戦時中は海外の世論に比べて国内では国家にプラスになる事しか発表されていませんでした。
逆に海外ではわが国のことをとても辛辣な表現方法で悪く言われていました。
国内では自分の国は正しい、自分の国はこれでいいんだとずっと言い続けていました。
最近になってそういう国内の情報操作は悪いことであると言われるようになってます。
それでは個人の心の問題でそういった表現の仕方が正しいのか正しくないのかを考えてみます。
周りの人から君がダメだ、君のやっていることは間違いだ、君の考え方はおかしい、と言われ続けたらどうなるでしょう。
間違っているところは修正をするでしょう。
修正と言うのはつまり反省のことです。
でもそれによって自分自身が全て悪い人間である、間違っているのである、と考えるのはこれも少しおかしいなと思うのです。
でも他人は他人の目線でものを見ます。
他人から見ると目線は逆です。
例えば商売相手としての自分はおそらくその他人に利益をもたらさない人、つまりそれは悪である、と考えられるのではないか と思うのです。
そうなると自分が損をすることを、他人の犠牲になること、他人の奴隷のような存在、になることが正しい と言わざるを得なくなります。
世界的に見て国家間も同じようなことが言えるのではないでしょうか。
だからよその国はよその国の目線で我々の国を悪く思い、悪く言う。
ある意味それは当然のことかもしれません。
しかしそれを100%真に受けて そうだそうだ と言っていると よその国のためにわれわれは犠牲になること、奴隷の状態になること、が正しいと言わざるを得なくなってしまいます。
で、それが自分の幸せであると考えている人は それはそれで結構だと思います。
が私はやはり普通の幸せになりたいと感じます。
だったら自己主張するべき。
それが当然のことだと思うのです。
自分が幸せになるために自分が良くなるためのことを主張する。
自分が得になることを主張する。
でも、それは相手にとっては逆になってしまいます。
お互いに自己主張をしていいと思うのです。
これが乱暴になったり暴力になったりしてどんどん発展していくと戦争になります。
で、良いのは適度なところでの交渉です。
その繰り返し、その程度の戦いが良い。
国家間の問題も個人の問題も その辺が1番頃合いの良い話の仕方ではないのでしょうか。
世の中に良い人というのは確かにいます。
そういう人は他人のことをしっかりと受け止め 自分に落とし込んで それに対して真摯に向かい合います。
でもそれがあまりにも受け身すぎると 先程言ったように自分のことをとことん追い詰め悪くしてしまう。
行き着くところはうつ病であり 体が動かなくなり 自分は存在しない方がいい、という事になってしまいます。
存在するなら他人の奴隷になる、とそれが正しいのだ と思い込んでしまわれます。
心底それが正しいと思い込んだとしても 自分の体や一般的な環境が 矛盾を生じさせて 結局はうつ病になってしまうでしょうね。
私が今まで1番悩んだとき、そのポイントは答えの出ない矛盾でした。
右が左左が右ですどっちが左でしょうと言う問いにどう答えたらいいかこれを延々と考え続けている。
その積み重ねで体に震えが来て、体が硬直し冷や汗が出て しまいには考えが奈落の底に突き落とされていきました。
奈落、それは自己否定です。
だから正しいものを否定しろと言われ一生懸命に正しいものを否定していくのですが そうしたら 否定した正しいものは正しくない と言うことになってしまい 正しいものを否定したことにならなかった、、、
結局答えが出ていない、答えはどこだ と延々と考え続ける。
でもって考えは、自己矛盾を起こさないためにしないといけない事は何だったのかということまでたどり着く。
結局は相手のことをそこまで考えなくていいので 自分の考えをしっかりと主張すること。
結局はそういう単純なところに帰りました。
ところが自分の意思を主張すると その主張自体を否定する人がいます。
お前の主張はダメだと言われます。
そもそも主張すること自体が悪だと言われます。
そういった否定の主張自体も主張なのかもしれませんが、その主張に甘んじてしまう必要もないと思います。
行って見れば自己主張自体そのものが小さな小さな喧嘩なのであります。
そういう風に考えると 喧嘩をしたくないと言うことをあまりに神経質に考えすぎると 自己主張自体もしないと言うところに戻ってしまいます。
本来、喧嘩をしちゃだめだよっていう本質は 主張しちゃダメだよって言うところまで戻ってしまってはいけないのです。
一般的には 喧嘩をしちゃダメだと言うのは 暴力とか著しい誹謗中傷と言うことを否定する という事を意味していると思ったらいいと思います。
ところがその物事の大きいか小さいかそれ自体も特定の自己出張によって判断されてしまいます。
でもまぁそういったことを神経質に考えること自体が受け身すぎるのかもしれませんね。
だから世の中の小競り合いと言うものは 生きるためにはある程度必要な行為だ、と開き直るしかないのではないでしょうか。
それでもって結局最後の言葉が「それでいいのだ」「成るように成る」くらいしか残りませんでした。
と、考えまくっても 辿り着いた処はすごく単純でした。