来事は過去の結果であり、
現在の行為は将来の原因になる。そして
業にも必ず原因があると説かれ、
善い業(善行)には良い結果が、
悪い業(悪行)には悪い結果が訪れるとされる。


さて、
西洋哲学の代表の一つに「止揚」がある。
二項対立から一つ上の状態にある
新たな観念を作り出す。弁証論
「白い猫も黒い猫もネズミを捕る猫がいい猫だ」
白か黒かの対立を超えた上の状態で政策を進めた
中国鄧小平の改革開放政策での言葉だ。



輪廻転生の思想においても
善い行いと悪い行いは、
一つ上の状態である「業」という
過去の行いに依存して決められる。
輪廻転生の思想に業(カルマ)という状態を
結びつけた(生み出した)点が止揚の思想と
同一である。この点では
輪廻転生といわれる東洋的な思想は、
分別という観念によっては、
西洋の思想である止揚思想に近いものとなる。

そもそも輪廻転生には
善と悪、過去と未来などの「分別」の観念が強い。
肉体と精神、支配するかされるかといった西洋哲学の
思想であって、東洋の思想とは一線を画すものだ。
ところが仏教は「空」に代表されている通り、
「無分別」の宗教ともいわれる。そして、
輪廻転生から離れることを「解脱」という。
迷いという原因をなくすこと(無分別)にある。
即ち
輪廻を乗り越え克服することが悟りであるという。





ところで
善い行いと悪い行いは誰が決めているのだろうか?

問題は善い行いと悪い行いの分別にある。
勝ちと負け、生と死、成功と失敗、多い少ない等、
善悪の基準としてこのような「分別」は、
多数の人間が良い行いとして共有していれば
良い行いなのであろうか。さらには
恐竜の時代のように
強いものが正しく善である。果たしてそうか。

いくら宗教観念が多数に支持されていても
肝心の善悪の基準があいまいなままでは
輪廻転生のように運用に支障をきたすだけだ。
あまりにも分別にこだわるから、
有名な文化人でさえも「死んで生まれかわる」
と言って死を選択してしまう。
こうして何が善で何が悪なのかが不明確なまま
死を選択しているところが問題である。


また動的平衡の観点からすれば、
分別にのみこだわることは、
継続性とは逆の観念であって
苦悩の端緒でもある。

業の観念やら
生と死の観念からいえば、
過去や死の方にのみこだわった
マイナス思考であり、
「死んで生まれ変わる」のように
分別にこだわった
解決策しか生まれてこない。

さらに乗り越えるという観念は
直進的進化であって、
進化論においては誤った考え方の立場である。








多数の観念と折り合う姿が真実である。
人間の観念は自然選択と同様に、
良い悪いではなく、感情や経験などの
外部環境によって生き残りやすかったどうかで決まる。
人間の観念に対応する外部環境は無限に存在するから、
その結果、無限に枝分かれさせる要素が生まれている。

そうであれば善と悪は「業」が決めることでもない。
さらに人間の多数の共有観念などではなく
外的環境(状況)が生命の適用性を決める。
従い、無限にある人間の観念は善も悪も業も、
すべてが進化的な対等の関係にある。



恐竜時代でも、
その中で細々と生き延びていた哺乳類が
環境変化によって繁栄したように、
変化の中での継続には多様性が必要である。
自己の観念は自己のためだけにあって、
何かにこだわったり、
他に押し付けたりしないことだ。
多数の観念、あるいは多数の価値観と
枝分かれのシステムによって折り合う。

人間が善悪を決め、
直進的に優劣を定めようとするから
苦悩し、対立し後悔する。
人間は人間の観念を
対等な枝分かれの状態であるとの認識であれば、
多数の枝分かれの中から、自分に合ったものを
選べばよいだけだ。
それには二項対立の概念が役に立つ。
二項対立によって、
一つのものにこだわることが無くなり、
「できる時に行い
できない時には行わない」といった
多様性の観念を編み出してくれる。

重ね合わせの概念
双方の絡み合いの概念でもある。
止揚とは異なる状況であって、
他を否定したり排除することでもなく、
双方が対等であり優劣の区別がない。
二項対立による重ね合わせによれば、
神輿のように双方が対等のままで、
(空の状態のままで)進んで行ける。
縦糸と横糸によって現れる真実の姿である。
これが唯一の真理だ!と一方に固執
するならば、真理には到達しない。






分別による序列化(止揚思想)


重ね合わせの状態
二項対立(分別)にある場合でも
序列化しない




注)良いか悪いか(役に立つか役に立たぬか)
  人間の観念の価値は
  外部環境(状況)によって選択される



タイのプーケットでは現在もなお
邪悪を払うため、幸運を呼び込むために
ウナギを放流する習慣があるという。
さらに僧侶の托鉢に喜捨を毎日行う姿も
TVにて紹介された。



脳科学者の茂木健一郎氏が
国際政治学者といった観念に対して、
「きちんと根拠を示すべき」などの声が
相次いでいる事態に対して、
無意味なことだと発言している。

ここでも、
人間の観念に普遍的には意味がないという事例の一つだ。
もともと
無意味な観念に根拠などは存在しないのである。
そもそも「国際政治学者」の観念も
多くの人間に有益だとは限らない。
ただ単に
一個人が自分にとって価値があると思って
使っているだけなのである。

個人個人が自分にとって価値があると思われる
無限にある観念の中から採用しているだけなのだから、
他人がその根拠を示せと主張するのはおかしい。
タイのプーケットにおいて、
「ウナギを放流する人に向かって根拠を示せ」
とはだれも言わないだろう。


忠義も信用も
役に立つ観念なのかは
人間が決めるのではなく、
その時の環境によって左右される事例。

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生まれ変わってやり直すという観念だけでは

2023年05月25日 | 記事のコメント
自己の持つ観念が一つしかない場合には
(ある一つの観念にのみこだわってしまうと)
選択肢が限られてしまう。
もしも
自分の立場と多数の立場との違いにより
環境の変化に対応できなくなれば、
多数の人が抱く虚構の観念に押しつぶされる。

一つの観念に対応・対立する観念を知っていれば、
即ち二項対立から生まれる観念の存在を知っていれば
選択肢が格段に広がるものだ。これは
「進化における無限の枝分かれ」が環境の変化に
対応できるようになっているシステムと同様の
システムだ。

例えば、
「輪廻転生」という多数の人が持つ観念のみで、
それと対立する観念を持ち合わせていなければ、
環境の変化に対応できなくなった時に
選択肢が乏しいものだから、
「生まれ変わってやり直そう」という解決策しか
生まれてこない。
輪廻転生に対抗する観念として例えば
ニーチェの「永劫回帰」を知っていれば、
対立二項との重ね合わせの原理から、
多くの選択肢が生まれて存在してくるものだから、
硬直した観念に
押しつぶされることが無くなる。
人間の持つ観念は無価値であるという観念に
価値を見出すことができれば、(無義の義)
無価値の中から、
自分のみに通用する価値を見出して
それを肯定して生きることができる。

生と死の二項対立においても、
死の方にのみこだわってしまえば、
どうせ死ぬのに何故生きる?という結論しか
生まれてこない状態となる。
どうせ、なる様にしかならないのだから
何もしない、という観念ではなく、
進化の枝分かれのシステムと同様に
人間の観念にも
多くの枝分かれがあってよいはずだ。
その中の選択肢から、即ち
その場その場における環境から、
その場限りで選べばよいだけだ。
なる様にしかならくても、
その場でなることを肯定してやり抜く
生き方だ。



そもそも個人の肯定する観念は
年齢を重ねると変化するものだが、
大勢が肯定する共有観念の方は変化しない。

役に立つ人間が正しいという観念の例でも、
当然のように
役に立たなくなる時が訪れて来るものだ。
要は、その時にどうするかだ。
永劫回帰のように
最初から無価値な観念だと判ったうえで
自分がその場限りで
肯定して来た観念であれば、
多数の虚構観念に押しつぶされることは
なくなると思うのだが。









死んで生まれ変わるという観念の事例
    







あとがき 1

輪廻転生に対抗する観念として、
永劫回帰以外の「枝分かれ」事例としては
「業のはなびら」という物語の例もある。
「二十六夜」という童話に
現実とファンタジーとの二項対立から
何とか業というものと折り合おうとした
結果のストーリーとして、宮沢賢治が
主張したものだ。



あとがき 2

脳科学者の茂木健一郎氏が
国際政治学者といった観念に対して、
「きちんと根拠を示すべき」などの声が
相次いでいる事態に対して、
無意味なことだと発言している。

ここでも、
人間の観念に意味がないという事例の一つだ。
そもそも
「国際政治学者」自体に対する観念は無意味であり、
もともと
無意味な観念に根拠などは存在しないのである。

古墳から出土する鏡や刀剣によって想像される、
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念と似たようなものだ。


繰り返されることで無意味になる。
クローン家畜の場合は儲かるかもしれないが
観念としては(インド人が牛を崇拝するように)
進化の立場から見れば無意味である。
現に多くの虚構といわれる観念は現在に至るまで、
なお繰り返されている。
「国際政治学者」の観念も
使えば儲かるかもしれないが、新たに生まれた
ものでもなく、繰り返されていて無意味である。




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親鸞の「無義の義」とニーチェの「永劫回帰」の類似

2023年05月12日 | 読書・TV感想
[起]
法然上人は
「他力には義なきを義とす」といった。
また親鸞上人は
「念仏には無義をもって義とす」歎異抄第10章
といった。
哲学者ニーチェは
「世界は何度でも繰り返される。
意味を持たず、目的もない。
すべてが無価値である」
といった。

いずれも
人間にどのようなはたらき方をするかが述べられる。


[承]
親鸞は心の信心に触れ
「義」を「はからい」と訓読し、
自分の人生の意味を考え、価値を計ること
「はからい」を超えるようにと呼びかけているのが
親鸞の他力「念仏」だ。
無義の世界とは
計らいがきれいになくなる世界(無礙の一道)。
「むなしさ」を超えるはたらきが得られる。
「本願力にあいぬれば」ということは、
それは人間の価値基準のこころを、
もはやあてにしないということだ。
人間が意味があるとかないと決めているのは、
すべて人間の価値基準の範囲内のことであって、
リンゴは「赤い、丸い、甘い」といった価値基準のことだ。
同様に「役に立たぬものは意味がない」というのも
人間の価値基準だ。
我らはそうした価値基準によって苦悩する社会に住む。
親鸞の思想は人間の価値基準の世界を超越した視点であり、
本来、人間の考える義というものは無いとする考え。



ニーチェの「永劫回帰」では、
「あらゆる出来事が同じ順番で、永遠に繰り返し起こるような世界像」
世界は意味を持たず、ただあるがままに永遠に繰り返される。
世界には目的もない。
人と人の間に起こるうりとあらゆる出来事を
それまでの人間社会にある価値観に捉われず
個人で再定義することで、
より良い毎日の体験をもたらすことができる考え方である。
神が世界と万物を 「創造」 したように、神も
形而上における人間の価値基準なのだ。


[転]
時間が無限にあって、物質や原理・法則は有限であれば
繰り返しが発生する。
そもそも進化の法則そのものが繰り返しの法則だ。
進化の歴史を遡ってリプレイさせてみても
地球環境が同じであれば、同じ枝分かれが発生すると
科学者は考えている。(J・B・ロソス)
進化は同じように繰り返されうる、ということだ。
進化の枝分かれは繰り返しの結果なのだ。
それは終わることがない。
そもそも生命そのものも分解と合成、解体と構築を
繰り返すことでエントロピーの法則に対抗している。
動的平衡状態(福島伸一)
ただ無機質に繰り返すのみのシステムである。




進化によって新たな価値が生まれるが、
その価値のみにこだわってしまえば進化は停止する。
むしろ価値を認めずに繰り返しを継続することが
生きていることになる。
繰り返しの継続によって次から次へと進化の枝分かれが生成される。
意味があるからそうしている。
やらないリスクはやるリスクより大きいからだ。
少なくとも一つの価値にこだわり、その価値を渇愛すれば、
他はやらないというクローン的な進化となる。
無価値だからこそ次から次へと繰り返す。
諸行無常のごとく常に変化して繰り返しているのであれば
変わらぬ価値など存在しない。
仏教でも執着しない、
こだわらないが基本的なスタンスだ。


[結]
親鸞は絶対他力による救済、ニーチェは自力での救済で
異なる点があるものの、
人間の価値基準の存在を否定し、
無条件での救済という点においては一致している。
信じることで救われる、あるいは
念仏唱えれば救われる、という条件付きではない点だ。
即ち全てが無価値であるというところに価値を見出す。
無価値であれば渇愛はしないであろう。

後付けで設定された価値観は人間の都合によって変化する。
従い意味があると思った価値観はその場限りのものだとして
振る舞うべきである。
要は他に押し付けたり、渇愛したりしないことだ。
そうすることで
お金の為にあくせくしないし、後悔もなくなる。
現在の自分を肯定する以外に、何かを守る必要もない。
人間は自己との出会いや発見で救済される。
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業の花びら

2023年04月01日 | 読書・TV感想
人間は誰でも多かれ少なかれ
業を背負って生きている。

賢治は嫁をとらぬという
業の花びらを
空いっぱいに投げ上げた。

没後90年特集 業の花びら
〜宮沢賢治 父と子の秘史〜
ドキュメンタリー/教養
2023年3月24日 NHKBSプレミアム


何が起きるかわからない人生、
どうして
このようになるのかわからない人生、
将来の不安を解消するために、

業の花びらという信仰により
受け入れ折り合うのか、
あるいは
現実とロマンという二項対立により
現れた観念・物語により納得するかだ。


古墳から出土する剣や鏡は
邪気を払うという観念が古来より
生まれて存在していたことを示す。
即ち死という現実と、
盾の防御性や鏡の神秘性とが一体化して
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念だ。


二項対立から新しい観念が生まれる。
夜が来るから朝が来る。
電子スピンのように人生の
回り舞台が回り続けるかぎり、
エネルギー保存則のように
良いことも悪いことも、姿を変えて
現れてくるのが自然の摂理だ。
そこから新たなストーリーが生まれる。


一方の仏教では
良いことも悪いことも
むくい、すなわち
業のはたらきによって生じる
と説く。
賢治は真理と現実世界のギャップ
の中で悶絶し、
そのギャップが生じる原理を
知ることで、業の花びらを
空に向かって投げ上げるしか
方法がなかった。

そして
どう向き合うべきかを考え、
現実とファンタジーの二項から
悲しみを乗り越え、
苦悩と折り合う方法を見つけた。

人間は本当に苦しい時に
「幸せとは何か」と問うものだ。

ファンタジー と現実との融合、
重ね合わせとは
「心に伝わるもの」が共鳴して調和し、
ポジテイブなものに変える
「色即是空」の部分である。
ファンタジー と現実との一体化であって、
野に咲く花がささやいているように感じ、
あたかも感謝しているように花を咲かせ、
ダイアモンドの様に輝く。そのような
「生の高揚」につながる。

内部にある喜びの感情に降り注ぎ、
強めていく。
美しい言葉が美しさを与え、
高貴な言葉が高尚にし、
強い言葉が力を与える。
生きているものは積極的なものであり、
過剰なエネルギーを生み出す物質空間
なのである。


ニーチェの「永劫回帰の思想」は、
「エネルギー保存の法則のもとで
万物が運動すると、
永遠に時間がたてば
また元の状態がやってくる」
何度も何度も
永遠に繰り返されるという思想。

始まりがあれば終わりもある。
最悪の事態も含めた
自分の人生を肯定して、
それを受け入れて
絶えず創造的にクリエイティブな
パワーにあふれて生きていける人。
それが
自分の人生が最悪であっても、
それを受け入れて超人となる
「空即是色」の部分であって、
まさに「永遠回帰の思想」だ。
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桜は散るから美しい

2023年03月20日 | 読書・TV感想
散ればこそ いとど桜は めでたけれ
憂き世になにか 久しかるべき

伊勢物語

散るからこそ、いっそう桜は美しく
素晴らしい
憂い世に、いつまでも変わらぬ
永遠なものはない

 
桜散るという現実と
桜咲くという
美しきめでたきロマンとが
一体となって、
心にはいっそうの愛着が生まれる


2020年5月23日(土)放送の
「静かに咲く 弘前公園の名桜」
NHK BS4K
コロナ対策で閉鎖された無人の公園で、
閉鎖となった弘前公園の桜の様子。
変わらず咲き誇る桜を愛でる。
2023年3月20日再放送より




夜があるから朝が来る
色即是空があるから
空即是色が現れる

夜は寝るためにある
歌は歌うためにある
朝はもう一度生きるためにある
(辻仁成のことば)
だから夜から朝へつながることで
いっそう
朝のありがたさがかみしめられる。





諸行無常の憂い多き世においてさえ
ロマンと現実とが一体となることで
かえって美しさが現れて
乗り越えられる。

やがては散りゆく桜とむしろ
折り合うことができる。




スポーツでの勝ちと負けにおいても
同じであって、
競技で勝つことだけが楽しみではないはずだ。
勝ったり負けたりすることで成長できる
ことが楽しいのであって、
勝つことだけが楽しみになってしまった
指導者は、
競技中でのペッパーミルのしぐさを
禁止してしまう


勝つことが目的となってしまっては、
乗り越えることが困難であるし、
負けることと折り合うことができない。
勝つことと、負けることがあって
お互いを気遣う心が生まれるものだし、
自分の得意なものを発揮するとの方から
諦めない心が生まれ、かえって
一生懸命になって継続できるものだ。




 
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厭離穢土 欣求浄土の二項

2023年02月15日 | 読書・TV感想
NHK大河ドラマ「どうする家康」
で取り上げられた松平家の菩提寺は
岡崎市の大樹寺である。
若き家康(元康)が将来に絶望し、
切腹しようとした際に、
寺に掲げられた
「厭離穢土 欣求浄土」によって
「汚れた世をただす」として、
万民の苦しみを無くする姿勢に
再起を決意したとされる。


「厭離穢土 欣求浄土」は単に
戦争反対、平和賛成ではない。
あるいはまた、
天下を武力でもって制する
でもない。
何故
切腹を思いとどまったのであろうか。


以下は其の講座からの抜粋である。
松平元康は桶狭間の戦いで
今川義元が討ち死した事を知り、
命かながら大樹寺に逃げて帰ってくる。
そこで将来に絶望し、
先祖の墓前で切腹自害しようと
その時の住職に告げる。
寺の住職は
若い時から戦場に向かっておるけれども、
その心はただ敵を殺すだけにあるのか?と
元康は、
自分で勇気を振い起こして、
功をたてて、城を落として、国を奪わんとすると。
最後は天下を領せんという事が目的である。
寺の住職は
天に得ざるの国を強奪するというのは、
これ盗人の所為ではないか。
万民のために天下の父母となって
万民の苦しみを無くする
というような事をしていかなければいけない。
そういうことを懇々と諭されて、
時の元康自身は、その大慈大悲の心というもの、
仏教の心というものをはじめて悟る。
そうして
将来安定した日本の国を作るためには
どうあるべきかという事を悟った。

戦乱の根となるものは
全て所有欲からくるわけで、
家康公はその後半生でこれに気づいた。
所有したかにみえるのは
実は預かり物であると。
人間は元来無一物というのは
仏教的な考えが根底にある。

「岡崎学―岡崎を考える―」講座
2006 年 12 月 23 日
「厭離穢土 欣求浄土~家康公の平和思想~」
大樹寺 責任役員 成 田 敏 圀




単に勝つだけの戦いではなく、
戦い(武力)と浄土(平和)の
二項があってはじめて
新しい心が生まれる。
勝つことだけが目的で戦う
自己都合の姿勢から、
穢(けが)れたこの世を
住みよい浄土にするのが
おまえの役目と諭されて、
戦いだけの精神から、一旦立ち止まって、
元に戻って自分と向き合ってみて、
万人の平和のために闘うと考えて、
切腹を思いとどまったとされる。

まさしく、
色即是空から空即是色へと
リセットされた状態、同期したその心である。
片方だけに(自己都合だけに)執着すると、
悲惨な状態となって破綻する。
例えばプラスとマイナスの二項において、
マイナスだけの思考では破綻してしまう。
どうせ死ぬのに何故生きるのか?と。
マイナスとプラスの双方の思考により
はじめて何が本当なのかが見えてくるものだ。
あるいはまた、
何が正しくて何が間違いなのかだけの思考では
何が本当なのかがわからないものだ。

宮沢賢治も現実とファンタジーの二項から
悲しみを乗り越え、苦悩と折り合う方法を見つけた。
人間は本当に苦しい時に「幸せとは何か」と問う。
法華経のように(悲しみと幸福の二項から)
すべてのものが仏として現れる。

現代においても、
イデオロギーだけでは積極性が生まれずに
悲惨な道を歩むことになる。
イデオロギーだけでなく、
人間の自由や意欲との双方があって、
それらが同期してはじめて
積極的な姿勢が生まれてくるものだ。
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二項対立の実態

2023年01月31日 | 記事のコメント
「JPCZ」
Japan sea Polar air mass Convergence Zone
日本海寒帯気団収束帯


二つのものが収束することで
新たな状態が出現することを示す。
日本海側の平野部にも大雪が
出現する現象だ。
毎年この大雪によって大渋滞が
発生している。

それぞれの対立した二項が
一つに収斂して、
新たな状態が出現する。
科学にも重ね合わせの状態
SuperPositionとして
新たな状態が出現する現象がある。



光があれば影(闇)もある
正義があれば悪もある
神があれば悪魔もある
天使がいれば魔女もいる
という人間の分別。


世の中の理解できないことや
納得できないことに接することから、
そこを乗り越えるためには、
おとぎ話などの物語が必要であった。

将来の不安を解消し安定するために、
対立する二項が一体化して出現する
神話が必要であった。

例えば日本の古墳から出土する鏡は
邪悪なものを退けるための祭祀として
出現したものであるとされている。
出土した鏡や剣には「邪悪なものを
寄せつけない力がある」との
ストーリーによって埋葬されたとされる。

そもそもホモサピエンスにとって、
死体をごみのようには扱えないから
何らかの儀式が必要となったのと同じである。
要は
人間の進化によって獲得した分別によって
生じた苦悩や悲しみに対し、
そこを乗り越えるための必要なものであって、
いわば想像上の秩序である。

特に、生と死の二項対立は人間にとって
避けることのできない状態だ。
「JPCZ」と同様のように、
生と死の二項対立が一体化することにより、
普遍的で尚且つ体系的に理論化され、
新たに生まれた物語が宗教であると
言える。




光があれば影(闇)ができる。
正義があれば悪ができる。
夢と現実とが一体となることで
物語ができる。
やがて
闇や悪による苦悩から解放されるために
宗教や権威主義思想が生まれる。

夢(理想)と現実という二項対立(色)。
現実だけでは解決できない、納得できない、
そこから
夢(想像上)という理想の物語とが
一体となること(空というエネルギー)で
将来への安定が生まれ(新たな色が)
獲得される。



しかし
思想上の概念のみにこだわっては、
思想と豊かさとが一体となることで現れる
新たなエネルギーに乏しく、
現実社会での自由(多様性)が制限される。
要は人間の分別である二項対立においては
片方だけにこだわらないことだ。
片方のみにこだわれば
新たな状態は出現してこない。
いつまでたっても
解決することができないので
苦難の道を歩み破綻する。

例えば闇のみにこだわってしまうと、
どうせ死ぬのに人間はなぜ生きるのか?
から抜け出せなくなり
物語が生まれずに苦難の道が続いてしまう。
一旦リセット(空観)して
苦悩との折り合いも必要なのである。

要は分別と共存することでも不安から
解放される。
その場その場で自分のできることを
行う。
出来る時に行い、出来ない時には
行わない。
あるがままでもいいし、
あるがままでなくてもいい、
親鸞のいう「無義の義」である。
また西行も言う、
「身を捨ることこそが己を救う道でしょう」
一旦、全部捨てたことだと思えば、
かえって元気が出るものだ。





[参考]
奈良富雄丸山古墳:
(コラム産経ニュース)2023/1/30
盾の防御性と鏡の神秘性とが一体化して
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念が生まれた。
大阪大学の福永伸哉 教授



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二項対立によって生まれるもの

2023年01月14日 | スクラップブック
対立する二つの概念要素が
重ね合わせの状態となることで
新たな状態が生まれてくる。
一つだけの概念要素では、
融通性に欠け、思想が硬直した状態となり
選択性やバランス性においても劣る。 
何より新たなる概念は生まれてこないので、
問題の解決に乏しい。
そもそも硬直した思想の下では、
人間の自由も大きく制限されてしまう。

物理的な現象においても
電子は波でもあり粒子でもあるということで
多面的であって、象徴的である。
それによって様々な現象に対して
融通性に富んだ解釈が可能となる。また、
左や右のスピンがあって、それらが
一体化された重ね合わせ状態になると、
電子のスピンは無くなるわけではないが
消えてしまう。

さて、人間は一人では生きられないが、
集団行動によって一体感が有られ、
(それだけ自由も制限されるものの)
迷いや苦悩からも解放される。
場合によっては安全も強化される。
それは、人間の進化の面でも現れていて、
集団の大きさに依存していることが
知られている。
つまり、大きな集団であるほうが
より大きく進化している。
ホモサピエンスでの大きな集団脳は
人間の進歩の源泉だ。
ホモサピエンスとネアンデルタールには
言葉や火を使うこと(知能)には違いがないが、
ホモサピエンスでは、より大きな集団であったため、
それだけ相対的に大きく進化した形跡がある。



それは一人の天才に依存するのではなく、
複数の思考の重ね合わせによって
新たなものが次々と現れてくるからだ。
即ち試行錯誤を繰り返すことにより、
新たな道具を実現してきたことによる。
改良やアイデアといった自分以外に対する
(天才一人による思考より)
興味からくる多様性である。
多様性により技術革新が生まれるからだ。

同様に近代においても
革命などによって成立した集団、特に
一つの思想のみによって成立した国家では、
歴史を振り返れば
悲惨な道のりを歩んでいるように見える。
我が国においても、
幕末には尊皇攘夷の思想が登場したが、
それにこだわることなく、経済と一体での
政治を進めた結果、明治維新と呼ばれる
発展を遂げた。
然るに、昭和初期になって再び尊皇攘夷の
思想一色に染まってしまった結果、
悲惨な歩みをたどることとなった。

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covid-19 超過死亡数の経過

2022年12月22日 | 記事のコメント
我が国における超過死亡者数の推移




我が国での超過死亡者数(累計)の推移



日本では2020~2021年が少なかった分、
2022年には増加して、補償(Compensation)
されたようになってみえる。








参考:
米国での超過死亡者数


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差別の禁止と表現の自由について

2022年12月09日 | 読書・TV感想
信仰上の理由により、同性婚からの
ウェブサイト業務依頼を拒絶することは、
表現の自由を保証した憲法により
認められるべきと、
米国連邦最高裁判所での審議が報道されている。

差別の禁止は表現の自由を侵害しているとの
訴えである。




所で、我が国の仏教において
「人間が見る全てが実体のないものだから執着しない」
という「空」の概念から導かれる自由の
制限がある。
白紙の表と裏とにこだわることに意味がないと同様、
分別・差別することに意味がないというものだ。
ここに、人間の自由と「空」のスタンスとの
関係がある。
苦悩の原因となるものには執着しない。
分別は苦の原因であって、そこから争いが生じる。

執着しないという禁止の要素を設定し、
そこを乗り越えていくという意識に
意味を持たせている。


さて、人間の自由には
迷いながら生きるという自由も含まれる。
「こうであるべきだ」という行動の制限ではなく
むしろ苦悩しながら生きることも自由の領域だ。
要は権威・全体主義からの回避でもある。
苦難から逃れるために、権威主義体制へと
進んだ国家の歴史もあるからだ。
 
自由を拠り所とするこの様なスタンスにおいては、
どこまでが制限される生き方なのかは一律でない。
分別・差別とは折り合いながら協調し進めてゆく、
いわばケースバイケースの状態だ。
これはちょうど
米国の連邦最高裁判所のように、
ケースバイケースで審議する形に近いように
思われる。

一方の、「空の因縁・因果」思想では、
「すべての結果の責任は自分にある」とされる。
解決法は各個人の任せられているところに
多様性が確保されているように思う。そこから
自分に向き合うことが
般若心経の精神ということになる所以だ。



差別の禁止と表現の自由がそれぞれ
個別的であったり、一律均等化ではなく、
双方が一体化したことで、
米国では人種を考慮した大学入試選考
アファーマティブアクション
(積極的差別是正措置)と呼ばれる制度が
新たに誕生している。
差別と自由の折り合いをつけようとするものだ。
こうして大学入試における人種差別の是非も、
職場や雇用でのLGBTQによる差別是非も、
あるいは人工中絶の自由についても、
それぞれの多様性において、
時代の趨勢や民意でのケースバイケースで
進めてゆく状態か生まれている。。



差別の禁止と表現の自由は、
生と死同様に、矛盾をはらんだ姿であるが、
共存して平衡する、
これがいわば国が異なる状態でも
本当の姿ではないか。
能力があればこれを乗り越え、
そうでなければ一律に制限するのではなく、
生命のように折り合いながら生きる。



「動的平衡」から構想する“能動的破壊”で生まれる組織の持続性
生きるために、壊し続ける38億年続く生命の営みに見る持続性
福島伸一参照






参考:



  
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歌う般若心経

2022年11月03日 | 読書・TV感想
NHK松山
WEB ニュース特集 愛媛インサイト

コロナ禍の今だから聴きたい
般若心経×ミュージック

「空(くう)」という教えがあります。
「世の中の全てのものに実体はなく、
悩みや苦しみに意味はない」
という考え方です。
一度自分の心の中をリセットして、
そこからまた改めて
目の前のことに向き合う、
という精神が、
今を生きる私たち現代人に
フィットしているのではと
薬師寺さんは分析しています。



「心をリセットして自らと向き合う」と
いう般若心経の精神。
コロナ禍の今、
その重要性は大きくなっているのではと
薬師寺さんは考えています。

「コロナ禍は仏教の修行に似ているなと
思ったんですよね。
今まで当たり前のようにできていたことが
できなくなるストレスをみんなが
同じだけ抱えて生きていかなきゃいけない。
「自分と向き合う時間」というものが
より大事になった。







この教えから導かれるのが
リセットして向き合うということだ。
保留にするだけでは問題の
解決にならない。
リセットするとは
一旦立ち止まって、そして自分に
向き合うことが大事なことだ。
自分に向き合うことで
何か新しいものが生まれてくる。


例えば
「やればできる!」の日常から
リセットするということは、
「いい人やめれば楽になる」
の分別であって、
これらの一体化から
新たな感情や意識が生まれてくる。

「自分と向き合う時間」が大事と
説かれておられるように、
迷いによることと、
自分に向き合うことの
一体化された姿勢から
新たな価値が生まれることの
実体に、
より注目すべきではないかと
思った次第です。


ところで
自分に向き合う、そこから先が
大問題なのであって、
そこから先への展開がなければ
保留と同じで問題解決とはならない。
仏教ではそこから先は
自分で解決しなさいと説く。
絶対他力への信仰にしても、
他力という誓願への自覚・共感に
強く引かれる人と、そうでない人が
いるのであって、そこには
気がつく為の自力も必要だ。


心を省みるの
リセットすること(いい人やめてみる)と、
物事を省みる(迷い、おかげ様の縁)。
双方の平衡状態から
本当にしなくてはならない事が
(先への展開が)
見えてくる。

即ち
リセットと迷いの一体化された状態が
「空」であり、
迷いの方(合成)より、
リセットの方(分解)を、
少しだけ先回りさせることによる
解決策が「色」と言う実体の概念だ。
要は
人それぞれによって
共感共鳴での価値観が異なる。
しかし
恐れずにやってみる、
やればできるの一辺倒でなく、あるいは
いい人やめれば楽になるの一辺倒でなく、
(分別が苦の原因だの一辺倒でなく)
双方の分別によりリセットする方を、
(他の話を聞く、自らを変えること)
少しだけ先回りさせることだ。

実体がない、分別しないの一辺倒ではなく、
あるいはまた
乗り越えるの一辺倒ではなく、
折り合いを付ける方を少しだけ先回りさせる。

自分が変われば世界が変わる

均一化・平等の法則とは逆の行為が
生きることだ。つまり生命と同様に
変えられない法則
均一化・平等(無分別)と折り合いながら
生きることだ。
生と死同様に、矛盾をはらんだ姿であるが、
共存して平衡する、
これがいわば本当の姿ではないか。
折り合うためにも矛盾の分別は必要である。
















  



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始まりがあるから終わりがある

2022年10月21日 | 読書・TV感想
煩悩を解脱して悟りに達する  について
分別・対立を「空」だとするところに
根源的な問題がある様に思う。
「空」とは実体が無い、実体を持たないということ。
「実体が無いのだから執着してはならぬ」となり、
そこに苦悩を解消するという
実践に対しての困難な状況が生まれる。
即ち
「空」という体験の境地によって、
平等性の意識が求められる。
自他の差別がなく、
自己 と他人 とが一体 不 二 という
意識 を もっ てな さ れるものであり、
さらには
西洋とは異なる
個人の独立の否定にもつながるものだ。
確 かに
対立や憎悪の不在、あるいは平等性が
慈悲の必要条件であることは理解できるが、
分別しないままの実践はいよいよ困難である。

加えて、
仏教には「因縁、因果」という概念があり、
苦はただ因縁によって誕生しただけであり、
自分が犯した業によって今があるとされている。
即ち全ての結果の原因は自分にある。
関係性は自分の所業であって、責任は自分にある。
そこの領域にカルトが入り込む。
例えば旧統一教会の代表的な教義には
「先祖の供養ができていないから災難に遭う」
となってしまう。
そこに高額な商品を売りつける実体が生まれる。
そうすることで
教義や指導者に従った上での結果は
自分に責任はなくなり苦悩も解消する。
「迷って生きていく自由」を放棄することにより、
人間は実に心地よく楽に生きることができる。

大乗仏教となっていても、
分別による苦悩は解消されず、
伝統仏教の困難さがあぶり出される。
苦しみを「実体のない空」だとして、
大衆の総てに対して無分別とするところ、
「総てに分別は虚妄である」には
限界がある様に思う。
分別に意味がある場合や、意味のない
場合が混在しているのが現実だ。
そもそも仏教に生きる目的はない。
しかし、
どう生きればよいか、ここでも
分別の意識によって葛藤し、結局
自分で決める事が苦しいので
教義や教祖様に頼る。

言うだけならば正しいことは無数にある。
正しいこと(空)だけを示すのではなく、
何が本当なのか(色)を示すべきだ。
何が現実に生じて、何が実在して起きているのか。
要はここでも何が正しいことなのかと、
何が本当のことなのかの分別だ。
自灯明と法灯明も、表も裏も実在している。
表だけでなく、裏だけでなく、双方を分別し、理解して
(平等性やバランスでの平衡状態にして)共存させる。

空観方程式のやり方では
「空」とは一体化された実体であり、
教義や教祖様に頼るのではなく、
生命の法則に頼ろうとするものだ。
具体的には
エントロピー増大の法則の中で折り合う方法である。
分別や対立をなくそうとするものではなく、分別によって、
分解の方を合成よりも少しだけ先回りさせる事だ。

関係性は自分の所業であって、
責任は自分にある点はそのままで、
あるときはあるように、ないときはないように、
両方混ざった状態だ。
即ち、
「いい人やめる」と、「やればできる」の両方だ。
そして、
いい人やめる、を少しだけ先回りさせる。

空観方程式では分別はそのままに、
一体化された存在の世界が「空」である。
どう行動するかは、自分で決められる。
できるときにやり、できないときにはやらない。
そもそも分別から生まれる一体化とは
各人に役割がそれぞれに与えられ、
それを各自分担するような意識である。
即ち自力の精神構造である。
禍福はあざなえる縄の如くである。
良いときもあれば悪いときもある。
表と裏という分別概念によって、
「紙」の概念が生まれてくるように、
始まりがあるから終わりがあるという分別によって、
生命の概念が生まれるように。
楽にさせると苦を取り除くという概念によって、
「慈悲」の概念が生まれてくるように。

私のように智慧のない人間は、分別によって
自分を是とし、他の人を非として、
自己都合や自己中心にこだわった
生き方しかできなくなる。(分別による苦の原因)
だから、他人の方を少しだけ先回りさせる。 
いわば
他人から聞く方を少しだけ先回りさせることだ。
分別はそのままで、苦と折り合いをつける方法だ。

自分になぜ生きるのかと自問することは、
キリンにどうして首が長いのか?
と聞いているようなものだ。
自分にどう生きるのかと自問することは、
象にどうして鼻が長いのか?
と聞いているようなものだ。
答えは誰にもわからない。
唯一解っているのは
生命が採用しているように、合成よりも
分解の方を少しだけ先回りさせる事だ。

「動的平衡」から構想する“能動的破壊”で生まれる組織の持続性
生きるために、壊し続ける38億年続く生命の営みに見る持続性
福島伸一参照


自分だけの一辺倒でなく、
他者(教祖様)だけの一辺倒でなく、
あるときはあるように、ないときはないように、
両方混ざった状態だ。

表があるから、裏もある。

生にだけこだわるのではなく、
死にだけこだわるのでもなく、
双方在るのが生命だ。

始まりがあるから終わりがある。




分別はそのままに、
一体化された存在の世界が「空」である。
そこから新たに生まれてくる。

荒々しさと機能性

分別・対立によって生じる迷いから、
共感・共鳴のインパクトに奮い立たされ、
新たなる思いや生命力が実体化される。


楽観主義と他者への励まし






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無分別の分別

2022年09月06日 | スクラップブック
弁証法で使われた図を利用して、それを
量子システムにも当てはめてみて、
電子の重ね合わせの状態を示す。


正、反の良い方を選択するのではなく、
高次元の新たな解決法を生み出す。
正、反にはいずれにも偏ることがない。



重ね合わせの状態

量子である電子は自転していて、
上向きスピンと下向きスピンがある。
双方が一体化している状態が
重ね合わせといわれる。
そのような重ね合わせの姿は
見ることができないが、
重ね合わせやスピンとの関係により
磁性という性質が現れ、
その姿を我々に見せてくれる。




同様に
電子そのものの姿も
粒子でもあり波でもある状態で、
大きさの概念のない
重ね合わせの状態となっている。
そのような重ね合わせの姿も
見ることができない。
さて、止揚システムに比べて、
量子の重ね合わせは動的である。



ところで仏教においても
而二不二(ニニフニ)といわれる教えの中で、
対立項目の
「表と裏」から、紙の姿が表現されている。
ここでも
弁証法で使われた図を利用してみると、



ここでは「表も裏」も一体であって、
そもそも分別することが虚妄であるという。
確かに
表ばかりの紙や、裏ばかりの紙は存在しない。



利他の実践
仏教で知られる「慈悲と知恵」も、
救いたいという気持ち(慈悲)と
救う方法(知恵)、
要は分別することなく、
どちらの心も併せ持つことが大切だ。
それが二元一体化での「而二不二」だ。
慈悲だけの仏教もないし、
知恵(智慧)だけの仏教もない。
双方が一体となって、はじめて
意味のある仏教となる。

しかし、ここで終わってしまっては
単なる願望や道徳領域であるから、
今一度、実践に向けて半歩進めてみよう。





人は進化によって選択・排除の
分別能力を獲得したが、
それと引き換えに
苦悩し、争うようになった。



どうすればよいか

量子の世界の
眼には見えないが、
重ね合わせ状態の自覚。
例えば電子スピンの重ね合わせ状態から
眼に見える実体が生まれてくる。

一方
「空」の般若心経の世界にも、
「感じることしかできないが
存在しているもの」佐々木閑
というのがあった。
より高次元の世界が
我らが感じられないところにある。
というものだ。

全てが平等につながり合い、
一体となって溶け合っている世界。
眼には見えないが新たなものが
常に生み出している世界
新しい自分にリセットしてくれる世界。

慈悲と知恵が無分別となった世界から
新たな回り舞台が出現し、その上で
自分にとっての意味ある人生、即ち
自分の中に直感が生まれ、
人生をどのように演じるかが問われる。

重ね合せも空も無分別(日本的霊性)も
エネルギーのように眼には見えないが、
存在するものである。
そこから眼に見える実在が生まれてくる。
それは人間には変えられない法則で
そこから生まれてくるものと
折り合いながら生きるしかない。

(無分別の分別)



そして、
エントロピー増大の法則の中で、
生命が採用している「分解と合成」の
動的平衡状態に注目する。

「動的平衡」から構想する
“能動的破壊”で生まれる組織の持続性
生きるために、壊し続ける
38億年続く生命の営みに見る持続性
福島伸一参照





「空」と「色」との分別、即ち
変えられないものと変えられるものとの
自覚ができれば、変えられるものでの
動的平衡状態の応用によって、特別
無分別にこだわる必要はなかろう。


例えば紙の裏と表での分別では
裏と表の分別はそのままで、
裏があるから表もあるということで、



同じく例えば
自分と他人との分別においては
自と他の分別はそのままで、
他人を少しだけ先回りさせる。



例えば生と死の分別において、
生と死の分別はそのままで、
死(分解)の方を先回りさせる。



映画:武士の一分より
「必死すなわち生くるなり」
「武士の一分が立てばよく、勝つ必要はない。」

死を覚悟(分解)するとは、
全力で生きようとする(合成)こと。

「死を意識するときは、人は自身の生を意識する」
即ち、生と死の分別はそのままで、
死(分解)の方を少しだけ先回りさせる生き方。



その他の
合成より分解の方を先回りさせるやりかた。

外なるもの(分解)に思いを馳せる。
つまり、夜は寝るため(分解)にあり、
朝はもう一度生きる(合成)ためにある。

手漕ぎボートを漕ぐ様に、後ろ向きで
周りの景色を観ながら(分解)、
目的地に向かって進める。(合成)

はからいのない、報いのない
ありったけの自分を捧げてみて、(分解)
そして
ワクワクするものから初めてみる。(合成)

過去に悩まず,未来に期待せず(分解)、
現在に生きる。(合成)

少しずつ手放して(分解)、
自由になる。(合成)

正義の女神
目隠しして平等の適用(分解)、
バランスでの折り合いと実行(合成)
(変えられることと変えられないことの折り合い)


利休
不完全なままで(分解)、生きて(合成)いける。
不完全な方が(分解)、可能性がある(合成)。

利休
柔(分解)よく剛(合成)を制す
ピラミッドは剛主体のために風化する。



華道
華をたむけ(分解)、そして活ける(合成)

西行
身を捨ててこそ(分解)身をも助けめ(合成)

親鸞
無義(分解)の義(合成)

鈴木大拙
無分別(分解)の分別(合成)

あるがままを捨ててこそ(分解)
あるがままとなる。(合成)



「あるがままになる」あるいは
「執着をなくす」というものは
それが執着となってしまう。
ここでは分解よりも
合成の方が先回りしているので、
自然に実現されているものとはならない。


人間の願望は
自己都合によって変わるもので
哲学者西田幾多郎は
善の研究の中でも、
「人生の真相とは知識と情意が一体化する
以前のものであって、
自然に実現されている存在をいう」とある。
人間の願望ではなく自律的に実現されている
ものである。



「慈悲と知恵」においても、
而ニ不ニのように、
知識と情意を一致させる前に、
自律的に実現させる真の実在は
いかなるものかを明らかにすべく・・・


眼には見えないが
重ね合わせの状態が存在している。
無分別の状態が存在している。
空の状態も存在している。
これら存在の自覚が
真の実在のように見える。
そこから自律的に実態が出現し、
実現させる。




善の研究


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繰り返される権威主義集団の出現

2022年08月14日 | 読書・TV感想
権威主義集団の出現

権威主義は民主主義と対峙する姿であって、
全体主義への端緒である。
弱さから生まれるもので
絶対的権威への帰依につながる部分である。
宗教も同様に
神への絶対的な帰依が本質部分であり、
そこの部分では自由は放棄されている。
そこでの姿は
信仰の自由を享受しながら、
集団組織内では自由を放棄しているという、
ねじれの姿である。
その代わり苦から解放されて楽になる。

世の中には様々な集団が形成されている。
特に権威的集団形成のプロセスは、
弱い立場の大衆が
群れを作るプロセスと似ている。
ナチスが生まれる歴史的背景には
第一次大戦で敗退したドイツが
多額の賠償金を背負い、
大量の失業者であふれていたことにある。
そこに「国家が君を必要としている」と
プライドの持てる国家つくりの政党が現れ、
集団で結束した権威主義が形成され、
全体主義へと突き進んでいった。

我が国でも明治維新以後、
著しい工業化や経済自由主義の発展により、
資産家や労働者集団が出現した。
地方(農業)と都市(政治・商工業)での
差別化が進み地方から都市への大量の
人口流入が行われた。
そこでは弱い立場である労働者が
群れを形成する。
労働組合は小規模集団の典型であるが、
一方では、
新しい生き方や様々な人生に憧れて、
地方の農家から都会に出てきた
おびただしい人口は「大衆」と呼ばれ、
地方では得られなかったビジョン、
現金収入と自由を手にすることができた。
しかし
それと引き換えに大都市特有の
孤独に見舞われた。
その孤独が「新しいつながりの欲求」に向かい、
群れを形成するプロセスが働く。
特にここでも権威主義への憧れが台頭する。

自由は
村社会での連帯とは反対の方向であって、
各自が好きに生きればよいのであり、
孤独に向かうのは必然である。
一方の村社会では指導者の権威に従うことで、
人生の無意味さに対する不安や孤独などとは
初めから切り離される。
村の古来からの掟に従っていればよいことだ。
しかし権威に疑問を持つことや、
集団内でしか通用しない「正しさ」を疑う
という自由を放棄することになる。
そして権威主義の中に埋没して楽になる。

さて、
信仰は自由だけれど、
カルトと呼ばれる反社会性の内容であれば
ある程度の制限(法律・課税)が必要だ。
日本にはないのだが、既にフランスでは
信仰の内容・教義によって規制するのではなく
反社会性によって規制している。
要は、
社会の風習や伝統、価値観が国によって
反社会の基準が異なるからである。
ここに政治と宗教の関係が生まれてくる。




権威主義集団の実体

権威主義の種類も多義に渡るが、
全体主義と民主主義(自由主義)の
中間にあるといわれる。
それぞれの優先項目は
以下のようになっていて大別できる。

自由主義は個人の権利と民主化
(数量評価中心:多数決や利益)
権威主義は秩序と権威と虚飾
(理念、指導者、格やヒエラルキーの尊重)

大衆が向かう都会での集団化特徴とは
「他者の動向のみに注意を払う」
「大きな不祥事が生じても
    誰も責任をとろうとしない」
「不都合な事実については誰もが口を閉ざし、
    事実が隠蔽されてしまう」…
以上に加えて
集団化を強める働きをする要素としては
熱狂と憎悪と不寛容といった、
要素の存在である。
より巨大な権威主義への歯止めとして
具体的には
オルテガ「大衆の反逆」である。
「自らとは異なる意見や
少数派の意見に丁寧に耳を傾け、
粘り強く議論を積み重ねる」
「自らの能力を過信することなく、
歴史の叡知を常に参照する」
「短期的な目先の利益だけのために
物事を強引に進めない」
「敵/味方といった
安易なレッテル貼りに組しない
『懐疑する精神』を大切にする」


一方の権威的である「力」による
統治者により与えられた答えによって、
その「正しさに依存」することでも、
この決断の責任を
自分で取らなくてもよくなる。

ここでも盲目的な信仰と
一途な忠誠を求めるのである。
今は苦しいがもっと大きな幸福へ
向かう過渡期にあるのだと説明されたら、
それを信ずればよいことになる。

あるいはまた、
現代はたしかに神が死んだ時代であるが、
忠実な信奉者たちは
依然として減少はしていない。
新興宗教においては
「力」によるものではないが、
オルテガより安易であり純粋である。
そして忠実な信奉者たちであり、
聖なる大義のために自分の生命を
犠牲にする準備ができている
狂信的な信仰を抱いている人々である。
そして政治と同様に集団が巨大化すれば
明らかに民主主義の劣化へと進む。



孤独からの解放(都会における群れの形成)

地方から都会に向かう大衆が自覚する孤独により
「新たなつながりの欲求」が生まれる。
本当は人間に生きる目的などはなくても、
苦悩から解放するために、
あえて生きる目的を打ち出す必要が生じる。
生きる目的などの説明には目的論的世界観といって、
強い断定・ビジョン・決断が必要である。
あるいは受け取る側においても
自己都合による思い込みや正しさも必要である。
その正しさの御心(あるいは虚飾)に
依存していればよく、それによって
その問いには悩む必要が無くなり、
あるいはそうした虚飾にどっぷり浸ることにより
孤独や苦から解放される。



コンピュータシュミレーションの要素・結果からも
同じ方向に向く →  地方から都会に向かう大衆
仲間に近ずく  →  新しいつながりの欲求
仲間から離れる →  新しい生き方の自由な選択

こうしてみれば
以上のような同様のルールによって
都会の大衆により集団が形成されるのは
必然のように思われる。
そして
自己都合による虚構に埋もれてしまう。
しかし
熱狂と憎悪と不寛容の「集団化の加速要素」が
大きくならないかぎりにおいては、
権威主義への集団には向かわないように思うのだが、
歯止め要素の欠損による大集団化に於いては、
自分達が絶対的に正しいと思っているから
権威主義的集団は強大となり、その中では
自己の自由はますます放棄される。



「大衆の反逆」よりも科学を

科学は無いことの証明(ブラックスワンの証明)
はできない。
そのための証拠がないので
断定することができないのである。

何が「正しいのか」ではなく、
「何が本当なのか」を知るために
科学技術を使うことだ。
科学は誰でも何時でも再現が可能で、
普遍的なものであるからだ。
そもそも宗教においては信仰により
「正しさ」を疑うことが困難である。
「宗教として何が正しく、
何が間違っているのか」という判断基準に
普遍的な証拠は存在しないからだ。

権威主義の政治だろうが、宗教だろうが
集団化をゼロにすることはできない。
しかし
熱狂と憎悪と不寛容の「集団化の加速要素」
はゼロにすることはできる。

空観方程式においては
熱狂と憎悪と不寛容の原因にスポットを当て
その基準を科学に求めようとするものだ。
具体的には
「無明」を取り除くための「光明」を
科学に求める空観方程式のスタンスであって、
信仰や集団化の自由と、
その自由はどこまで許されるものなのかの提案だ。
自由を制限する範囲に的を絞って
何が本質な状態なのかを示してみようと思う。


何が正しいのか?、
意義在る人生とは?、
より良く生きるためには?
役に立つ存在のために?
こうした権威主義ではなく、
科学の普遍性「何が本当なのか」
を最優先にする。
それをもとにすることで、
変えられないものを変えようとしないことだ。
ただ盲目的に従うのではなく
折り合いを付ける方法を模索する。

従い
無いときには無いように、
あるときにはあるように。
できるときにはできるように、
できないときはできないように。
コメント

人の命は定められたもの それにあらがってどうする

2022年07月09日 | 読書・TV感想
人の命は定められたもの。それにあらがってどうする。
あまんじて受け入れ、好きなように生きる。
神仏にすがり、おびえて過ごすのは時の無駄だ。  
NHK「鎌倉殿の13人」より




人間の不安と対立は無くならない。 
(変えられないものと折り合い合いながら生きる)


できるときにはできるように、
できないときはできないように。
そして
ある時はあるように、ない時はないように。

我らは生と死とが同居している世界に生きているので、
二元の状態も片方だけにこだわらないことだ。



ところで
「空」から「色」への変化は以下の様になっている。
片方だけでは存在できない二元である
時空、表と裏、生と死、プラスとマイナスなどの
重ね合わせ状態から
禍福、闇と明るさ、悲しさと喜び、そのような
二元の状態が50対50で次々に休みなく現れる が、
受け入れる側でその比率は変化する。
こうして
片方だけでも存在が可能な状態へと変化する。



だからあるがままでもいいし、
あるがままでなくてもいい。

片方だけでも存在が可能な
低次元の中で、何かにしがみついたり、
何かにこだわってしまっているのは、
コップ(想像上の秩序)の中で
泳いでいるようなものだ。

いい時もあれば悪い時もある。
それは変えられない人生の舞台だ。
悪いことの回避だけに邁進するのではなく、
いい時もあれば悪い時もある。それが
高次元の存在を知ることから生まれる
囚われからの解放だ。


要は
「合成よりも分解を少しだけ先回りさせる」即ち、
負けても構わないと思うと勝つことに
繋がったり、
このような世界だからこそ生きていられる
と感じたりする人間原理。
    動的平衡状態(福岡伸一)より

二元の比率が変わってしまう
低次元の世界にこだわったり、しがみつかない。
自分の心(心の反応ではなく)を変えてみる
変えられないものを自覚して、それを変えようとしない。

あるがままにと思った(合成)途端に、
あるがままでなくなる。
あるがままを捨ててこそ(分解)、
あるがままとなれる。

繰り返しになるけれど、
「こうでなければならぬ」「こうすべきだ」
を捨ててこそ、
「こういう世界だからこそ生きていられる」
が生まれてくる。



ところで
慈善活動と新興宗教は
自己都合を捨てられない人たちの活動かも?

あまり恵まれた状態にないと感じていると、
意味のある人生だということを確認してみたくなって、
あるいは
役に立っている人間だということを確認するために、
人を助ける活動に入りたいと考える。
(合成を優先的にしてしまう)

そこから
あなたはかわいそう!助けてあげる!
その自己都合の虜となって、

慈善活動に入る人

新興宗教に入る人

のめり込むと言われている。



「何かをしなければ」との思い(合成)から
始めることは、
できる時はできるように、できない時はできないように、
といった意識からは離れてしまった状態であり、
囚われからの思い込みである。

だから結論は
囚われや計らいは捨て、回り舞台の風景によって
できる時であればできるように!
となる所以である。



人の命は定められたもの。
それにあらがってどうする。あまんじて受け入れ、
好きなように生きる。(できる時はできるように)
即ち「分解を合成より少しだけ先回りさせる」生き方だ。


身を捨ててこそ身をも助けめ  西行
無義の義  親鸞
はからいを捨ててこそ本当の自分に出会う





















あとがき:参照記事
「人は『正しい』と信じてブレなくなった時に
手に負えなくなる。
自分たちが絶対的に正しいと思っているから、
従わないものを迷わず虐待したり排除したり
できるようになる」という――。
カルトに与えられた答えによって
「正しさに依存」すると、
この決断の責任を自分で取らなくてもよくなる。
今は苦しいがもっと大きな幸福へ向かう
過渡期にあるのだと説明されたら、
それを信ずればよいことになる。
カルト宗教の心地よさ
PRESIDENT Online(2022/07/29 10:00)
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