春分の日です。太陽は、日の出がちょうどま東の方角になり、日の入りがま西の方角になります。
震災から一年を迎え、海外メディアでも特集記事が多く組まれているようですね。シンディ姉さんも再来日したし、レディガガさんもまた来るんだよね って海外メディアではなくてアーティストか。
あれから一年 英語メディアが写真で見せた当時と今 そして日本を覆う信頼の破綻(gooニュース・JAPANなニュース) - goo ニュース2012年3月16日(金)19:30
英語メディアが伝える「JAPAN」なニュースをご紹介するこのコラム、今回も「3/11」についてです。これまでも書いて来たように、日本の被害は世界にとって決して他人事ではなく、特に1年目を刻む今年の3月11日に向けては多くの報道機関が現地取材の記者を増員し、被災者の今、原発の今、復興の状況、日本政治の今など多岐にわたって報道していました。写真ギャラリーや色々なビジュアル技術を駆使しての報道。子供たちの表情へのこだわり。日本政府への批判と日本人への共感。色々な思いがそこにはありました。(gooニュース 加藤祐子)
○ 墓参りさえ危険と背中合わせ
3/11から1年へ向けて海外メディアは、私が目にしただけでも、アメリカのネットワークテレビやCNN、イギリスのBBCなどが連日、被災地の様子や日本の現状について特番を組んでいましたし、活字メディアからも大量の記事が連日出ていました。日本の外にいて普段は日本に関心のない人でも、ふつうに報道に触れていれば「ああもう一年か」と必ずや思ったに違いない、そういう量の報道でした。それを網羅するのはとても無理なので、たまたま私が目にしたものから、まず写真ギャラリーなどビジュアルをいくつかご紹介します。例えば米紙『ニューヨーク・タイムズ』は、被災後の1年を生きて来た人たちの表情や今の思いをこちらで。また、被災直後の惨状と一見すると大きな瓦礫は撤去されたように見える現状との比較も。英紙『ガーディアン』も写真ギャラリーのほか、日本の地理に詳しくないかもしれない読者のためにインタラクティブな地図と写真を組み合わせて分かり易く伝えようとしていましたし、英紙『フィナンシャル・タイムズ(FT)』も去年と今の光景を並べるギャラリーを展開しました。
文章で言うと、『フィナンシャル・タイムズ』には、原発事故に関する民間事故調査委員会を発足させた「財団法人日本再建イニシアティブ」の船橋洋一氏(元朝日新聞主筆)が寄稿。原発事故直後の自分が「なんて能天気で無知だったことか」、「日本が存亡の危機にさらされていると認識していなかったのだから」と書き、日本は「第一に、(原発の)『絶対安全』神話を克服し、リスクの概念そのもの対する原発産業のタブーを打ち砕いていかなくてはならない」と主張しています。
船橋氏は『ニューヨーク・タイムズ』にも「日本の幻想の終わり」という論考を寄稿し、こちらでは、想定される最悪の事態に直面しようとしない戦後日本の姿勢が結果的に「日本の安全を犠牲にしていたかもしれない」と指摘。「東日本大震災は、平和国家という戦後日本の自己像がいかに欠落していたかを浮き彫りにした。戦後日本は、安全保障国家としてのビジョンを欠いていた」と主張していました。
『フィナンシャル・タイムズ』に目を戻すと、昨年の3月11日以来それはもう何度となく被災地に入り取材を続けてきたミュア・ディッキー東京支局長が、福島第一原発の警戒区域に戻り、「福島 それは奇妙な帰郷(Fukushima: a strange kind of homecoming)」という記事にまとめていました(死んだ牛の写真も載っているので、見たくない方はご注意ください)。
ディッキー記者は、原発20キロ圏内にある双葉町に戻る、鵜沼義忠さんと友恵さんのご夫婦に同行。防護服を着なくてはならず、警察の検問を経なくてはならない帰郷に、友恵さんは「最近では、亡くなった人のお参りをするのも危険と背中合わせ」と話しています(原文にある“These days, it’s risky even to pay your respects to the dead”という文言を訳しました)。
ディッキー記者が鵜沼さん一家と知り合ったのは震災発生10日後、双葉町が町全体で避難していたさいたまスーパーアリーナでのことだったそうです。その翌日には菅直人首相が、首都圏避難も含む最悪のシナリオ策定を秘密裏に指示していたが、「あれから一年たって、その懸念は薄らいでいる」と記者は書きます。原発の状態は落ち着いたと。しかし自宅に帰れない鵜沼さんたちに限らず多くの日本人にとって、危機収束とは程遠いとも。
ディッキー記者はこうも書きます。原発事故によって「日本と原子力発電の相思相愛は破局したに違いないが、日本人の反発は実に意外なほど静かだった。福島第一原発の事故から数カ月のうちに、ドイツとイタリアはきっぱりと原発に背を向けたが、日本は今のところエネルギー政策の見直しを発表したに過ぎない。政界や主要メディアでは、資源に乏しい日本が完全に原発を捨てることはできないと確信する人が多い。一方で、反原発デモが数千人をなんとか集めたのはわずか数回だけだ」と。
確かにその通りですし、ドイツやイタリアは確かにそうでした。一方で『FT』は昨年4月に社説として原子力発電の復活と刷新を主張。イギリス政府も原発継続を方針としています。大事故が起きた日本とイギリスではまるで事情が違いますが、福島の事故を受けて原発を停止させた国の方が例外です。今年3月11日付のこの記事でも『FT』は「今でも原子力は低炭素の電力源として担うべき役割がある」し、世界全体では原子炉60基が新設中で163基が計画中だと(福島第一原発の事故前は62基が新設中で156基が計画中だった)。しかも、工事中60基のうち約3分の2が中国などアジアの新興国のものだと。
福島第一原発の事故に、意外なほど動じていないのは、一部の日本人だけではないようです。
記事に話を戻します。日本語を話すディッキー記者は被災地への掛け声が「がんばって」ではなく「がんばろう」に変化していることを説明。そして福島医大の山下俊一教授も「がんばろう福島」と書かれたバッジをネクタイにしていると紹介しています。
ディッキー記者は、教授の母親が長崎の原爆投下を生き延びた被爆者だということや、教授が20年来の研究の結果、福島第一原発からの放射性降下物による健康被害よりも避難生活やストレスによる健康被害の方が深刻だと確信していること、そしてその意見は多くの科学者の賛同を得ていることなどを書きながら、「低線量被曝は人間にとって大きなリスクではない」というその主張が「多くの人の憎しみの対象になっている」、「日本や海外のインターネットでは、山下氏をアウシュビッツの殺人医師ヨゼフ・メンゲレと比較したり、人の形をした悪魔だと呼んだりしている」とまで説明。
そしてこのことを質問された教授は、「I’m not a devil(私は悪魔じゃありません)。I’m not such a bad person, I’m working for the Fukushima people.(私はそんな悪い人間ではない。福島の人たちの為に働いています)」と答えたとのことです。山下教授は今、福島の住民200万人の健康状態を長年かけて経過観察していく「野心的な調査」に関わっているが、この調査を懐疑的に見る人も多く、自分たちをモルモットにするのかという反発も多いと記事は書きます。それは政府が、事故後の情報公開が不十分だったと批判され、そのために信用を失墜させているからだと。そしてその分、放射線被害に関する噂が飛び交っているのだと。
○ 信頼の破綻
政府は信用できない。権威があるとされる専門家も「御用学者」だからと決め込んで信用できない。何を信用していいか分からないから、根拠薄弱な噂や嘘を信じ込んでしまう。私もこういう状態をインターネットで見聞きしています。なので、ディッキー記者のこの記事は、震災1年後の日本にはびこる不信感、信頼の破綻をよく表していると思います。
英誌『エコノミスト』も「信頼の死滅(The death of trust)」という見出しで、日本では震災によって政府、政党、政治、省庁、マスコミ、電力業界、大企業、大学教授といった「national institutions」への信頼が失墜したと書いています。「national institution」とはいつも訳しにくいのですが、国の柱となる組織や業界や存在、という意味です。
日本で復興庁が発足したのは震災後11カ月もたってのこと。その間、家を失った人たちは「博報堂が『オペレーションじぶん』と呼ぶ、自分で何とかするという意識を新たに抱くようになった」と。よって被災地にはボランティアが集まり瓦礫を片付けてきたし、原発避難者の健康チェックも行政よりは市民団体が率先してきて行ってきたと。そして「中央政府への幻滅は東北地方だけでなく日本中に広まったし、幻滅はそもそも去年より前から始まっていたことだ」とも。政府や政治への幻滅が高まったがゆえに、2009年には自民党の長期政権が終わったし、国民と民主党政権との短い恋愛もあっけなく終わったと。そして2011年3月11日を機に、上述したような「national institutions」への信頼が失墜したのだと。
「疑いの文化(the culture of suspicion)は、深刻な結果をもたらすかもしれない」と記事は続けます。たとえば日本の巨額公的債務は国民が国債を買うからこそ支えられているのが、国民が政府を信用しなくなったらどうなるのか、とか。あるいは信頼破綻ゆえに原発が停止したままだと、製造業の国外脱出は加速化するかもしれない、とか。「政治家たちは、自分たちが失った信頼回復にもっと真剣に取り組まなければならない。それには、日本の経済界をお手本にしたらどうだ」と記事は呼びかけ、震災後の大企業が自助努力の精神で省エネと燃料確保に取り組み、サプライチェーンを回復させ、流通会社は独自に食品の放射線レベルをチェックし、トヨタ自動車のように東北に工場を新設しその近くに太陽光発電施設も建てると発表するなど、それぞれの形で東北を支援していると。
「自助の拡大は新たな活力をもたらすかもしれない」とも記事は書きます。「今の日本に必要なのは、第二次世界大戦後に台頭した起業家精神なのだから」と。そして「どれだけ静かでも、国民には権威に挑戦する意欲があると分かれば、日本企業を動かす年寄りたちも、若い世代に交代せざるを得なくなるかもしれない」と。「人々が声を出すようになれば、復活の望みはまだあるかもしれない」と記事は結んでいます。
(ちなみに個人的意見です。政府や企業やマスコミや権威をうのみにしない「疑いの文化」は、それがまんべんなく徹底した懐疑の精神につながるならいいですが、政府や日本のマスコミは疑うが海外のマスコミは無条件に信じるとか、あるいは出典も根拠も不明な噂やデマをまき散らす類いの連中を妄信するのでは困ります。とりわけ、パッと見には痛快で明確な断定調でワーワー騒ぎたてる人は、ことさらに疑ってかからないと。ファシズムやオウム真理教の例を出すまでもなく)
そしてもう一つイギリスのメディアから。保守党系の『テレグラフ』紙が日本を社説に取り上げて日本人を褒めていました。実に珍しいことです。「Japan deserves better」という見出しはこれも訳しにくいですが、「日本はもっとまともな扱いを受けてしかるべきだ」というのが直訳。「日本がかわいそうだ」という文意もあります。「日本の人たちは見上げるべき自制心(ストイシズム)でこの二重の大惨事に立ち向かった(中略)しかし上に立つ立場の人間たちは違った」と。東電の経営は「お粗末」で、「国民は何が起きているか十分に知らされず」、政府省庁の連絡不足とお役所的な遅れのせいで復興計画の策定が遅れたと。「現代日本の生活の芯にある悲劇的な真実が、津波で浮き彫りにされた。真実とはつまり、勇敢で才能豊かで勤勉な人たちに対して、指導者たちは実にお粗末だということだ」と。そしてさらに、「これほどの無能ぶりは、かねてから機能不全に陥っているシステムをすっかり追い出すための、政治革命を呼び寄せている」とまで。
この結びの一部は、外国の新聞の社説が敵対関係にあるわけでもない国の政治に向かってまたずいぶんと思い切ったことを……とは思います。日本の主要紙がイギリスについて、「あの国の政治に国民はひどい目に遭わされているから、そろそろ革命でもしたらどうか」と書いたりするだろうか。こういう言い方はたとえばミャンマーとかシリアとか、圧政を敷いている政府についてならすんなり読めるのですが、自分の国についてなので「テレグラフとは言え、うーむ」と色々考えてしまいました。
最後にひとつ。前回のコラムで、BBCが3月1日に放送するとご紹介したドキュメンタリー「Children of the Tsunami(津波の子供たち)」。いま現在、日本から全編をインターネットではなかなか観られないのが残念です。大きな犠牲を出した石巻市立大川小学校。その子供たち。大好きだったお友だちにちゃんとさようならを言えないまま二度と会えなくなってしまったという女の子。自分は助けてもらったから、自分も人を助ける人になりたいという男の子。原発避難を強いられて、なかなか外で遊べない女の子。放射能の専門家になって人を助けたいという女の子。そういう子供たちに真正面からカメラを向けて、あくまでも子供たちの目線で語らせる、実に優れた作品でした。日本でなかなか観られないのが残念ですが、もし機会があったらぜひにとお勧めします。
そして津波の子供たちといえば、最後にもうひとつ。迫力ある写真レイアウトで震災の悲惨さを当初から伝えてきた英紙『デイリー・メール』がこちらで、またしても効果的な写真のレイアウトをしていました。津波に遭った宮城県石巻市の自宅で両親とともに自衛隊に救助された生後4カ月の赤ちゃんの、当時の姿と今の姿です。赤ちゃんだった石川彩花 (いろは)ちゃんは今月10日、1年前に救助してくれた千葉浩司2等陸曹と再会。すっかり大きくなった彩花ちゃんの姿がどんな言葉より雄弁に、「1年」という歳月を実感させてくれます。