河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

茶話146 / 曼殊沙華 

2024年10月02日 | よもやま話

畑からの帰り道、堤防の土手に、赤い花が咲いていた。
アライグマと格闘しているうちに、気づかずにいた。
そういえば、お彼岸に咲くからヒガンバナなのに、今年は、お彼岸に咲いていなかったなあ……。
ヒガンバナの開花温度は20~25度とされている。
特に、最低気温が20度前後まで下がってくると、地中の球根から花茎が一気に伸びて花を咲かせる。
だのに、10月になって咲くとは……。
こんなの始めて!
まだ暑いのだ。

江戸時代初期、南蛮貿易で沸き立ってい長崎の貿易商の娘が、ポルトガル船の航海士であったイタリア男性と恋に落ちた。
やがて、二人の間に姉・お万、妹・お春が生まれる。
しかし、寛永16年(1639)に第五次鎖国令が発布され、今後、日本人との混血を禁止するため、長崎に在住していた紅毛人とその家族は日本を追放された。
家族はバラバラにされ、15歳のお春はバタヴィア(ジャカルタ=ジャガタラ)へと流された。
後に「ジャガタラお春」と呼ばれる女性である。
お春は、遠く離れた日本の親戚や友人に何通かの便りをよこした。
習字や読書を心得た少女が、遠い島で綴った美しい文は、何とも切ないもので、「じゃがたら文」と呼ばれるようになる。
 千はやふる、神無月とよ、うらめしの嵐や、まだ宵月の、空も心もうちくもり、時雨とともにふる里を、出でしその日をかぎりとなし。又、ふみも見じ、あし原の、浦路はるかに隔てれど、通ふ心の送れねば、思いひやる日本(やまと)の道のはるけきも、夢に間近く超えぬ夜ぞなき……(略)。
そして、次のように結ばれている。
 あら、日本恋しや、ゆかしや、見たや 。

昭和14年、じゃがたら文を元にしたぬ歌謡曲(『長崎物語 (詞:梅木三郎  曲:佐々木俊一)』が作られる。
 赤い花なら曼珠沙華(まんじゅしやげ)
 阿蘭陀(おらんだ)屋敷に雨が降る
 濡れて泣いてるじゃがたらお春
 未練な出船 ああ鐘が鴫る
 ララ鐘が嶋る
ヒガンバナは「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」とも言われている。 
サンスクリット語で〈天上に咲く花〉という意味がある。
おめでたい事が起こる前兆に、赤い花が天から降ってくるという仏教の経典からきている。
その一方で、ヒガンバナは、花が咲いた後から葉っぱが伸びるという、通常の草花とは逆の生態を持っている。
つまり、葉と花を一緒に見ることが出来ないのだ。
そこで、「葉見ず花見ず」という別名がある。
また、深紅の花色から「血」や「炎」を連想し、昔の人々は恐れをなして「死人花(しびとばな)」とか「地獄」ともよんでいた。

美しくも悲しいヒガンバナだ。
それが、じゃがたらお春と結びついたのだろう。
 平戸離れて幾百里 つづる文さえつくものを なぜに帰らぬじゃがたらお春 サンタクルスのああ鐘が鳴るる ララ鐘が鳴る(3番)
ともあれ、ヒガンバナが咲いたということは、25度以下になったということだから、良くも悪くもヒガンバナである。
しかし、ヒガンバナは、やっぱり、お彼岸に咲くべきだ。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 畑180 / もうやめて | トップ | 茶話147 / 眠り »

コメントを投稿

よもやま話」カテゴリの最新記事