橋下徹大阪市長兼維新の党共同代表の支離滅裂さが止まらない。いったいこういう人に権力を持たせておいて良いのだろうか。恐ろしい気がするとともに、少し哀れさも感じる。
つい先日、ヘイト団体である在特会の会長と訳の分からないバトルをやった橋下氏が、今度は在日韓国・朝鮮人に与えられている特別永住者制度を廃止し一般永住者制度に一本化する必要があると発言した。もう聞いている方が大混乱である。
当ブログでも指摘したとおり、橋下氏は結局のところナショナリズムという点では在特会と全く同じ立場であり、前回の会談もようするにただ注目を集めるためのパフォーマンスでしかなかったことを、いみじくも証明したような形になった。
特別永住者制度があるからヘイトスピーチが生まれるという論理は、100パーセント在特会の主張と同じである。論理の専門家である弁護士がいったいなぜこんな混乱した発言をするのだろう。こんな言い方をして人々を煙に巻けると思っているのだろうか。
橋下氏の主張はつまり、差別が無くならないのは運動=反差別運動があるからだから、運動を無くせ、学校のイジメ問題が起きるのはいじめられる子がいるせいだから、学校からいじめられる子を追い出せ、というようなものである。
本質的な差別やイジメ自体を否定し、無くすことを目指すのではなく、差別やイジメの対象そのものを排除しようとするものであり、まさに差別排外主義以外の何ものでもない。
これを見ていると、あの沖縄米軍の司令官に米兵の性犯罪を止めるために「地元の性産業を活用しろ」と言ったり、性奴隷のようなことはどの国にもあったのだから従軍慰安婦もしかたがなかったと言ったりしたのを思い出す。普通には誰も納得しないような奇妙な論理をわざわざ言い回るのだ。橋下氏はなぜいつもこんな矛盾と混乱に満ちた対応をするのだろう。
橋下氏を見ていて感じるのは、この人には理想というものがないんだなという印象である。自分が信じる絶対的正義のようなものを持っていないのだ。だからと言って現実をそのまま肯定するのかというとそういうわけでもない。何かに対して必死で闘っている。それはいったい何か。
つまり彼は自分と闘っているのだ。と言うより強烈な上昇志向に自分を奪われているのだ。彼の目的は自己実現以外なにも無い。それ以上でもそれ以下でもない。何のためというものは無い。だから、その中心には底知れない空虚があるだけである。
彼にとって政治は社会とか民衆とかの為のものではない。彼にとっての政治は公ではなく完全に自分の自己実現の手段としての私的なものでしかない。彼の強烈な権力欲は、他者をより多くより強く支配することによって自己評価を高めたいという衝動である。
そして彼は常に自己確認し続けなくてはならない。そうしないと不安に押しつぶされてしまうのだ。自分は本当に強いか、自分は本当に権力を握っているか、自分は本当に偉いのかと。それが奇矯にさえ見えるパフォーマンスの数々なのである。
このように自分の内側に何も持たない人をニヒリストと呼ぶ。
また改めて書くけれど、それは実はシリアへ渡航しようとした学生と本質的には同じものである。ただ彼の空虚を埋めるものがタレント政治家という流行か、イスラム国という流行かという違いだけなのだ。
橋下氏を政治家の場所から引きずり下ろして、彼を権力欲の呪縛から解き放ってあげる方が、彼にとっては良いことなのかもしれないと思う。
つい先日、ヘイト団体である在特会の会長と訳の分からないバトルをやった橋下氏が、今度は在日韓国・朝鮮人に与えられている特別永住者制度を廃止し一般永住者制度に一本化する必要があると発言した。もう聞いている方が大混乱である。
当ブログでも指摘したとおり、橋下氏は結局のところナショナリズムという点では在特会と全く同じ立場であり、前回の会談もようするにただ注目を集めるためのパフォーマンスでしかなかったことを、いみじくも証明したような形になった。
特別永住者制度があるからヘイトスピーチが生まれるという論理は、100パーセント在特会の主張と同じである。論理の専門家である弁護士がいったいなぜこんな混乱した発言をするのだろう。こんな言い方をして人々を煙に巻けると思っているのだろうか。
橋下氏の主張はつまり、差別が無くならないのは運動=反差別運動があるからだから、運動を無くせ、学校のイジメ問題が起きるのはいじめられる子がいるせいだから、学校からいじめられる子を追い出せ、というようなものである。
本質的な差別やイジメ自体を否定し、無くすことを目指すのではなく、差別やイジメの対象そのものを排除しようとするものであり、まさに差別排外主義以外の何ものでもない。
これを見ていると、あの沖縄米軍の司令官に米兵の性犯罪を止めるために「地元の性産業を活用しろ」と言ったり、性奴隷のようなことはどの国にもあったのだから従軍慰安婦もしかたがなかったと言ったりしたのを思い出す。普通には誰も納得しないような奇妙な論理をわざわざ言い回るのだ。橋下氏はなぜいつもこんな矛盾と混乱に満ちた対応をするのだろう。
橋下氏を見ていて感じるのは、この人には理想というものがないんだなという印象である。自分が信じる絶対的正義のようなものを持っていないのだ。だからと言って現実をそのまま肯定するのかというとそういうわけでもない。何かに対して必死で闘っている。それはいったい何か。
つまり彼は自分と闘っているのだ。と言うより強烈な上昇志向に自分を奪われているのだ。彼の目的は自己実現以外なにも無い。それ以上でもそれ以下でもない。何のためというものは無い。だから、その中心には底知れない空虚があるだけである。
彼にとって政治は社会とか民衆とかの為のものではない。彼にとっての政治は公ではなく完全に自分の自己実現の手段としての私的なものでしかない。彼の強烈な権力欲は、他者をより多くより強く支配することによって自己評価を高めたいという衝動である。
そして彼は常に自己確認し続けなくてはならない。そうしないと不安に押しつぶされてしまうのだ。自分は本当に強いか、自分は本当に権力を握っているか、自分は本当に偉いのかと。それが奇矯にさえ見えるパフォーマンスの数々なのである。
このように自分の内側に何も持たない人をニヒリストと呼ぶ。
また改めて書くけれど、それは実はシリアへ渡航しようとした学生と本質的には同じものである。ただ彼の空虚を埋めるものがタレント政治家という流行か、イスラム国という流行かという違いだけなのだ。
橋下氏を政治家の場所から引きずり下ろして、彼を権力欲の呪縛から解き放ってあげる方が、彼にとっては良いことなのかもしれないと思う。