「イレブン・ミニッツ」 2015年 ポーランド / アイルランド
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監督 イエジー・スコリモフスキ
出演 リチャード・ドーマー パウリナ・ハプコ
ヴォイチェフ・メツファルドフスキ アンジェイ・ヒラ
ダヴィッド・オグロドニック アガタ・ブゼク
ピョートル・グロヴァツキ ヤン・ノヴィツキ
アンナ・マリア・ブチェク ウカシュ・シコラ イフィ・ウデ
ストーリー
午後5時前。
顔に殴られた跡を残して、警察から自宅に戻ってきたヘルマン。
嫉妬深い彼は、妻で女優のアニャといさかいになるが、やがて睡眠薬を入れたシャンパンを喉に流し込み、寝てしまう。
その間に、優雅なホテルの一室で下心ミエミエの映画監督と一対一の面接に臨もうとホテルへ向かうアニャ。
街に午後5時を告げる鐘が鳴る。
慌てて飛び起きたヘルマンは、アニャを追ってホテルへ向かう。
そのホテルの前では、最近、刑務所から出たばかりの男が、ホットドッグの屋台を開いていた。
一方、人妻とドラッグをやりながら情事に耽っていたバイク便の配達員は、彼女の夫が帰宅したため、慌てて逃げ出す。
やがて、父親であるホットドッグ屋台の主人に電話で呼ばれ、ホテルへ向かう。
そのホテルの一室で、ポルノ映画を見ている一組の男女。
そして彼らの頭上には、着陸態勢に入ろうとする旅客機の姿があった…。
午後5時から5時11分までの11分間、様々な人々の運命が絡み合い、やがて迎える結末は……。
寸評
一見無関係と思われる多数の挿話が交差して、登場人物は微妙にすれ違ったり関係を持ちながら進行していく。
時には同じ場面が角度を変えて描かれたりもする。
しかしそれは、例えば内田けんじが「運命じゃない人」で試みた、無関係な人のかかわりが時間経過の中で描かれていくというサスペンス劇ではない。
リアルタイム・サスペンスとしての緊張感を保ちながらも、何かを紐解いていくといった展開ではない。
同時進行的に無関係は出来事がランダムに描かれていくだけだ。
轟音を響かせながら街中に突如現れる大型飛行機が何度か挿入される。
僕はその映像を見ると無意識のうちに貿易センタービルに突っ込んだ9.11テロを思い出している。
なにかそのようなことが起きるのかと思ってしまう。
しかし限定された抽象的空間や、一切説明されない物語りの背景と、特殊な時間設定で描き続けられると、これはそんな娯楽作ではなく、むしろ実験映画的だと感じてくる。
それを楽しめないタイプの人には退屈な映画なのかもしれない。
見終ると、テロを描いた映画ではないが、やはりこれは無差別テロへの警鐘だった事に思い当たる。
わずか11分前には何の関係もなかった人たちが、磁石に引き付けられるように集まってくる。
そしてそこで予期せぬ出来事に巻き込まれてしまうという恐怖だ。
人々の何気ない日常を切り取りながら、11分後にはそれが突如変貌してしまう運命を描いていた。
盛んに報じられているテロ事件だが、僕たちはそれが身近で、しかも自分に対して起きるという感覚を持ち合わせていない。
そんなことは自分に対しては起きるはずがないと、どこかタカをくくっている所がある。
オウムによる地下鉄サリン事件が起きても、当事者でない僕は電車に対して恐怖感を抱かない。
あの時の乗客もどこの誰だか知らない人たちが、たまたま同じ電車に乗り合わせていただけなのだ。
見ず知らずの人がテロに遭遇し、不幸にも命を落としてしまうという漠然とした恐怖だ。
21世紀はテロとの戦いと言われたりもするが、僕はこの映画に突如起こる悲劇と恐怖を感じた。
と同時に見ず知らずの人がとった行動が、間接的に他人の運命を変えていく群像劇はネット社会の恐怖でもある。
掘り下げると、現代社会が抱える問題点を鋭く突いていたような気もする。
(深読みしすぎか?)
世界ではいろんなことが起きている。
それらの出来事がモザイク模様のように散らばって現実世界を形作っている。
局地的に大きな出来事であっても、それらの出来事のなかに埋没していき、世界の中でどんどん小さな出来事へと矮小化していってしまう。
一面を覆った黒煙はモザイク模様の中でどんどん小さくなっていき、最後には小さな点の一つにすぎなくなってしまう。
「それでいいのか?!」
スコリモフスキ監督の叫びが聞こえてきそうなENDだった。