通連洞の侵食崩壊 通連洞はかって屏風ヶ浦を代表する景観・名所であった。ここは侵食によってトンネル状の海食洞が独自な景観を示し、地図上などでも名所として表示されたいた。しかし、昭和30年代前半には侵食が進み以降その形態は消滅して現在に至っている。
屏風ヶ浦の写真収集の大半を占めるのがこの通連洞に関連するものになっている。当時カメラを手元に於けた僅かな人々が独自な景観として記録を写真に求めたといってよい。
日本財団が発行した「日本の海岸はいま」の屏風ヶ浦51ページに飯岡町提供の写真が掲載されていた。現在のとこるこの写真が一番古い(大正時代)ということになる。
屏風ヶ浦の写真収集の大半を占めるのがこの通連洞に関連するものになっている。当時カメラを手元に於けた僅かな人々が独自な景観として記録を写真に求めたといってよい。
日本財団が発行した「日本の海岸はいま」の屏風ヶ浦51ページに飯岡町提供の写真が掲載されていた。現在のとこるこの写真が一番古い(大正時代)ということになる。
屏風ヶ浦考ー1右下の写真と比較してみる。大正年代と昭和30年代という約40年の時間差がある。大正年代では陸と地続きであったが昭和30年代では離れ孤島のように侵食・崩壊が急激に進行している。
今回、調べている内に昭和61年度に千葉県土木部河川課が調査委託した「飯岡海岸誌」に出逢った。ここでは明治17年、36年、昭和5年、昭和42年の地形図が一覧表になっていた。昭和5年まで通連洞付近は突き出ていたが昭和42年には無くなっている。
同誌には海岸線の変化を調べるために航空写真の一覧が記載されている。ここでも知れれているように昭和21年の米軍写真が一番古い。
ここから先を辿るには難しいようだ。
屏風ヶ浦の潜在的な資源を発掘することはイコール浸食の歴史の評価に重なることが判ってきたことだ。昭和20年代後半から飯岡海岸の度重なる浸食に千葉県を中心に対策が始まった。
現在は退職されているが当時、飯岡町の職員であった石橋さんが60年代後半まで浸食対策の中心を担ってきた。報告方々、自宅を訪ね当時の事情について話を聞いた。61年度の出された飯岡海岸誌などの写真や資料などに全面的に関与されていることが伺えた。掲載されている写真以外のものも多くあったようだ。しかし、資料として保存するシステムを行政が全く無かったため散逸しているのが実情である。
ガリ版刷りの当時の浸食対策資料を石橋さんが保存されていた。何れも飯岡海岸の浸食対策の歴史的資料である。