ゆーずのまったりブログ

日々のなにげない記録・・・かな?

死に時

2015年09月30日 | 日記
精神というのは大変なものだ。

今まで何の気なしに、何でもなく暮らしていたのに、こないだの血圧測定から、なんだか心臓の鼓動が大きく聞こえ、頭痛が続いている。

あるいはいつ訪れてもおかしくない死というものがストレスになり、血圧を押し上げているのかもしれない。

このまま血圧を気にして減塩やらなんやら面倒くさい事をずっと続けていかなくちゃいけないなら、いっそのこと死が早く訪れてくれればいいのにとさえ思える。



人は必ず死ぬ。

少なくとも現代の医学ではそうなっている。

今死ぬか、あと何十年後に死ぬかの差はあっても必ず等しく死はやってくる。

100歳まで生きたから、もう満足とも限らない。

46歳で死ぬから不幸だとも限らない。

少なくとも今のおいらは1人で暮らし、毎日の暮らしでは人様にご迷惑をかけないで生きていけてはいる。

年をとって働けなくなり、年金をもらい社会にぶら下がり、友の死を看取り、動けなくなって子供たちにも負担をかけながら長生きすることになんの意味があるんだろう。

仕事は自分が居なくなっても問題はないだろう。


生命保険も入っているので、この先の子供たちの生活には問題はないだろう。
いや、たぶん、今月々振り込んでいる養育費での生活より良い暮らしになるのではないか。


悲しみなど数週間だ。
もっても3年。
もとよりいつかはやってくるはずの悲しみが前倒しされるだけ。
ヨボヨボで物忘れの激しい父親像より、まだ若くて亡くなった父親像が心に残る方がいい。
一緒に暮らしていない分、慣れるのも早いだろう。

今なら最小の迷惑で逝けるような気がするのだが。


やりたい事ももうそんなに無い。

おいらがこの先、例えば、世界人類を救うような出来事があるとも思えない。

今の自分に存在意義がないのだ。



病んでるわけでも、
自暴自棄になってるわけではない。
人生を悲観しているわけでもない。

今の日々に大きな不満もない。
充実した毎日といってもいい。

もちろん自殺などしないし、
今のご老人達の暮らしぶりを批判するつもりもない。



ただ冷静に、

死に時ってのがあるのなら、

今が最適なのになと思う。
コメント
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