憲法は国民が国家の権力を縛るものという
立憲主義の原則自体を否定するような、改憲論調が目立ちます。
改憲派の論客として知られる小林節教授に、
最近のこの論調についてお聞きしました。
<編集部>
小林さんは、昔も今も改憲派の論客の第一人者という立場で、1992年には「憲法改正私案」を公表されています。ですが、現在は「護憲的改憲派」と自称されていますね。
<小林>
僕は、日本国憲法はいいものだと思っています。しかし憲法だって国民が幸福に暮らすための道具ですから、古くなれば修正も必要になるだろうし、もっと良い方向に発展させていくべきだと思っています。
しかし、どうも改憲と言った瞬間から右翼扱いをされてしまうのですが、僕のは、岸信介(第56、57代総理大臣)が唱えたような、戦前回帰的な改憲論とは違います。
<編集部>
以前お書きになっているコラムに、「護憲派の市民たちは、集会で、『憲法を護(守)ろう!』と叫んでいるが、私はむしろ、『憲法を権力者に守らせよう!』と叫ぶべきではないかと思う」とあったのが、印象に残っています。その発言の根本にあるのが立憲主義ですよね。
しかし、いま自民党中心の改憲論議のなかでは、憲法は国民が国家の権力を縛るものだという立憲主義という前提自体が、自明なものではないかのごとく扱われています。
<小林>
私は最初、これは悪意かな? と思ったんですね。知っていてわざと嘘をついているのかな? と。しかし彼らは基本的に無知なんです。
民法は、私人間の取引の法、商法は、その中の商売人の取引の法、刑法は犯罪の法、訴訟法(民・刑)は裁判の法、そして最上位法である憲法は、国民が政治権力を管理する法だという、法の基本的な役割分担を国会議員が知らない。
だから、愛国心とか教育とか倫理・道徳の問題に、憲法を直に持ち込もうとするようなことが起こるのだけれども、それは、はっきり言って無知・無教養だからなんだと気がつきました。
そして一部法制局の役人とか、改憲派としては有名だけども憲法学者としては無名な何人かの御用学者が、愛国心を憲法に持ち込むような、彼らのやり方に根拠を与えようとしているだけなんですよ。
<編集部>
専門家と言われる人たちの中にも、「立憲主義という見方もあるけれども…」という、あくまで、立憲主義が、一つの見方だというような言い方をする人がいますよね。
<小林>
一つの見方って、それしかないんだけどね(笑)。彼らは、歴史に学んでいないんです。人間というのはみんなで共同生活をするに当たって、専門の管理会社みたいなもの、国をつくるわけです。
人間は一人ひとりバラバラでは生きていけないから、国家というサービス管理会社がある中で共同生活をして生きていくわけです。そうすると、国家というものは、個人の次元を超えた強大なる統制権を持たないと、交通違反一つだって取り締まれない。
かつては、その強大な権力を、一人の個人や家が独占していた時代がありました。すると例外なく、権力は堕落していきます。それは人間が不完全なものだからです。そういった失敗の歴史を経て、我々は学び、長く放っておけば必ず堕落する権力というものに、たがをはめるために、憲法が作られたものなのです。
しかし、自民党の二世、三世議員、世襲で権力者の階級になっているような人たちは、「自分たちは間違えない」と勝手に思い込んでいる。なぜかというと、自分たちこそが権力であり、判断基準だから。民主主義の制度の中では、権力は永遠じゃないのに、自分たちは永遠に権力の座にいる気なんですね。
生まれたときからおじいちゃんは国会議員、お父さんも国会議員、そして自分も当選したという人たちですから、権力を離さないし絶対に間違えない、という前提がある。だから、自分たちを管理するという立憲主義の発想にはすごく抵抗があるんだろうね。
そうこうしているうちに、社会ではさまざまな異常な事件が起こる。そうすると、「世の中が間違っている、国民を躾けなきゃいけない」政治家は法律をつくるのが仕事で、法の法たる最高のものは憲法だから、憲法で取り締まればいい――となる。
そして、国民は国を愛する心を持つように・・・とか、家庭における役割分担をきちんと考えよう・・・とか。これでは明治憲法下で神たる主権者=天皇が「告文」に始まる大日本帝国憲法で、国民に説教をしていたのと同じです。
そういった最低限の歴史的教養も、国家論的教養もないんですよ。それで憲法改正を論じているのは、傲慢以外の何物でもない。
立憲主義の原則自体を否定するような、改憲論調が目立ちます。
改憲派の論客として知られる小林節教授に、
最近のこの論調についてお聞きしました。
<編集部>
小林さんは、昔も今も改憲派の論客の第一人者という立場で、1992年には「憲法改正私案」を公表されています。ですが、現在は「護憲的改憲派」と自称されていますね。
<小林>
僕は、日本国憲法はいいものだと思っています。しかし憲法だって国民が幸福に暮らすための道具ですから、古くなれば修正も必要になるだろうし、もっと良い方向に発展させていくべきだと思っています。
しかし、どうも改憲と言った瞬間から右翼扱いをされてしまうのですが、僕のは、岸信介(第56、57代総理大臣)が唱えたような、戦前回帰的な改憲論とは違います。
<編集部>
以前お書きになっているコラムに、「護憲派の市民たちは、集会で、『憲法を護(守)ろう!』と叫んでいるが、私はむしろ、『憲法を権力者に守らせよう!』と叫ぶべきではないかと思う」とあったのが、印象に残っています。その発言の根本にあるのが立憲主義ですよね。
しかし、いま自民党中心の改憲論議のなかでは、憲法は国民が国家の権力を縛るものだという立憲主義という前提自体が、自明なものではないかのごとく扱われています。
<小林>
私は最初、これは悪意かな? と思ったんですね。知っていてわざと嘘をついているのかな? と。しかし彼らは基本的に無知なんです。
民法は、私人間の取引の法、商法は、その中の商売人の取引の法、刑法は犯罪の法、訴訟法(民・刑)は裁判の法、そして最上位法である憲法は、国民が政治権力を管理する法だという、法の基本的な役割分担を国会議員が知らない。
だから、愛国心とか教育とか倫理・道徳の問題に、憲法を直に持ち込もうとするようなことが起こるのだけれども、それは、はっきり言って無知・無教養だからなんだと気がつきました。
そして一部法制局の役人とか、改憲派としては有名だけども憲法学者としては無名な何人かの御用学者が、愛国心を憲法に持ち込むような、彼らのやり方に根拠を与えようとしているだけなんですよ。
<編集部>
専門家と言われる人たちの中にも、「立憲主義という見方もあるけれども…」という、あくまで、立憲主義が、一つの見方だというような言い方をする人がいますよね。
<小林>
一つの見方って、それしかないんだけどね(笑)。彼らは、歴史に学んでいないんです。人間というのはみんなで共同生活をするに当たって、専門の管理会社みたいなもの、国をつくるわけです。
人間は一人ひとりバラバラでは生きていけないから、国家というサービス管理会社がある中で共同生活をして生きていくわけです。そうすると、国家というものは、個人の次元を超えた強大なる統制権を持たないと、交通違反一つだって取り締まれない。
かつては、その強大な権力を、一人の個人や家が独占していた時代がありました。すると例外なく、権力は堕落していきます。それは人間が不完全なものだからです。そういった失敗の歴史を経て、我々は学び、長く放っておけば必ず堕落する権力というものに、たがをはめるために、憲法が作られたものなのです。
しかし、自民党の二世、三世議員、世襲で権力者の階級になっているような人たちは、「自分たちは間違えない」と勝手に思い込んでいる。なぜかというと、自分たちこそが権力であり、判断基準だから。民主主義の制度の中では、権力は永遠じゃないのに、自分たちは永遠に権力の座にいる気なんですね。
生まれたときからおじいちゃんは国会議員、お父さんも国会議員、そして自分も当選したという人たちですから、権力を離さないし絶対に間違えない、という前提がある。だから、自分たちを管理するという立憲主義の発想にはすごく抵抗があるんだろうね。
そうこうしているうちに、社会ではさまざまな異常な事件が起こる。そうすると、「世の中が間違っている、国民を躾けなきゃいけない」政治家は法律をつくるのが仕事で、法の法たる最高のものは憲法だから、憲法で取り締まればいい――となる。
そして、国民は国を愛する心を持つように・・・とか、家庭における役割分担をきちんと考えよう・・・とか。これでは明治憲法下で神たる主権者=天皇が「告文」に始まる大日本帝国憲法で、国民に説教をしていたのと同じです。
そういった最低限の歴史的教養も、国家論的教養もないんですよ。それで憲法改正を論じているのは、傲慢以外の何物でもない。