あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

カナダ乱射事件を自分のこととする

2014年10月24日 00時00分42秒 | Weblog
 カナダ・オタワの国会議事堂内外で銃の乱射事件が起きた。カナダ議会がイスラム国に対する空爆に参加する決定をしたこと、ノーベル平和賞のマララ・ユスフザイ氏がカナダ名誉市民受賞式に参加するためにオタワに滞在していたことなど、背景については色々言われている。
 射殺された実行者は当局に事前にマークされており、シリアに渡航しようとしたがパスポートを没収されてたのだという。この事件の前にモントリオールでカナダ軍の軍人が自動車にひき殺される事件が起きているが、この犯人も同様にパスポートを没収されていたそうだ。

 これらの実行者は別に海外から潜入したわけではない。逆に出国を止められた人が、その代わりに(?)国内で事件を起こしているのである。
 ぼくたちがよく理解しておかなくてはならないのは、これこそが21世紀の戦争なのだということだ。日本でも安倍政権が集団的自衛権行使容認で海外派兵をすれば、日本が戦争に巻き込まれると言われている。しかし大多数の人はそれを海外で自衛隊が戦闘をするとか、日本に外から軍事勢力が攻め込んでくるというようなイメージでしか考えていないように見える。もちろんそういうことはあり得ないことではないが、そんな戦争は軍隊がするものだという世界大戦以前のような認識はもう過去のものになりつつあることに気づくべきだ。

 21世紀型の戦争は軍対軍ではないし、国家対国家でもない。もはや敵も味方も液状化し、誰もが被害者になり得るし、また誰もが攻撃者になり得るのである。それは別の言い方をすれば我々の社会の内部に戦争が内包されてしまったということである。戦争の理由も、戦争の当事者も、戦争の手段も、すべてが実は自分たちの社会の中に存在しているのだ。

 もちろんこれは大変深刻な問題である。ハードにこれと戦うためには社会を監視社会にし、秘密警察社会にしていくしかない。しかしそうすればするほど、人も物も思想もますます地下に潜っていき見えなくなっていくだけだ。
 表側に見えていることに対していくら対処していっても、それは事態を悪化させるだけなのだ。前に書いたたとえだが、痒いところを掻いてしまえば皮膚炎はどんどん重症化する。それをあえてがまんして薬を塗り、根本治療をしなくてはならない。社会も同じだ。
 世界がどんどん格差を広げていくことが、それはつまり近代の「欲望の完全解放」を是とする根底的思想によるものだが、それが続く限り、現代社会の病はおさまることはないだろう。

 カナダも、そして米国や英国、オーストラリアなど各国が「テロには屈しない」と勇ましい宣言をしあっている。しかしそれはもはや何の「抑止力」にならない。いくら強面の対応をしても、それが逆に状況を悪化させるだけになってしまう。現状に反発する人々は、どんどん追い詰められて過激化していく。彼らから奪えば奪うほど、彼らに守るものが無くなり、全てを捨てても良いというハードルをどんどん引き下げてしまうのだ。

 正直に言えば、その意味では多くの人が戦後ずっと現行憲法を規範としてやってきた日本は、比較的格差の小さな、平等で平和な社会である。今ならまだ最悪の事態を回避できるかもしれない。日本は様々な間違いと限界を抱えているとは言え、多くの人々の努力で西欧先進国とは違うあり方を模索してきた。今こそその特質を世界平和のために十分発揮するときである。戦うことではなく話し合うことで、戦争ではなく平和によって世界の調停役の地位に自分たちを高めていくべき時である。
 日本を「普通の国」にしてはならない。確かにそれは簡単な話ではない。それは痛みを伴う。自分たちの誤りを認め、おそらく何かしらのものをあきらめねばならないだろう。平和も名誉も地位も富も、その全てを同時に手にすることなど出来るはずはない。何を手にし何を手放すのか、その決断をせねばならない。何が一番大切なのか、何を自ら捨てるのか、それをしっかり考えるときが来ているのである。
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