河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

俄――鶴の恩返し

2023年01月24日 | 祭と河内にわか

次の俄は、祭り前に相方と一杯飲んでいて、大まかなあらすじだけ決めて、台本なしでやった俄である。
ちょっと下ネタかかっているので、町内でやった〈辻俄=神社以外でする俄〉だ。やった後に村の子どもが「おっちゃん、今日のが一番おもしろかった」と言ってくれた。

【登場人物】 与兵(男性)・鶴(女性)
 ああ今日も一日終わったわい。一人さみしくメシでも食て寝るとするかい。 
   ウラから「ヨヒョウどん。いたはりますか」の声がする
 だれじゃ、
     鶴が女装して出て来る。
 こんな夕方に。あんたはどなたはんで?
 へい、昼間助けてもろた鶴でございます。
 ああ、あの時の、しかし、なんでまた?
 助けてもろたお礼にヨヒョウどんのお世話をしたくて参りました。
 あんたみたいなべっぴんさんがわしのお世話を。そら、ありがたいこっちゃ。ほな、さっそく寝まひょか。
   二人、ウラに入る。〔太鼓の音ドンドンドン〕
           ヨヒョウ出て来る。
 ああすっきりしたわい。
 ヨヒョウどん、ヨヒョウどん。
 またかいな。
   二人、ウラに入る。〔太鼓の音〕
 今日で三日目や。
 ヨヒョウどん、ヨヒョウどん・・・。
 またかいな。その声、聞いたらたまらんがな。
   二人、ウラに入る。〔太鼓の音〕
   ヨヒョウが下手から出て来る。
 今日で半月や。
   鶴が下手から出て来る。
 ヨヒョウどん、ヨヒョウどん。
 またかいな。
   二人、ウラに入る。〔太鼓の音〕
   ヨヒョウが下手から出て来る。
 今日で一ケ月や。もう体ぼろぼろやがな。こんなんしてたら体がもたんわい。そや、昔、本で読んだことがある。この本や、助けた鶴が恩返しするというやっちゃ。この本見せたろ!
   鶴が下手から出て来る。
 ヨヒョウどん、ヨヒョウどん。
 おいおい、この本読んでみ。
 (本を読む)へい、よう分かりました。その代わり、隣の部屋で私がしてることを絶対に見んようにお願いします。
 わかってるわい。
   鶴が奥に入る。〔ハタを織る音〕
 おお、やっとるがな。しかし、見るなと言われれば余計に見たくなる。ちょっとのぞいたろ。こら、何をしくさるねん。こっち出て来い。
   背中に大きな風呂敷包みを背負って鶴が出てくる。
 見つかったらしゃあない。
 お前は、盗人あったんかいな。背中の荷物は皆返せ!
 荷物は返せん! この本だけ、返してさよならじゃい。
 本だけ返してさよならとは? ハテ?
 ハテ!
 ハテわかったわい。これがほんまの「ツルの本返し」じゃ!

昔はもっと露骨な俄があった。
同じ俄を二回したが、二回目はオチを「ハテ、ハテ、ハテわかった。鶴やなしにサギ(詐欺)あった」にした。
俄の特徴は〈即興性〉にあるが、その場で思いつきてやってるわけではない。大筋とオチだけは事前に決めている。
それをどう喋って組み立てていくかに〈即興性〉がある。したがって、同じ俄をやれと言われてもできないし、台本をください言われても無理だ。
この〈一回性〉も俄の命なのだから。
この〈即興性〉と〈一回性〉が発揮される〈辻俄〉こそ俄の醍醐味だと思う。
明治時代にこんな俄をすれば、あっという間に警察に引っ張られていただろう。
明治という時代は案外と生きにくい時代だった。

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俄――明治以降の俄

2023年01月23日 | 祭と河内にわか

明治に入り、大阪船場の御霊神社や座摩神社を中心に大和屋宝楽、信濃家尾半、初春亭新玉、初春亭二玉(後の鶴家団九郎)、三玉(後の鶴家団十郎)らが俄を競い合っていた。
明治11年(1878)には、中村雁治郎らも舞台に立った大阪弁天座で四本立ての合同公演が行われ、以後の十年間は大阪俄の最後の隆盛期であった。
その一方で、文明開化の波が演劇界にも押し寄せてきた。東京に端を発した演劇改良運動が大阪にも波及してきたのだ。
渋沢栄一、外山正一をはじめ、名だたる政治家、経済人、文学者らが演劇改良会を結成し、歌舞伎を標的にして、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにし、作り話をやめることなどが申し渡された。
歌舞伎を拠り所としていた俄師たちはと惑わざるを得なかった。歌舞伎が大きく変わりつつある一方で、歌舞伎と異なる現代劇の新派劇が俄師たちにさらなる動揺を与えた。

その結果生まれたのが明治20年以降の(書生俄)や〈新聞俄(しんもんにわか)〉だ。
〈書生俄〉は新派劇に対する現代俄で、〈新聞俄〉はその頃ようやく普及しだした新聞の記事を題材にした時事俄(軽口俄)で京都を中心に演じられていた。
その一方で、大阪で試行錯誤の末に行き着いたのが鶴家団十郎〈当時は団九郎〉の〈改良俄〉である。
三田純市氏の『上方喜劇 鶴家団十郎から藤山寛美』によれば、〈改良俄〉とはいえ、歌舞伎の筋書きを一部を変えただけで、最後は歌舞伎のもじりをしてオチをつけるという旧態依然としたものであったという。
とはいえ、団十郎一座の芸風は、より笑いを強調するアチャラカ風に近かったので人気を博し、明治27年には千日前の改良座で常打ち公演、30年代に全盛期をむかえている。

この〈改良俄〉が上方喜劇を生んだという記載が多いが、実はその前にもう一段階がある。
団十郎の〈改良俄〉を観た歌舞伎の中村珊之助という役者が「笑う芝居」を志す。尾崎紅葉が訳した短編小説「喜劇夏小袖」から「喜劇」をとり、同じ役者仲間の中村時代を誘い、新しい喜劇の一座を結成する。
やがて「滑稽勧進帳」(別項参照)という芝居が大当たりする。それが興行師の豊島寅吉の目にとまって、道頓堀の浪花座出演となった。明治37年の2月のことである。
名前も曽我廼家五郎、曽我廼家十郎とし、座員一同も曽我廼家を名乗った。曽我廼家喜劇の誕生である。
これが松竹家庭劇となり、松竹新喜劇となっていく。それを支えたのが多くの俄師であった。この過程を漫才作家の秋田實氏はこう説明している (『オチの研究』より) 。
――時代仁輪加はマゲ物アチャラカの始まり、軽口仁輪加は後に漫才の一つの要素になって行く。現代仁輪加は、言わば今の喜劇の萌芽であったが、明治のはじめからずっと後々までの大きな特徴は、幕切れが、チョンと柝が入り、幕になることであった――。
「俄は上方演芸の原点」といわれるゆえんである。
一方で座敷俄は宴席の余興として、あるいは祭礼の付随芸能として残っていく。

明治時代の〈にわか〉に関する書物のほとんどは、宴席の隠し芸の一つとして紹介されたものだ。明治二十年頃から活版印刷が進み十冊あまりが刊行されている。ところが、二十七年を境に出版されていない。
おそらく、明治二十年の出版条例・新聞紙条例の改正、明治二十六年には出版法と名称を変え、言論統制の色合いが濃くなっていった影響だろう。
明治という時代が俄という庶民に最も近い芸能を隅っこに追いやってしまった。
全国に広まった大阪俄が一つまた一つと姿を消していくのはこの頃からだった。

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歴史34 昭和――春やん恋しぐれ④

2023年01月08日 | 歴史

小春もわしも若かった。
よう働いたし楽しかった。せやけど、それも三年ほどや・・・。
二十歳になった昭和12年の5月頃に徴兵検査の通知がきよった。
身体に悪いところはなかったから甲種の合格や。
それを機に、小春を喜志に連れて帰って祝言をあげた。
村の中の親戚の家を小春の実家に見たてて、白無垢の着物に文金高島田で我が家まで歩いて嫁入りや。
橘小春見たさに近隣の村から人が仰山集まってきて、えらい騒ぎあった。

昭和12年の7月に日中事変が始まると、すぐに入隊通知がきて法円坂の歩兵第八連隊に入営した。
「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊」と言われた連隊や。
(京都の歩兵第9連隊を「勲章をくれんたい(もらえませんよ)」という九州弁の洒落でもわかるように、九州の連隊のやっかみや。
他所の連隊は「突撃」かけられたら突撃して玉砕するけど、八連隊はそんなことはせえへんかった。
負けるとわかってる戦いには無理をしなかった。「あほらしい」から無駄なことはしない関西人の気質や!
それでも、死んで「七生報国(七たび生まれかわつて国のために報いる)」よりも、生きて一生報国するという気概は持っていた。

半年ほど訓練をすると二等兵から一等兵になってた。
それで昭和13年の1月に満州の警護に送られた。中国を攻めている間にソ連が満州に攻めてくる可能性があったたからや。
案の定、昭和14年5月に満州とモンゴルの国境線のノモンハンにソ連が攻めてきよった。
ソ連軍は最新鋭の戦車、重砲、戦闘機や、それに対して日本側は銃剣と肉弾だけや。
こんなん勝てるはずがあるかいな。にもかかわらず、我々8連隊にも出撃命令が出た。
「あほらし、こんなん行ってられるかいな」
その直後から、8連隊では発熱や風邪や脚気や動悸やと急病人が次々と出てきたがな。
他の部隊が4日で進んだ道のりを、8連隊は1週間かけてゆっくりと進んだ。行軍中も落伍者が続出した。
そんなこんなで8連隊がノモンハンの戦場に到着したときには戦闘は終わってた。すでに日ソ停戦協定が成立した後あったんや。

出動した日本の兵隊の3分の1が死傷。仙台の第23師団にいたっては約2万人のうち7割が死傷した戦いあった。
ところが、第8連隊はほぼ無傷あった。後で、よくぞ生還したと褒美が出たほどや!
それで、わしは二年間の兵役を終えて内地に還ることができたんや。
昭和14年の暮れあった。凍りつくよな寒い日あった。
満州の広い荒野と違うて、粉浜はあいもかわらずごちゃごちゃした 浮世の裏みたいあった。
家の鍵がないんで、隣の天外さんとこのお手伝いさんに劇場に電話してもろうた。
一時間もせんうちに小春が帰ってきよった。
遠からわしを見つけて、ちゃっちゃつと走って来て、にこっと笑うて「おかえり」と言いよった。
えらいあっさりしてんなと思たけど、「ご苦労様でした。お帰りなさいませ」などと堅苦しい挨拶されるより、小春らしかった。
久々にほんまもんの笑い顔を見たと思うた。
わしもにっこり笑うて、二年ぶりに狭いながらも楽しい我が家に入った。
夕方に浪花さんが「天外からです」と、カシワと卵と酒、それにご丁寧に野菜も切って持って来てくらはった。
「聞きたいこと仰山おますのやが、またゆっくり聞きまっさ。ほんで小春ちゃん、席亭に言うて明日は休みにしてもろてまっさかいに、ゆっくりしとくなはれ」
そない言うて浪花さんは、にこっと笑って帰って行かはった。

頂いたカシワををすき焼きにして小春と二人でつついて、飲んでいたら、涙が出てきよった!
「なんで泣いてんねん?」と小春が聞きよるさかいに、
「美味しゅうて泣いてんのじゃ!」言うたら、
「あほらし」と言うて笑らいよった。
そのとき、「あほらし」のお陰でこうして生きて還ってくることができたんやと思えて、わしも笑ろてしもた。
笑うふたりに浪花の春がきた・・・。

※『草原の肉弾 : ノモンハン事件全貌記』樋口紅陽 著(国立国会図書館蔵)
※『南京城総攻撃 (支那事変少年軍談)』高木義賢(同上)
※絵葉書「(大阪名勝)道頓堀」(大阪市立図書館アーカイブ)

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歴史34 昭和――春やん恋しぐれ③

2023年01月07日 | 歴史

わしが17(歳)の時や。小学校のそばに喜楽座という芝居小屋が出来た。
いろんな一座が入れ替わりで興行をうつのやが、年に数回、小泉劇団というのがやってきた。
その劇団に橘小春という可愛らしい子がいてな、村の若い者は芝居見に行くのやなしに、小春ちゃんを見に行ってたようなもんあった。
時々、村の素人も出演させてくれはってな、わしも早ようから俄や村芝居に出てたんで何回か出演させてもろうた。
いうても、町娘にちょっかいだすチンピラみたいな役あった。
それでもな、「つべこべぬかさんとわいに付いてこんかい!」と言うて、一瞬でも小春ちゃんの手を握れんのが嬉しかった。

小春ちゃんは、わしより二つ上で、よう似た歳あったさかいに、いつしか仲ようなった。
そんなんで、ある日、楽屋で小春ちゃんと話をしている時に、今回の興行が終わったら大阪に帰ると言い出したんや。
親子二人暮らしのお母はんが重い病気になって看病に帰ると言うのや。
ああ、これでもう小春ちゃんとは逢われんようになるのかと思うと悲しゅうなって、「わしも付いていったろか?」と思わず言うてしもた。
そしたら「かまへんのん? 付いて来てくれるの?」と小春ちゃんが言うやないかい。
そら嬉しかったわい!

家に帰って、「わしは次男坊やから、いつか家を出なあかん身や、大阪に出て仕事見つける」と親を説得した。
ほんでもって、喜楽座の最後の芝居がハネた後、小春ちゃんと一緒に、大軌(大阪電気軌道)に乗って聖天坂の小春ちゃんの家に行ったんや。
18歳の春あった。
お母はんは、すでに病院に入院したはったさかいに、小春ちゃんの家で二人暮らしが始まった。
何か仕事を見つけようと思ってた矢先にお母はんが亡くならはった。
親戚も少なかったさかいにささやかな葬式をあげ、聖天坂の家を売って、わずかばかりのお金を持って別の所に小さな借家を借りた。
それが阪堺線の東粉浜駅のそばあったんや。

さあ、その時、喜志村では、わしが橘小春をそそのかして駆け落ちしたとか、当時はやりの愛の逃避行しょったとか、えらい騒ぎあったそうや。
せやけど、そんなんどうでもよかった。狭いながらも楽しい我が家というのはあの時あった。
わしは近くの大工の親方とこに見習いに入った。
大工というても工務店みたいな所で、大工もすれば左官もする、電気の配線もするというようなとこあった。
嫁はんは、と言うてもどれ合いやが、隣に住んだはった人の紹介で、道頓堀の劇場のお茶子(接待係)をしていた。
隣に住んだはった人というのはこの人や。春やんが新聞をぱらぱらとめくって指さした。
ホーローの看板でよく見る女性だった。

そういえば、エーちゃんが、聖天下を通った時に、「ここ知ってるか、松竹新喜劇の渋谷天外さんの家や」と教えてくれたのを思い出した。
豪邸にはほど遠い洋風のこざっぱりとした家だった。
二代目の渋谷天外さんが、戦後、浪花千栄子さんと別れた後に引っ越した家だった。

④につづく
※絵は竹久夢二(国立国会図書館デジタルコレクション)
※路線図は「阪堺電気鉄道路線図」より加工
※看板は「大塚製薬HP」より

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歴史34 昭和――春やん恋しぐれ②

2023年01月06日 | 歴史

聖天坂駅、駅というより停留場といった方がいいほど小さな駅を降りると、すぐに広い道がある。
踏切を渡ってニ、三分ほど歩いたところにアパートがあった。
アパートというよりは二階建ての離れを借家にしたようなもので、一階と二階の二部屋しかなかった。
人一人がやっと通れるような階段を上るとすぐにドアがあって、入るとすぐに六畳の畳の間があった。
合鍵を持っていた居候のTが先に帰っていた。バンドをするというだけあって、すらりとした長身で恰好よかった。
野菜を適当に切って、エーちゃんと私とTとFの四人ですき焼きをつついた。

クーラーはなかったが、窓を開ければ涼しい風が入り、大阪市内だからか蚊もいなかった。
ぐっすりと寝て、翌朝の8時くらいに四人でアパートを出た。
線路沿いに北に向かって松虫通りを少し通って左に曲がると聖天下という簡素な住宅街があった。
右手に鬱蒼と木の茂った丘が見える。「聖天さんというんや」とエーちゃんが教えてくれた。
そのまま真っすぐ進むと阿倍野墓地があって、旭通りを抜けると阿倍野に着いた。
KYKの喫茶店でモーニングを食べて、その日の稼ぎに出た。
昼から、エーちゃんとTはアパート探しに、私とFは着替えを取りに一端家に帰り、夜は再びエーちゃんのアパートに泊まった。

次の日は同じように聖天下を通って阿倍野に出た。
Tのアパートが決まったので、Tのために大阪見物をしようということになって、天王寺の西口に出て、参道を通って四天王寺にお参り。
谷町線を天満橋で降りて大阪城、道頓堀の千房でお好み焼きを食べてアパートに帰った。
次の日、Tが引っ越しのために一旦福井に帰るとというので、私とFも鞄を持ってアパートを出た。
聖天さんの森も見慣れた景色になっていた。

その日、久々に家に帰ると、春やんがきていた。
「おっ、三っ日も居続けしてたんやて?」と春やんが言った。
「けったいな言い方しないな。友達のアパートに泊めてもろてたんや!」
「ほー、どこやねん?」
「聖天坂や!」
「聖天坂?」と春やんが聞き返した。
そして、「こんもりと茂った森があったやろ?」と言った。
「ああ、聖天さんかいな」
「あれはなあ、大阪にある五つの低い山の一つで聖天山というんや」
「あれ山かいな? 春やん、よう知ってんねんなあ」
「わしも、聖天坂に住んでたんや・・・」

③につづく
※大阪五低山=大阪市内5カ所の低山巡りの対象となる山。港区の天保山(4.53m)、阿倍野区の聖天山(14m)、生野区の御勝山(14m)、住吉区の帝塚山(19.88m)、天王寺区の茶臼山(26m)。

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