いろは歌の中の
「有為の奥山」
という言葉の意味を調べていて
気が付きました。
「有為」とは、
無常なこの世のこと
だそうです。
直前に「常ならむ」とあるので、
「常」と「無常」の対義語が
並んでいることになります。
「わがよ」「たれそ」も
「我」と「誰」が並んでいて、
自分と他人が対比されています。
「にほへと」「ちりぬるを」も
「匂ふ」(色付く=咲く)と「散る」
という反対の意味の言葉が
並べられています。
仏教において
全てのものは対立の中にあり、
対立の両極は
反対の極があるから意味を為(な)す
という考えがあります。
いろは歌は、
この考え(「相待_そうだい」と呼ばれます)
を表そうとしているのではないでしょうか。
世の中に「長いもの」しかなければ、
「長い」という概念は意味を為しません。
「長い」という概念は、
「長いもの」より少しでも「短いもの」
があって初めて成り立ちます。
「長いもの」という概念は
「短いもの」 に依存していて、
「短いもの」もまた「長いもの」
に依存しています。
その相互依存の関係が
「相待_そうだい」です。
いろは歌の中には、
反対を並列している箇所が
まだあります。
「奥山」を奥深い山として意味を補うと
「奥(深い)山」・・・「浅き夢見し」
となります。
「深」と「浅」が並ぶことになります。
次は、掛詞(かけことば)
のようになりますが、
「浅(あさ)」が「朝」に通じ、
「朝」は「あした」と読み、
昔は意味も同じでした。
すると、
「けふこえて」・・・「あさきゆめみし」は、
「今日」と「朝(あした=明日)」が
並んでいることになります。
「今日」は、
「今日の明日」や
「今日の今日」という使い方で、
「すぐに(なにかできる、できない)」
を意味します。
「昨日の今日」「昨日今日」
という使い方も含め、
「簡単に(できる)」
という意味を持っています。
「奥山今日越えて」は、
「奥(険しい=難しい)山、
今日(すぐに=簡単に)越えて」
と取れば
「難しい」と「簡単」
という対比と読むことができます。
「ゑひもせす(酔いもせず)」
の対義語は詠まれていません。
「酔い」の対義語は、
「素面(しらふ)」「正気」などです。
「酔(ゑ)ひ」の後に
「も」という助詞が付いています。
意味を補うと、
「酔いもしていないし、
素面(しらふ)でもない」
となります。
直接には書かれていませんが、
「酔い」と「素面(しらふ)」
の対立が含意されています。
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なぜこのように
反対の意味を持つ単語を
並べているのか?
偶然か(強引な読み込みか)
と思われるかもしれませんが、
「相待_そうだい」という
考え方を踏まえれば、
敢えて並べていることが分かります。
「相待_そうだい」という考え方を
お話するためには、
インドの思想史を踏まえないといけません。
次回は、上座部仏教の有力宗派
「説一切有部(せついっさいうぶ)」と
大乗仏教の中核的な考え方
「中観=空観」
との考え方の相違を考えていきます。
短いですが、今日はこれでおしまいです。