娘の受験に付き合って
受験古文を勉強してきたので、
その成果を生かして
いろは歌を解釈してみたい
と思います。
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色は匂へど
散りぬるを
我が世
誰ぞ
常ならむ
有為の奥山
今日越えて
浅き夢見し(じ)
酔ひもせず
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仏教の無常感を表した歌だ
と言われています。
解釈が分かれるのは、
「浅き夢見し」か
「浅き夢見じ」かです。
「し」は過去の助動詞「き」の連体形です。
通常連体形で文が終わることはないので、
「じ」が優勢のようですが、
「じ」だと「夢を見ないだろう」となるので、
「世の中は今朝見た儚い夢みたいだ」
という意味にとりたくて
「し」を押す人もいます。
文法的に正しく「し」を
「き」の連体形と読むには、
一工夫が必要です。
四行目の「誰ぞ」の係り助詞「ぞ」
の結びが「夢見し」だとすれば
文法規則を満たします。
そうすると、
「我が世、誰ぞ...浅き夢見し」となり、
「私の世界は、誰の浅い夢を見たものなのだろう?」
「私の世界は、誰かが浅い夢を見たものなのではないだろうか」
という意味になります。
これはこれで奥深い意味があるように見えますね。
係り助詞「ぞ」と結び「し」の
間が空きすぎ、
と思われるかもしれませんが、
そのような例は他にもあります。
「春の野にすみれ採(つ)みにと来(こ)し我“そ” 野をなつかしみ一夜寝(い)に“ける”」(万葉集1424)
これは「そ(ぞ)」と連体形の結びの間に「野をなつかしみ」という従属節が入っている例です。
もう一つ間が長い事例です。
「けはい有様、はた、さばかりならむを“ぞ”あらまほしき程とおぼえ侍る“べき”」(源氏物語 橋姫)
「我が世 誰ぞ」の係り助詞「ぞ」を
「夢見し」で承けてしまうと
「我が世 誰ぞ 常ならむ」を
係り結びの連体形終わりとする
一般的な解釈が成り立たなくなります。
「私の世の中で、誰か栄華が永く続く人がいるだろうか(いや、いやしない)」
というやつです。
そもそも「“我が”世」と言っていながら、
「“誰”が常か」
と聞くのもおかしな解釈でしたが...
「我が世なんだから私だろ」
と思います。
連体形終わりの「常ならむ」
が浮いてしまうので、
次の「有為の奥山」に繋げます。
ところが有為の意味を見ると
「因、縁の和合によって作られている
恒常でないもの。」
とあります。
「恒常でないもの」を
「常ならむ(恒常であろう)」で修飾すると
「恒常であろう恒常でないもの」
となってしまいます。
これでは矛盾しているように見えます。
実は、「常なら“む”」の「む」が
名詞の前にある場合には、
「仮定」の用法があります。
なので、「(恒常ではない)有為が、
もし恒常だとすると」となります。
「有為の奥山」を
「因縁が迷路のように絡み合った
無常の世の中」とすると、
「有為の奥山今日越えて」は、
「無常の世の中が無常でなければ、
その世の中を簡単に
越えることができる」
と解釈できます。
「今日」は、
「昨日の今日」「昨日今日」
と使うことから、
「短時間で」、「簡単に」
と解釈します。
歌の後半を
「無常の世界(有為の奥山)を越えて
悟りを開くことの素晴らしさ」
を歌ったのだと解釈する人がいます。
けれども、ここまでの解釈では、
「無常を無常でないとすれば、
悟りは簡単に開けるけれど、
悟りを開くことができる世界というのは、
誰かの夢に過ぎないのではないか」
さらに
「悟りを開いたと思うことは、
無常の中に何か無常ではないものを
紛れ込ませているのではないか」
となります。
痛烈な仏教批判とも取れます。
最後に
「酔ひもせず」
と続きます。
酔っぱらって浅い夢を見るということは
現実と夢を取り違えることだとします。
ここでは、「酔っぱらっていない」
と言っているので、
夢と現実を取り違えたのではなく、
どちらも正気で見ている風景であり、
夢と現実は区別できない、
となります。
悟りを開いたと思った時、
本当に悟りを開いたのかもしれないし、
儚い夢かもしれない。
そして、それを見分ける術(すべ)がない。
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ある人が蝶になった夢を見て、
目が覚めたとき、
本当は目が覚めた今が
蝶が人間になった夢なのでは
と疑う話があります
有名な老荘思想の胡蝶の夢です。
いろは歌を単に仏教の無常観を
歌った歌ととらえるのではなく、
老荘思想の観点からの仏教批判と
とることもできるのではないでしょうか。
あるいは、
「我が世」
というところに着目して、
大乗仏教の観点から上座部仏教への批判
ともとれるのかもしれません。