ご報告です。
2016年8月27日の夜明け前、母が亡くなりました。
73歳でした。
膵臓癌でした。
2016年1月18日に膵臓癌と診断がついた時には肝臓にも転移しており、手術することもできない、抗がん剤もあまり期待できないという状態でした。
それでも、2種類の抗がん剤にトライしました。
やはり特段の効果はみられず、その後は痛みを抑えるだけの投薬治療になりました。
7月頃からはお腹に水が溜まり、脚がパンパンに腫れ上がり、歩くのが大変そうで、痛々しかったです。
日を追うにつれて、ネットに書かれているような症状があらわれ、確実に進行しているんだと実感する毎日でした。
7月21日の朝、急に震えがとまらない状態になり、救急車で運ばれ、そのまま入院することに。
数日後、これ以上一般病棟でできることはないということなのか、緩和ケア病棟に移りました。
それ以降、父は病院に泊まり、私は火曜日の夜から水曜日の夕方迄病院という生活が始まりました。
腹水もそのまま、日に日に食欲がなくなり、痛み止めも薬から点滴に変わりました。
寝返りもうてなくなり、看護師さんにお願いする状態。
とにかく食欲がなく、食べてもヨーグルトやゼリーだけということが多くなっていきました。
8月26日、朝礼中、病院にいる筈の父が会社に来ました。
状態悪いから、帰らしてもらえ!
と…
26日の明け方から痙攣状態が続いていたらしく、病院へ直行しました。
駆けつけると、今まで見たことがないような勢いで痙攣している母の姿がありました。
お母さん!お母さん!と声をかけ、手を握っても一点を見つめたまま、反応がなく、このまま亡くなってしまうのかと思いました。
先に来ていた叔父が「見た目ほど、辛い状態ではないらしいで」と言ってくれたので、少し落ち着くことができました。
しばらくして、ドクターが来て、
痙攣を止める注射をまずは半分の量、射ちます。
それでも止まらなかったら、1本射ちます。
それでも、痙攣がおさまらなかったら、鎮静剤を射つことになります。
鎮静剤を射つと眠ったままの状態で最期を迎えるということもありますが、それでもよろしいでしょうか。
と引導を渡されました。
父はそれを了承しました。
半量、時間をおいて1本…
痙攣を止める注射は効かず、鎮静剤を射つことに。
母は先程とうって変わって落ち着きました。
看護師さんから「今夜は娘さんも病院に泊まってくださいね」と言われました。
夕方、晩ごはんを食べていると、父が「今、落ち着いてるけど、あと10日もつかわからんから覚悟しとけよ」と言いました。
「うん」と返事はしたものの、飲まず食わずの状態やのに、そんなにもつとは思われへんかった。
まずは私が24時まで病室で寝て、父と交代して、家族宿泊室で寝ました。
ドアを叩く音がして飛び起きると、看護師さんでした。
呼吸してないですと…
病室に行くと、寝ているようにしか見えない母がいました。
私は泣き崩れることもなく、粛々と家に帰る支度を始めていました。
母がやっとこさ痛みから解放されたんだ、やっとこさ楽になれたんだ、やっとこさ家に帰ることができるね、という思いの方が大きかったのかも知れません。
結構な時間が経ってから、初めて見るドクターがやってきて、死亡していることを確認して、死亡時刻を告げました。
8月27日早朝、家に帰って来て、その日一日家で過ごしました。
8月28日、お通夜。
遠路はるばる、まーくんが来てくれました。
8月29日、恙無く告別式を終えました。
私の前では泣き言をいうでもなく、ただ現実を受け入れて、最後まで強い母でした。
でも、一度だけ「不安やから一緒の部屋で寝て~~、あんたが頼りや~」と言われたことがあり、弱気な母の言葉を思い出すと今でも泣けてきます。
とっ散らかった文になってる感がありますが、何卒ご容赦を。
今まで、たびたびブログで母のことを書いてきたので、亡くなったことを書かないのもなと思い、書かせてもらいました。
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2016年8月27日の夜明け前、母が亡くなりました。
73歳でした。
膵臓癌でした。
2016年1月18日に膵臓癌と診断がついた時には肝臓にも転移しており、手術することもできない、抗がん剤もあまり期待できないという状態でした。
それでも、2種類の抗がん剤にトライしました。
やはり特段の効果はみられず、その後は痛みを抑えるだけの投薬治療になりました。
7月頃からはお腹に水が溜まり、脚がパンパンに腫れ上がり、歩くのが大変そうで、痛々しかったです。
日を追うにつれて、ネットに書かれているような症状があらわれ、確実に進行しているんだと実感する毎日でした。
7月21日の朝、急に震えがとまらない状態になり、救急車で運ばれ、そのまま入院することに。
数日後、これ以上一般病棟でできることはないということなのか、緩和ケア病棟に移りました。
それ以降、父は病院に泊まり、私は火曜日の夜から水曜日の夕方迄病院という生活が始まりました。
腹水もそのまま、日に日に食欲がなくなり、痛み止めも薬から点滴に変わりました。
寝返りもうてなくなり、看護師さんにお願いする状態。
とにかく食欲がなく、食べてもヨーグルトやゼリーだけということが多くなっていきました。
8月26日、朝礼中、病院にいる筈の父が会社に来ました。
状態悪いから、帰らしてもらえ!
と…
26日の明け方から痙攣状態が続いていたらしく、病院へ直行しました。
駆けつけると、今まで見たことがないような勢いで痙攣している母の姿がありました。
お母さん!お母さん!と声をかけ、手を握っても一点を見つめたまま、反応がなく、このまま亡くなってしまうのかと思いました。
先に来ていた叔父が「見た目ほど、辛い状態ではないらしいで」と言ってくれたので、少し落ち着くことができました。
しばらくして、ドクターが来て、
痙攣を止める注射をまずは半分の量、射ちます。
それでも止まらなかったら、1本射ちます。
それでも、痙攣がおさまらなかったら、鎮静剤を射つことになります。
鎮静剤を射つと眠ったままの状態で最期を迎えるということもありますが、それでもよろしいでしょうか。
と引導を渡されました。
父はそれを了承しました。
半量、時間をおいて1本…
痙攣を止める注射は効かず、鎮静剤を射つことに。
母は先程とうって変わって落ち着きました。
看護師さんから「今夜は娘さんも病院に泊まってくださいね」と言われました。
夕方、晩ごはんを食べていると、父が「今、落ち着いてるけど、あと10日もつかわからんから覚悟しとけよ」と言いました。
「うん」と返事はしたものの、飲まず食わずの状態やのに、そんなにもつとは思われへんかった。
まずは私が24時まで病室で寝て、父と交代して、家族宿泊室で寝ました。
ドアを叩く音がして飛び起きると、看護師さんでした。
呼吸してないですと…
病室に行くと、寝ているようにしか見えない母がいました。
私は泣き崩れることもなく、粛々と家に帰る支度を始めていました。
母がやっとこさ痛みから解放されたんだ、やっとこさ楽になれたんだ、やっとこさ家に帰ることができるね、という思いの方が大きかったのかも知れません。
結構な時間が経ってから、初めて見るドクターがやってきて、死亡していることを確認して、死亡時刻を告げました。
8月27日早朝、家に帰って来て、その日一日家で過ごしました。
8月28日、お通夜。
遠路はるばる、まーくんが来てくれました。
8月29日、恙無く告別式を終えました。
私の前では泣き言をいうでもなく、ただ現実を受け入れて、最後まで強い母でした。
でも、一度だけ「不安やから一緒の部屋で寝て~~、あんたが頼りや~」と言われたことがあり、弱気な母の言葉を思い出すと今でも泣けてきます。
とっ散らかった文になってる感がありますが、何卒ご容赦を。
今まで、たびたびブログで母のことを書いてきたので、亡くなったことを書かないのもなと思い、書かせてもらいました。
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