ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

■日本を変える力

2012-09-22 09:06:49 | 本の話・素敵な話

日本の心を伝える会
メールマガジンNo.522

 2012/6/20
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■日本を変える力


戦前の時代と聞くと、多くの現代日本人は、軍国主義の時代、カーキ色一色に塗りつぶされた暗い時代といったイメージを持たれているようです。

本当にそうだったのでしょうか。

ラビ・バトラ(Ravi Batra)という人がいます。
パキスタンの生まれで、米国に住む世界的に有名な経済学者です。
彼はインドの大哲学者プラブハット・ランジャン・サーカー(ヨガの指導者としても有名)を師とし、サーカーが昭和34(1959)年に唱えたプラウト理論を継承しています。

プラウド論というのはひとことでいえば、社会を支配する階層が、戦士(Warrior)、知識人(Intellectual)、資本家(Acquirer)が順別に循環し、歴史が展開されるという階級循環論です。

で、そのラビ・バトラが、日本の明治から大東亜戦争までをどうみているかというと、これが実は、「知識人の時代」とみているのです。
戦後世代の私たちがイメージするような「武人の時代」ではないのです。

実際問題として、明治から昭和の大東亜戦争にかけての日本の支配層は、現代の我々からみても、ものすごく教養の高い人たちです。
たとえば東条英機首相は、陸軍の出身で軍人ではあるけれど、それ以上に実に教養豊かな人であり、数カ国語に通暁し、しかもその書はいまどきの日本の民主党内閣総理大臣などは及びもつかないほど立派です。

http://blog-imgs-46-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/20120513111741f58.jp
この写真は、東条英機首相がまだ陸軍大臣だった当時の昭和16(1941)年秋の頃に、「靖国之絵巻」の表紙に題字として揮毫されたものです。
実に見事なものです。
ちなみに背景にある絵は、横山大観です。
たいへん格調高く仕上がっています。

東条英機氏が、すくなくとも階級循環論でいう「資本家/富者」でなかったことは、他の誰でもない、GHQが証明しています。

戦争が終わりGHQが日本にやってきたとき、彼らは東条英機元首相の青森の居宅まで行って、しらみつぶしに家宅捜索したのです。

「あれだけの戦争をやってのけた日本の首相なのだから、さぞかし莫大な財産を持っているだろう」というわけです。
そしてその「莫大な財産」を没収するために、彼らは、東京の公邸から青森の自宅、親戚筋の居宅までも、徹底的に家捜ししたのです。
ところが何も出ない。

彼らGHQは、なぜこんなに何一つ財産らしい財産を持たない貧乏人が日本の総理大臣だったのかと、あまりにも不思議に思い、首をひねったといいます。
さらにいうと、東条家では、それだけ徹底的な家捜しを受けてさえ、なにひとつ財産がなかったことが、いまでもなによりの誇りです。

はっきりいえるのは、戦前の時代、私たちが軍国主義の時代とレッテルを貼って見ているその時代は、すくなくともカネ(=富者)が政権を担う時代ではなかった、ということです。

では彼らは、武人として、武力を背景に政権を担った人たちなのでしょうか。

なるほど東条首相は、陸軍の出身者です。
常住坐臥、死を覚悟しているという点では、まさに武人です。

けれど、彼は武力を背景にして政権を取ったわけではないし、国の内外で武力を弄して行動したという事実もありません。
そして何より、大東亜戦争の開戦に、もっとも慎重だったのが東条英機氏であったこと、だからこそ昭和天皇が東条君にと、総理の座を任命したという事は、歴史が証明していることです。

むしろ東条英機氏は、武人というよりも、非常に高い教養と知性で行動した人です。
すくなくとも、武器を手にして「強ければいい」「武力があれば何をやっても許される」という武力至上主義者の思考は、彼にはまったくありません。

そしてこのことは、当時の日本社会の支配層や、陸海軍の士官学校卒業生全員にいえることでもあります。
彼らは軍人である以上に、とてもつもなく優秀な知識人です。

当時の日本は、現実に外地に出兵し、戦争をしたではないか、これは武人の時代というべきではないか、という議論もあるかもしれません。

なるほど日本が軍を出動させ、戦争を行ったのは事実です。
けれど戦争前の海外出兵は、支那への派兵にしても、南洋への派兵にしても、国際条約に基づく約束事の履行です。

また戦争にあたっては、日本は逐一筋を通し、日清、日露、第一次大戦、大東亜戦争とも、丁寧に宣戦布告を行い、我が国の立ち位置と、戦争目的とその理由を明確に宣言しています。

これらいずれをとっても、単に武力を誇り、武力を持って相手を政治的に支配するという武人とは、あきらかに一線を画するものです。
むしろ考え抜き鍛え抜いた知性の発露として行われた国家行動というべきす。

マッカーサーは、昭和26(1951)年5月に、米国の上院軍事外交委員会で証言を行いました。
世に言う「マッカーサー証言」です。
米国において、上院軍事外交委員会というのは、最も権威ある最高の審議機関とされている委員会です。
なぜなら軍事外交は、国家レベルで最も重要な審議事項であるからです。

そこに召喚されたマッカーサーは、大東亜戦争について、次の通りの証言をしています。

Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
(彼ら日本人が戦争を始めた目的は、従って、安全保障の必要に迫られたためである)

従って(therefore)」というのは、この言葉の前にマッカーサーが述べたことを受けての言葉です。
彼がなにを述べたかというと、

1 日本人は働くことの尊さを知っている国民である。
2 日本には蚕(かいこ)以外に資源がなく、国民は資源を他から求めるほかはない。
3 米国がその資源を絶つことは、日本においては1千万人を超える人々が働く場を失う恐れがあった。

と述べているのです。
マッカーサーは、これを受けて「therefore」と言っているのです。

そしてこのときの証言でマッカーサーは、日本が開戦に踏み切った理由は「by security」とはっきりと証言しています。

セキュリティのため、と言っているのです。
つまり大東亜戦争は、日本が軍事侵攻を目的としたものではなく、あくまで自衛(セキュリティ)のため、やむなく戦わざるを得なかったと証言しているのです。

「やむを得ないかどうか」を判断し決定するのは、武力や財力ではありません。
知性であり教養であり理性です。
武力を背景とした威嚇行動や、利益のための侵略行動ではない。

要するに、当時の日本の政治権力は、経済力でも武力でもなく、知性によって治世が行われていた、ということです。

実際、正直なところ、いまの日本人でさえ、「立派な軍人」とは、武力を背景に威張り散らす人ではなく、立ち振る舞いがキチンとしているプロフェショナルな知的な人というイメージを持っているのではないでしょうか。
いまでも私たち日本人は、単に武力や暴力を背景に権力を欲しいままにするような人を、誰も尊敬などしない。

この点、昨今の日本のようにカネがありさえすれば、少々人格に問題があったても「社長さん、社長さん」と人が寄って来るご時勢や、どこぞの国ように、少々人格に問題があっても武力があれば何をしても許されるという社会構造を持つ国と、日本の戦前の社会構造は、明らかに一線を画しています。

こう考えてみると、戦前の日本という国がどういう国であったのかが、明確に形となって見えて来ます。
戦前の日本は、まさに知性の花が咲きほこる、輝く知識人の時代であった、ということができるのです。

そして戦争が終わり、戦後の復興の時代を担ったのも、この「戦前の教育を受けた」知識人たちでした。
彼ら知識人たちは、またたく間に焼け野原となった日本を復興させ、終戦時には世界の最貧国となっていた日本を、わずかな期間で、世界第二位の経済大国にまで育て上げたのです。

けれど、日本が経済の繁栄を謳歌しはじめた頃、日本社会はこうした知識人たちではなく、単に経済力をつけた富者が時代を担うようになっていきました。

深い教養や自己鍛錬など、まるで関係がない。
ひとえにカネがあれば勝者であり、勝ち組であり、何をしても許されるという社会風潮は、いまや日本中に蔓延してしまいました。

いまの日本は、富者でありさえすれば、日本国籍のない在日外国人であっても一定の権勢を得ることができるという社会構造になっています。

まさにラビバトラ博士のいう、「富者の時代」です。

では、この「富者の時代」を変えるのは、どういう力なのでしょうか。
循環論では、富者の時代の次にくるのは、武人の時代だといいます。
頭の弱い乱暴者が日本の新しい時代を築くのでしょうか。

私はそうではないと思います。
なぜなら、「武人」の形が変わってきているからです。

大昔の人の武器は刀や槍、弓でした。
近世は、銃器などの火力です。
近代では、ミサイルなどがこれに代わる武器、兵器となりました。

現代ではどうでしょうか。
ミサイルを持つ者が政治権力を担うのでしょうか。
ちょっと違う気がします。

現代社会における最大の武器は、むしろ「情報」にあります。
現代戦では、情報を早く的確に掴んだ者が、戦争に勝ちます。

このことを明確に証明したのが、イラク戦争でした。
イラク戦争では、米ソの大戦車部隊が砂漠で決戦をしたのですが、世界最強を誇ったソ連製の戦車部隊を、またたく間に粉砕したのは、日本製のジャイロスコープとGPSです。

戦いは、わずか5分で終わり、ソ連製の戦車は、全台が破壊され、米国側戦車部隊はまったくの無傷に終わったのです。

つまり、現代戦は、ドンパチやる前に勝負がついてしまう。

そう考えると「富者の時代」の次にくる「武人の時代」とは、情報武装した者、ということができそうです。

自民党内閣が倒れ、民主党内閣が誕生しました。
日本は最低の選択をしたものだけれど、良く考えてみると、これは、自民党という当時の富裕者の代表であった政党から、情報を操作する者へのバトンタッチだったようにも思えます。

彼ら民主党は、子供手当などのバラマキ情報を垂れ流し、国民を騙して政権を奪いました。
要するに嘘の情報を垂れ流すことで選挙という戦争に勝ったのです。

もちろん、嘘はバレます。
ですから、民主党政権というのは、社会の中心が、富者の時代から情報の時代へと変化する、いわば過渡的な政権であったということがわかります。

では、次に来る政権は、どういうものでしょうか。

私はそれは、「情報の発信者となれる者」ではないかと見ています。
そしてその者は、金があるなしには関係がない。
むしろ、一昔前なら絶対に権力の場につけなかったような、お金に縁のない者が、新たな情報の発信者となり、世論を喚起し、政権を担う、そんな社会ではないかと思うのです。

ただし、情報は、「ただの情報」である限り、世間は動きません。
人は情報(=理屈)では動かない。
頭で理解するだけで、行動には結びつかないのです。

人は、「感じて」、動きます。
感じて動くを漢字にしたら、「感動」となります。

時代が変わるということは、時代の中心となる価値観が変わるということです。
つまり、情報が感動と結びつき、人々の価値観を変えるはたらきをするとき、新しい時代がはじまる。

私たちは今、大きな時代の境目に立っている、ということです。
そして次代を担うのは、情感に訴える情報の発信源となる者なのではないか。
そんな気がします。


回回回回回回回回回
<編集 配信>
日本の心を伝える会
<代表者ブログ>
ねずさんの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/




ねずきちさんから 本当にいろいろ 教えて頂いています。

ねずきちさん 長生きして下さい。

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