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RAPTブログに出会い、御言葉を聞くようになり、概要が掴めて来たつい最近まで、自分は神様の使徒になるために導かれているのだと思っていました。
20代、30代になっても結婚できず、やっとのことで50代で結婚できたと思ったら、30代の妻に子供は出来ないし、不妊治療に今までの貯蓄や退職金は使い果たし、お金が本当にない状態でRAPTブログに出会ったからです。
本当に「全てを捨てて、主の御心へ・・・」と歌われる讃美歌の歌詞の通りの状態の環境にあり、無理やり義の条件を立てられているようで、これは神様の導きなのだと、なんと自分勝手な!高慢な!考えを持っていました。
しかし、実は本当は神様は「日々の生活は心配するな」(マタイによる福音書6章25節―34節)この一言を教えるために導かれてきたのだと解りました。
「思い悩むな、日々の生活(何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか)は思い悩むな。天の父はこれらのものがあなた方に必要なのをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
必要最低限は私にも与えてくださっている。
それは間違いない。
まずは、神の国、神の義を求めなさい。つまり、神様の御心に従いなさいということ。
神様に限りなく近づき、次元を上げていって、聖霊を受けて神様と愛を成すこと。
そうして、多くの人々を救っていくことで神の義を成し、神の国を成すことができる。
この一言を悟るために65年間生き続けてきたと言ってもいいくらいです。
今まで本当にのぼせ上っていました。
自分は他人よりも頭が良いのだと、人とは違うのだと、人とは別の生き方をする人間なのだと、人より上の考え方をする人間なのだと思ってきました。
今の今、それは違うのだと知って愕然としました。
それを悟ったと言ったほうがいいのかもしれません。
いや、悟らされたと言ったほうが良いでしょう。
他人を実は心の中では上から目線で見ていた。
一人一人の顔が浮かぶ。みんなごめんな!
聖書の2つ目の掟が「他人を自分のように愛しなさい」です。
一つ目の掟は「心と思いと精神を尽くして神様を愛しなさい」ですが・・・。
人を愛することができないのは、子供の頃の父親からの仕打ちがあったからだと自分勝手に考えていた。
だから人を愛することは出来ない、本当に心の底から人を愛することなどできないと思い込んでいた。
表面的に仲良くしているようにしていても、心の底ではバカにしていた時もある。
この御言葉に出会って、”愛”という言葉を見たときに一瞬ドキッとしたことを思い出す。
「自分は他人の事を本当に心の底から愛することなんてできない人間だ」と考えていたからである。
それでも自分を騙しながら自分も人を愛せるんだと、言い聞かせながら歩んできた。
やはり最初に感じた直感は正しかったのか?
使徒への道へと導いてくれているという大いなる勘違いに気付かせてくださった。
”日々の生活は心配するな”という一言を悟らせて下さった5年間。
余裕はないにしても、なんとか生活できている。
”答えは必ず与えられる、分からないことが分かるようになる”と仰っていた意味が今、甦ってくる。
この事なのか。
余分な欲望を全くなくして、神様は必要なものすべてを与えてくださっている。
このことを、今、実感として感じています。
KAWATAさんとNANAさんが仰っている言葉を本当に実感しています。
「自分の欲望で得ようとしたもので、本当にこれまで幸せになれませんでした。神様が与えてくださったものが本当に素晴らしくて、幸せになれるものだと本当に悟らせてくださっています。心から感謝いたします。」とKAWATAさんは仰っています。
聖書の一行分を悟るのに65年間かかってしまったという思いです。
なんと自分の一生が小さいのか!
又もや愕然とした気持ちです。
聖書の偉大さも、同時に知らされることになりました。
霊の成長が第一だと教えてくださったのと、この道に導いてくださったのと、両方を成してくださった。
悟りと導きの両方を同時に満たしてくださった。
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