仕事と生活の授業(続き)

前に作ったホームページは、あまり読まれないようなのでブログで再挑戦です。

64.万葉集のはじめの歌『こもよみこもち』 その12 我こそは、背な(あなた)にはつげめ

2024年07月23日 | 和歌 短歌 俳句
我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母

さあ、最後の段落です。

「我」

さっきまで雄略天皇は、
自分のことを「吾」と呼んでいました。
ここで「我」と書いているのは、
言う人が変わったからです。

よく同じ意味でも
同じ文字を避けるのが
歌の習慣だと聞きますが、
ここでそれは通じません。

直前で「吾」が
繰り返し使われているからです。

ここの「我」からは、
菜摘(なつ)みをしている
女の子の発言です。

そのように解釈している本もあるようです。

ある写本には、
「我許者 背齒告目」
と書いてあるようで、

その場合は、
「われこそは
せなにはつげめ」
と読むとのことです。
(ネットで万葉仮名一覧を見ると
「者」は「は」と読むようです。)

五七調になるので良いですね。

「背(せな)」は、背中のことで、
ちょっと昔の任侠映画の主題歌とか、
演歌の勇ましいやつの歌詞に出てきます。
(『唐獅子牡丹』『みちのくひとり旅』)


「背」と書いて、
読みは「せ」でも「せな」でもよく、
女性が愛おしい人に向けた
二人称「あなた」「ダーリン」「ハニー」
という意味になるそうです。

男性が仕事に出かけるとき、
女性が家の中から男性の背中に
声を掛けるからでしょうか。

山本譲二さんの名曲『みちのくひとり旅』では

「 うしろ髪ひく かなしい声を
 背(せな)でたちきる 道しるべ」

と歌っているので、
女性が出かける男性に
後ろから声をかけるのが
デフォルトです。

(「せな」という言葉がでてきてから、
頭の中でずっとこの曲が流れています。」

ここでも「こそ」+「動詞の已然形」
(我こそ...告げめ)
が使われています。
ここではどのような
逆接の状況があるのでしょう。

「 他にも優れた人がいるけれども、
 私も悪くないでしょ。」

と言っているとすると、ちょっといやですね。

実はこの状況において、
女の子は困った状況にいます。
雄略天皇は、
精霊に話しかけていているので、
女の子は
精霊を通じて
話しをしなければいけません。

さらに、日本文化の壁もあります。

歌舞伎の口上で、
「 問われて名のるも
 烏滸(おこ)がましい
 (=恥ずかしい)が、」
と言ってから自分の名前を
言う場面があるそうです。

名前を聞かれてから名のるのは
恥ずかしいことで、
聞かれる前に
名のらなければいけません。

ところが、
相手が聞きたくもないのに
自分から名のったら
もっと
恥ずかしいことになります。

相手が自分に興味ありそうであれば、
先手を打って名のる
というのが正しいのですが、
そんなことは無理ですし、

仮に興味があると分かっても、
聞かれていないのに名のるのは
差し出がましいと思われる
と考えなければいけません。
(実際には差し出がましいとは
 思われないと分かっていてもです。)

日本文化めんどくさいですね。

結局聞かれてからしか名のらないし、
名のるときには、
問われて名のるのは恥ずかしい
と表明しなければなりません。

菜摘をする子の立場に立って考えましょう。
「 雄略天皇が話しかけているのは、
 カゴやスコップなので、
 私は直接問われているわけではありません。」

「 でも、きっとカゴやスコップは
 私の言うことの仲立ちをしてくれる
 ことはないでしょう。」
 (当たり前です。)

「 カゴやスコップに返事をするのも
 一つの手ですが、
 私はそんなにお茶目ではありません。」
 (めんどくさいし。)


「 問われて名のるのも恥ずかしいのに、
 ましてや、
 直接は問われていないのに名のるので、
 もっと恥ずかしいのですが」

「また本来なら
 カゴの妖精やスコップの妖精から
 お話ししてもらわなければいけないのだ
 『けれども、』
 私からお茶目なあなたに
 お答えします。」

やっぱり日本文化めんどくさい。

現代語であれば、

「 私などから申し上げるのは
 恐縮なのですが、言わせて下さい。」

という感じですかね。

任侠の人が

「 お控えなすって」

と言うのと同じ感覚でしょうし、

本気で自分を卑下している鎌倉武士が

「 やあやあ、我こそは」

と言うのも同じだと思います。


ここでの「こそ」の係り結びは、
次のような逆接の状況を伴っています。

「 本来カゴやスコップに
 言ってもらわなければいけないのだ

 『けれども』

 私から言います。」

それを明確にするために読むときには

已然形+「ど、ども」を使いましょう。

「 我こそは
 背(せ)には
 告げめど
 家をも名をも」

菜摘をする子は、
日本文化の常識を踏まえた
しっかりした女性として
描かれています。

それに対して、

「 かごよ、かごさん、
 スコップさん」

と話しかける雄略天皇の
天真爛漫な姿が際だちます。

しっかりした女性と
子供っぽい雄略天皇という図式は、
万葉集のこの歌にだけ
現れる特徴ではなく、
古事記や日本書紀の
雄略天皇の巻にでてくる
多くの女性達と雄略天皇との
関係と同じです。

この歌の作者を雄略天皇ではない
という人がいますが、
雄略天皇の時代と彼の性格、
女性との関係を考えれば、
雄略天皇の御製にふさわしい
楽しい歌だと思います。

終わりました。

とても長かったですね。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【追伸】
「 我こそ『は』
 背(せ)に『は』
 告げめど
 家をも名をも」

ここで『は』が、
二回続きます。

『は』、主題の提示を意味する
助詞です。

文脈にょって、
比較の助詞と言われることもあります。

1つ目の『は』は、
カゴの精霊達ではなく、
私から言いますという
私と精霊との比較を意識させる
役割りを担っています。

2つ目は、
他の誰かには言わないことを
あなただけに『は』
言うのですよ、
という意味で、
あなたと他の男性を
比較しています。

『は』の連続が不自然だとして、
この解釈を取らない人もいるかも
しれませんが、
むしろ、
『は』が連続することで
広がる意味の深さを
楽しみたいと
思います。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【追追伸】
SOULJAさんの
『ここにいるよ』
という素晴らしい
曲があります

そのアンサーソングが
青山テルマさんの
『そばにいるね』

万葉集第一首も
同じ形をとっています

そこにあるのは
絶望的に異なる感性と

それが奇跡的に
触れ合う感動です




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