いろは歌の解釈のために
ナーガールジュナ(龍樹)の
『中論』を読みました。
中村元先生の本を通じてです。
龍樹は観念実在論と戦っていたのですが、
同じく観念実在論=イデア論と戦った
アリストテレスが思い出されました。
二人が使っていた
インド・アーリア系の言葉では、
主語と述語があって、
述語の内容を
主語に付け加えていきます。
この花は赤い
と言えば、
色の規定の無かった花という主語に
「赤い」という色の情報が加わります。
一方でこの花が黄色い可能性は否定されます。
この赤い花は、甘く香る
この甘く香る赤い花は、早く散る
このように文章を重ねることで、
何の規定もなかった
この花という主語に
多くの情報を加えていくことができます。
この花が香らない可能性や
長く楽しめる可能性も否定されています。
ある情報を一つ加えるということは、
それ以外の可能性を
否定することになります。
情報が増えると可能性は減ります。
情報量が多いということは、
可能性が低いということになります。
(情報理論ではそのように
定義されています。)
壮大な物語や
素晴らしい科学技術も
多くの文章の積み重ねから生まれます。
私達の人生の物語は、
多くの出来事の積み重ねです。
そしてその出来事も
文章で表すことができます。
逆に、
文章から主語に遡っていくことが
できるのならば、
文章によって作られた
窮屈な理屈や様々な規則から解放された
可能性に満ちた自由を
手に入れられるのかもしれません。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一般的ないろは歌の解釈を
この観点から読み解いてみましょう。
(夢を見ない方の解釈です。)
いろは匂へど
「この花は薄紅色に色づいていますが」
散りぬるを
「この薄紅色の花は散っていきます」
我が世 誰そ 常ならむ
「この散っていく花と、人の栄華は、等しく虚しいものでしょう」
有為の奥山
「この栄華と同じはずの花は、(ソメイヨシノと言って)手の込んだ奥義とでも呼ぶべき人の技(わざ)、奥深い人の技によって生まれたものです」
今日越へて
「いくら奥深い技によるといっても人の技で作られた花は簡単に乗り越えられ、更に奥深い技による素晴らしい花を見ることができます」
浅き夢見じ
「そのさらに素晴らしい花は、奥深い世界に咲いていて、浅い夢に見ることはないでしょう」
酔ひもせず
「浅い夢で見ることのできない花は、酔った時のような幻覚としても見ることはありません」
『さらに素晴らしい花』というものは、
奥深くに潜む悟りの世界でのみ、
見ることができます。
この一連の流れのなかで、
初め「この花」と言われ、
なんの規定もなかった花は、
色や喩えをまとい、
悟りの世界へ導く
とても大切なきっかけになります。
その花に導かれた世界を
素晴らしいと思う人もいるのでしょう。
一方で、
狭く窮屈な世界だ
という人もいるでしょう。
現実に打ちひしがれ、
不幸に見舞われた人がいたとします。
その人にとって、
あまりに遠く狭い世界を悟りの世界だ
と言われているような気がします。
そう言われても、
とてもそこにたどり着けるとは思えず
絶望が増すだけなのではないでしょうか。
そうではなく、
龍樹は、眼の前の現実を
見つめ直すことから
始めよう
と言っています。
つらい現実を見つめ直すことは
とても難しいことかもしれません。
それでも現実を見つめ直して、
今とは反対の現実があった
可能性について想いを馳せてみます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今の現実はとてもつらい
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
という文章は、
述語から主語に遡っていくことで、
つらくない現実がありえた
可能性を示唆しています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
昔幸せだった現実は今とてもつらい
昔、私の周りには温かい人々がいた
私の周りの人々は私を理解してくれていた
私には私の話を聞いてくれる人がいた
その人はもういない
その人を私はいつまでも覚えている
(その記憶が
「私」の救いになるのかもしれません。)
─────────────
(さらに、)
(私が誰かの「その人」になりたい)
(なろう)
(その意思が
私の希望になり得るのかもしれません。)
─────────────
文章を逆に辿っていくことで、
今とは違う可能性について
思いを巡らせることができます。
この奥深い世界をとても苦痛に感じ、
別の世界に逃れたい
と思っている人がいます。
一足飛びに桜の散りゆく悟りの世界に
向かうのが一つの方法です。
他方、
そのやり方についていけない人もいます。
その時、
「薄紅色の花は散らない」
「私の心の中ではいつまでも
美しい姿で咲き続けている」
という思いが
その人を支えてくれるのかもしれません。
現実の花は散るかもしれませんが、
心の中の花は散らないのかもしれません。
「花が散る」と言う前には、
そのどちらの可能性を秘めていました。
文章を逆に辿ることで、
今と違う可能性を広げていくことができます。
このように文章を逆に辿る過程で
つねに主語の位置を占め、
情報が減っていく毎に、
可能性が増えていく、
その無限の可能性を秘めた何か
(ここでは「色の無い花」のこと)
を龍樹は「空」と言ったのでは
ないでしょうか?
あるものごと(薄紅色の花)と
その反対のもの
(薄紅色ではない色、黄色や紫色の花)、
その両方を
受け入れることができるもののことを
アリストテレスは、「質料」と呼びました。
そして薄紅色の花(桜)を「本質」
または「形相」と呼び、
その反対のもの(黄色や紫色の花)を
形相(「薄紅色の花」)の「欠如態」
と呼びました。
ものごとを説明する為、
アリストテレスは、
「形相」とその「欠如態」と
もう一つ、
その二つの相反するものを
受け入れることができる
「質料」の三つが必要だ
と考えていました。
龍樹も、
ものごとが独立してある
と考えるのは間違いで、
つねにそのものごとの
反対のものとの相関関係
(相待=そうだい)で成り立っている、
それを成り立たせているのが、
反対のものをも受け入れることができる
「空」だ、と考えていました。
反対のものを受け入れることができる器、
それを「空」と呼びました。
───────────────
以前、龍樹とアリストテレスの
言いたかったことを詳しく書きました。
気になる方は、ご覧ください。