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自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

マルクス主義への視点

2014年10月19日 14時47分37秒 | Weblog
 先日の記事『「科学者は金持ちになろう」?』に対するコメントへの返信の中で、ぼくは自分に「過去の一般的なマルクス主義者とは少し違う点がある」と書いた。良い機会なのでそのことについて少し書いてみたい。とは言え、まだ何かまとまったものがあるわけではなく、いわばぼくのマルクス主義への視点に関する作業メモのようなものにしかならないのだが。
 細かいことを言ってもしかたないので、最も大きな点について書く。

 まず政治論、革命論、組織論の点だ。従来からのマルクス主義者の多くは基本的に「マルクス・レーニン主義」もしくは「マルクス・レーニン主義+トロツキー主義」であった。
 確かにレーニンが史上初めてマルクス主義を掲げて革命に成功したのは事実だが、しかしレーニンの革命手法はあくまでも20世紀前期のロシアという限定された状況における個別特殊な手法であって、それをマルクス主義革命のスタンダードとして普遍化するのには無理がある。
 おそらくレーニンのボルシェヴィキ組織論は、亡命先におけるインテリ革命家を組織する上で出来上がったもので、ぼくが思うに労働者一般や民衆を組織する論理ではない。そこにおける厳しい「鉄の掟」は一番には直接現場にはいない、ややもすれば観念的な指導者たちに対する締め付けとしてあった。もちろんツァーリの秘密警察による過酷な弾圧に打ち勝つために秘密結社として活動しなくてはならなかったロシア国内の現実からも必要だったろうが、しかしそれは、100歩譲ってもあくまで革命党内に限定された統制であるべきで、民衆に求めるべきものではなかった。
 しかしレーニンは自分の革命の成功と防衛に必死になったために、革命直後から民衆を弾圧する政策に手を染めてしまい、それがスターリンによって純化されて継承されスターリン主義に「発展」したのである。
 スターリン主義の害悪はもうあらためて列記するまでもないが、まさにこの形態がマルクス主義のスタンダードとして世界に「輸出」され、いわゆる「東側諸国」の国内弾圧政策容認の根拠となったのである。

 ただレーニンの手法が、レーニン主義としてマルクス主義者の中でスタンダード化したのには理由がある。そこにぼくはマルクスの限界を見る。つまり第二の視点として哲学的、思想的にマルクスが近代の乗り越えを画策しながら、実際には近代主義の手のひらの中から出ることが出来なかったという点である。
 マルクス主義者はみな実践至上主義者である。よくマルクスの有名な言葉「哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである」が引用され、言葉より実践だと言う。
 しかしこれこそ近代主義そのものではないのだろうか。つまり「神を殺した」近代は倫理や道徳、論理やご託より、現実的な実践を重んじ、かつそれを正当化してきた。つまり実利主義である。そのことが人類史上最大の驚異的な経済発展を実現する思想的原動力となった。だがそれは同時に様々な問題を引き起こした。
 地球温暖化をもたらした産業の暴走とスターリン主義へと暴走した共産主義運動とは、実は近代の実践至上主義という同根なのではないのか、というのがぼくの疑念である。
 マルクス主義の実践至上主義がもたらした弊害の最大のものは、批判と自己批判の自由を制約したということだ。
 実践家は自己批判が出来ない。なぜなら実践における失敗は実践において解決しなくてはならないからだ。たとえば賃上げを勝ち取るという方針が出る。そこで失敗した場合、それを信じてついてきた同志たちに「方針が間違ってました」とは言えない。それは清算主義である。責任をとるとは必ず賃上げを勝ち取ることなのであり、次にはより強力な戦いを実現しようということになる。誤りの指摘は外部からしかできないし、もっと言えば、間違った方針を出した組織がつぶれて新しい方針を出した組織が出現するという、よりダイナミックな形で誤りが修正されていくのである。しかし当然、新しい組織も必ずどこかで間違うだろう。
 実践上の誤りのスパイラルからの脱却は、つまりそのとき実践から自由=離れている者の指摘によるしかない。それを受忍する、いわば寛容さが必要なのである。

 さらにマルクスの近代主義的陥穽は、その論理を近代合理主義の上に構築していることにある。もっと突き詰めて言えば科学主義の上にマルクス主義が作られていることが問題なのである。
 たしかに19世紀において科学主義は絶対的正当性を持っているように見えた。しかしたとえば量子論などに見られるように、すでに現代科学は実証性によって必ずあるひとつの結論にたどりつくとは限らないという地平にまでやってきた。マルクスとエンゲルスが措定した史的唯物論も、新発見や新解釈によって唯一の正解とは言えなくなってくるだろう。「科学性」「客観性」に根拠をおく思想は、逆に「科学」や「客観」という概念そのものが揺らいだとき、崩壊せざる得ないのだ。
 今はまだちゃんと言えないのだが、ぼくはそれを突破する方向性は、マルクスが排斥した「宗教」の中に隠されているのではないかと考えている。もちろんこの場合、宗教と言ってもそのへんの宗教法人のことを言うのではない。いわばプレ宗教というような、人間の価値観を規定する何ものかなのだが。

 もうひとつ経済政策についてだが。
 現在、社会主義というとイコール「計画経済」であると考えられている。しかしこれもどこかおかしい。それでは資本主義経済に計画はないのだろうか。無いとしても無いままでどこまでやっていけるのだろうか。
 誰しもスミスの「神の見えざる手」が、人類の未来を自動的にコントロールして座礁と漂流から守ってくれるとは思っていないだろう(おそらくスミス自身もそんなことは考えていなかったと思うが)。グローバリズムの時代などと言うけれど、経済が本格的に国際的になった以上、人類が経済活動に計画性を持ち込むことは必然である。
 計画経済というものを、単純に企業の国有化だなどと考えるのは誤りであろう。現実の社会の中では多くの企業が株式会社になっている。つまり企業がある部分においては共有化されているだ。より多くの人が株主となり、かつ株主が平等の権利を有するようになれば(つまりひとり一票とか)、それだけでもう生産手段の公有化と言えるかもしれない。
 マルクスは生産手段の私有化を廃し公有化することで、社会主義=共産主義社会を建設していくプランを持っていた。つまり生産点での構造を変えることを第一にしていたわけだが、むしろ現実から考えれば分配点の構造を変えることの方が先なのかもしれない。つまり先に生産物の分配を平等化する、すなわち格差を是正することから、結果的に生産手段の私有化的状況を実質的に変えることになるかもしれない。

 この場合、おそらく完全なる平等ということは、少なくとも近代に近接する時代においては難しいだろう。政策的調整はどうしても必要になる。たとえば人気のない仕事、難しい仕事、人がやりたがらない仕事などには、やはり他よりも高い配分を出さなくてはならないかもしれない。
 考え得るのは最低保障と最高収入の差を、たとえば10倍以内というように限定するやり方である。生活保護がひとり年間150万円なら収入として得られる最高額を1500万円にする。200万なら2000万だ。この最低保障をベーシック・インカムとしてあらかじめ支給し、逆に最低賃金を廃止するというのはどうか。ちょっと乱暴か。財産も最高収入の10倍まで認めるようにする。つまり個人で1億から2億くらいの資産はよしとすれば、おそらく現状でもほとんどの人の生活に影響は出ない。

 重要なのは経済発展を指標にしない、望まないと言うことだ。経済発展が人間を幸福にするわけではない。むしろ現代においては経済発展の結果、地球環境が破壊されている現状がある。この点においてマルクスはあまりにも楽観的だった。マルクスは経済の永続的、無限の発展が共産主義を実現すると考えていたようだが、それはまさにファンタジーである。
 われわれが知っている歴史においては、経済発展は格差の拡大しか生んでこなかった。富裕と貧困は相関的なものである。ゼロサム的と言ってもよい。平等になれば富裕層もいなくなるが貧困層もいなくなる。当たり前のようだがそれが社会主義なのだと思う。少ない富を分け合う社会であって何が悪いのか。というより、おそらくそんなに悲観するほど地球人類の富は少なくはないと思う。

 相当に荒っぽいことを並べ立てた。また暴力論などについては触れる余裕がなかった。だが今のところ、こうした諸点がぼくのマルクス主義への視点である。出来るかどうか分からないが、こうした点を深めていけたらいいなと思っている。
コメント
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