ぼくは日本に生まれて、日本人として日本に育ち、当然ながら日本文化の強い影響を受けて自己形成した。その意味では日本の文化も風土も愛している。しかしただひとつ、ぼくは日本の現在の政治体制には疑問を持ち反対する。そういう立場を右翼は「反日」と呼んで、攻撃し排除しようとしてくる。そして残念ながらそんな「愛国」右翼の大半は日本の歴史も文化も伝統的倫理感も何も知らない。彼らが知っているのはただ明治政府が作り出し、昭和ファシズムが完成させた「近代日本国家主義」のプロパガンダだけなのである。
もちろん、ぼくを攻撃してきたのは右翼だけではない。もっと実利的な意味で国家権力もぼくのことを執拗に、しかも効果的に攻撃してきた。まあこれは「理解」しよう。反体制派は国家にとって最も排除すべき敵だからだ。これには右翼も左翼もない。権力対反権力ということだ。公安警察や公安調査庁には、もちろん歴史も伝統も文化も理屈も何も関係ない。職務として命令されたことに疑問を持たず、政府と国家を守るために(そして役人としてマイナス評価をうけないように)一所懸命に仕事をしているだけだ。
日本の精神文化や美意識を一言で表現できる人はいない。ただ武士文化の影響が大きいことは指摘できる。そこにあるのは、勇猛果敢、滅私奉公、忍耐、謙譲・謙虚、恥を知る、潔さ、というイメージであろうか。
2000年のシドニーオリンピック柔道100キロ超級決勝戦で、篠原信一選手は誤審(八百長?)によって金メダルを逃した。マスコミがさかんに問題を追及する中で篠原氏は「自分が弱いから負けた。それだけ」と発言、まさにサムライ的な忍耐と潔さを示した。なかなか出来ることではない。出来ないことをやるからこそ賞賛されるのではあるが。
右翼は日本精神が大好きである。しかし彼らはそれを実践しているのだろうか。むしろ実態は全く逆のように見える。いわゆる行動右翼はしばしば事実上暴力団と一体化している。暴力団の論理は日本精神の真逆と言って良い。ようするに建て前と本音、表向きと実態として悪びれもせず矛盾したことを堂々とやっているのである。
決してそれは暴力団だけの話では無い。多くの保守政治家もまた同じようなものなのだ。憲法がアメリカから押しつけられたと言いながら、同じく米国から押しつけられた安保体制は何が何でも守りぬこうとする。日本の尊厳を言いながらアメリカのポチになる。個人主義は日本の伝統に反すると言いながら、資本家がブラック企業で儲けられるだけ儲けることは擁護する。
一番日本精神から遠いのは、謙虚さと潔さに全く欠けているところだ。極右、ということは最も右翼精神を持っていなければならないはずの安倍総理には、謙虚さも潔さもない。憲法を改正すべきと言いながら、多数決では不利と見ると勝手な解釈で強引に押し切り、今度は現憲法の正当性を語る。重要法案に対するパブリックコメントが大量に寄せられても、全く耳を貸す気はない。従軍慰安婦問題があることを認めるのに「強制はなかった」「日本の名誉が傷つけられた」と、口先だけで本音は反省していない態度を露骨に示す。安倍政権の閣僚も松島法務大臣に代表されるように、批判を「雑音」と言い放つ不遜さである。安倍政権のおかげで日本はどんどん「美しい国」から遠ざかっている。
もっとも謙虚さが無いのは日本の右翼や政治家に限ったことではない。ひとつには近代というものが謙虚さの否定の上に存在しているからだ。近代は個人の絶対性を基盤に据える。それは西欧近代合理主義に基づいた個人主義であり、どこまでも自己主張することこそが正しいこととされるのである。
それは科学技術の面では「人間が自然を支配する」「人間に不可能はない」という思想として現れる。
米国でエボラ出血熱の国内感染が明らかになった。日本も含めてこれまで先進国各国では医療体制と衛生環境の整った先進国内においてエボラ出血熱が流行することはないと言ってきた。しかしまさに世界的にも最高水準にあるだろうアメリカの病院施設内で感染が起こった。これは大変重大な問題である。先進各国の「安全宣言」を安易に信用することが出来なくなったのだ。
たしかに「絶対」はあり得ない。しかし「絶対」でなくてはいけないこともある。しかもさらに悪質なのは「絶対」でないことを「絶対」であると宣言し、それで人々を丸め込もうとするところである。それは自分たちのやることを正当化し、強行することを認めさせ、その結果、人々を危険にさらすことなのだ。
病気だけの話では無い。温暖化と生物の大量絶滅、少子化と人口爆発、イスラム原理主義の拡大、原子力と放射能汚染、永久の経済発展と治安悪化の阻止。いずれも政治家や評論家は制圧・コントロールが可能だと言い張るけれど、そんな保証はどこにもない。どころか、おそらく不可能である。
人間には何も出来ないのだ。それが出来ると言い、出来ると思い込むのは人間のおごりだ。そして、おごりは破滅への道を意味する。さらに言えば、出来ないと分かっていることを出来ると言って事実を隠すのは最悪だ。
前述したように「人間に不可能はない」というスローガンは近代のものである。それ以前の人間社会には神が存在し、人間がおごる存在であることを自覚し、神による懲罰を恐れていた。
近代は確かにおそるべき科学技術の発展をもたらしたが、だからと言って人間の限界が無くなったわけではない。今にあっても人間にとってほとんどのことは不可能であり、また不可知なのである。
自然に対しても社会に対しても人々に対しても、われわれは世界に対して常に謙虚でなくてはならない。謙虚であると言うことはバランスを取るということであり、また共生することである。そこにあるものをまずコントロールしようとするのではなく、その存在をまず認めることが必要である。
その意味で日本人が古代から持っていた価値観や美意識は、謙虚さとあきらめる潔さ、自然や他者と共生することの意義をしっかり教えてくれる。戦後の平和憲法が定着し、あらゆる否定的な宣伝が圧倒的な物量で繰り返されても、なお多くの人の支持を得るのは、それがアメリカに押しつけられたなどという低次元の問題ではなく、まさに日本の歴史的・伝統的思想にマッチしたからである。
日本人の持つ感性を代弁した憲法前文のことを「みっともない」などと自虐的に否定する総理大臣に丸め込まれてはならない。われわれは日本人の謙虚さをしっかり持ち続け、自分のことを棚に上げて自己中心的にやりたいことをやるようなスタイルを恥に思うべきである。それこそが「美しい国」への道だと思う。
もちろん、ぼくを攻撃してきたのは右翼だけではない。もっと実利的な意味で国家権力もぼくのことを執拗に、しかも効果的に攻撃してきた。まあこれは「理解」しよう。反体制派は国家にとって最も排除すべき敵だからだ。これには右翼も左翼もない。権力対反権力ということだ。公安警察や公安調査庁には、もちろん歴史も伝統も文化も理屈も何も関係ない。職務として命令されたことに疑問を持たず、政府と国家を守るために(そして役人としてマイナス評価をうけないように)一所懸命に仕事をしているだけだ。
日本の精神文化や美意識を一言で表現できる人はいない。ただ武士文化の影響が大きいことは指摘できる。そこにあるのは、勇猛果敢、滅私奉公、忍耐、謙譲・謙虚、恥を知る、潔さ、というイメージであろうか。
2000年のシドニーオリンピック柔道100キロ超級決勝戦で、篠原信一選手は誤審(八百長?)によって金メダルを逃した。マスコミがさかんに問題を追及する中で篠原氏は「自分が弱いから負けた。それだけ」と発言、まさにサムライ的な忍耐と潔さを示した。なかなか出来ることではない。出来ないことをやるからこそ賞賛されるのではあるが。
右翼は日本精神が大好きである。しかし彼らはそれを実践しているのだろうか。むしろ実態は全く逆のように見える。いわゆる行動右翼はしばしば事実上暴力団と一体化している。暴力団の論理は日本精神の真逆と言って良い。ようするに建て前と本音、表向きと実態として悪びれもせず矛盾したことを堂々とやっているのである。
決してそれは暴力団だけの話では無い。多くの保守政治家もまた同じようなものなのだ。憲法がアメリカから押しつけられたと言いながら、同じく米国から押しつけられた安保体制は何が何でも守りぬこうとする。日本の尊厳を言いながらアメリカのポチになる。個人主義は日本の伝統に反すると言いながら、資本家がブラック企業で儲けられるだけ儲けることは擁護する。
一番日本精神から遠いのは、謙虚さと潔さに全く欠けているところだ。極右、ということは最も右翼精神を持っていなければならないはずの安倍総理には、謙虚さも潔さもない。憲法を改正すべきと言いながら、多数決では不利と見ると勝手な解釈で強引に押し切り、今度は現憲法の正当性を語る。重要法案に対するパブリックコメントが大量に寄せられても、全く耳を貸す気はない。従軍慰安婦問題があることを認めるのに「強制はなかった」「日本の名誉が傷つけられた」と、口先だけで本音は反省していない態度を露骨に示す。安倍政権の閣僚も松島法務大臣に代表されるように、批判を「雑音」と言い放つ不遜さである。安倍政権のおかげで日本はどんどん「美しい国」から遠ざかっている。
もっとも謙虚さが無いのは日本の右翼や政治家に限ったことではない。ひとつには近代というものが謙虚さの否定の上に存在しているからだ。近代は個人の絶対性を基盤に据える。それは西欧近代合理主義に基づいた個人主義であり、どこまでも自己主張することこそが正しいこととされるのである。
それは科学技術の面では「人間が自然を支配する」「人間に不可能はない」という思想として現れる。
米国でエボラ出血熱の国内感染が明らかになった。日本も含めてこれまで先進国各国では医療体制と衛生環境の整った先進国内においてエボラ出血熱が流行することはないと言ってきた。しかしまさに世界的にも最高水準にあるだろうアメリカの病院施設内で感染が起こった。これは大変重大な問題である。先進各国の「安全宣言」を安易に信用することが出来なくなったのだ。
たしかに「絶対」はあり得ない。しかし「絶対」でなくてはいけないこともある。しかもさらに悪質なのは「絶対」でないことを「絶対」であると宣言し、それで人々を丸め込もうとするところである。それは自分たちのやることを正当化し、強行することを認めさせ、その結果、人々を危険にさらすことなのだ。
病気だけの話では無い。温暖化と生物の大量絶滅、少子化と人口爆発、イスラム原理主義の拡大、原子力と放射能汚染、永久の経済発展と治安悪化の阻止。いずれも政治家や評論家は制圧・コントロールが可能だと言い張るけれど、そんな保証はどこにもない。どころか、おそらく不可能である。
人間には何も出来ないのだ。それが出来ると言い、出来ると思い込むのは人間のおごりだ。そして、おごりは破滅への道を意味する。さらに言えば、出来ないと分かっていることを出来ると言って事実を隠すのは最悪だ。
前述したように「人間に不可能はない」というスローガンは近代のものである。それ以前の人間社会には神が存在し、人間がおごる存在であることを自覚し、神による懲罰を恐れていた。
近代は確かにおそるべき科学技術の発展をもたらしたが、だからと言って人間の限界が無くなったわけではない。今にあっても人間にとってほとんどのことは不可能であり、また不可知なのである。
自然に対しても社会に対しても人々に対しても、われわれは世界に対して常に謙虚でなくてはならない。謙虚であると言うことはバランスを取るということであり、また共生することである。そこにあるものをまずコントロールしようとするのではなく、その存在をまず認めることが必要である。
その意味で日本人が古代から持っていた価値観や美意識は、謙虚さとあきらめる潔さ、自然や他者と共生することの意義をしっかり教えてくれる。戦後の平和憲法が定着し、あらゆる否定的な宣伝が圧倒的な物量で繰り返されても、なお多くの人の支持を得るのは、それがアメリカに押しつけられたなどという低次元の問題ではなく、まさに日本の歴史的・伝統的思想にマッチしたからである。
日本人の持つ感性を代弁した憲法前文のことを「みっともない」などと自虐的に否定する総理大臣に丸め込まれてはならない。われわれは日本人の謙虚さをしっかり持ち続け、自分のことを棚に上げて自己中心的にやりたいことをやるようなスタイルを恥に思うべきである。それこそが「美しい国」への道だと思う。