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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本人の苦悩

2016-06-30 01:23:09 | 教育
>本能や共認機能(自我を含む)が生み出す、言葉以前の意識のこと。例えば、共認動物に固有の規範も言葉以前の不文律であり、本能(=秩序化された体系)の代替機能として存在している(=潜在的に意識されている)。

その潜在的意識は、恣意 (私意・我がまま・身勝手) のことでしょう。
自由とは、自由意思の主張でしょう。もし意思が存在しなければ自由の価値も半減しますね。
‘意思の自由’ を ‘恣意の自由’ と取り違えたら、それこそ、’自由のはき違え’ になるでしょう。そしたら、’不自由を常と思えば不足なし’ の方針が正しいことになります。

>潜在思念の豊かさは、本能・共認(自我)機能の充足体験度に規定されるが、他方では事実に反する誤った観念の支配によって、逆に潜在思念は貧しくもなる。

観念・哲学を事実の内容であるとすれば、それは誤りになるでしょう。観念・哲学の内容は頭の中にあるが、事実の内容は頭の外にある。
哲学を組み立てるには、非事実の内容が必要である。文法に時制があると、過去の世界の内容は、過去時制の文章内容として表現される。現在・未来の世界についても、それぞれの対応する時制の文章内容として語られることになります。仏教にたとえてみれば、前世・現世・来世の三世界のようなもので、すべては非現実の世界です。

‘人は、万事不平等である’ (A) は、日本人も理解できる。それは、事実だからである。
だが、’人は、生まれながらにして平等に作られている’ (B) は、日本人には難しい。内容が哲学的であり、非事実だからである。それは、’あるべき姿’ ということができる。
日本人の判断は ‘嘘・本当’ しかない。文章内容が事実であれば ‘本当’、そうでなければ ‘嘘’ である。日本語には、時制が無いから、実況放送・現状報告のための言語ようになっている。非現実の内容は、日本人の頭では常に想定外になっている。

英米の高等教育の内容は、哲学 (非現実) の習得にあるから、その内容を和訳したら全部が真っ赤な嘘になる。
その嘘を事実として強弁するのが曲学阿世の学士たちである。それがもとで失脚もする。日本の大学の卒業生は自分の考えに自信がない。外国人を説得する力が無い。哲学は大同となりうる内容であり、各々の小異を捨てさせる理由になりうるものであるが、日本人には大同が語れない。哲学が無ければ雄弁も無い。
英米人の場合は、例文 (A) と例文 (B) を並べて論ずる。だから話が高尚になる。お涙頂戴で訴えるのでもなく、。他力本願・神頼みでもない。持論を説くことができるのである。現状の貧富の差を指摘して、その差を縮める必要性を説くようなものである。彼らは、ここで指導性を発揮する。
彼らには恣意ではなくて、意思がある。意思は未来時制の文章内容で、英語にはあるが日本語にはない。それで、英米人には意思があるが、日本人にはない。英米人は決意するが、日本人は優柔不断・意志薄弱である。

>現代は、本能・共認機能と直結していない単なる暗記知識としての観念がはびこり、本能・共認機能の過半が抑制or封鎖されている人が増加中。

我が国の大学生は、意味のないことを覚えて ‘頭でっかち’ になる。非現実の内容は、英語脳においては現実とは別次元のところに存在して、決して頭の中で混乱を起こすことはない。哲学は日本語脳内においては形成されず、その想いは雑念になり常時払拭されている。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本人は、現実の内容のみを文章にする。英米人は、現実も非現実も文章にするが、頭の中の混乱はない。
現実の内容を現実において再現すれば、それは模倣である。サルでもできる猿まねである。
非現実の内容を現実おいて実現すれば、それは創造である。人間固有の創造力を発揮したことになる。
特亜三国人 (日本人・韓国人・中国人) は、模倣が得意で、創造が苦手である。

>意識の統合力や照準力は、第一義的には本能・共認機能が生み出す力であるが、事実の認識は意識の統合力や照準力やスピード力を飛躍的に上昇させることができる。

動物は、反射的に行動することができる。精神 (注意力) の集中は抜群である。日本人の修業目的のようなものか。

>逆に、事実に反する観念や単なる知識としての観念に支配されて本能・共認機能が抑圧されている人々は、統合力も照準力もスピード力も極めて貧弱なものとなる。

現実の内容しか認めようとしない日本人は、現実肯定主義者となっている。
‘そんなことを言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と現実肯定主義者は哲学に反発する。
彼らは、非現実の内容を文章にすることができない。子どものようなものである。日本人は、’嘘・本当の世界’ に生涯住んでいる。無邪気に跳ね回ることができるのか。


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我らの貢献

2016-06-28 11:35:26 | 教育
今は民主主義の時代である。’民主主義は最低である’ という人もいるけれども、今のところこれを超える政治制度は見つかっていないので、我々は民主主義に頼るしかない。
民主主義においては、民意が大切なことは言うまでもない。人々の間の意思疎通が大切になる。だが、日本人には、世界観が無い。だから、指導者は大同を提示することができない。結局、’自分さえ善ければ’ と独善的になる。そして、孤軍奮闘する。多数から見捨てられて、自滅する。先の大戦のようなものである。我々は、この欠点を改善する必要がある。

現実は一つである。実況放送・現状報告の内容を ‘自分の意見’ とするならば、全員の意見は一致する。個人差はない。

非現実の内容は、個人個人で違っている。非現実 (哲学) を ‘自分の意見’ とするならば、全員の意見はざまざまである。だから、ばらばらの個人発言を擁護するためには、個人主義を認めなくてはらない。

意思は未来時制の文章内容で示される。未来時制があれば、意思表示もできる。未来時制が無ければ、意思が無い。日本語には時制が無いので、日本人は意思表示ができない。だが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) は有る。

江戸時代の序列社会に於ける政治は、上意下達で行われていた。上位の者の意思ではなくて、恣意で行われていた。意思の場合は、文章で示される。意味があるし、意味が通じなければ、その矛盾を相手から指摘を受けることも可能である。だから、議論も可能である。
恣意の場合は、文章が無い。だから、意味がないし、意味が通じない状態であっても、その矛盾を相手から指摘されることは不可能である。だから、問答無用である。政治はともすれば、腐敗しやすい。

文法に時制があると、過去の世界を過去時制の文章内容として描くことができる。現在、未来についても、それぞれの世界を文章で描くことが可能である。だから、いくつもの世界を頭の中に描くことが可能できて、各世界の比較も可能である。さすれば、現実の有様についても、他の世界と比較して批判して論ずることが可能になる。だから、話が高尚になる。

非現実の内容は、’あるべき姿’ の内容であり、他の人との大同になりえる内容である。
現実の内容は、’今ある姿’ の内容であり、他の人との小異になる内容である。
だから、非現実の大同の内容をよく相手と話し合って、現実の内容が小異になるものにしなくてはならない。大同の話し合いに成功すれば、全員が小異を捨てて、大同に着くことも可能になる。だから、我々は非現実の内容を考えとしてよく練る必要がある。考える人の大切さはここにある。

上意下達の形式で、恣意に基づいた指導者を選ぶと、付和雷同型の政治になる。説明責任の取れない政治音痴になる。
個人主義の形式で大同を掲げる指導者を選ぶと、民意の効果が政治に発揮されるので、民主主義の実が得られる。

世界観がないと、目先・手先の事柄にだけに精神 (注意力) が集中して、マスタープラン、グランドデザイン、グローバル、ユニバーサルなどの世界的視野をもつ考えが発達しない。大同の提案が無いと、小異を譲る考えは成り立たず、足して二を割る方式の苦渋の決断しか思い当たらなくなる。次の世界への移行が想定されていないので、民の心には夢も希望も湧いてこない。

考えを理解するには、言葉が必要である。言葉は音声となっている。字が読めなくては、音声の練習も難しい。だから、多数が字を読めることが必要である。
外国から来た私の友達も、日本語の練習に心がけている。彼の計算では、一日10字覚えると一年で3650字となり、改定常用漢字表 (2010年) 2136字をマスターできる予定であった。が、すぐに挫折した。彼は非漢字圏の出身であるので漢字が覚えられないのである。字が覚えられないと、文章が読めない。日本文が音読できない。会話が上達しない。議論ができない。
日本語をローマ字表記にすれば、たちどころに外国人も音読出来る。音読により日本語会話を覚える。日本人の仲間が増える。日本人の考えを世界の人々に広く知らせて地球村の民意が得られる。かくして、日本人の経済力を効果的に世界の人々に伝えることができる。日本人はこれまでの無言の説得力の上に、さらに有言の説得力を持つことができる。日本人の貢献による未来の明るい世界が開けてくる。

日本語の巧みな外国人を増やして、民意を強化する。英米人と議論して、日本人は論理的な考え方を習得する。我々は、以心伝心の日本人から、雄弁の日本人に変身する。英米人は、日本語を習得しても無哲学・能天気には成らない。正しい考え方を習得した日本人も、元の無哲学・能天気には戻らない。
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政治音痴

2016-06-15 08:26:53 | 政治
>14日夕に開かれた東京都議会の議会運営委員会理事会に、自ら望んで出席した舛添要一知事。
> 不信任決議案という包囲網が敷かれる中、時折、涙で声を詰まらせ「子供たちのことを考えると、今でもやめたい」と情に訴えた。
>「知事選か都議選がリオデジャネイロ五輪と重なり都政の混乱を招く」と都議会の解散にも言及したが、各会派は「不信任案提出の方針は変わらない」と厳しい反応を示した。
> 非公開で行われた理事会に出席した都議によると、舛添知事は前日の総務委員会と同じ内容の発言を繰り返し、「リオデジャネイロ五輪・パラリンピックを前に、このような混乱を招くのは国益にとってもマイナスだ」などと主張。
>そのうえで、「知事の仕事を続けてきたのは、ひたすら混乱を避けたかったためだ」と訴えた。

舛添氏が政治を語るのは、自己利益 (現実) の増大をはかるためか。政治は処世術の口実・方便になるというのか。
それとも、彼は政治の夢 (非現実) の内容を訴えて、その実現のために心血を注いでいるのか。
無哲学・能天気の社会においては、政治屋 (politician) は育っても政治家 (statesman) は育たない。
わが国は、曲学阿世の国柄である。違法とは言えないが不適切なことをする人は、’ずる賢い人間’ である。
人間の教育が必要である。そうでなければ、公金の無駄遣いは防げない。
‘あるべき姿’ (現実) の内容を考えるには、英語による考え方が必要である。さもなければ、我々の政治音痴は治らない。英語による考え方は、我々とはまったく別世界の考え方である。現実と非現実に関する考え方の違いである。我々の伝統的な考え方では、現実の窮状から抜け出すことは難しい。





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正しい内容

2016-06-13 04:56:24 | 教育
>理屈で「何が正しいか」を考えようとすると、誰からも非難されないことや失敗しないことといった、実現するという方向に向かわない思考になってしまう。

矛盾があると失敗しますからね。だから、実現しない。矛盾さえなければ、すべての内容が正しい。何をしたいかを自由に考えよう。

>・・・・・・・「頭のいい人」ほど理屈で考え、自由な発想に乏しくなってしまうといっている。

理屈は大切ですね。理屈が通らないということは、矛盾が存在するということで、これでは失敗する。だから、自由な発想も台無しになる。自由な発想を公表して、批判してもらおう。

>何かを実現し、人をひきつける人というのは、何が正しいのかということを自分の狭い思考の中の理屈で考えるのではなく、どうしたら実現できるかをあの手この手を使ってなんとしてでも見つけ出す人だと思う。

同感です。
正しい (矛盾のない) 内容は山ほどあるのですから、その中から一つを選んだらよい。内容を公表しないと自分の狭い考えになる。人を引き付けられない。しかし、それでも正しい人はいる。




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政策と対策

2016-06-12 04:47:48 | 政治
>上に政策あれば下に対策あり、ということばか中国にはあるそうです。

そうですね。中国においても、我が国においても、下々には上に関する ‘傾向と対策’ が必要ですね。

>日本も中国も民主主義からは程遠い上意下達の国。

両国とも、無哲学・能天気の民の国であるから、下々には上の恣意 (私意・我がまま・身勝手) に関する情報が必要ですね。形式的な民主主義では、民の底力は示せないでしょう。宝の持ち腐れです。

>試験なんて出題者の期待した答を紙の上に書けば点、あるいは単位をくれて、そこには自分の意見は封印されているのだから単なる処世術でしょう。

両国には、英米の高等教育のような非現実の内容に関する教育が無い。そこには、哲学 (非現実) が無くて、処世術 (現実) がある。これが、曲学阿世というものか。非現実の内容を正しい (矛盾のない) 文章にするための教育が無い。非現実の内容の文章には、個人差が有る。だから、個人主義も理解できる。それで、非現実の内容を現実の内容に変えて、創造の知力を示すことができる。現実の内容を現実の内容として再現すれば、模倣の競争はさらに激化する。試験地獄のようなものか。コップの中の嵐か。
政治家には、政治哲学 (非現実) が無いので政治屋となる。政治屋は、処世術 (現実) の専門家である。高尚な話などはできない。現実の中に閉じ込められて夢も希望もない生活を送っている。かくして、国全体の民度を下げている。一億総ハクチ化か。


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