空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)と空観方程式の関係

2023年08月22日 | 記事のコメント
「空観方程式」でのやり方は、
例えば電子スピンの回転方向において、
右回転と左回転とを
一つのものにするのではなく、
重ね合せ、スーパーポジション
融合、一体化、無分別化のように
混ざった状態のままでの考えだ。
あたかも二つの対立集団が
空っぽの(眼には見えない観念の)
神輿を担ぐような状態だ。
弁証法のように
対立状態にある人間の観念を、
対立状態のない一つの形にしてしまう
ことではない。
一つの形は
選択できない状態にすることであって、
柔軟性に欠ける。
逆に混合状態のままで進められれば、
状況によって柔軟に姿勢を変えられる。


電子スピンにおいても、状況によって
スピン回転方向を変えて対処している。
これにより磁性の特性が変化することで
メモリなどに利用されてきた。


私たちは宇宙の大原則である
「エントロピー増大則」に支配されている以上、
築き上げたものは崩れ、
秩序あるものは無秩序化する。
生物は堅牢になることを諦め、
自分で自分の細胞を壊すことを選んだ。

「動的平衡」の視点から「不安定な社会」を見る
  生物学者 福岡伸一教授

不安定な状況を創り出すことで、
あらゆる変化に対応できる高次元の
「安定」を実現する。





空観方程式のやり方も、片方を排除するこのない
混在・融合の考え方の応用だ。

  

   
 
       


ここでは、この考えをもとに
我が国古来からの神道と、
6世紀に渡来してきた仏教との
対立状態について
どのようにして融合したかについて
考察してみる。

古来日本人は、
山や海、森や木、岩などの自然物に
多くの神々が宿ると信じ、
アニミズム(自然・精霊信仰)や
先祖の霊魂を大切にし、
平安を祈ってきた。
しかも神道と仏教は
信仰対象も異なる存在だが、
両者「多神教である」点が共通だ。

そして神仏習合の観念は
「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」
の思想で成り立つ。
本地垂迹とは、
仏が人間に恵みを与え、救うために
仮の姿である神として現れる
という考え方だ。
神あるいは仏のどちらかを選ぶのではない。
同時に進める方法だ。



神か仏か、
どちらが正しいのかではなく、
ただ一つの答えを見つけるのではなく、
いくつもの答えを考える。
一方が変えられない状態であっても、
「因」と「縁」の相互で可能性を探る。
要は一つのことにこだわらないことだ。
動的平衡状態のように対立二項を
バランスさせ調和させる神輿のように。また、
色即是空・空即是色のように
やり直ししながら進む状態だ。
それにより、
あらゆる変化に対応可能な
高次元の「安定」を実現する。




さて、歴史上(日本書紀)においては
崇仏の蘇我氏と排仏(神道)の物部氏
との対立記述となっているが、
神仏習合の観念であれば、対立して
一方を排除する必要はないように思えるのだが・・・。


ところで物部氏に勝利し、
仏教を広めたとされる聖徳太子の名称が
最近の教科書から姿を消したそうであるが、
そもそも聖徳太子の名称は俗名であって、
厩戸皇子と日本書紀には記されているそうだ。
もし厩戸(うまやど)の前で生まれたとなれば、
クリスチャンではなかったかとの説もある。
しかも
物部氏と戦ったのは聖徳太子のほかには
蘇我馬子である。
これにも「我よみがえる」との名前であり、
新約聖書のストーリーと重なる。
しかも
「馬子」も馬小屋を連想させるには十分だ。

もし、キリスト教と神道(物部氏)との対立
であったのであれば、
一神教と多神教の対立であって、これこそ
十分に考えられる状況だ。
その後の歴史(壬申の乱)においては、
蘇我馬子の孫にあたる
蘇我入鹿が聖徳太子一族と、山背大兄皇子とを
皆殺しにしたことになっている。即ち馬と鹿によって
日本史が大きく変化したことになる。
それにより、以後
仏教と神道が融合して、神仏習合の観念が
高次の安定を得て1000年間、
明治の廃仏毀釈まで継続した。

ちなみに廃仏毀釈や尊王攘夷の思想は、
選択肢が無く、融通性の無い思想により、
熱狂はするものの不安定となって、
いばらの道を進むこととなった。


尚、余談であるが
聖徳太子には「未来記」「未前記」なる
予言書があると聞く。
それによれば
「都(平安京)ができてから1000年後に
黒龍が来るため都は東に移される」とある。
これは黒船ペリーのことで明治維新を迎え、
東京遷都となり、予言が的中している。さらに
「それから200年が過ぎたころクハンダが
来るために東の都は分裂する」とあって、
これは
近代日本史40年周期説に合わせてみても
この予言が良く合いそうだ。下図
40年周期説では分裂後に衰退がはじまる。








付録:仏教における魂の存在
古来の神道においては、
神は自然のあらゆるものに宿る
という観念を受け継ぐ。
その大いなる力により我らを
お守りいただき、願いを叶えて
いただく。
同様にして仏教においては、
死ねば肉体は滅するが、霊魂は残り
阿頼耶識として宿る。
お盆の迎え火や送り火などは
こうした霊の存在に依るものである。
問題は霊の存在する世界を
「業の世界」といって、
この世の善と悪を決めるというのである。
健康状態や人間関係に不具合があったり、
原因不明の不具合など「業の世界」の
なせることにしてしまうのである。
このような状況は明らかにやり過ぎだ。
面倒とは思わずに、病院に行くなりして
原因と対峙してほしいものだ。

ブラックスワンが存在しないことを
証明できないと同様、
霊魂が存在しないことも証明できない。
そのことを利用して、
霊を清めるなどと言って商売する者も
現れているから要注意だ。





そもそも仏教の本質は
霊魂、輪廻からの解脱でもある。
魂の観念から離れることが仏教の
本質であることに留意すべきである。
業の世界にいつまでも深くこだわらない
ことが必要だ。
インドでは牛を崇拝し、タイでは
ナマズを放流して幸運を呼び込む
のだそうである。アニミズム信仰
のように、業の世界においても
信仰の領域においては
一方向に偏向しがちとなる。
たとえ解脱が困難であったとしても
状況によって選択できるよう、
道徳のレベルにしておくことだ。






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