下永井付近 明治末期の護岸工事風景 大正以前の写真は無いだろうと思っていたがこの写真は明治末期のものだという。屏風ヶ浦とは距離を離れるが参考の写真となる。古い写真があったと持ち込まれたものだがその複製の画像は極めて鮮明であった。撮影者が下総・飯岡・荘という以外に撮影年月日などは不明である。人物や背景の下永井の集落(波止崎付近)からは明治という時代であるという確証はつかめないといってよい。
昭和61年版の「飯岡海岸誌」で調べてみた。明治39年、波止崎付近に初めてコンクリート製の護岸が設置されたという。構造から直立護岸の内側に玉石を敷き詰めたものだがその後、破損したと記されている。当時の記録はこれ以外にないと考えればこの時期の写真となる。しかし、同様な工法で大正初期、昭和初期にも設置されている。
これ以上は専門の人の知識を頼ることになる。
景観として屏風ヶ浦を写真に記録したものは今のところ、昭和30年代までである。これ以前は町の写真店さんが頼りになる。浸食対策や災害復旧の記録は勢い写真屋さんが持ち込まれたものという。こうした記録の狭間で景観の記録があっただろうと期待したい.
昭和61年版の「飯岡海岸誌」で調べてみた。明治39年、波止崎付近に初めてコンクリート製の護岸が設置されたという。構造から直立護岸の内側に玉石を敷き詰めたものだがその後、破損したと記されている。当時の記録はこれ以外にないと考えればこの時期の写真となる。しかし、同様な工法で大正初期、昭和初期にも設置されている。
これ以上は専門の人の知識を頼ることになる。
景観として屏風ヶ浦を写真に記録したものは今のところ、昭和30年代までである。これ以前は町の写真店さんが頼りになる。浸食対策や災害復旧の記録は勢い写真屋さんが持ち込まれたものという。こうした記録の狭間で景観の記録があっただろうと期待したい.
現在のところ、この写真がいちばん古い。1枚の写真を巡ってあれこれ論議をしながら過去を引きづりだす作業も必要に思える。
昭和20年代以前の記憶を辿ることができる人は80歳以上になるからこれ以前は資料をたてに想像力を駆使する以外にない。9月から写真の展示を予定しているがこの記録写真から過去を呼び戻すことが出来ればと期待している。