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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

罪の意識 2/2

2020-02-01 21:12:50 | 宗教

> 唯一絶対神もまた >>本源集団・本源共認を破壊して自我に収束した西洋人は、非現実の世界に失われた本源価値を(表層観念として)再構築するしかなく、かつそれが自我に基づくものであるが故に独善的・排他的な絶対観念(ex. 唯一絶対神)への思い込み信仰となるしかなかった。(実現論)

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。答えは唯一である。見ればわかる。考える必要はない。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。これは、見ることができない。ただの話である。その内容を了解するためには、文法に従って文章内容を理解しなければならない。これは骨の折れる作業である。だから、日本人は通常理解をしない。
その代わりに忖度 (推察) を使って事を処理している。忖度と理解は似て非なるものであるがゆえに十分注意する必要がある。忖度の内容は聞き手の勝手な解釈で成り立つがゆえに、現実直視になっていない。だから、話者には何の責任もない。議論にもならない。忖度の主に彼の態度が現実直視になっていないことを指摘すると、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と反発するので話にならない。だから、忖度の主は歌詠みのような者になる。 問答無用である。
非現実の内容を持つ者は、思慮深い者である。自己の非現実の内容を基準にして現実を批判すれば、その人は批判精神を示したことになる。人類進歩の可能性を示したことになる。
自己の非現実を持たない者は、常に現実対現実の比較をするしかない。その比較は ‘どんぐりの背比べ’ になる。ああ云えばこう云う形式の議論になることになるが多い。時間の浪費に終わることが多い比較論である。

> 古代から中世においては、武力・身分秩序によって自我が抑えられ、表に発現しようがなかった。>出口を失った自我は、罪の意識によって内面に抑え込まれ、非現実の唯一神に収束していった。

そうですね。非現実は個人の自由な世界ですね。

>しかし近世になって、自我の発現の可能性が開かれると、“われ思う故にわれあり”(17世紀デカルト)と都合よく思いこむことで、自我を開放し、その結果、罪の意識は失われ“神は死んだ”(19世紀ニーチェ)のだ。

ようやく他者の規定する罪から自己の意識を解放することができるようになったのですね。

>罪の意識と一神教は、感覚的に理解しがたいが、背後に自我を考えると分かりやすい。

そうですね。外部環境 (体外) も内部環境 (体内) も感覚器で感知できますが、非現実 (考え) の内容は、感覚では感知できませんね。それは、頭脳で理解するしかない。
自我を失えば、我々は子供に返りますね。それは無我の境地ですね。

>現代でもアメリカなどが、都合よく神の言葉を使い、自己正当化を計れるのも、そのような構造があるからだろう。 

そうですね。我々日本人も何も遠慮することはない。自己の正当化を図りましょう。自己の世界観を示し合いましょう。非現実の内容は時制のある文章として示されます。しかし日本語には時制がないので非現実の内容の文章ができない。日本人に非現実の内容の作文ができるかが成功・失敗の分かれ目です。成功すれば、外国人とも議論が可能になります。’あるべき姿’ (things as they should be) に関する議論が出来ます。
我々は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要性を理解しなくてはならない。英語で考え日本語で話すと良い。英米人は日本語で話す時でも日本語特有の閉塞感には陥らない。彼らには考え方はいくらもあるからである。我々もこのやり方に従えば、西洋人と対等に話ができる。相手からも信頼され、国際的な協力のもとに未来社会の建設に参加できる。機会があれば指導者にもなれる。



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罪の意識 1/2

2020-02-01 20:45:37 | 宗教
>89932 罪の意識と唯一神、背後の自我  >井上宏 ( 39 建築コンサル )  05/05/02 PM11 【印刷用へ】
>西洋の思想を見ていて、奇異に思うのは、罪の意識がメインテーマにあることだ。

そうですね、罪の意識の希薄な日本人には西洋人の思想は奇異に映りますね。贖罪の為の宗教 (キリスト教) は、わが国では流行らない。

> 思想の原点ともいえる旧約聖書では、>アダムとイブが「善悪を知る木」の実を食べ、神から楽園を追放されること(原罪)から始まり、その子孫が嫉妬や怒り、だましあいから殺人を犯したり、追放されたりする話がたくさん出てくる。

子孫の心の中に害毒があるのですね。

>また新約聖書では、>イエスの十字架の死は、神が人間の罪を赦した証であり、人類に対する神の愛の発露であった。・・・とされている。 >つまり人類の罪を代表してキリストが十字架にかけられ、それによって神の赦しがでたということを示しているらしい。(パウロの思想)

そうでしょうね。キリストは奇特な人間あったようですね。神のような人なのですね。

>つまりキリスト教とは、罪の観念を個人や集団・民族から人類の範囲までひろげ、人類の罪を神の愛によって救うということなのだ。

そうですね。彼らは話が大きいですね。哲学的ですね。彼らには、世界観がある。だから、話がグローバル (global: 全地球的) ・ユニバーサル (universal: 普遍的) になる。

> 時代は下って、16世紀のルターの宗教改革では、教会の堕落に対して、ルターは唯一絶対のものとして聖書の言葉に従うことを提唱した(福音主義)が、主な主張は、“神は罪に穢れた人間をその恩恵によって罪のない者にする”という内容であった。> (※現代のアメリカの政界を左右すると言われる福音派の信仰もここに源流がある。)

そうですね。西洋人は汚れの意識に苛まれやすいですからね。’罪のない者にする’ のは魅力的なことですね。

>このように常に罪の意識とそれを裁いたり赦す者として神が登場する。>それはなぜか?

自己を精神的な窮地から助けてくれる何者かが必要だからでしょう。それは、人間業ではない。そこで神が登場する。 

>なぜ人間はもともと穢れているとされ、それに対して神が登場するのだろうか?

西洋人には日本人と違って、意思があります。意思決定が正当であったかどうかを考える必要性に絶えず迫られます。ですから、不当と判断された場合には後悔することになります。他者に対する加害者意識に苛まれます。深刻な場合には、それが罪の意識になります。この苦痛から逃れるための手段は神に頼るしかないのではないでしょうか。 
日本人にはこのような精神的な苦しみは体験しないのではないでしようか。日本人には意思がない。能動が無くて受動ばかりの生活である。結果が悪くても、それはあくまでも他人のせいである。他人を恨むことはあっても自己が悩むことはない。
意思は未来時制の文章内容である。ところが日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。
意思がなければ、責任もない。ちょうどこれは死刑執行人の立場のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪には問われない。彼らには殺意がないからである。とかく、この世は無責任。

> 罪とは、聖書にもよく出てくる妬みや嫉み、そしてだましあいから必然的に発生するものであって、それらを生んでいるのは自我に他ならない。

そうですね。汚いものは自分の口から出てきます。だから、自己責任を感じることになります。

>つまり強烈な罪意識の背後には、強い自我があり、自我の裏腹として罪の意識が生まれたのではないだろうか? 

そうですね。同感です。責任感が強ければ、それだけ過ちに対する罪の意識も強くなる。わが国においては、国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。


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神道的無宗教

2020-01-13 17:42:16 | 宗教
> 「indeep」さんより抜粋・引用 リンク
>●他の国からは理解しがたい私たちの神道的「無宗教」
> 海外のサイトで、「日本の地域による宗教分布」ということをテーマにした学術的な記を見かけまして、それになかなか興味を感じました。 > 私自身は、以下の記事などでも少しふれていますが、日本人というのは「本質的に無宗教」であると考えています。

そうですね。日本人は、無哲学・能天気の民族であります。宗教に関する考えは、宗教哲学になります。日本人のような無哲学な民族には、宗教哲学がない。

>しかし、それは、唯物論に傾倒している上での西洋的な無宗教ではなく、日本人は(今でさえも)「全員が自分の中に神を持っている」ということを無意識に知っていることからのものだと考えます。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
宗教に関する考えは宗教哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学に、政治に関する考えは政治哲学になる。科学は科学哲学、人生は人生哲学、などなどになる。
我々日本人は、胸の内にもやもやしたものを持っていますね。だが、それは文章にならない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>もちろん現状で、何らかの宗教を信仰されている方はたくさんいらっしゃると思いますが、本質的という意味においては、組織的な信仰や、唯一神などの存在は日本人的価値観とは相容れないものだと思っています。

宗教哲学がなくては、組織的な信仰は無理でしょうね。’あるべき姿’ (非現実・考え) の内容などは、無哲学の人では持てませんね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 

>それはそれとして、日本の「地域での宗教的特徴のちがい」ということが、海外の統計データにあることを知りまして、そのデータなどを見た後さらにいろいろと調べていると、やはり「本質的に無宗教的である日本人」の姿がさらに強く浮かび上がります。

わが国の宗教には、儀式があって教義がない。日本人には、作法 (現実) があって考え (非現実) がない。

> 海外からは寛容な信仰の精神(どんな宗教や信念でもいいし、信仰が重なっても構わない)とか、初詣だとか七五三だとか、あるいは葬儀など、どう見ても宗教的な儀式に見えるものも、「実際には誰もそんなことが宗教的だとかは思っていない」とか、そういうことも含めて、複雑に見えるようです。

そうですね。無哲学・能天気の人間は、つかみどころがないですね。

>これはたとえば、西洋や中東で、「イスラム教とキリスト教のどちらも信仰しています」という理屈は通じないわけですけれど、日本は OK だと。>神道でも仏教でもOK。

そうですね。儀式があって教義が無ければ、どなたももっと自由に行動できますね。考えも無く行動することが、果たして良いことかどうかは分かりませんね。

>●日本の宗教分布
>・民間神道あるいは無宗教 (51.82%) >・仏教(34.9%) >・組織化された神道など(4%) >・キリスト教(2.3%) >・無回答(7%) >しかし、実際の調査は、もう少し「現実」を示しています。>読売新聞が2005年8月6日と 7日に行った「宗教」に関する世論調査の結果が、日本の宗教 - Wikipedia に掲載されていますが、その結果は以下の通りでした。> 日本で2005年に行われた調査「宗教を信じていますか」より >・宗教を信じていない (75%) >・宗教を信じている(23%) >・神や仏にすがりたいと思ったことがある(54%) >・幸せな生活を送るうえで宗教は大切ではないと思う(60%) >・幸せな生活を送るうえで宗教は大切だと思う(35%) > 「宗教を信じていない」人が 75%にのぼるのに、「神や仏にすがりたいと思ったことがある」人が 54%もいるというお茶目な日本人。

そうですね。’苦しい時の神頼み’ ですね。無哲学・能天気の人間であっても苦しい時はありますね。わが国の宗教にも儀式はある。だから、苦しい時には儀式を励行します。必勝祈願の朝参りです。

(略)



日本の宗教

2019-12-12 11:47:34 | 宗教
(略)
>●日本の宗教についての偉人賢人たちの言葉
>・山本七平 「無神論を主張し火で燃やされたジョルダーノ・ブルーノは日本にはいなかった。日本人はずっと無宗教に対して寛容であった」

日本人は、無哲学・能天気である。無哲学・能天気の人々は、宗教哲学に対して寛容にならざるを得ないですね。だが、各人に哲学は必要です。Everyone needs a philosophy.

>・芥川龍之介 「日本にいくら宗教を根付かせようとしても無理なのは、日本が古来から八百万の神を崇める、神道などに見られる独特の宗教観を持つからで、釈迦もイエス・キリストも日本にくれば神々の一人という扱いになる」 

日本人は、宗教が無くて困ったことは無い。日本人の魂は救済を必要としてない。だから、宗教はいくらあっても困らない。

>・村上春樹 「神は人々の心の中にのみ存在する。日本では、神は常に柔軟でどのようにでも捉えられる概念だった」

哲学は言語の内容であり、忖度は非言語である。日本人には、哲学がなくて忖度 (推察) がある。だから、宗教哲学とは無縁でいられる。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

>・加藤弘之 「宗教は恐怖に依存する概念だ」

そうですね。西洋人には意思がある。だから加害者意識にさいなまれる。罪の意識に苦しまなくてはならない。そのために贖罪の宗教 (キリスト教) が発達した。罪を知らない日本人に謝罪させようとしたら、それは自虐の強要になる。

>・福沢諭吉 「言うまでもなく、宗教は社会の平和と安全の維持という目的のために必要なものである。>しかし、私には宗教的な性質がまったくなく、宗教を信じたことはない。

福沢諭吉の宗教観は、野球に関するルールのようなものですね。それが無くては、野球はなり立たない。あくまでも便宜主義的なものですね。行為の規範を欠いていて軽薄な感じですね。

>他の人が宗教的であることを非難するつもりはないが、私自身の良心としては、自分が宗教を信仰するなどということは許さない」

福沢諭吉は、あくまでも御都合主義ですね。

>・二宮尊徳 「世の中に本当の真理はただ一つしかないが、その真理に近づく入り口はいくつもある。

真理の内容は人それぞれでしょうね。

>仏教、神道、あるいは仏教でも天台宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗などいろいろあるが、これらはいずれも一つの真理へ到達するための道に付いている沢山の入口の名前に過ぎない」

現実の内容はただ一つ。それよりも大きくも無ければ小さくもない。真理は非現実 (考え) の中に存在する。真理は個人によりその内容に違いがある。ご唱和の世界は完全にものとは限らない。

> 二宮尊徳さんが言うように「本当の真理はある」けれど、そこに近づくための方法は「どれでもいいやん」というのが日本人の価値観のようです。

無哲学・能天気は則ち日本人の自由ですね。日本人には、忖度 (推察) がある。その内容には誰も干渉できない。忖度は現実直視になっていないから、議論にならない。勝負無し。それで、歌詠みになる。’何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる’  (西行法師)

>これはほとんどの他の国の人たちには理解できない感覚であり、それはつまり、「無理に理解してもらう必要もない」ことなのだと思います。

そうですね。非言語は、理解を超えていますね。 無理な理解などありえない。‘東は東、西は西’ ですね。

>そして、これからも日本人は同じ信念の上を進んでいくと思いますし、それが日本人という存在としての最後の砦だと私は思っています。

日本人は、無哲学・能天気である。無哲学・能天気の人には信念がない。同じ信念の上には信念がない。我らの無信念は最後の砦。’民 信無くば立たず’ (論語・顔淵)
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官).


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信じる・感じる 2/2

2019-07-20 06:47:06 | 宗教

(略)
>やっぱりわれわれ自身の文化、つまり、「自分とは何か?」を考えるための教養が、ものすごく必要だということです。

そうですね。西洋人であれば、‘我々は、何処から来たか’ 、’我々は、何者であるか’ 、’我々は、何処に向かうか’ の内容を常に考えるでしょうね。

>ここで教養が出てくるんだな。

英米人は、大人になるころ高等教育機関に進学して哲学を学ぶ。すると、教養がつく。日本人は、英米流の教育機関に進学しても、学ぶことがない。だから、彼らは、4年間を大学で遊んで過ごす。無哲学・能天気の国民には、教養をつける機会が存在しない。海外留学の価値を認識することもない。

> 上田:日本の宗教は牙を抜かれているところがあります。>たとえば仏教における「縁起」にしても、自分がどれだけ生かされているかを異常に強調します。>たとえば日本仏教の最大教団である浄土真宗とかでも、親の恩徳、師主・知識の恩徳、如来大悲の恩徳、阿弥陀様の恩徳って、後ろからどれだけ私が恩を受けているのかを強調している。>それはいいのだけど、その恩を受けている主体としての私はどう生きたらいいのかというと、明確な答えがない。

そうですね。恩は受動的なものですね。これは、日本人にはわかりやすい。意思の無い日本人には、能動の内容が想定外になっていますね。

>「その恩を感じながら、どんなことがあっても我慢して生きなさい。>我慢して生きるのはいいんだよ」みたいなノリで説かれることが多いわけです。

不自由を常と思えば不足なし。自由とは、意思の自由のことですね。意思の無い日本人の我慢は、言葉のないアニマルのような心理状態にあります。意思がなければ、解決方法もない。’その苦しみは、どんなことがあっても我慢して生きなさい’ ということになるでしょう。

> 「あなたも次の先祖になるのだから、未来の社会を切り開いていく責任があるんだ」というふうな、未来を創造していく主体の形成みたいなものにも結び付かない。

日本人には、現実しかない。日本語には、実況放送・現状報告の内容のみを表すことができる。過去の内容は ‘幻’、未来の内容は ‘夢’ となってまともには相手にされません。
未来社会の内容は、未来時制の文章内容としてどこまでも展開することができます。しかし、日本語には時制というものがないので、日本人は未来の内容を語れない。だから、日本人は、未来を創造してゆく主体になることは難しいでしょう。

>親鸞さんとか法然さんとかの師主・知識は断罪され島流しになっても頑張ってきたのだから、その恩に報いるためには、あなたもその覚悟を持って行動しなさい、というのが「報恩感謝」のはずなのですが、いつの間にかその主体の部分がごっそり脱落している。>これは真宗に限らず、どの宗派でもそうですね。

意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. しかるに、日本人には意思がない。仕方が無いので、無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。日本人には精神修養が必要であると説く人も出てくる。

> 「どんなことがあっても、文句を言わずに与えられた場で生きていきなさい」みたいな説法の仕方をして、「南無阿弥陀仏さえ唱えていれば極楽浄土に行けるのだから、恐れず行動を起こしなさい」的な言挙げもしない僧侶が多い。>まあ私の知り合いの僧侶たちは、行動派も多いけど、彼らは「他力を頼んでないで、自力だ」と非難されてしまうわけで。

意思の無い人には、能動がない。受動ばかりの人は、他力本願・神頼みになる。

(略)
> 西洋人は知っていますよ。>ソクラテス、プラトン以来の伝統がいかに重要かということを。>ところが日本人はそれがない。

無哲学・能天気な国民 (日本人) には、哲学の重要性を理解すること無理でしょうね。

>これがやっぱり教養の重大な質の違いでしょうね。

自己の非現実 (考え) の内容を語ることできない人間は、子供のようなものですね。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、文法における時制の有用性を十分に理解すべきでしょうね。時制を使って自己の ‘意思と世界観’ を表現できるようにすることが必要です。さすれば、自説が国際的に広く理解されて自己に対する信頼度を増し、未来社会の建設に多数の協力者を得ることも可能になるでしょう。具体的には、我々は努力して日本語と英語に堪能になることが必要でしょうね。さすれば、伝統的な日本語の困難を克服できます。英米人は、日本語を話すときでも、日本語の閉塞感に囚われることがありません。それは、日本語以外の考え方も心得ているからでしょう。


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