これは由紀子が一年生になったのをきっかけに
お世話になった方たちに郵送していた新聞です。
それを日記風にアップしました。
もともとの新聞としてPDFで見ることもできます。
2001年3月31日発行
ゆきちゃん通信No11
ずいぶん久しぶりの「由紀ちゃん通信」になりました。
実は、長年付き合ってきた
子宮筋腫とお別れする手術を受けておりました。
最初は五島で手術を受けるつもりで
何ヶ月も前から心の準備をしていたのに、
土壇場で長崎まで行って
手術を受けなければならなくなってしまいました。
『 うそ~!由紀子を残して・・・?!
私がいなければ生きていけない由紀子を残して・・・?!
ああ!どうすればいいのだろう・・・・・・??? 』
ハッハッハ!
今は笑える私ですが、
以前から母子分離ができていないと
先生方から指摘されていた私です。
そのときのパニックをご想像ください。
でも、そんな私の不安に関係なく時間は過ぎ、
3 週間の入院生活を終えて
3 月9 日母は無事に戻ってまいりました。
さて、私がいなくなった後の由紀子の奮闘ぶり、
そして大きな成長を今回はお伝えします。
ねーねー母さんは きびしいのだ!

私が入院している間の由紀子のお母さん役と主婦業は
熊本の大学に行っている長女(ねーねー)が引き受けてくれました。
春の試験休みを丸々つぶして帰省してくれました。
感謝!感謝!
ねーねーは、以前から気になっていた
由紀子と私の関係と由紀子のわがままを
絶対に直して見せると決意して帰省したらしく、
由紀子の生活を全て見直してくれました。
まずは、食事の好き嫌いをなくすことから・・・・。
ついつい由紀子の好きなものばかり作ってしまう私とは違って、
ねーねーは他の家族と全て同じ物しかたべさせない。
泣いて何も食べない日もあったとか・・・・。
おかげで今では、何を出されても大丈夫になりました。
(由紀子の偏食の原因は私?)
自分の事は自分で・・・・。
「ハサミを取って」等の由紀子の声に
ついつい反応してしまう私は
無意識のうちに「ハイハイ」と体が動いてしまっていたのですが、
ねーねーは、「自分でやりなさい!」
でも、引き出しに猫の絵を張って
『猫さんにあるよ』という気配りも忘れていません。
それ以来、当たり前のように自分でやってる由紀子です。
(由紀子が動かないのも私のせい?)
他にもたくさんありますが、
これ以上書くと私のだらしなさが露見するばかりですので・・・
省略。
私が家から消えた日、
由紀子は動揺して夜泣きをしたようです。
うろたえたお父さんが
由紀子とねーねーの寝室に行くと、
ねーねーは『大丈夫だから出て行って!』といい、
それでも離れない父を
『私を信じて!』と一喝したそうです。
しかたなく部屋に戻ったお父さんですが、
しばらくすると
「ねーねー!ごめんなさい!」
という由紀子の声が聞こえ、
その後は静かになったといいます。
お父さんはこの一夜で、
由紀子を長女に任せようと決めたと後で話してくれました。
由紀子を<我が子>と言い放つねーねーは
本当の意味で由紀子を愛してくれています。
きびしさも愛!
解っていてもなかなか実行できない弱い母は、
同じく自分が育てた子供に教えられたのでした。
思えば、長女にはとてもきびしい母でした。
今はねーねーがしつけてくれた事を無駄にしないよう
甘い母からの脱却を心がけております。
我が家のお店屋さん

2年生になってからお金の勉強をしている由紀子ですが、
これがとても難しくてなかなかうまくいきません。
どうにか生活の中で継続して学習させたいと思っていました。
これは退院してからの課題のつもりだったのですが、
病院から戻ってみると我が家に小さなお店やさんが開店していました。
一つのカゴの中に由紀子の好きな
ゼリーやみかんやりんごが入っていて、
一つ一つにマジックで値段が書いてあります。
毎日おやつの時間になると
由紀子は財布からお金をはらってそのお菓子を買うのだそうです。
店主はまーまーです。
管理がきびしいのです。
みかんは98円。(高~い!)
値段を読む事から始まって、
財布の中からお金を出して正解するまで何度もやり直しです。
どうして思いつかなかったのだろう・・・・
お店屋さんごっこの延長に学習があったなんて。
娘達の豊かな発想にまた一つ頭が下がりました。
由紀子のお金の学習はまだまだつづきます。
一番うれしかったこと
私は入院するとき一つだけ楽しみにしていた事がありました。
退院して帰ってきたときに
由紀子がどんな反応を示すだろうという事です。
(不安でもありました。)
今まで何回もお伝えしたように
由紀子は大切な人とお別れした後、
再会する事に大きな抵抗があります。
でも、最近ねーねーや、ひでき先生のおかげで
別れてもまた逢えるのだということがわかり始めている由紀子です。
さて私で、総仕上げです。
夕方、由紀子へのお土産を持ってお父さんと帰宅。・・・・ドキドキ
「由紀ちゃんただいまぁ」
「・・・・・おかあさんだ!」
ソファに座った由紀子は笑顔でした。
そして、逃げる事もなく意外とすんなり由紀子に触ることができました。
それでも、視線は宙を泳いでいます。
私を見ようと顔はこちらを向くのですが、
視線だけはどうしても合わせることができませんでした。
でも、いいのです。
これでいいのです。
家族みんなで頑張った3週間がこのとき終わりました。
編集後記
今回のゆきちゃん通信には由紀子の描写があまりありません。
離れて暮らした3週間の間に見せたであろう
由紀子のいろいろな表情を私は見ることができませんでした。
それは寂しい事でした。
でも、3週間離れてみて、
気持ちの上で程よく距離がもてるようになった気がしています。
今まで由紀子を受け入れる事にばかり必死になっていた私でした。
母子分離をしなければと焦っても何も変える事ができなかった
この一年でした。
今やっとわかった気がします。
私がいなくても由紀子は生きてゆけるのです。(笑)
最後になりましたが、
学校の先生方やクラスのみんなが
しっかり由紀子の3週間を支えてくれた事にも
心から感謝しています。
みなさん本当にありがとう!
=END=
お世話になった方たちに郵送していた新聞です。
それを日記風にアップしました。
もともとの新聞としてPDFで見ることもできます。
2001年3月31日発行
ゆきちゃん通信No11
ずいぶん久しぶりの「由紀ちゃん通信」になりました。
実は、長年付き合ってきた
子宮筋腫とお別れする手術を受けておりました。
最初は五島で手術を受けるつもりで
何ヶ月も前から心の準備をしていたのに、
土壇場で長崎まで行って
手術を受けなければならなくなってしまいました。
『 うそ~!由紀子を残して・・・?!
私がいなければ生きていけない由紀子を残して・・・?!
ああ!どうすればいいのだろう・・・・・・??? 』
ハッハッハ!
今は笑える私ですが、
以前から母子分離ができていないと
先生方から指摘されていた私です。
そのときのパニックをご想像ください。
でも、そんな私の不安に関係なく時間は過ぎ、
3 週間の入院生活を終えて
3 月9 日母は無事に戻ってまいりました。
さて、私がいなくなった後の由紀子の奮闘ぶり、
そして大きな成長を今回はお伝えします。
ねーねー母さんは きびしいのだ!

私が入院している間の由紀子のお母さん役と主婦業は
熊本の大学に行っている長女(ねーねー)が引き受けてくれました。
春の試験休みを丸々つぶして帰省してくれました。
感謝!感謝!
ねーねーは、以前から気になっていた
由紀子と私の関係と由紀子のわがままを
絶対に直して見せると決意して帰省したらしく、
由紀子の生活を全て見直してくれました。
まずは、食事の好き嫌いをなくすことから・・・・。
ついつい由紀子の好きなものばかり作ってしまう私とは違って、
ねーねーは他の家族と全て同じ物しかたべさせない。
泣いて何も食べない日もあったとか・・・・。
おかげで今では、何を出されても大丈夫になりました。
(由紀子の偏食の原因は私?)
自分の事は自分で・・・・。
「ハサミを取って」等の由紀子の声に
ついつい反応してしまう私は
無意識のうちに「ハイハイ」と体が動いてしまっていたのですが、
ねーねーは、「自分でやりなさい!」
でも、引き出しに猫の絵を張って
『猫さんにあるよ』という気配りも忘れていません。
それ以来、当たり前のように自分でやってる由紀子です。
(由紀子が動かないのも私のせい?)
他にもたくさんありますが、
これ以上書くと私のだらしなさが露見するばかりですので・・・
省略。
私が家から消えた日、
由紀子は動揺して夜泣きをしたようです。
うろたえたお父さんが
由紀子とねーねーの寝室に行くと、
ねーねーは『大丈夫だから出て行って!』といい、
それでも離れない父を
『私を信じて!』と一喝したそうです。
しかたなく部屋に戻ったお父さんですが、
しばらくすると
「ねーねー!ごめんなさい!」
という由紀子の声が聞こえ、
その後は静かになったといいます。
お父さんはこの一夜で、
由紀子を長女に任せようと決めたと後で話してくれました。
由紀子を<我が子>と言い放つねーねーは
本当の意味で由紀子を愛してくれています。
きびしさも愛!
解っていてもなかなか実行できない弱い母は、
同じく自分が育てた子供に教えられたのでした。
思えば、長女にはとてもきびしい母でした。
今はねーねーがしつけてくれた事を無駄にしないよう
甘い母からの脱却を心がけております。
我が家のお店屋さん

2年生になってからお金の勉強をしている由紀子ですが、
これがとても難しくてなかなかうまくいきません。
どうにか生活の中で継続して学習させたいと思っていました。
これは退院してからの課題のつもりだったのですが、
病院から戻ってみると我が家に小さなお店やさんが開店していました。
一つのカゴの中に由紀子の好きな
ゼリーやみかんやりんごが入っていて、
一つ一つにマジックで値段が書いてあります。
毎日おやつの時間になると
由紀子は財布からお金をはらってそのお菓子を買うのだそうです。
店主はまーまーです。
管理がきびしいのです。
みかんは98円。(高~い!)
値段を読む事から始まって、
財布の中からお金を出して正解するまで何度もやり直しです。
どうして思いつかなかったのだろう・・・・
お店屋さんごっこの延長に学習があったなんて。
娘達の豊かな発想にまた一つ頭が下がりました。
由紀子のお金の学習はまだまだつづきます。
一番うれしかったこと
私は入院するとき一つだけ楽しみにしていた事がありました。
退院して帰ってきたときに
由紀子がどんな反応を示すだろうという事です。
(不安でもありました。)
今まで何回もお伝えしたように
由紀子は大切な人とお別れした後、
再会する事に大きな抵抗があります。
でも、最近ねーねーや、ひでき先生のおかげで
別れてもまた逢えるのだということがわかり始めている由紀子です。
さて私で、総仕上げです。
夕方、由紀子へのお土産を持ってお父さんと帰宅。・・・・ドキドキ
「由紀ちゃんただいまぁ」
「・・・・・おかあさんだ!」
ソファに座った由紀子は笑顔でした。
そして、逃げる事もなく意外とすんなり由紀子に触ることができました。
それでも、視線は宙を泳いでいます。
私を見ようと顔はこちらを向くのですが、
視線だけはどうしても合わせることができませんでした。
でも、いいのです。
これでいいのです。
家族みんなで頑張った3週間がこのとき終わりました。
編集後記
今回のゆきちゃん通信には由紀子の描写があまりありません。
離れて暮らした3週間の間に見せたであろう
由紀子のいろいろな表情を私は見ることができませんでした。
それは寂しい事でした。
でも、3週間離れてみて、
気持ちの上で程よく距離がもてるようになった気がしています。
今まで由紀子を受け入れる事にばかり必死になっていた私でした。
母子分離をしなければと焦っても何も変える事ができなかった
この一年でした。
今やっとわかった気がします。
私がいなくても由紀子は生きてゆけるのです。(笑)
最後になりましたが、
学校の先生方やクラスのみんなが
しっかり由紀子の3週間を支えてくれた事にも
心から感謝しています。
みなさん本当にありがとう!
=END=