日米安保!4

2006年09月10日 | つぶやく
レジュメ 【日米安保】

〜日米安全保障条約。日米安保条約、安保条約ともいう。〜

いまだに東京都の横田空軍基地や、神奈川県の厚木空軍基地・横須賀海軍基地と言った首都圏にも、在日米軍基地がある。
日本は、駐留米軍の為に土地や資金を提供し、米軍の軍事行動では後方支援(兵站)をする。昨今話題の「有事法制」では、有事の際、米軍が日本国内の道路・空港・港湾を最優先に利用出来る事をも規定している。正に国家を挙げての後方支援(兵站)で、日米地位協定の問題も含め、米国の「属国」と一部で批判される原因となっている。
アジア、世界情勢の大きな変化に伴い防衛政策は、自主防衛もタブーとせず、日米同盟はどうあるべきか、真剣に日本の今後を考える必要がある。

日米安保!3

2006年09月10日 | つぶやく
レジュメ 【日米安保】

〜日米安全保障条約。日米安保条約、安保条約ともいう。〜

現在・・・
 ナイ・アーミテージ報告には、日米同盟は、パワーシェアリングを行うべきとし、米英同盟を目標にすべきという提案を行っている。
また、常任理事国入りを目指すなら集団的自衛権の行使、つまり日本が憲法改正すべきとある。
テロとの戦いという新たな目標を掲げアメリカが世界戦略として世界規模の軍再編を行っている。
日本にある米軍基地も大きな再編を行い、米軍基地の役割が大きく変化した。

日米安保!2

2006年09月09日 | つぶやく
レジュメ 【日米安保】

〜日米安全保障条約。日米安保条約、安保条約ともいう。〜

【日米安全保障条約の歴史】
第2次世界大戦直後、日本を占領していた中心であったアメリカは、日本を非武装化して軍事的に無力な存在にしようとしていた。(GHQが草案を作った日本国憲法、憲法9条)

アメリカとソ連による全世界の覇権争いで、冷戦が始まった。1950年に激しい朝鮮戦争が起こった朝鮮半島や、共産化された中国、ソ連の国土などにきわめて近い位置にある日本は、アメリカ陣営にとって地勢学的に、軍事的な重要拠点になった。
                  ↓
アメリカは、苦労して日本の占領の主導権をもぎとったので、そのまま日本をアメリカ側陣営につかせ、共産主義の防波堤にと考えた。

日本側、特に当時の吉田茂首相には、冷戦構造の中で日本の軍事増強は無理。日本の復興そして経済大国を実現するには、軍事費にお金をかけないという思惑があった(吉田ドクトリン)。

1951年、サンフランシスコ平和条約締結の1時間後に、日米安全保障条約が日米両国の間で締結されることになった。


日米安保!1

2006年09月08日 | つぶやく
レジュメ 【日米安保】

〜日米安全保障条約。日米安保条約、安保条約ともいう。〜


1.日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約のこと。1951年(昭和26年)9月8日に、日本とアメリカ合衆国との間で締結された条約。1960年に、2の条約に改定された。いわゆる旧・日米安全保障条約、旧・安保条約。

2.日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約のこと。
 1960年(昭和35年)1月19日に、日本とアメリカ合衆国との間で締結された条約。
1の条約を改定した条約。いわゆる新・日米安全保障条約、新・安保条約。

百里基地です!4

2006年09月07日 | つぶやく
レジュメ【百里基地】

◎「米軍F15訓練移動」

 世界的な米軍再編の中で、嘉手納基地のF15戦闘機訓練の一部を、本土の自衛隊基地5つ(千歳、百里、小松、築城、新田原)に移す計画が明らかになっています。

横須賀への原子力空母の配備も米政府が発表し、普天間基地移設、米陸軍第一軍団司令部の座間移転など、日米で協議されています。茨城県は今年7月、百里基地へのF15戦闘機訓練の移転について「地元の声を尊重する」という条件つきで容認する意向を発表しました。


百里基地です!3

2006年09月06日 | つぶやく
レジュメ【百里基地】

◎百里飛行場民間共用化

  茨城県では、平成7年「百里飛行場民間共用化構想」を発表し、平成8年「茨城県百里飛行場民間共用化推進協議会」が設立されました。
平成12年空港整備法一部改正により共用飛行場として指定されました。

平成17年7月より工事着手され、現在平成22年度の開港を目指し工事が進められています。

百里飛行場(県企画部にてH18年9/15まで愛称募集中)は水戸市から21㎞・東京から約80㎞圏内に位置し、各地からのアクセス時間も水戸市から31分・土浦市から41分・つくば市から43分と羽田飛行場へ向かうより、ずっと短時間で日本全国へ飛び立つことができるようになります。

百里基地です!2

2006年09月05日 | つぶやく
レジュメ【百里基地】

◎百里基地の歴史

 百里基地のある周辺の台地は、かつて百里ケ原と呼ばれる
不毛の土地でした。明治以来、開墾が進められていました。
現在も「百里開拓」など当時をしのぶ地名が残っています。
1937年、海軍の飛行場が建設され、戦後航空自衛隊の百里基地として
使用されるようになりました。

 1937年 百里ヶ原海軍飛行場として設置       
 1945年 終戦後、満州などの海外引揚者の開拓地となる
 1956年 航空自衛隊基地の建設が計画される     
 1966年 航空自衛隊百里基地として設置       
 1990年 日米共同使用基地とされる         
 2000年 民間共用化事業として事業化        
 2005年 旅客ターミナル建設開始          
 2009年 民間供用開始予定             
 20??年 米軍基地一部移動か?           

百里基地です!1

2006年09月04日 | つぶやく
レジュメ【百里基地】

◎百里基地の概要

航空自衛隊百里基地は茨城県の東南部、霞ヶ浦のすぐ北側にあります。

2700mの滑走路を有して、第7航空団と偵察航空隊が配備されて
います。第7航空団はF15Jイーグル戦闘機の2飛行隊(305飛行隊、
204飛行隊)約40機を擁し、首都防衛の任務に当っている実戦部隊です。

実際の緊急発進、スクランブルも冷戦終結で回数こそ少なく
なりましたが、365日24時間体制で、「5分待機」と呼ばれる
スクランブル司令後5分以内に離陸できる態勢がとられています。

偵察航空隊(RF4E偵察機28機)は自衛隊唯一の偵察部隊として
全国どこへでも飛んで偵察任務を行っています。

百里基地は1990年に
日米共同使用基地とされ、日米共同訓練も行われてきました。

また、その訓練は主に鹿島灘沖の「E空域 訓練空域」で行われています。

会員大会in潮来

2006年09月03日 | つぶやく
いよいよ、会員大会の日を迎えた。
早朝7時より橋を渡って開花亭へ入った。
他の委員長は、佐久間さんに送られて僕より先に会場に来ていた。

鍵を開けていただき、会場に!
委員長と朝食をとりながらワクワクどきどきする。

7時15分には、千葉県警が入ってきた。
怖そうな人達がゲートの設置を行い、会場を点検していく。

僕は、打合せ漏れが無いかを確認し、現場を一緒に歩いてチェックを行う。
わからないことがあればその場で確認、対処をした。
8時には、室メンバーが集合挨拶をして、各委員会毎に打合せに入ってもらった。

本日の流れを、場面を思い起こしながら、一箇所一箇所チェックしていく。
会場と県警、額賀事務所と連絡会議、各委員会と委員長、などなど・・・。
おっと、謝辞も練習しておかなきゃ!
松田さんから、レジュメの確認!なかなか見れない・・・。

今度は、ゲートが反応しすぎる!
そうこうしているうちに、式典が始まった。
JC宣言をしてこっそりと抜け出した。

もう一度、一つ一つチェックしていく!
そして会場を廻って確認。
近藤秘書も着てくれて先生の入りを確認。

現場、確認、現場、確認、この繰り返し。

時間より早く式典が終わると、アナウンスをしても人の流れが止まらない。
みんなで声をあげて会場の案内をする!
「一般お方が入場されますので、JCの方は会場にお戻りください!」
だれも聞いてくれない!

作戦変更!
「おタバコを吸い終わった方はお早めに会場にお戻りください」

しばらくすると、予定時刻には会場に戻ってきてくれていた。
ブリーフィングが始まった。
ここで、一般から前で話を聞きたいとの声が・・・。

見ると会場の前の席が空いている。
県警に確認して、中段から後ろに一般を入れることを了承。
JCメンバーを前に送って、一般の人を中段に入れる。

これで席は、だいぶ良い感じになった。
場を整えて壇上に集中だ!

裏に廻って、3委員長に気を入れて、委員会報告に送り出し!
がんばれ!

そして、額賀先生登壇!

すると、会場でプレスがなにやらもめている。
席が後ろ過ぎて写真が撮れないと言っているらしい。

県警と話して、
5分間だけ移動をして写真を撮ることを
プレスに指示だし!

今度は、送り出しの確認をする。

そろそろ、講演終了の時間。
3分前のボードに先生時間を確認するも、
まだまだ話が終わりそうに無い。

ブロ長と監事を袖に待機してもらい、公開質問の準備!
講演が終わり、公開質問へ!

ドンデンもばっちり!さすがわが室メンバー!
佐久間さんの進行で質問はスムーズにながれる。

お土産の準備をとおもったら、袋が有るとか無いとか?
大山副委員長に対処してもらってOK!

おや、佐久間さんが何やらいたずらをしだした。
時間を過ぎても質問をぶつけている。

しかも、その質問か・・・?
会場がどよめく!ざわざわ・・・・。

場も和んで、僕の謝辞!
あれ、先生が帰ろうとしているではないか。
立ち居地に戻して、やっと謝辞。

先生、一般の来場者、潮来、会場、千葉県警にお礼を申し上げ、
「安全の確保」ということの難しさ、これが「国防」となると・・・。
等を話して、

これからの日本を額賀先生にお願いし、
僕たちは、これからの茨城を良くする事を誓い、
最後に世界平和を祈願して謝辞を閉めさせていただいた。

額賀先生は、大喜びで会場を後にした。

最後に、みんなで集ったときにはかなり感極まったが
本当に皆さんのご協力には感謝したいとおもいます。

やれば、できる!
動くことの「愛」を感じていただければ幸いです。
ブロ長、機会を有難う。http://www.yamayosijisyo.co.jp/

『KURENAI プロジェクト』の3安

『KURENAIプロジェクト』ブログは、「百里シンポジウム」での過程、「整備街・牧場・公園」の構想、有志の動きを随時掲載し、『IBARAKI』といえば「安全な空・安心な食・安らかな体」という3つの安を日本全国、アジア、世界に発信します。  この動きがまちを考える人達に勇気を与え、それぞれが動く事で発展していくことを希望します。