年末年始に帰省していた息子一家が埼玉に帰り、隣町に住む娘一家も今日は遊びに来なかったので、わが家は再びボクら老夫婦2人の静かな暮らしになりました。「嵐の後の静けさ」って感じですかね。「寂しい気持ち」があるのは間違いないのですが、でもちょっと「ホッとしている気持ち」も否めず、複雑な「ジジ&ババ」心であります(笑)。
さて、年末から少しずつ読んでいた、稲田豊史氏の「このドキュメンタリーはフィクションです(光文社)」を読了しましたので、今日のブログ記事はその記録です。
ドキュメンタリー(documentary)っていうのは、「虚構を用いずに実際の記録に基づいて作ったもの…」という意味ですよね。ところがこの本の中で筆者が主張しているのは、「作り手の作為を見抜くと、ドキュメンタリーは悪魔的に面白い」ということです。さらに、ドキュメンタリーっていうのは、「客観性も中立性もなく」「作り手の企みに溢れ」「徹頭徹尾、作り手の意図と主観まみれ」というのが、この本を貫く筆者の主張なんですよ。
あなたの部屋にカメラが設置してある状態での〝普段の生活″と、カメラがない状態での〝普段の生活″は、絶対に同じではないはずだ。つまり取材される側(撮影される側)も、カメラの撮影スイッチが入った瞬間からそこには「演技」があるというのです。
『さよならテレビ』『FAKE』『ザ・コーヴ』『主戦場』『さようなら全てのエヴァンゲリオン』『映像の世紀』『水曜日のダウンタウン』……。本書は数々の身近なドキュメンタリー作品やその中のシーンを具体的にあげながら(ボクが知らない番組や映画もたくさんありましたが、本の中で解説されていたので違和感はありませんでした)、ドキュメンタリーの加工性に具体的に迫り、解説しています。
なんか「薄々感づいてはいたけどはっきりしなかったこと」を、改めてこういった形で実例や証言を交えて分析・説明されると、腑に落ちた感じがします。ドキュメンタリーっていうのは、作り手の意図や主観にまみれており、正義や結論を示すものではないってことがよくわかりました。
ボクら一般市民は、騙されちゃいけませんよね。何事も疑ってかかること、クリティカルシンキングが必要だと再認識しました。