浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

妖怪 中曽根康弘

2012-10-22 09:44:50 | 資料

 

中曽根 康弘

1918年(大正7年)5月27日 - 群馬県高崎市末広町に生まれる。

衆議院議員連続20回当選

科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第34・35代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)などを歴任した。

現職は財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。

◆ロッキード事件「中曽根氏がもみ消し要請」 米に公文書

ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。このとき中曽根は、競争相手のグラマンなどからも同じように収賄を受けていた。

裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。中曽根事務所は「ノーコメント」としている。

 この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。

 ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。

 与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。

 文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。

さらに中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。

中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。

 文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ。

 結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。

◆オバマの戦略ブレーン=ズビグニュー・ブレジンスキーの「古巣・側近集団」である、コロンビア大学の戦略研究チームが、「日本に核武装させ、核兵器を売り付けるための」シミレーションを複数、作っている。

第二次世界大戦中、日本の敗戦の原因となった、対日・暗号解読部隊が置かれた、「対日工作のブレーン中枢である」コロンビア大学である。

 原発国家・日本を振り返るに欠かせない中曽根康弘(94)の政治人生は、米国抜きには語れない。

 米大統領アイゼンハワーが国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」を唱えたのは1953年。ソ連が水爆実験に成功し、米国は慌てていた。原発を積極的に輸出して経済支援することで米国の「核の傘」を広げる世界戦略への転換だった。

 http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-majordocs-peace.html

 衆院当選4回、35歳だった中曽根はアイゼンハワーに魅せられた。「原子力は20世紀最大の発見。平和利用できなければ日本は永久に4等国に甘んじると思った」と著書やインタビューで繰り返している。

 この年、中曽根はハーバード大学の国際セミナーに招かれた。主催はのちの国務長官キッシンジャー。22カ国から45人が集まった。

 その後、中曽根はサンフランシスコに寄り、カリフォルニア大バークリー校の原子力研究者、嵯峨根遼吉に出会う。そこで最先端の原子力技術に触れた。「長期的な国策を確立しろ」と説かれ、「日本もボヤボヤしてはいられないと痛感した」と述懐している。

 吉田茂が講和条約に調印し、日本が独立を回復して2年。軽武装・経済優先の吉田は、憲法改正や再軍備を唱える中曽根の目に「対米従属」と映った。

 一方で米国から期待されることを喜んでもいた。中曽根は96年の著書で自らを招請した米国の狙いについて「吉田的なものにこのまま日本が流れていってはいけない。新しい政治家を育てなければと考えたんだと思う」と分析し、吉田的政治への対抗心をみせた。

 対米従属を嫌いながらもどこかで米国に認められたい。戦後日本の「二面性」にもがく姿がそこにある。

  日本の原子力開発は、1955年の原子力基本法制定当時から「平和利用」を旗印としていた。そして、政治的には核不拡散NPT条約体制構築に協力していた。

他方、核兵器に転用可能なプルトニウム利用も含む原子力利用の包括的拡大に固執してきた。そのために、経済的には引き合わないにもかかわらず、もんじゅが建設され、再処理工場が設置され、軽水炉におけるプルサーマル計画が推進されてきた。

こうした原子力民事利用の包括的拡大路線への日本の強いコミットメントの背景に、核武装の潜在力を不断に高めたいという関係者の思惑があったことは、明確であると思われる。

たとえば1960年代末から70年代前半にかけての時代には、 NPT署名・批准問題をめぐって、日本の国内で反米ナショナリズムが噴出した。NPT条約が核兵器保有国に一方的に有利な不平等条約であり、それにより日本は核武装へのフリーハンドが失われるばかりでなく、原子力民事利用にも重大な制約が課せられる危険性があるという反対論が、大きな影響力を獲得したのである。

とくに自由民主党内の一部には、核兵器へのフリーハンドを奪われることに反発を示す意見が少なくなかったという。こうした反対論噴出のおかげで日本のNPT署名は70年2月、国会での批准はじつに6年後の76年6月にずれ込んだのである。

 1954年に初めて原子力予算をつけたのは、当時の与党である自由党の吉田内閣ではない。当時、重光葵が総裁をつとめていた改進党の中曽根康弘らであった。

 54年3月に提出された日本初の原子力予算も、野党改進党の予算委理事だった中曽根が主導したと言われる。中曽根は国会で原子炉調査費2億3500万円の積算根拠を問われ、「濃縮ウランはウラニウム235だから」と爆笑を誘った。少数与党の吉田政権が修正要求を丸のみして予算は成立。中曽根は「原子力の重要性を考え、断固として邁進(まいしん)した」と胸を張った。

 だが、実は中曽根は中心人物ではなかった。原子力予算の構想は、直前にあった改進党秋田県連大会から帰京の車中で、TDK創始者の斎藤憲三や、のちに法相となる稲葉修らが描いたものだった。中曽根はそこにいなかった。

 「自分がやったみたいなことばかり言ってるが、うまいことしたんじゃないか」。原子力行政の重鎮である島村武久は、歴史検証を目的に官僚らの証言を集めた「島村研究会」で中曽根をそう評している。

当時、アメリカは日本に対して、MSA(相互安全保障)援助により、経済的・軍事的に日本にてこ入れを行い、アジア地域における米軍配備を一部肩代わりすることを望んでいた。
吉田内閣は、漸進的に自衛力を増強することにして、MSAもその意味で受け入れることを方針としていた。

  一方改進党や、自由党から分かれた鳩山一郎を中心とする鳩山一郎は、MSA援助を受け入れることにより積極的であり、最新鋭兵器を導入して本格的再軍備を行うことを期待していた。
ちなみに、日本社会党は当時右派と左派に分かれていたが、どちらも再軍備反対であった。

こういう情勢において、アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォア・ピース」演説(1953年)を受けて、中曽根らが「原子力の平和利用」を主張した。

 1954年、南太平洋ビキニ環礁でおきた焼津港マグロ漁船の第五福竜丸の水爆実験被災は、圧倒的多数の人々に衝撃を与えた。
 “恐怖する市民の意志”としての杉並アピール原水禁書名運動は、一点の火花も燎原を焼きつくす勢いで全国に広がった。署名者は歴史上かつてない、3238万人、国民の3人に1人が呼応した。

 原水爆許すまじ、と日本平和運動が大高揚した同じ時期に、「原子力の平和利用」について、二つの保守党(民主党と自由党)と革新党(左派社会党と右派社会党)が超党派で結束し、ジュネーヴの国連原子力平和利用国際会議に4党4人が参加。帰路に仏英米加4ヵ国施設を見学し、帰国三ヵ月後に議員立法で原子力基本法など8本の原子力基本法体系を「電光石火の早業」で成立させた。

 「全国民協力」「戦争の圏外に置く」「平和利用に徹する」等6点が網羅的に盛りこまれた。立役者は若き中曽根康弘(37歳)であり「中曽根マジックの勝利」であった。後年に国家戦略家として名を歴史に刻んだ彼に、革新勢力は完璧に出しぬかれたのであった。

翌年の原子力委員会は、読売新聞社主の正力松太郎議員が委員長で、政・財・学(ノーベル賞の湯川秀樹)・労(労農派でマルクス主義の有沢廣巳)ら各トップクラスを結集した「豪華メンバーは、驚嘆を持って迎えられ」「原子力時代の到来」を告げた。

 いらい半世紀、その原子力平和利用なる原発は、地下水道で原爆、核としっかりとつながっていた。五大核武装国並みに「日本は原爆材料を所有する国」となり、政治のボタン一つで核武装は現実化する。

 政府は、あくまでもプルトニウム開発はエネルギー政策の一環であるとし、「核燃料サイクル」という、何かエネルギーの安定供給を連想させる名称を付けて国民をだましているが、真の目的は「核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルを保持するため」(1969年外務省文書)である。

 プルトニウムは原発使用済み燃料中に生成される。長崎型原爆の材料で、非常に強い放射能を持ち、半減期の十倍の24万年もの間、厳重管理が必要という(24万年前というとヒトはまだ旧人だった)。

 高速増殖炉「もんじゅ」

要するに、高速炉「もんじゅ」(高純度プルトニウム製造施設)のブランケット燃料を再処理して得られる兵器級プルトニウムを終着点とする、ひたすら環境を汚染し核のゴミを出し続ける一方通行の経路になるかと思う。全国55基の原発も六ヶ所村再処理工場も連動している。

 政府はなんとか「サイクル」の体裁を取りつくろおうと、六ヶ所村再処理工場から原発への経路(プルサーマル計画)を強行しようとしているが、プルトニウムを普通の原発で燃やすことは危険性が高く、しかもその使用済み燃料は再処理する価値がなく高レベル放射性廃棄物になるので、サイクルにはならない。

 もっとも当時、民族主義的な核武装論者とみられていた中曽根が、アメリカの核物質・核技術の移転解禁のニュースを聞いて、ただちにアメリカからの核物質・核技術の導入を決断したというのは、常識的にはややわかりにくいストーリーである。

なぜならアメリカ依存の核開発をとることによって、日本の自主的な核武装がかえって困難となる可能性もあったからである。真の核武装論者ならば、開発初期における多大な困難を承知のうえで自主開発をめざすほうが筋が通っている。

 中曽根が政界で頭角を現してくる切っ掛けは1950年6月のスイス旅行。CIAのダミー団体と見られているMRA(道徳再武装運動)の世界大会へ出席することが目的だった。政治家としては岸信介もこの団体と結びついている。その3年後、中曽根は「ハーバード国際セミナー」に参加している。このセミナーの責任者はヘンリー・キッシンジャーだった。

 原子力予算が通った翌年、1955年12月に原子力基本法など原子力3法が成立、翌年の4月には通産省工業技術院に原子力課が新設され、経団連は「原子力平和利用懇談会」を発足させた。日米原子力協定が結ばれたのは6月で、アメリカは原子炉と濃縮ウランを日本に提供することが決まった。

 中曽根は両院原子力合同委員会の委員長を務め、1956年1月に原子力委員会が設置されると、正力松太郎が初代委員長に就任している。言うまでもなく、正力はCIAの資金により設立した読売新聞の社主で、同じくCIAの資金で日本テレビを創設した人物。この時点から、マスコミは原子力推進の宣伝装置としての役割を果たすことになった。

 そして1957年5月、首相になって間もない岸信介は参議院で「たとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈」として持っていると答弁、1959年3月には参議院予算委員会で「防衛用小型核兵器」は合憲だと主張している。

 1964年の10月に、中国共産党は初の原子爆弾を起爆させて世界を驚愕させた。世界は驚きにとらわれたが、日本ほど強い感情が巻き起こった国は他になかった。

3ヶ月後、日本の佐藤栄作首相はリンドン・ジョンソン大統領との秘密会談のためにワシントンに行った。佐藤はジョンソン大統領に思いもよらない最後通牒を伝えた。もしアメリカ合衆国が核攻撃に対する日本の安全を保障しないなら、日本は核兵器システムを開発する。この最後通牒で、ジョンソン大統領は日本にかざしたアメリカの「核の傘」を拡大させることを余儀なくされた。

 皮肉にもこの保証は、後に佐藤が、核兵器を持たず、作らず、日本の領土に持ち込ませないという非核三原則を打ち立てることを可能にした。この政策により佐藤はノーベル賞平和賞を授与された。日本人と世界中の人々には、この三原則がけっして完全に実施されることはなかったとは知る由もなく、佐藤は秘密の核兵器計画を進めさせた。

 ただ、調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、リチャード・ニクソン政権で補佐官を務めたキッシンジャーは日本の核武装を中国との交渉で「切り札」として使ったとも言われている。つまり、当時のアメリカ政府は日本の核武装をある程度、容認していた。

佐藤政権の時代に政府内で核武装を検討するグループが形成され、西ドイツ政府に秘密協議を申し入れている。このグループは10年から15年の期間、つまり1970年代の後半から1980年代の前半に核武装を実現するというプランを立てていた。

 米側は日本が1960年代から核開発の秘密計画を保持しているのをCIAなどの諜報活動で確認していながら、米国内で頓挫したプルトニウム増殖炉の設備や技術の日本への移転を認めるとともに、国防総省の反対を抑え込んで、英仏からの再処理プルトニウム海上輸送を容認した。

レーガン政権による、このプルトニウム対日支援の直接のキッカケは、1984年の米ウエスチンブハウス社の中国売り渡しである。

これに抗議する日本側を宥めるために、レーガンの「原子力の右腕」と言われた、リチャード・ケネディが工作に動いた。

合意された日米協定は、日米の科学者が5年間にわたって研究協力を行ない、米国から輸出された核燃料(の再処理)について、30年間にわたり、日本のフリーハンドを認める内容。

日本が米英の再処理施設に委託して使用済み核燃料から抽出したプルトニウムを日本まで輸送することも同時に認められた。

 また日本が中曽根康弘科学技術庁長官(元)時代から、密かに進めてきた核開発に対し、米国は最先端の核技術を密かに供与する。

日本の権力者に核開発(核武装)の明確な意志があり、
そのためのプルトニウム生産のテクノロジー、及びハードウエアを、国民が知らないところで、ひそかに米側から受けとっていたことは、きわめて重大な問題である。

また、日本の宇宙開発が核の運搬手段開発の隠れ蓑であり、また1991年には、日本が旧ソ連のSS20ミサイルの設計図とハードウエアの入手に成功している。

日米プルトニウム協定でも、日本側の窓口を電力各社が担うなど、核開発ではなく、あくまで「民生利用」のカモフラージュが施されていた。

発電用としてはほとんど意味をなさない「もんじゅ」が、なぜプロジェクトとして息の根を止められることなく継続しているのか、そこには発電用原子炉とは異なる目的があるのではないかと疑うに足りる十分な根拠がある。

また、RETFなどという、およそエネルギー政策としては意味のない施設が、なぜ多額の国家予算をつぎ込んで建設されているのかについても、納得のできる説明はなされていない。

そして、日本の軍事力がプルトニウムの生産能力、核弾頭の搭載できるミサイル技術の点で、核武装の可能な段階に到達していることも否定できない。

 増殖炉は、プルトニウムで動く。プルトニウムは、増殖炉以外には核兵器しか使い道のない物質である。プルトニウムを作り出す技術は、核兵器計画そのものであった。

アメリカ合衆国では、このような事業は、政府だけが所有する一握りの核兵器施設に限られていた。核兵器技術の民営化に内在するリスクを認識していたハリー・トルーマン大統領は、アメリカの原爆計画を民間企業と軍から独立した形で構築した。

 日米協定は5年の協力期間を提唱していた。この期間に、日本とアメリカの科学者たちは増殖炉計画で共同研究し、その資金の大部分は日本の電力会社によって賄われる。エネルギー省側の総括責任者だったウィリアム・バーチが言ったように、この案は「ゲームを続けるため」のものだった。ゲームを続けるためには、アメリカ合衆国は日本のルールでプレーしなければならない。そして日本が求めた特定の技術は、ずばり核兵器計画のためのものだった。

 「平和のための原子力」の下でアメリカが核技術を日本に移転したのと同じように、アメリカは日本に宇宙開発の秘密も開示した。NASDAはN-I液体燃料ロケットをアメリカの援助で開発し、1977年に通信衛星「きく2号」を打ち上げるために使った。この成功によって日本はアメリカ合衆国とソビエト連邦に次いで人工衛星を静止軌道に投入した3番目の国となった。

 「きく2号」打ち上げ成功の後、NASDAはN-IIロケットとH-IIロケットを開発し、無線通信、放送、気象観測などの地球観測機能を持った様々な実用衛星を打ち上げた。大型で効率の高い国際クラスの打ち上げロケットとなったH-IIは1994年から打ち上げられてきた。H-IIの打ち上げ能力は、核弾頭を大陸間射程で打ち上げる能力に対応していた。「きく2号」の初期の成功にもかかわらず、日本の悩みの種は正確さの欠如だった。アメリカ人やロシア人とは異なり、日本のロケット科学者たちは人工衛星を正確な軌道に投入する能力を持っていなかった。

 1991年、科学者たちが西側諸国に脱出し、空気も漏らさぬかに見えたソビエト宇宙・ミサイル計画の機密保持に大穴があいた。日本はこの混乱を利用し、SS-20ロケットの設計図と、ソビエトで当時もっとも進んでいた中距離弾道ミサイルの重要な第3段目の部品を入手した。

3個の弾頭を搭載するSS-20ロケットは技術的な秘宝で、日本はここから多くのミサイル誘導技術を学んだ。ロシアのミサイルから学んだのは、一つのロケットに搭載された複数の弾頭を別々の位置に誘導する方法だった。多弾頭独立目標再突入ミサイルと呼ばれるこの技術は、現代の全ての弾道ミサイル兵器の鍵となっている。ひとつのミサイルから別々の目標に向けられた複数の弾頭を打ち出せば、これに対する防御はほとんど不可能となる。

 日本は「ルナーA」月探査機も開発した。この宇宙探査機は多くの点で大陸間弾道ミサイルに似ている。「ルナーA」は3つの探査機を月面上の別々の目標に打ち込むように設計された。この技術は弾道ミサイルに直接応用可能なものだ。多弾頭の再突入と標的技術の実験に加え、頑強な電子機器を作る日本の能力も試験できるはずだった。

探査機に搭載された機器は、月面に衝突し突き刺さる際の強大な圧力に耐えなければならない。これはB-2爆撃機のために開発されたB-61-11のような小型のバンカー・バスター核兵器のために、アメリカ合衆国が完成した技術と全く同じものである。「ルナーA」計画でこの技術が完成すれば、日本は世界と肩を並べる高性能の核兵器と運搬ロケットを開発することができる。この「ルナーA」計画は2007年1月15日、計画を中止されている。

しかし、念願だった月探査に関しては、2007年に打ち上げられたかぐやで達成されることになった。

 原爆の原料として考えられていたプルトニウムは日本原子力発電所の東海発電所で生産できると考えていた。この原子力発電所はGCR(黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉)で、高純度のプルトニウムを年間100キログラム余り作れると見積もっていたという。高速炉の「もんじゅ」や「常陽」も核兵器製造システムに組み込まれていると疑われてきた。常陽の燃料を供給していたのが臨界事故を起こしたJCOだ。東海再処理工場の付属施設として建設されることになったリサイクル機器試験施設(RETF)も注目されている。現在、日本が核武装計画を放棄していることを示す証拠はない。

 日本が原子力発電を放棄するということは、巨大な利権を手放すというだけでなく、核武装という一部支配層の「夢」が打ち砕かれるということでもある。核武装に否定的だった西ドイツ(現在はドイツ)が自然エネルギーへシフトし、核武装に憧れていた日本が原発に執着していることを偶然で片づけることはできない。

 アメリカ政府は1970年代までは日本の核開発を一貫して妨害してきたが、1980年代のレーガン政権以降方針を変更して常陽ともんじゅのブランケット燃料から軍用プルトニウムを抽出することのできる特殊再処理工場(RETF)の建設を認めた。それは、中国の核が強大となり、小型化、多弾頭化が進んだので、米中の核戦争となった場合にアメリカが核攻撃を受けるおそれがあり、日本を限定的に核武装させることで、そのおそれを避けることができるとされている。

もんじゅが正常に運転されれば、濃縮率98パーセントの軍用プルトニウムが毎年62キログラムも生産できるという。そして、もんじゅは発電を目的とするように偽装されているが、実はこのような軍用プルトニウムを製造することが目的であるとしているのである。

 政界の階段を駆け上るにつれ、中曽根は原発推進でも絶大な影響力を振るっていく。原子炉技術も原子力行政の制度も当初は米国からの借り物だったが、「自立した国家」を掲げるには原発を主体的に導入したとみせる必要があった。いつしか、日本社会は自力で原子力を制御できると過信した。私達がそれに気づくのは、初の原子力予算から57年後の3月11日である。 

http://www.dcbureau.org/201204097128/national-security-news-service/united-states-circumvented-laws-to-help-japan-accumulate-tons-of-plutonium.html

 邦訳↓

http://peacephilosophy.blogspot.com/2012/05/nsns-us-circumvented-laws-to-help-japan.html