おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

海を飛ぶ夢

2024-10-16 07:03:53 | 映画
「海を飛ぶ夢」 2004年 スペイン

                      
監督 アレハンドロ・アメナーバル                           
出演 ハビエル・バルデム ベレン・ルエダ ロラ・ドゥエニャス
   クララ・セグラ マベル・リベラ セルソ・ブガーリョ
   タマル・ノバス ジョアン・ダルマウ フランセスク・ガリード

ストーリー
スペイン、ラ・コルーニャの海で育ったラモン・サンペドロは19歳でノルウェー船のクルーとなり、世界中を旅して回っていたのだが1968年8月23日、25歳の彼は岩場から引き潮の海へダイブした際に海底で頭部を強打、首から下が完全に麻痺してしまう。
以来、家族に支えられながらも、ベッドの上で余生を過ごさなければならなくなったラモン。
彼にできるのは、部屋の窓から外を眺め、想像の世界で自由に空を飛ぶことと、詩をしたためることだけ。
やがて事故から20数年が経ち、彼はついに重大な決断を下す。
それは、自ら人生に終止符を打つことで、本当の生と自由を獲得するというものだった。
そしてラモンは、彼の尊厳死を支援する団体のジェネを通じて女性弁護士フリアと対面し、その援助を仰ぐことに。
また一方、貧しい子持ちの未婚女性ロサがドキュメンタリー番組でのラモンを見て心動かされ、尊厳死を思いとどまらせようと訪ねてくる。
尊厳死の法廷での闘いの最中、フリアが発作で倒れてしまう。
進行性の難病を患っていると診断されたフリアは、自らも尊厳死を迎える決意をし、ラモンとともに誰も犯罪にならずに済むよう死の計画を立てるのだが・・・。

寸評
尊厳死という重いテーマをメインに据えているが、尊厳死は是か非かといった迫り方ではなく、一人の男の人生を切り取った人間ドラマとして描いている。
したがって、安易な感傷に流されることなく、また安易な結論に流されることなく描ききっている。
主人公が次第に生きる希望を見出していくといったストーリーが予想される内容だが、そうは単純に結論付けていない。
この映画は、尊厳死というテーマを真正面に据えた社会派映画ではないということだ。
そうなっているのは、彼に共感していく担当弁護士のフリアと、テレビで彼を見て死を思いとどまらせようとするロサという2人の女性との関係が有ったからだと思う。
時に嫉妬を感じさせ、時にユーモラスなシーンを描きながら二人の女性との関係も丁寧に描いていく。
その丁寧さが、ともすると重くなってしまいがちな内容を明るく感じさせていた。
特に主人公ラモンのキャラクターが独特で、明るく元気なのがいい。
これで、どうして尊厳死を考えているのかと思わせる設定で、首から上しか演技しないハビエル・バルデムの熱演が光る。
弁護士のフリアがやはり尊厳死を望むような状態になってしまうが、一方は死を、一方は生を選択する構成も胸打つ。
オープニングの美しい海の映像から、どれも印象的なシーンの連続。
特に寝たきりのラモンが、夢の中で海を飛ぶシーンは筆舌に尽くしがたいほどの美しさ。
主人公の意識の高さを感じさせるとともに、生きることの素晴らしさを訴えているようにも思える映像だった。
一貫して静かな進行はまるで文学作品を読んでいるように感じさせる映画で、劇場を出るときはちょっとした充実感があった。

サッド ヴァケイション

2024-10-15 08:45:27 | 映画
「サッド ヴァケイション」 2007年 日本


監督 青山真治                 
出演 浅野忠信 石田えり 宮崎あおい 板谷由夏
   中村嘉葎雄 オダギリジョー 光石研 斉藤陽一郎
   川津祐介 辻香緒里 とよた真帆 嶋田久作

ストーリー
北九州の港。
中国からの密航者を手引きしていた健次は、船内で父親が死んでしまった少年アチュンを自分の家に連れ帰る。
そこには、かつて幼なじみの安男から世話を託された安男の妹で知的障害者のユリも一緒に暮らしていた。
5歳の時に母に捨てられ、精神を病んだ父も自殺してしまった健次は、家族のような3人での生活に安らぎを感じ始める。
一方その頃、若戸大橋のたもとにある間宮運送には、かつてバスジャック事件の被害に遭った梢が身を寄せていた。
社長の間宮は、彼女以外にも、ヤクザに追われる者、資格を剥奪された医師ら、スネに傷を持つ流れ者たちに職と住み処を与えていた。
そんなある日、ひょんな偶然から、運転代行をやっている健次が間宮運送に姿を現わした。
そこで彼が目にしたのは、間宮の妻・千代子の姿。
彼女は、かつて健次を捨てていった彼の母親、その人だった。 
再び母とひとつ屋根も下で暮らし始めた健次の彼女への復讐心は、日に日に大きくなる母親の存在に惑わされ翻弄される。
心を通わせる恋人の冴子に会ってもイライラの消えない健次は、ついにその復讐心を異父兄弟の勇介にぶつけ、失踪へと追い込んでいく。
しかし、すべてを包み込みながら美しく生きる女たちは男たちを未来へと導く・・・。


寸評
悲劇は有るのだが、ずいぶんと優しい映画だ。
オープニングのキャスティングが流れる背景シーンからコマ落としのような画面が流れる。
それは劇中でも時々見られ、変化のない、それゆえ気の置けない長い時間(例えば梢を探しに出てきた従兄が訪ねた同郷の男とのたわいのない会話が延々と続くのもその一端)の経過を表現していたのだろうか?
それは健次と冴子がいる場面でも使われていた。
その間延びするような時間の経過が、信じて愛する人間が突然目の前からいなくなった時の絶望感を千代子に与えようとする健次の心の揺れを補完していて、気がついたら画面に引き釣り込まれていた。

石田えり演じる千代子はとてつもなく大きな人間に見えた。
母親が子供のすべてを包み込むような(事実、健次は子供なのだが)、大きな気持ちを持ち、まるで観音様か女神の生まれ変わりのような存在だった。
いつも微笑を絶やさないポジティブな姿勢を見せる千代子に圧倒される。
そのポジティブな生き方は、夫の間宮にぶたれても「男は勝手なんだから」と笑っていて、最後に間宮の口から「死んだ者より、去っていった者より、生まれてくる人のことを考えましょう」と千代子の言葉を代弁させていることでも証明されている。
温厚な間宮が劇中で2度相手を引っ叩くシーンがあって(それは間宮の家族への愛の証でもあったのだが)、一度目は息子の茂雄が万引きで補導されて帰宅した時で、二度目は千代子が冴子の子供が茂雄の生まれ変わりだとあっけらかんと言った時なのだが、間宮の代弁はその悲しみの表情を見せない千代子の心底が理解できていなかったことの表現でもあった。
千代子が暗闇の中で一人壁に向かってたたずむ姿は、悲しみを必死に飲み込んでいるようにも見えた。

凛とした姿勢で獄中の健次に面会に行き、「あんたは間宮の家に帰ってくるしかないのだ」と言い切る優しく自信に満ちた千代子の笑みをたたえた顔が印象的だった。
母親の蒸発の真相を聞き「何も知らんくせに」という父の言葉も重なり、健次は一人身勝手に苦悩していた自分を知ったのだろうか?
それとも母親の持つ途轍もない大きな愛を感じたのだろうか?
女はいざとなると男にとって大きな存在なのだ。
梢に対して横柄な態度を取っていた後藤が、借金取りに怯え、それを梢が平然といたわる姿が象徴的だった。
千代子も梢も冴子も、間宮運送に勤めている逃げる男たちに比べると、まるでエイリアンのような化け物的巨人に見えた。
「親子とは、家族とは一体何なのだろう?」と考えさせられる一篇だった。

告発のとき

2024-10-14 06:39:53 | 映画
「告発のとき」 2007年 アメリカ


監督 ポール・ハギス        
出演 トミー・リー・ジョーンズ シャーリーズ・セロン
   スーザン・サランドン ジョナサン・タッカー
   ジェームズ・フランコ フランシス・フィッシャー
   ジョシュ・ブローリン ジェイソン・パトリック
   ジェイク・マクラフリン メカッド・ブルックス
   
ストーリー            
2004年11月1日、元軍警察のハンク・ディアフィールドのもとに、軍に所属する息子のマイクが軍から姿を消したとの連絡が入る。
軍人一家に生まれ、イラク戦争から帰還したばかりのマイクに限って無断離隊などあり得ないと確信するハンク。
不安に駆られた彼は、妻のジョアンを残し息子の行方を捜すため、帰還したはずのフォート・ラッド基地へ向かう。
同じ隊の仲間に話を聞いても事情はさっぱり分からず、念のため地元警察にも相談してはみたものの、まともに取り上げてはもらえず途方に暮れる。
そんな中、女性刑事エミリー・サンダースの協力を得て捜索を続けるハンクだったが、その矢先、マイクの焼死体が発見されたとの報せが届く。
殺害現場は基地の敷地外だと見抜き、一歩一歩真実を解き明かしていく。
しかしそこには父親の知らない息子の”心の闇”が隠されていた。
悲しみを乗り越え、真相究明のためエミリーと共に事件の捜査に乗り出すハンクだったが…。
疑うことなく抱き続けた自らの信念を根底から覆される時、人は真実とどう向き合い、どう答えを出すことができるのか・・・。


寸評
真正面から反戦を唱えているわけではないけれど、戦争の狂気やそれに毒された男たちの悲劇が描かれていく。
麻薬取り引きを匂わせ、ミステリー調で展開していくが、イラクで息子が携帯のビデオ機能で撮った映像が解析回復されていくにつれて、父親が知らなかった息子の姿を感じていく展開が、派手さがない分、余計に言いようもない歪んだ戦場の実態を感じさせた。
我が子を戦場に送り、そして失ってしまった父母の後悔と怒り。
特に自宅で待機する妻が電話口で「せめて一人は残してほしかった」と泣きながら叫ぶ姿は痛々しかった。
戦争に巻き込まれる実感と実体験をなくした我々日本人には一番ピンとこない感覚ではあるが、親としての悲しみだけは通じるものがあった。

殺された息子も、ある事件をきっかけに心を病んでいたことが明らかになる。
それが明らかになった時の父親のやるせない表情がなんともいえない。
冒頭で逆向きに掲揚されている星条旗を見つけ「それは助けを待っている時だ」と語ったラストに掲げられる逆さまの星条旗が、監督の静かだが伝えたかったメッセージではないかと思う。
ベトナム戦もそうだったが、厭戦気分や、戦争そのものへの疑問から反戦映画はたくさん撮られてきたが、イラク戦もまた泥沼の状況に追い込まれていて、そこには異常が正常化している狂気が発生していることを感じさせた。
真実を告白する真犯人の表情がそのことを物語っていて戦慄を覚える。

父親役のトミー・リー・ジョーンズは流石で、頑固一徹で、息子の死にも取り乱さない、しかし、それでも抑えきれない感情があふれる父親を見事に演じている。
その性格を表すためにベッドメイキングするシーンをコマ落としで見せたりしたのは秀逸な処理だと感じたが、願わくは、同僚たちのセクハラや軍との軋轢に苦しみ、捜査依頼者を見殺しにしてしまったことに悩む女性刑事などはもう少し描きこんでもよかったのではないかとも感じた。

哀れなるものたち

2024-10-13 07:05:30 | 映画
「哀れなるものたち」 2023年 イギリス 


監督 ヨルゴス・ランティモス
出演 エマ・ストーン マーク・ラファロ ウィレム・デフォー
   ラミー・ユセフ ジェロッド・カーマイケル ハリー

ストーリー
ある夜、不幸な女性が橋から身投げをし、自ら命を絶った。
ロンドンに住む若き医師のマックスは、風変わりな天才外科医ゴッドから助手の誘いを受け、喜んでその申し出を受け入れた。
彼に与えられた仕事は、不思議な女性ベラの観察記録をつけることだった。
実はベラは、自殺した女性に胎児の脳を移植して作られた人造人間だった。
ベラの学習スピードは凄まじく、様々な物事を驚異的なスピードで吸収していき、それは性的な事柄にも及んだ。
ベラを愛するようになったマックスは、結婚してもベラと一緒にゴッドの屋敷に住みつづけるという条件でゴッドの承諾を得た。
契約書を作成するため、ゴッドは弁護士のダンカンを家に招いた。
遊び人の彼はベラを一目で気に入り、一緒に外の世界を旅しようと誘い、家に閉じ込められていることに不満を感じていたベラは、ダンカンと一緒に旅立った。
ダンカンとともにポルトガルのリスボンを訪れたベラは、外の世界を知っていく。
一方で、ダンカンは性的な事柄に強い興味を持ちながらも貞操観念のない彼女に心を乱されるようになる。
彼はベラをトランクに入れ、無断で豪華客船での船旅にくり出す。
しかし船内である老婆とハリーという男性に出会ったベラは、知的な彼らの影響を受け、急速に成熟していく。
あるとき、ハリーはベラにアレクサンドリアの町を見せると、そこでは貧しさから命を落とす子どもが数多くいた。
厳しい現実を目の当たりにしベラは、ダンカンがギャンブルで勝った金を「貧しい人たちのために使ってほしい」と、すべて船員に渡してしまう。
無一文になった2人はパリで船から放り出されることになった。
ベラはゴッドが持たせてくれていた緊急用の金をダンカンに渡して帰国するように言い、自分は娼館で働くことを決意した。
様々な人との交流を通してベラはますます知識をつけ、聡明な女性になっていった。
ゴッドが危篤との知らせを受けたベラは、ロンドンに戻った。
彼女はゴッドから自分がどのようにして生まれたかを聞き、マックスとの結婚を決意する。
しかし結婚式に思わぬ人物が乱入してきた・・・。


寸評
セックスシーンが多い映画だが、それらはベラが成長していく過程の出来事として描かれている。
ベラは、体は成人だが頭脳は幼児という姿で登場する。
フランケンシュタインのようなゴッド博士の屋敷にいるのだが、そこはモノトーンで描かれている。
ベラは食器を投げ捨てたり嫌いなものを吐き出したり幼児がとるような行動で我儘ぶりを見せているのだが、ある時、自慰行為を通じて幸せを感じ、このことは性を通じて成長していくだろうことを暗示していたと思う。
ゴッド博士の邸宅では鶏イヌなど不気味な動物が遊んでいる。
ベラがゴッドと呼ぶ博士は神(ゴッド)の化身で、神はあらゆる動物を生み出したということで、ベラもその動物の一つなのだろう。
冒頭、博士は教壇で動物と人間の違いは何なのかと問いかけていたが、食べて、寝て、交尾をする姿を思うと違いはない。
家に閉じ込められていることに不満を感じていたベラは外の世界を知っていく。
ここからはカラーとなり、我々に映像体験をもたらせてくれる。

ダンカンはベラの自慰行為を見て外の世界へ連れ出すが、彼にとってベラは性欲の対象者なのだ。
しかし、ベラは娼婦館での経験などを通して男の欲求のはけ口から脱却し、自らを開放して自我に目覚め主体性を獲得していく。
手助けをしてくれたのは客船で出会った老婆だろう。
老婆はベラの性行為に関する投げかけに、すべて経験済みのこととして優しく受け流しているのだ。
大海原を航海する豪華客船で出会ったこの老婆とハリーという男性は魅力的だった。
無一文となったベラは娼婦となって金を稼ぐようになるが、そこで彼女は客が女を選ぶのではなく、女が客を選ぶという意識を持つようになっている。
見終ると、彼女はこの娼館で主体性獲得したのだと思える。
ベラとマックスの結婚式の時にアルフィーという支配欲に固まった男として登場する。
この男の登場で衝撃の事実が明かされ、僕はベラ誕生の秘密に驚きを隠せなかった。
ベラはゴッドの死に立ち合ってゴッドと同じ解剖学の医師を目指す。
彼女も同じ道を歩んでゴッド(神)となったのだろう。
身体と頭脳が一致してベラは美しい笑顔を見せる。
ベラによってアルフィーも変わった動物となっている。
神の前では人間も動物も同じということなのかもしれない。

恋の罪

2024-10-12 09:05:36 | 映画
「恋の罪」

                         
監督 園子温                     
出演 水野美紀 冨樫真 神楽坂恵 津田寛治
   大方斐紗子 小林竜樹 五辻真吾
   深水元基 内田慈

ストーリー
あるどしゃぶりの雨の日、ラブホテル街の木造アパートで無惨に殺された女性の死体が発見される。
事件担当する女刑事・和子は、仕事と幸せな家庭を持つにもかかわらず、不倫に走っていて愛人との関係を断てないでいた。
謎の猟奇殺人事件を追っているうちに、大学のエリート助教授・美津子と、人気小説家を夫に持つ清楚で献身的な主婦・いずみの驚くべき秘密に触れ引き込まれていく和子。
事件の裏に浮かび上がる真実とは…。
3人の女たちの行き着く果て、誰も観たことのない愛の地獄が始まる…。


寸評
描かれる内容はあまりにも毒々しいが、それが1997年3月渋谷区円山町ラブホテル街にあるアパートでおきた「東京電力女子管理職社員殺人事件」をモチーフにしているとあっては、その毒々しさが現実のものであることを理解しながらの観賞となる。
当時は事件の報道が過熱化し週刊誌等では被害者のプライバシーが暴きたてられたことを記憶している。
被害者女性は家族全員が名門エリート大学を出ていて、彼女自身も慶応大学出身のエリート管理職であり、金銭的にも不自由していなかったのに、夜は低価格の売春を繰り返していたというものであった。
映画はその事件をモチーフとして被害者の特異状況や異常癖を登場人物に割り振っている。
しかし、事件をモチーフとしたオリジナル脚本とあっては、現実との相違が問題ではなく、ましてや殺人事件の犯人を追いつめるサスペンスともなっていない。
映画は三人の女性の愛と性、表の顔と裏の顔の極端さを描いていく。
家では良き妻、良き母だが不倫にはしる女刑事の和子。
オープニングはこの和子が不倫先のホテルから事件現場に駆け付けるところから始まる。
オールヌードで登場する水野美紀の体当たり演技もあって衝撃的すぎる始まりだった。

夜になると娼婦として売春を行っている大学のエリート助教授の美津子。
彼女は何度も田村隆一の詩「帰途」の一節「言葉なんかおぼえるんじゃなかった 日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる」を度々引用する。
父親に近親相姦的感情を有していた良家の下品な女である。
そして、美津子から「お前は私のところまで堕ちてこい!」と叫ばれ、昼のブルジョア的な主婦生活から、夜の売春婦へと堕ちていくのが、人気作家を夫に持つ貞淑な妻であるいずみ。
女として一番変貌を遂げるのが、このいずみで変化のない生活から抜け出すためにパートに出て、そこからAV嬢へと堕ちて行く。
堕ちて行くというより、むしろ自己の存在感を示すという点において成長していく。
和子によって物語は新しい展開に持ち込まれ、美津子によって掘り起こされていくが、この映画の中心人物はこのいずみであろう。
いずみの成長を助ける美津子のアジテーションは強烈でアングラ劇の叫びを見ているようだった。
事件はきわめて特異なものではあったが、「ただでやらせるな!」と美津子の説く性や肉体を商品とする女の生きざまは、今や特異なものではなくなってしまっているのではないか。
主要人物を演じる水野美紀、冨樫真、神楽坂恵という三女優のヘアヌードを惜しみなく映し出して女を描こうとしているようにも見えるのだが、一向に女を感じさせないのは作品全体の構造が、田村隆一やカフカの観念的な言葉のもとで展開されているからだと思う。
作中で田村の詩が読まれるたびに、また「城」が云々されるたびに、作品は観念映画と化していって女の性や肉体から遠のいていく。
こんなことならカフカの「城」を読んでおくべきだったのかもしれない。
僕はこの作品を見ていて、50数年前に熱狂していた一部の日活ロマンポルノや、アジテーションを繰り返す当時のアングラ劇団の公演を連想し、ポルノ映画やピンク映画と一線を画しながらも奮闘していた若松孝二を思い出していた。

和子がラストで両手にゴミ袋を持ちながら回収車を追いかけても追いつけず、円山町のラブホテル街に迷い込み、殺人現場の入口に立ちつくす。
不倫相手の男から「今どこにいるんだ?」と電話がかかるが「よくわからない」と答える彼女。
それはこの世で起きることが、何だかよくわからないことの積み重ねのことが多いとの表現であり、現実の事件も結局は何だかよく分からない事件だったように思う。
尾沢美津子演じる大学助教授である美津子の叫びもインパクトがあったが、それ以上なのが美津子の母親役の大方斐紗子だ。
瀬戸内寂聴ばりの語りは、とてもとても心の中にまで入り込んで耳に残るものだった。
それは彼女を支持するものではないのだが、圧倒的な存在感で終盤を一気に高める役割を果たしていた。
よく分からなかったけれど、これは「恋やセックスなんか覚えるんじゃなかった」と「恋の罪」を呪っている人物たちの物語だったのだろう。
グロテスクな映画でもあったが、前半で語られる内容が後半で描きだされたりしていて、作品の奥深さも持った映画だ。

疑惑

2024-10-11 06:45:41 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2020/4/11は「マッドマックス 怒りのデス・ロード」で、以下「祭りの準備」「マディソン郡の橋」「マネーボール」「真昼の決闘」「瞼の母」「まほろ駅前多田便利軒」「まぼろしの市街戦」「間宮兄弟」「真夜中のカーボーイ」と続きました。


「疑惑」 1982年 日本


監督 野村芳太郎
出演 桃井かおり 岩下志麻 小沢栄太郎 山田五十鈴
   三木のり平 仲谷昇 柄本明 鹿賀丈史 真野響子
   森田健作 伊藤孝雄 北林谷栄 内藤武敏
   松村達雄 丹波哲郎

ストーリー
富山県新港湾埠頭で車が海中に転落、乗っていた地元の財閥、白河福太郎(仲谷昇)は死亡したが、後妻の球磨子(桃井かおり)はかすり傷ひとつ負わなかった。
しかも、球磨子は過去に情夫(鹿賀丈史)と共謀して数々の犯罪を起こしていたことが判明。
彼女は夫に三億円の保険金をかけており、この事故も泳げない福太郎を殺すための擬装ではないかと誰もが疑い、北陸日日新聞の秋谷(柄本明)が積極的に報道を始めた。
物的証拠がないまま球磨子は逮捕された。
強気の球磨子は弁護士の原山(松村達雄)を通じて、東京の花形弁護士、岡村(丹波哲郎)に弁護を依頼するが、彼女の不利な立場に拒否されてしまう。
昭和56年9月に初公判が開かれたが、原山は健康を理由に弁護人を辞退してしまう。
女弁護士の佐原律子(岩下志麻)が国選弁護人として選ばれ、昭和57年1月、球磨子の裁判が再開された。
殺害の目的で福太郎と結婚し、多額の保険金をかけて自らの運転で福太郎を溺死させたと訴える検察に対して、球磨子は車を運転していたのは夫であり、夫の運転ミスによる事故死であると訴える。
第五回の公判、福太郎の遺体を鑑定した医師安西(小沢栄太郎)は、助手席の荷物入れに出来ていたヘコみと膝の傷痕が一致したことから、福太郎が助手席に座っていたと主張した。
律子は海水の入ってきた車内において、中にいた者は脱出しようと無我夢中で暴れるであろうことから、傷がどの段階でできたなどと断定することは難しいのではないかと安西を追い詰めていく。
次の証人、藤原(森田健作)は自身の車のヘッドライトにより球磨子が運転席に座っているのを目撃したと証言したが、律子は夜の埠頭においてヘッドライトの灯りだけで車の中の様子を正確に捉えることは難しいはずだと主張し、証言のあいまいさに斬り込んでいく。


寸評
殺人容疑者の女性と彼女を弁護することになった女性弁護士の感情のぶつかり合いが面白いが、何と言っても殺人の容疑を掛けられている桃井かおりの存在が際立っている。
善良な女性が殺人の疑いを掛けられながら正義感あふれる弁護士とともに疑いを晴らし無実を勝ち取るといったパターン化された話ではない。
話の面白さは松本清張の原作によるものだろうが、兎に角、容疑者の桃井かおりがとんでもない女なのだ。
証拠がないことから無実を主張しているが、その態度は反抗的で誰が見ても夫を殺したのではないかと思われるのだ。
口のきき方もひどいし、ちょっとしたことでもキレる直情型のいやらしい女を桃井かおりがふてぶてしく演じている。
保険金詐欺事件は時々報じられているが、生命保険と言う性質上、犯人は女性であることが多い。
大抵は犯人心理として分からないように殺害していると思われ、この事件のような荒っぽいものではない。
球磨子が言うように、自分が死ぬかもしれないようなリスクを犯すことはないのだろう。
しかし本作における球磨子を見ていると、警察関係者や新聞記者たちが球磨子を犯人と思っても仕方がないと思ってしまう。
裁判では証人に食って掛かるし、傍若無人な振る舞いを見せ、弁護士や裁判長から叱責を受けている。
過去の犯罪歴は関係ないと言っても、やはり印象として先入観を持ってしまう。
ふてくされた態度を演じさせると桃井かおりは天下一品だ。

相対するのは切れ者の弁護士がぴったりの岩下志麻で、桃井かおりとは対照的な女性をスマートに演じている。
岩下志麻を完全無欠な女性と描くことはせず、子供がありながら夫と離婚している女性としている所がいい。
夫には新しい女性がいるのだが、夫から見れば完璧すぎる岩下志麻との生活を窮屈だと感じていたのだろう。
後妻となる真野響子に安らぎを覚えたのだと思う。
この夫婦関係が、嫌味な女である桃井かおりが嫌悪感を持って言う「あんたみたいな生き方はしない」という言葉を生かせている。
登場する男たちに比べて女たちはしたたかで強い。
山田五十鈴のクラブのママが岩下志麻に言い放つ言葉など強烈で、岩下志麻に女性として欠落している部分を言い当てている。
弁護士の佐原律子が国選弁護人であることで、好んで球磨子の弁護を引き受けたわけではないことが二人の対決を盛り上げていて、窓越しの二人の対決は見応えがある。
律子は証言内容をあらかじめ把握していなかったようなので、少年の証言は彼女にとってはギャンブルだったのだろうか。

元はと言えば福太郎の情けない行為が招いた事件である。
女であれ、ギャンブルであれ、入れ込んでしまうと回りが見えなくなってしまうのだろう。
その為に身を持ち崩した男が僕の周りにもいた。
判決はなるほどそう言うことだったのかというものだが、最後までふてぶてしさを見せた桃井かおりのストップモーションによるラストシーンがこの映画の総てを物語っていた。

甘い汗

2024-10-10 10:23:42 | 映画
「甘い汗」 1964年 日本


監督 豊田四郎
出演 京マチ子 池内淳子 桑野みゆき 佐田啓二
   小沢栄太郎 山茶花究 名古屋章 小沢昭一
   市原悦子 千石規子 沢村貞子 春風亭柳朝

ストーリー
梅子(京マチ子)は、油のにじむドブ川の上に立ち並ぶ飲食街のバーに勤める女給であった。
父の事故死以来、水商売の世界を転々として36歳の今日まで一家を支えて来た。
梅子が19歳の時生んだ娘竹子(桑野みゆき)も、今では立派に高校へ通っていた。
だがその梅子も、よる年波には勝てず、ライバルすみ江(木村俊恵)との口喧嘩は、きまって嫉妬の入り交った感情が原因であった。
そんな梅子にバーテンの藤井(小沢昭一)は新橋で古美術商を営む権藤(小沢栄太郎)を紹介した。
彼女のヒモになろうとした藤井は梅子に断わられると、権藤に梅子の素性を暴露し、この話は失敗に終った。
梅子の一家の住む都営住宅には、三畳と六畳の二間に、母親の松子(沢村貞子)、弟の治郎(名古屋章)と妻の貞代(川口敦子)と二人の子供、治郎の弟三平(笹岡勝治)、それに梅子の娘竹子と八人家族がひしめきあっていた。
母親や弟達は、梅子のふしだらな生活を「世間体が悪い」と梅子母娘につらくあたったが、竹子は持前の朗らかさで母親を「梅子さん」と呼ぶ明るい娘であった。
ある日、貞代の兄の栄作(春風亭柳朝)が上京して、梅子の家に滞在した。
竹子の、のびのびとした肢体に魅かれた栄作は、その夜、竹子に挑みかかった。
なにもかもいやになった竹子だが、梅子は知ってか知らないでか、あいかわらず酒に酔っていた。
その頃、ドブ川の区画整理で、梅子の働く店もとられ、梅子は、バーの仲間にそそのかされ、竹子が学校で借りて来たテープ・レコーダーを使って、情事を録音して飯のたねにしようとたくらんだ。
そんなある日、梅子は、かつての恋人辰岡(佐田啓二)に再会した。


寸評
「羅生門」、「雨月物語」、「地獄門」といった作品によって海外の映画祭で数々の賞を受賞して「グランプリ女優」と呼ばれた京マチ子が主演する映画である。
この時の京マチ子は「羅生門」から14年も経っており、すっかり豊満な体になっているのだが、その肉体がこの作品に輝きを与え冒頭から画面を圧倒する。
若いスミ江と言い争いになり、「垂れた胸など魅力がない」と言われた梅子は着ていた衣服を脱ぎブラジャー姿となって胸を叩いて「垂れてないわ」と叫んで取っ組み合いが始まる。
この冒頭のシーンだけで京マチ子に圧倒されてしまう。
水商売の世界にいて、体を張って生き抜いていることがこのシーンだけで分かるし、これから繰り広げられるドラマも十分すぎるほど理解させるシーンとなっている。
タイトルの「甘い汗」は甘い蜜と言い換えても良い。
梅子は甘い蜜によって男を引き寄せているのではなく、男が梅子の甘い蜜を吸い取ろうとしているのだ。
雑魚寝するしかないような家に住んでいるが、時間は不規則で酔いつぶれて友人を狭い部屋に連れ込んでくるので、家族は彼女の存在が不満でならない。
一家は彼女の稼ぎで生きてきたような所があるのだが、勝手なものでそんなことは忘れ去られている。
劣悪な環境だが娘の竹子は明るくしっかり者で、酔った母親を「梅子さん」と呼び、慰めてやるような関係だ。
竹子を演じた桑野みゆきがまた良くて、彼女の代表作の一つと言っても過言ではないだろう。

梅子は権藤の妾になろうとするが、バーテンの藤井との関係から失敗する。
竹子が学校の発表会で使うテープ・レコーダーを持ち出して、情事の様子を録音して強請りに使おうとするが、それも失敗に終わる。
梅子は悪女の姿も見せるのだが、昔の恋人である辰岡の前では少女のような女らしさを見せる。
騙されたと知っても辰岡が殺されそうになると身を挺して助けようとする。
梅子は、いい女なのか、悪い女なのかわからない二面性を持った女性だが、彼女が生きていくためにはそうするしかなかったのだろうし、それが女の強さでもある。
飛び出していく竹子にお金を渡そうとして追いかけていくのは、母親としての母性が残っていた証だろう。
タクシーで去っていく竹子はかつての自分の姿と重なる。
梅子は子供を見捨てることが出来ずに戻ってきたが、竹子は母親を見捨てて戻ってくることはないだろう。
梅子は「さあ、殺せ!」とのたうち回り、竹子は「こんな親は死んじまえ!」と叫んだのだ。

好人物を演じることが多かった佐田啓二だが、本作では小悪人の辰岡をやっていて、昔の恋人でもある梅子を騙して山茶花九の店を乗っ取ってしまう。
運転手が起こした事故で亡くなってしまい、数カットの撮り残しがあったようだが、生きていればどのようなシーンが挿入されていたのかと興味がわく。
「甘い汗」は佐田啓二の遺作となった。
37歳と言う早逝で、その時長女の中井貴恵が7歳、長男の中井貴一は2歳半だったのだから、奥さんの苦労もあったろうと思うが、奥さんは事故を起こした運転手を責めることはなかったというからエライ。

尼僧物語

2024-10-09 07:44:56 | 映画
「尼僧物語」 1959年 アメリカ


監督 フレッド・ジンネマン
出演 オードリー・ヘプバーン  ピーター・フィンチ
   イーディス・エヴァンス  ペギー・アシュクロフト
   ディーン・ジャガー    ミルドレッド・ダンノック
   コリーン・デューハースト ビアトリス・ストレイト

ストーリー
ベルギーの都会ブルージスの家を棄てて、ガブリエル・バン・デル・マルは修道院に入った。
医師として有名な父バン・デル・マル博士をはじめ、弟妹たちや恋人ジャンの住む俗世との縁を絶って、修道志願女としての彼女の生活が始まった。
師長のシスター・マルガリタや、シスター・ウィリアム、修道院長マザー・エマニュエルのもとで、厳しい修道の日日が彼女に課せられる。
沈黙、謙譲と没我、絶えざる反省と自己叱責の連続に、落伍していく修道志願女たちもあった。
こうして、彼女は見習尼となり、シスター・ルークの名を与えられた。
彼女の望みは、やがて看護尼としてコンゴに派遣されることだった。
熱帯医学の学校にやらされることになった彼女は、そこで、かつてコンゴにいたことのある、同じコンゴ行きを望むシスター・ポーリンとの反目に苦しんだ。
マザー・マルセラは、彼女に謙譲の心を示すために、わざと試験に失敗することができるかと聞いた。
しかし、苦しみの末、結局彼女は優秀な成績で試験に合格し、シスター・ポーリンとともに学校を卒業した。
ブリュセル近郊の精神病療養所での奉仕の生活を経て、彼女は、かねて望みのコンゴに派遣された。
シスター・ルークはここでヨーロッパ人病棟を受けもたされた。
外科医フォルテュナティ博士の下で働くこととなった彼女は、博士の有能な助手として、彼女の仕事は休む暇もなかった。
ハンセン病患者収容所を経営するブエルミュレ神父を奥地に訪ねたり、現地民の青年イルンガを寛容の心によって信仰に帰依させたりして、彼女の生活は続いた。
過労による結核菌の感染もフォルテュナティ博士の手あてによってなおった。
だが、シスター・ルークはベルギーに呼びもどされた。
故国はナチスの軍隊にふみにじられようとしていた。


寸評
映画は父や弟妹と別れてガブリエルが修道院に入るところから始まる。
それから描かれるのは厳しい戒律の中で過ごす彼女の姿で、沈黙、謙譲と没我、絶えざる反省と自己叱責の連続を淡々と描いていくだけなので、そこに大きなドラマは発生しない。
儀式の物珍しさに興味がわくものの、ドラマを期待する者には退屈な内容となっている。
それにも係わらず観客を引っ張っていけるのはガブリエルを演じるオードリー・ヘプバーンの清楚な姿である。
長い髪を切り落とし修道女の衣服をまとった彼女の容姿には、観客をうっとりとさせてしまう雰囲気が漂っている。

落伍していく修道志願女のエピソードや、精神異常者による暴行など、ちょっとした出来事があるものの、本格的なドラマは熱帯医学の学校に行ってから描かれることになる。
学校ではコンゴ行きを望むシスターに謙譲の心を示すために、わざと試験に失敗することができるかとマザー・マルセラから言われて悩むことになる。
彼女は苦しみの末に試験に合格するのだが、マザー・マルセラの宗教者としての助言には疑問を持つ。
後に、あの助言は間違いであったと別のシスターに述べさせているが、命を預かる医療従事者に対してお目こぼしがあってはならないと思う。
僕は宗教家の欺瞞を感じてしまった。
彼女は人間を磨くためにコンゴ行のメンバーから外される。
学校では飛びぬけて優秀なように描かれていたのだが、試験の成績は8人中4番目だったのは意外で、トップだったけれどメンバー漏れとなった方が良かったと思うが、それだと現実味がなさ過ぎたかもしれない。

シスター・ルークとなったガブリエルがコンゴに行ってからは見応えが出てくる。
先ずはコンゴの自然が我々を迎えてくれる。
フォルテュナティ医師とのやりとりも変化をもたらすが、一番の出来事は占い師に言われた現地人がシスターを撲殺したことだ。
キリスト教は善で、土着の宗教は悪と言っているようで、白人至上主義を感じる。
別の現地人がシスター・ルークに「犯人を恨まないのか」と尋ねると、シスター・ルークは「我々はすべての人を許す」と答える。
しかし、ベルギーに戻ったガブリエルは侵攻してきたドイツ軍に父親を殺されたことで、ドイツへの憎しみを消し去ることが出来ず修道院から出ていくことになる。
すべての人を許すと言っていた彼女なのに、自分の父親となると平常心ではいられないのだ。
殺されたシスターはガブリエルには結局のところ他人だったのだ。
厳しいことを言えても、自分の子供には甘くなってしまうようなものだ。
それが人間と言うもので、僕は見ていてどうも人間性に欠ける修道女たちの姿が異様に感じ続けていた。
映画は、自己を抑制する厳しい戒律と、本来の自分の心との間で葛藤する一人の尼僧の姿を描いていたのだが、僕の宗教観からどうもこの作品には乗り切れないものがある。
レジスタンスに身を投じるガブリエルの心変わりの描き方も弱かったように思う。
僕にはオードリー・ヘプバーンでなければ存在しない作品となっている。

東京裁判2

2024-10-08 08:54:33 | 映画
「東京裁判」 1983年 日本


監督 小林正樹

昭和23年1月22日。ポツダム宣言にもとづいて、連合軍最高司令官マッカーサー元帥が、極東国際軍事裁判所条例を発布し、戦争そのものに責任のある主要戦犯を審理することにした。
満州事変から中国事変、太平洋戦争におよぶ17年8ヵ月間、日本を支配した指導者百名以上の戦犯容疑者の中から、28名が被告に指定され、法廷は市ヶ谷の旧陸軍省参謀本部(現自衛隊市ヶ谷駐屯地)に用意された。
裁判官及び検事は、降伏文書に署名した9ヵ国と、インド、フィリピンの計11ヵ国代表で構成され、裁判長にはオーストラリア連邦代表、ウイリアム・F・ウェッブ卿が、主席検察官にはアメリカ合衆国代表、ジョセフ・B・キーナン氏が選ばれた。
開廷した裁判所では、まず起訴状の朗読が行われ、第一類・平和に対する罪、第二類・殺人、第三類・通例の戦争犯罪および人道に対する罪に大別され、五十五項目におよぶ罪状が挙げられた。
この裁判の一つの特徴は、戦争の計画や開始そのものの責任を問う「平和に対する罪」を設定したことである。
弁護側は、戦争は国家の行為であり、個人責任は問えないと異議の申し立てを行ったが、個人を罰しなければ国際犯罪が実効的に阻止できないとの理由で、裁判所はこれを却下した。
28名の被告のうち、大川周明は発狂入院して免訴となり、元外相松岡洋右と、元帥海軍大将永野修身は公判中死亡した。
残る25名のうち、土肥原賢二大将、坂垣征四郎大将、木村兵太郎大将、松井石根大将、東条英樹大将、武藤章中将、広田弘毅元首相の7人が絞首刑を宣告され、他の被告は終身刑または有期刑であった。

後半の感想です。

寸評(後半)
後半は三国同盟関係の審議から始まる。
裁判の様子が描かれるのと共に、その事案に対する説明をする形で記録映像が結構な時間を割いて流される。
ドイツ大使であった人が以下の3点を挙げて、三国同盟で軍事的な相互援助はなかったと証言する。
1.ドイツは日本の英国との参戦を望んだ
2.ドイツは独ソ開戦後、日本に対し独軍がモスクワに迫っていた時にソ連への攻撃を望んだ。
3.ドイツは日米開戦を望まず、日本は独自に始めた
日本は思惑もあってそれらを実行しなかったのだろう。
それでは一体、三国同盟とは何だったのだろう?

ソ連段階におけるソ連検事は日露戦争を持ち出し、両国で解決済みであった張鼓峰事件やノモハン事件も持ち出すと言う滅茶苦茶な論告を行う。
戦勝国の横暴が垣間見られる。
東京裁判はこの映画を見ても極めて政治的な裁判であったことがうかがえる。
戦勝国が敗戦国を裁くと言うのもどうかと思うし、「平和に対する罪」などというそれまでになかった後付け罪によって裁かれたのもどうかと思う。
やはり一番は戦争責任の所在として、国家と個人の関係をどう判断するかであったと思う。
日本は曲がりなりにも議会が存在し内閣が存在し、国家の意思として戦争が行われていたのだから個人の責任を問うのはどうだったのかと思うが、しかし統帥権を持ち出して関東軍のような暴走を止められなかった軍指導部の責任は問われるべきだろう。
ただしそれは日本人自身の手によって裁かれるべきだったのではないかと思う。
それが出来ていないので、僕には未だに大東亜戦争、太平洋戦争の総括が出来ていないように感じる。

興味を引いたのが強硬だった裁判長のウェッブが罪状に関して彼らを無罪としたことで、天皇に責任があるとする彼は、天皇が無罪である以上は彼らも無罪でないとバランスに欠けると主張したことだ。
政治よりも法が上位にあると言うのが彼の信念であり、それは当然のことなのだが、主席検察官のキーナンが当時の状況を考慮しアメリカの意向をくんだことへの反抗だったというのが僕には新発見だった。
戦後日本の統治に天皇を利用するとするアメリカの思惑が支配した天皇責任問題だったのだろう。
もちろんインドのパル判事の主張はもっともだと再確認できた。
パル判事が言うように欧米における植民地政策はそもそも侵略だったのだ。
最後に1950年の朝鮮動乱から1972年のベトナム戦争状況まで、その後も世界で動乱、武力衝突が起きていること、ベトナム戦争における有名な少女の悲惨な姿を映して映画は終わる。
今も相変わらず戦争は起きており、虐殺は行われているのだ。
戦勝国における武力行使はその国によって正当化されて実行されているのが現実なのだ。
僕は戦後の生まれで、戦争そのものを経験していないし、戦争指導者の名前も数えるほどしか知らない。
戦後処理についても詳しいわけではない。
そんな僕にとっては、東京裁判と言う戦後処理の一端を、興味を持って知り得たのは良かったと思う。

東京裁判1

2024-10-07 08:43:53 | 映画
「東京裁判」 1983年 日本


監督 小林正樹

昭和23年1月22日。ポツダム宣言にもとづいて、連合軍最高司令官マッカーサー元帥が、極東国際軍事裁判所条例を発布し、戦争そのものに責任のある主要戦犯を審理することにした。
満州事変から中国事変、太平洋戦争におよぶ17年8ヵ月間、日本を支配した指導者百名以上の戦犯容疑者の中から、28名が被告に指定され、法廷は市ヶ谷の旧陸軍省参謀本部(現自衛隊市ヶ谷駐屯地)に用意された。
裁判官及び検事は、降伏文書に署名した9ヵ国と、インド、フィリピンの計11ヵ国代表で構成され、裁判長にはオーストラリア連邦代表、ウイリアム・F・ウェッブ卿が、主席検察官にはアメリカ合衆国代表、ジョセフ・B・キーナン氏が選ばれた。
開廷した裁判所では、まず起訴状の朗読が行われ、第一類・平和に対する罪、第二類・殺人、第三類・通例の戦争犯罪および人道に対する罪に大別され、五十五項目におよぶ罪状が挙げられた。
この裁判の一つの特徴は、戦争の計画や開始そのものの責任を問う「平和に対する罪」を設定したことである。
弁護側は、戦争は国家の行為であり、個人責任は問えないと異議の申し立てを行ったが、個人を罰しなければ国際犯罪が実効的に阻止できないとの理由で、裁判所はこれを却下した。
28名の被告のうち、大川周明は発狂入院して免訴となり、元外相松岡洋右と、元帥海軍大将永野修身は公判中死亡した。
残る25名のうち、土肥原賢二大将、坂垣征四郎大将、木村兵太郎大将、松井石根大将、東条英樹大将、武藤章中将、広田弘毅元首相の7人が絞首刑を宣告され、他の被告は終身刑または有期刑であった。

非常に長い作品なので感想は前後に分けて記載します。

寸評(前半)
付随する記録映像を交えながら極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判を克明に描いているが、もちろん制作側の意思も反映されており東京裁判における疑問も投げかけられている。
映画はポツダム会談の様子から始まり、原爆投下が映されたのちに昭和天皇の肉声で終戦の詔勅がルビを付した字幕付きで全文読み上げられる。
その間にサイパンやフィリピン戦、B29による東京大空襲、ラングーンでの惨状、無謀な特攻が背景として描かれ敗戦を物語る。
我々は終戦時における玉音放送はドキュメンタリー番組などで度々耳にしているが、その大抵は「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す」という部分である。
僕はこの映画で初めて全文を聞くことが出来たのだが、その中では「さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず」との弁明が如き部分もあったことを知った。
「昭和万葉集」の一句、「あなたは勝つものとおもっていましたかと老いたる妻のさびしげにいふ」が心に残る。

8/30にマッカーサーが厚木に到着するが、本土決戦を目指している部隊が残っている中で敗戦処理に係わる人たちの綱渡り的な苦労があったことを、僕はドキュメンタリー番組で知っていた。
彼らは戦争継続を叫ぶ部隊からの攻撃を避けるために偽装機を飛ばしたりして米軍基地にたどり着き、帰りの飛行機では海岸に不時着せざるを得ないような状況にあいながらも書類を東京に持ち帰っている。
まだ日本は混乱していたのだ。
ミズリー号で降伏文書に調印するが、日本はマッカーサーの帝国となったとのナレーションは的を射ている。
外地を含めて武装解除され、「天皇の名において戦いを初め、天皇の名において戦いをやめた」もまた的を射たナレーションだ。
東條の自殺も描かれ、彼の命を救うための輸血に協力した米兵が「彼を生かして裁判で処罰しなければならない。安らかに死なせるのは手ぬるい」と恨みの言葉を残しているのだが、マッカーサーにもフィリピンを追われた屈辱にたいする恨みが多分にあったと思う。
ニュールンベルグ裁判も描かれるが、ここで「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が制定され、今までになかった概念を持ち出して裁いた東京裁判はやはり問題ありだろう。
東京裁判ではA級戦犯として28名が裁かれたのが、なぜ28名だったのかは被告席の椅子が28だったからで、その為に名簿から外された者がいるとの指摘があり、そうだとすれば初めから随分といい加減な裁判だったと言え、
関東軍作戦主任参謀だった石原莞爾が自ら言っているように、彼が被告とならなかったのはどう考えてもおかしいと思う。
東京裁判が開幕するが、ここまでに40分近くを要している。
裁判長のウェブなどは裁判を公正、公平に行うと宣言していながら最初から偏見を持って臨んでいるのも戦勝国による裁判の限界だろう。
被告席では大川周明が東条英機の頭を叩く滑稽なシーンも映っている。
罪状の中で満州事変に触れられ、そこに至る状況がかなり詳細に描かれている。
前半は日本側の被爆一周年の様子と、日本での連合国戦勝一周年記念パレードを映して終わる。

パレード

2024-10-06 07:01:37 | 映画
「パレード」 2010年 日本 

                                
監督 行定勲                    
出演 藤原竜也 香里奈 貫地谷しほり 林遣都
   小出恵介 竹財輝之助 野波麻帆 中村ゆり
   正名僕蔵 キムラ緑子 石橋蓮司

ストーリー            
都内のマンションをルームシェアする4人の男女。
映画会社に勤める健康オタクの直輝はこの部屋に最初から住んでいる最年長。
一方、イラストレーターで雑貨屋店員の未来は、おかまバーの常連。
また、先輩の彼女に恋をした大学3年生の良介は告白する勇気が出ずに悩んでいる。
そして無職の琴美は若手人気俳優と熱愛中。
そんな彼らはそれぞれ不安や焦燥感を抱えながらも、“本当の自分”を装うことで共同生活における互いの均衡を保っていた。
しかし、いつしか男娼のサトルがこのマンションに住み着くのと時を同じくして、町では女性を狙った暴行事件が連続して発生、これを境に彼らの穏やかな日常は次第に歪み始め、やがて思いもよらない事態を招いていく…。


寸評
冒頭からテレビで流れる近所の連続暴行事件のニュースがなにやら不穏な空気を演出するミステリアスな展開で始まるがそれが増幅されるまでには至っていない。
登場人物が変な人間ばかりであることが現実性を稀薄にしているのを割り引いたとしても、彼らの日常生活がよくわからないので、疑いとか不信感などが新たに湧いてこないし、想像を膨らませていくような展開ではない。
したがってこれはミステリー映画とすれば失敗作である。
だから最後の結末にも驚きはないけれど(犯人は早い段階で予測できる)、彼らは知っていたのかの疑問を呈すると余韻の残る結末ではあった。
まさにこの映画のテーマはそこにあったのではないか?

彼らは4人の共同生活を送っている。
今では稀薄となっている他人との係わりをもった生活なのだが、かれらはそれぞれに干渉しないことで関係を維持している。
適度な距離で心地よい生活を維持しているようである。
プライベートでは他人との接触を拒む人が多い現代人が、自分を晒して周りの人間と社会を築いていくことは出来るのだろうか?
それとも知って知らぬふりをしながらも、心地良い空間だけをもとめて係わりを持っていく世の中が増長されていくのか?
適度な距離と関係だけではたして生きていくことは可能なのだろうか?
ある意味で現代の若者社会へのそんな疑問とを描いたホラー映画でもある。
その角度から見れば割愛した部分もあるとはいえ、コンパクトに凝縮した脚本と演出はかなり質の高いものだとも思える。

それにしても行定監督作品としては僕にとって「GO」以来不作が続いていたのだが、本作はもうひと踏ん張り欲しかったけれど何とか楽しませてくれた作品となった。
これはひとえに琴美をやった貫地屋しほりさんの演技によるところが大きかったと思う。
けだるいしゃべり方だけど核心を突くような発言をし、小悪魔的であるようなないような…。
「彩恋」で初めて見染めてから、なんとなく気になっていた若手女優さんだが才能が開花しつつあると感じさせた。

バルフィ! 人生に唄えば

2024-10-05 11:56:59 | 映画
「バルフィ! 人生に唄えば」 2011年 インド  

    
監督 アヌラーグ・バス     
出演 ランビール・カプール プリヤンカー・チョープラ
   イリヤーナ・デクルーズ

ストーリー
生まれつき耳が聞こえず、話すこともできない青年バルフィ。
しかし、彼の眼差しや表情、あるいはジェスチャーは言葉以上の表現力を持ち、誰とでも心を通わせることが出来た。
1972年。絶世の美女シュルティと出会い、一目惚れするバルフィ。
しかし、彼女は資産家の男性と婚約中だった。
それでも、バルフィの温かい心に惹かれていくシュルティだったが…。
一方、バルフィの幼なじみの自閉症のジルミルは、家族の愛に恵まれず心を閉ざして生きてきたが、偶然バルフィと再会して惹かれていく。
止むに止まれぬ事情から富豪の孫娘であるジルミルの誘拐を企てるバルフィ。
紆余曲折の末、計画は頓挫してしまうも、自分から離れようとしないジルミルと一緒に逃亡生活を送るハメに。
1978年。愛のない結婚生活を送るシュルティは、バルフィと偶然の再会を果たすが…。


寸評
摩訶不思議なインド映画だ。
そもそもインド映画そのものが僕にとっては摩訶不思議な世界をもっているという先入観が有る。
主人公三人の内、バルフィは話すことが出来ないし、ジルミルは自閉症で会話らしい会話が出来ない。
したがって主人公をとりまくセリフは最低限だ。
それを2時間半も引っ張る作品に仕上げていることにインド映画の底力を感じる。
ともすれば重たくなってしまう内容なのにエンタメ性の高い作品になっている。
もちろんインド映画特有の歌ありダンスありの内容は際立ってはいないが伝統を受け継いでいた。
表情やしぐさで彼らの心理を描き、田園風景や下町の様子などの美しい映像に、歌と音楽をかぶせて台詞の少なさを十分すぎるほど補っていた。
そのあたりがこの映画の持つ摩訶不思議さだったのだろう。

ドラマの中心はシュルティとのラブロマンスで、それは典型的な許されざる恋の物語で、そこに絡んでくるのがバルフィの幼なじみの自閉症の少女ジルミルで、言ってみれば男と二人の女性の三すくみの恋物語なのだが、単純な三角関係でないのがこの作品に奥行きを持たせている。
その奥行き感は時代をシーンを重ねるなどして縦横無尽に行き来することでさらに高めている。
映画は途中休憩(実際に休憩時間があったわけではないが)をはさんだ二部構成になっている。
前半はバルフィとシュルティの恋物語で、バルフィがシュルティの両親に結婚を申し込みに行くシーンが泣かせる。
後半はバルフィとジルミルのピュアすぎるとも言える愛が感動を誘う。
そしてバルフィの父が病に倒れたことから起きる事件や、上手く表現できない自閉症のジルミルが書いたメモが重要なファクターとなってミステリー性を醸し出していく。
全体的に少し間延びしている印象を持ち、もう少しコンパクトにまとめていればと思いつつ見ていたのだが、これはバルフィの人間性を表現するために必要な時間だったのだと徐々に感じ始めた。
ラストはラブロマンスを人間讃歌につなげる心憎い展開だったと思う。

バルフィがジルミルに捧げる愛情を見守るシュルティの複雑な気持ちが手に取るように分かり、切なさがひしひしと伝わってきた。
ジルミルの呼ぶ声が聞こえないバルフィに、それを伝えるシュルティの表情が秀逸だった。
少し前に発したシュルティの独白が思い出され、彼女の複雑な気持ちが伝わってくるいいシーンだ。
久しぶりのインド映画を満喫したが、始まってすぐに流れる歌の訳詞に驚いてしまった。
映画館での注意事項などが盛り込まれていて、これは映画の中の歌なのか、始まる前の注意事項を歌にしたものなのか戸惑ってしまったが、でもそれが僕をしてスムーズにインド映画の世界に導いてくれた。
愉快。

のぼうの城

2024-10-04 07:54:52 | 映画
「のぼうの城」 2011年 日本 

                                         
監督 犬童一心 樋口真嗣                           
出演 野村萬斎 佐藤浩市 榮倉奈々 成宮寛貴
   山口智充 上地雄輔 山田孝之 平岳大
   平泉成 夏八木勲 鈴木保奈美 西村雅彦
   前田吟 中尾明慶 尾野真千子 市村正親
   芦田愛菜 中原丈雄 
                           
ストーリー
天下統一を目前にした豊臣秀吉は、最後の敵となった北条勢への総攻撃に乗り出す。
秀吉は、石田三成に周囲を湖で囲まれ「浮き城」の異名を持つ「忍城(おしじょう)」を落とすように命じる。
包囲された小田原城を残し、支城が次々と陥落していく中、周囲を湖に囲まれ“浮き城”の異名を持つ“忍城”にも危機が迫る。
ところが、小田原城の援軍に向かった城主・成田氏長に代わって城を任された従弟の長親は、のんびり屋で何を考えているか分からず、武将としての器も到底あるようには見えなかった。
しかしなぜか領民からは慕われていて“でくのぼう”が由来の“のぼう様”という嘲笑と親しみが入り交じるアダ名で呼ばれていた。
そんな長親に対し、秀吉の命を受けた石田三成が総勢2万の大軍を率いて開城を迫ってきた。
忍城に残る500の軍勢では太刀打ちできるわけもなく、長親に秘かな想いを寄せる城主の娘・甲斐姫や、長親の幼なじみで歴戦の猛者・丹波はじめ、誰もが開城を受け入れるものと思っていたが…。


寸評
水攻めによる日本三大攻城戦と称される忍城の戦役をユーモアを交えて描いている。
史実に基づいてと出るが、どこまでが史実なのかは私の浅学により不明である。
でもたしか榮倉奈々が演じた甲斐姫はかなりの女武者で、数々の逸話を残し、この戦でも活躍したはずだと何かの書物で読んだ記憶が有って、エンタテインメント性も上がることだしもう少し甲斐姫なんかの活躍があっても良かったのではないかなと感じた。
甲斐姫の描き方は、成田長親への思慕などと共に少し中途半端な立ち位置になっていたように思う。
最初の頃は野村萬斎のクサイ大芝居が鼻についていたのだが、終わる頃には馴染んでいたので”のぼう様”として、敵も味方も、そして映画を観ている者までの心も掴んでしまっていたのかもしれない。
船上で見せる狂言もあって、このキャスティングは成功していたと思うし、観客はリラックスして楽しめる。

長束正家が全くのバカとして描かれているが実際もそうだったのかもしれない。
この戦で三成の戦下手が定着した感のある石田三成も大谷吉継の忠告を聞かないバカ大将として描かれているが、最後に体面を取り繕わせたのは三成の名前のせいだったのだろうかと思わせた。
史実でもあの堤は決壊しているが、それが時ならぬ豪雨によるものか人為的なものなのかは不明の様だ。
史実では援軍も到着した実に大掛かりな攻城戦となったようであるが、その結末は小田原本城の陥落もあって呆気ないものとなった。
それでも、落城は落城であって、そこには余人の立ち入れぬ壮大なドラマもあったはずだが、そこいらあたりはこの作品の構成もあって軽いものになっていた。
成田長親は、実はでくのぼうではなかったのですよという結末は容易に想像できたのだが、ちょっと迫力不足。

最後に現在の今はなき忍城辺りを映し出すが、歴史を変えるまではいかなくても、郷土の英雄と誇れる人がいて、その遺構などが残っている地方都市を羨ましく思える。
この作品の様に、想像たくましく自分の中に偉人を育て上げる楽しみの様なものを有せるから・・・。

ドライブ

2024-10-03 07:36:50 | 映画
「ドライブ」 2011年 アメリカ


監督 ニコラス・ウィンディング・レフン                 
出演 ライアン・ゴズリング キャリー・マリガン
   ブライアン・クランストン クリスティナ・ヘンドリックス
   ロン・パールマン オスカー・アイザック
   アルバート・ブルックス                    

ストーリー
自動車修理工場で働く孤独で寡黙なその男は、卓越したドライビング・テクニックを買われ、映画のカースタントマンとして活躍する一方、夜には強盗の逃走を手助けする闇の仕事も請け負っていた。
家族も友人もいない孤独なドライバーは、ある晩、同じアパートに暮らすアイリーンと偶然エレベーターで乗り合わせ、一目で恋に落ちる。
不器用ながらも次第に距離を縮めていく2人。
彼女の夫スタンダードは服役中で、今は幼い息子との2人暮らし。
ほどなくスタンダードが出所してくるが、本心から更生を誓う夫を見たアイリーンは、ドライバーに心を残しながらも家族を守る選択をするのだった。
しかし、彼は服役中に多額の借金を背負ってしまい、妻子の命を盾に強盗を強要されていた。
絶体絶命のスタンダードに助けを求められたドライバーは、妻子のために彼の強盗計画のアシストを無償で引き受けたのだが…。


寸評
アメリカの犯罪映画といえば、どうしても派手なアクション映画になりがちだが、この映画はフレンチノワールかと思わせる、クールでスタイリッシュな作品となっている。
映画のオープニングはいきなりの強盗シーンなのだが、犯行そのものは映さず犯人たちの逃走をサポートする主人公に焦点を当てて彼の姿を抑制的に描写する。
カーチェイスなどもあるけれど派手さはないので、よくあるギャング映画と一線を画していた。
さらに、主人公の背景などの説明は一切なく、彼のセリフを必要最小限に止め、当初は表情もあまり変化しない主人公を見せることでこの映画の雰囲気を決定づけていた。
ボーン・シリーズやミッション・インポシブルシリーズもいいけれど、僕はどちらかというとこの様な雰囲気の映画の方が好きだ。

愛する女性を守る為とは言え、アイリーンの目の前で見せた"容疑者X"の如き献身的な愛を捧げる男の初めて見せる凶暴さに、彼女が愕然とするシーンが秀逸だった。
青春映画の様なアイリーンとのデートシーンなどによる純愛路線から一挙にサスペンスに持ち込む区切りとしていた。
奪った金の処理は良かったと思うのだが、敵対する相手がとてつもない巨大な組織と思えず、主犯をあっさりやっつけてしまえば終わりじゃないのかと感じたのは天の邪鬼なのだろうか?
寡黙なドライバーを演じた主人公のライアン・ゴズリングもよかったが、人妻役のキャリー・マリガンの哀愁を感じさせる演技が作品を引き立てていたと思う。
ショッキングピンクのクレジットタイトルと、語学に堪能でない私は歌詞の内容はわからなかったけれど、聞こえてくる歌声は良かった。

BIUTIFUL ビューティフル

2024-10-02 08:37:20 | 映画
「BIUTIFUL ビューティフル」   2010年  スペイン / メキシコ


監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ        
出演 ハビエル・バルデム マリセル・アルバレス
   エドゥアルド・フェルナンデス ディアリァトゥ・ダフ
   チェン・ツァイシェン アナー・ボウチャイブ
   ギレルモ・エストレヤ ルオ・チン

ストーリー
スペイン・バルセロナ。
この大都市の片隅で、厳しい現実と日々対峙して生きているウスバルは、離婚した情緒不安定で薬物中毒の妻を支えながら、2人の幼い子供たちと暮らしている。
決して裕福とはいえず、生活のためにあらゆる仕事を請け負っていたウスバルは、ときには麻薬取引、中国人移民への不法労働の手配など違法なことにも手を染めて日々の糧を得ていた。
しかし、争いごとの絶えない日々のなか、ウスバルはしばしば罪の意識を覚えていた。
ところがある日、彼は末期ガンと診断され、余命はわずか2ヵ月と告げられる。
ウスバルは家族に打ち明けることもできず、死の恐怖と闘いながらも、残された時間を家族の愛を取り戻すために生きることを決意する。
死の恐怖にも増して、何よりも遺される子どもたちの今後が、苦しみとして重くのしかかってくるウスバルだったが…。


寸評
非常にリアル感のある映画で、ドキュメンタリータッチともいえる演出が主人公ウスバルの苦悩を描きだす。
非合法営業を続ける黒人たちを警察が追い散らしながら逮捕するシーンなどはニュース映画を見るような迫力があった。
最初の子供達との食事シーンでのやりとりから、父親が子供を叱責するシーンまでの流れは、生活に余裕がなく父親であるウスバルが毎日イラついているのだと、自然に感じさせる演出だ。
そして、その後のおねしょにかかわる会話のやりとりを見せられると、この父子には強い愛の絆が存在しているのだということも感じさせられる。
何気ない数少ないシーンの積み重ねで全体の状況把握を迫る演出は上手いと感じさせる。
主人公が死の宣告を受けるシチュエーションは数々あるが、この作品では悲劇性を強調するでもなく、また希望や未来を描くでもなく、それでいて死を恐れる心は存在する姿を生々しく描いて、極めて現実的な話に思えて、とてもドラマを見ているという感覚にはなれなかった。
感情の起伏を内に秘めながら、微妙な心理の変化を表現するハビエル・バルデムの演技は素晴らしいの一言。
そして、時としてやさしい母親であり、時として子供を虐待するような薬物中毒の妻の存在もストーリーを重厚にし、演じたマリセル・アルバレスの貢献も大。
ウスバルは不法滞在者の人材派遣などで金を稼いでいて、警官にも賄賂を渡している犯罪者なのだが決して悪徳ではない。
むしろ移民たちのことを思いやる気持ちを持った善人的なところもある。
しかし、犯罪を犯していることには違いはないので、自分が死んだら一体誰が子供達の面倒をみるのかの思いは切実で、演出のリアリティさがその切実感を観客である我々に同化させる。
これだけのリアリティを持っている中で、異質なのがウスバルに死者の声を聞く能力があることで、これが父親を幻想の中に見る効果の一翼を担っている。
冒頭とラストの美しい森のシーンを強調する役目も担っていたと思うが、決して見終わった時に明るくなれる映画ではない。
僕などはむしろ絶望を感じてしまったくらいだ。
一体、あの子供達はどうなってしまうのだろう・・・。
同行者がいればひと悶着ありそうなエンディングは、形はどうあれ映画に余韻と問題提起を残し、この映画は面白いと思わせた。
「BEAUTIFUL」が「BIUTIFUL」になったエピソードの使い方なども巧みだが、父から受け継いだ指輪のエピソードもいい。
本篇を取り巻く中でなによりいいのは音響と音楽だった。
これだけの重い映画でありながら2時間半を長く感じさせなかった演出に感嘆した。