L-20lonesomelife

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

釈迦と植物

2023-03-15 06:05:17 | エッセイ

お釈迦様は植物になりたかったのではないかしら?と思う。
「禅」というのがある。
元々は動物には原生動物等という生き物がいるが、もっと以前、生き物はただの管だった時がある。
ただの管(みたいな)があり、その中を通る要素を腸管が吸い込むだけの存在。
そこまで遡ると植物と同じ様なモノ。
その後だんだんと複雑化していって今に至る。
どっちが偉いのか?

まぁ、そもそも権威などは無い。
けれど、千年杉の様に何千年も生きる植物の生態系というのを観ると感じることがある。
人間という動物に永遠の命を求めるならば植物のようになればイイ様にも思うのです。
例えば念仏を唱えながら何日も過ごす僧侶は むしろそれは植物への憧れの様なもの。
手を合わせてじっと動かない。
動くといえば、まぁ、風に靡くくらい。
であるならば、そう、自分は植物になったと。
生きにくい人の世に生きてクヨクヨするならばむしろ植物。

植物は感覚があるのか?
どうなんでしょう?
折ったり切ったりしたら痛いと言うのか?
言えないけれど痛いのか?
むしろその感覚は捨てた、あるいは元々持っていない。

世の中のバカと呼ばれるヘラヘラして生きてる人を観る。
客観的には人の苦しみから放たれた世捨て人の様に見える。
風のように雲のように生きてる。
御仏の世界に近いのはそういう人々なのではないのか?
丘の上でただ毎日 時が来るのを待つ。
それでもまだ、その人は自分自身は様々な気苦労を感じてる、きっと。
人間様が知能と呼んでる「ソレ」の無能さ。

時とは何ぞや?
死の時?
かもしれん。
或いは待ち人かもしれん。
解らない。
判らない。
でも、それは自分で選べない。

説明が難しいけれど、描いてみるが。
そもそも何かを為す事ができるのは神ではない。
発案し求める事、それを「煩悩」と言っても良いかもしれない。
所謂、我々が「神」と呼んでる何かは結果を出す存在。
何かをしようと発案し実行できるのは自分の意志だけだろう。
神様がわたしのやりたいことを勝手に決めてはくれない。
わたしが好きになってわたしがやろうと思い、実行する。
誰かが決めたからわたし自身がやろうと決めるのではない。

朝の朝食をどうするか、私しか決められない。
誰かに決められたと言うても、それは今の自分の環境(結果)の上での事で、そこからどうするかは自分自身で決められる。
パンしかないから米を得ようと決める。
それを決めるのは自分。
神様がパンしかないから米を食べよう考え、動いてはくれない。
自分の未来の方向は自分が思い描き決める。
その先に嫌なことが待ち構えてて、「やっぱりやめよう」と思うのも自分自身。

そしてその結果を出すのが神様。
結果は結果なので、未来のこと、その未来は私には分らない。
米が得られないかもしれない。
神様がそうするかもしれない。

努力するのは自分。
実行するのも自分。
やらないで後悔する。
やらないから後悔する。
結果は誰も分らないから、後で思った様にならないことは後悔ではない。
言葉にしてみるならば、ただの「反省」である。

次があるならば次はもっと違う道を辿ろう、と、そう決めるのは自分自身。
例えば、自分で決めて実行した「通り魔犯人」を考える。
彼は実行後は反省をするのみ。
かもしれん。
しかし、そういう人の中で、おそらく「気がオカシイヤツ」は精神疾患。
まぁ、情状酌量になったりする。
でも、通り魔を実行して、そして、そこで行動そのものが
「オカシイことに気付きながら実行したヤツ」は、自分の行きたい方向ではない事に気付きながら「正しく思う方向にいかなかった」。
つまり、思う方向に行動、実行していない。
だから、オカシクなる。
この世に於ける実刑はの判断ではなく、自分自身がどうなのか?
おそらく後悔であろう。

本来、自分で判断し行動するべき方向、自らが思う方向に動かなかったから、後悔する。
自分自身が判断し、進むべき方向に動いていたならば結果が思わしくなくても、反省ですむ。

結果は全て、誰に対しても神様が下す。
気まぐれな神様だけれど、自分で決められないものである。
人の道は多くの邪魔者が右往左往してて妨げるモノなのは知ってるはず。
それでも、進めばイイのであろう。

未来は平等ではない。
気まぐれな神は人ではない。
言うなれば宇宙の神秘、大自然の脅威だろう。
未来が決まっていたら面白くない。
だからこそ、自分で進むべき道は自分で突き進むしかない。
誰しもに幸運を祈るのみでる。

その果てに私たちは植物に戻るのかもしれないな。
植物はただ存在してるという生き方に感じる。
でも、生きている。
そこには「これからどうするか?」しか無い。
アドラーのいうところの三角柱の話だ。
クヨクヨしてない(と思う)
植物もクヨクヨするのだろうか?はて?

おそらく植物になった私は そのうち朽ち果ててどんよりした液体状の栄養素となり、土から生える草の一部に変わる。
どこの星でも、宇宙でも、そこで塩基とタンパク質とが混ざれば似た感じではないかしら?(笑)

意志は限られた時間に生きてる証としか言えない。
とすれば、ただそれだけの存在か(爆)

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