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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

甘えの構造

2017-07-27 11:47:16 | 政治



>ラカン [Lacan, Jacques-Marie-Emile (1901.4.14 -1981.11.9) ジャック・ラカン] は日本人に無意識が存在しないといったが、日本人を西洋の精神分析で分析すると、範囲を超えてしまう。

東西の流儀の違いでしょうね。やはり、日本人は特殊な民族でしょうかね。

>たとえば、甘えの構造では、日本人社会に甘えが溢れている。

そうですね。大の大人が、大衆の前で ’皆様に甘えさせていただきます’ と言っている。

>義理人情など。西洋の理性主義では、甘えは幼児性としか分析できない。

日本人には、意思はなくても恣意がある。恣意はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) で、表現されます。文章にならないから、意味も無ければ矛盾もない。恣意 (私意・我がまま・身勝手) には、リーズン (理性・理由・適当) の表現が無い。だから、自己の行為に説明責任がとれない。

>しかし日本人ならわかるように、義理人情は幼児性とは真逆の高度な社会調整機能である。

そうですね。我が国は、高文脈文化の国ですからね。言葉以外に状況や文脈も情報を伝達するし、重要な情報でも言葉に表現されないことがある。’言わぬが花’ です。だから、’言った・言わない’ の議論はそれだけ意味が薄い。重要な情報は忖度 (推測) の内容にあります。忖度は、自分勝手な解釈です。恣意疎通になるのか。論拠として認められることはないでしょう。
低文脈文化においては、正確性が必要とされる言語が使用され、伝達される情報は言葉の中で全て提示されます。論理的に意思決定されます。このような文化と、我が国の文化を区別なく取り扱おうとすると我が国内に混乱が起こります。

>西洋の我ありに対して、無我、我なしを基本に据える日本では、高度な他者への配慮が重視される。

日本人には意思が無い。だから、自己主張ができない。’無我・我なし’ を基本としますから、責任感も湧いてこない。
意思は未来時制の文章内容であり、日本語には時制というものがない。だから、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。
日本人の精神活動は文章・言説では表現できない。ただ、心から心へと伝えられる。以心伝心・不立文字 (ふりゅうもんじ)
物に込められた日本人の心は、国際間の言語障壁を乗り越えて、直接外国人にも伝えられます。そのセンス (判断) の良さが高く評価され、我が国の製品の輸出が伸びています。

>これらはどの教科書にも載っていないし、あまりにも高度すぎて体系化もできない。

禅僧にも低文脈文化 (low-context culture) との比較が必要ですね。

>空気の読み方は現場で学ぶしかない技である。

日本人は現状を見て、高文脈文化の欠点をしっかりと学び取る必要がありますね。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。



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日本人の特性

2017-07-26 20:04:37 | 日本語脳
>日本人の面白い特徴に、自分たちのことを世界的に標準的な人間だと考えていることがある。

そうですね。各人が標準的な人間になろうと努力していますからね。

>日本人が考える標準的な人間とは、どこかに偏った信念、信仰、思想、考え方を持たない人間ということだ。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考え (非現実) ではない。日本人には、世界観が無い。世界観は非現実の内容であり、日本語には非現実の内容を入れる構文がない。

>この日本人が考える標準的な人間のイメージは、無色透明だ。

そうですね。無哲学・能天気ですね。あっけらかんとしています。

>これは何重にも間違っている。>まず世界的に標準的な人間などいない。

それはそうですね。

>あえて世界的に標準的な人間を上げるとすれば、他者に対して、自らが帰属する文化や信仰などを自信をもって主張することができる人ということだろうか。

自己主張があれば、それは普通ですね。

>日本人が考える偏った信念、信仰、思想、考え方を持たない人間とは逆である。

それはそうですね。日本人のような高文脈文化はほかに無いのでしょうからね。

>世界的には、無色透明な人間はとても無気味な存在と考えられるだろう。

色が付いているから個性的なのでしょう。

……………………………………………………………………………….
>この無色透明なイメージは、日本人が古代より理想としてきた人間像である。

そうかもしれませんね。

>日本人は古代より、人間の理想として清浄性を重視してきた。

穢れの無いのが良いのですね。厄払い・厄介払いが多いですね。

>偏った信念、信仰、思想、考え方、自己中心的、私利私欲、強い欲望を、持たない存在。>その象徴が天皇である。

それは無心か、純粋か。現人神かな。世俗の泥をかぶらない。

>日本の天皇は古代より頂点に存在しきた世界的にも希有な存在であるが、それを可能にした一つの理由がこの清浄性にある。

天皇は、純粋ですね。

>その時代時代に真に実力をもつ権力者がいたが、天皇が生き延びてこられたのは、権力闘争を超越した清浄な存在という位置を、日本人が尊んできたからだ。

そういわれてみると、そうでしょうね。

>たとえば戦前の軍国主義は、無色透明のイメージとはほど遠い。>日本人を悲惨な戦争へ導いた汚れたイメージである。

穢れは払拭しなくてはなりませんね。これが我々の国民性です。

>しかし軍国主義へ導いた満州事変や226事件などの青年将校たちによる「昭和維新」は、まさに清明性によって行われた。

人心を一新する目的ですね。

>昭和恐慌もあり国民が苦しむ中で、権力や富を独占する政治家や財閥という汚れを、天皇の清浄性に基づく公平な国民国家を作るために、排除しようとした。

彼らの動機は純粋ですね。彼らは処世術に従っていない。

>この青年将校たちの清明性を国民も英雄視した。

彼らの純粋さは、民により受け入れられたのですね。

>そして軍国主義は国民国家を上げて進められた。

‘力は正義’ ということですか。

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>最近、教育勅語が問題になっているが、ここにも清浄性が働いている。

気分・雰囲気の問題ですか。没個性・能天気のすすめですか。

>現代では教育勅語は過去の戦争をイメージする、日本人の清明性にとっては汚れでしかない。

日本人にとっては、穢れがあってはいけないですね。’祓いたまえ、清めたまえ’ ですね。、

>だから嫌悪する。

徳目の羅列を忌み嫌っていますね。

>戦争へ導いたのは教育勅語ではなく、日本人の多様な価値を認めない清浄性である。

そうですね。,没個性を清浄性と言い替えているのですね。個人主義の理解は日本人には難しいですからね。

>そしていまも日本人は基本的には変わっていない。

没個性・清浄性には、今も昔も変わりが無いですね。日本語に基づく性質でしょうから変わりがありませんね。

>きっかけがあれば、清浄性はまた聖戦へ向かうだろう。

日本人は、先の大戦の時のように純粋な気持ちで戦うでしょうね。

>日本人が考える標準的な人間、どこかに偏った信念、信仰、思想、考え方を持たない人間は、世界的な標準ではなく、日本人に偏った考え方である。

無哲学・能天気は、日本人の偏った考え方ですね。

>そして日本人は世界的に標準的な人間ではなく、とても独特な文化をもった人間である。

そうですね。世界最高の高文脈文化 (high-context culture) ですね。

>その清浄性によって日本人は右翼である。

極めて保守的ですね。大和魂の持ち主ですかね。

>右翼や左翼ではなく無思想であろうとする日本人に独特な古来の伝統的な美学を、右翼という。

宵越しの金を持たない。竹を割ったような性質。ナウな感じがしますね。粋な人たちか。

>右翼でなかろうとするほど、右翼になる日本人のパラドクス。

なるほど世間は難しい。

>日本人が目指す無思想は世間に支えられている。

そうですね。瘋癲の寅次郎のようなものか。日本人に人気がありますね。今も昔も変わらない。

>無思想とは島国日本人にみんなと同じであるということ。

日本人は、無哲学・能天気である。個性が無ければ皆が同じになります。


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教育勅語

2017-07-25 03:24:09 | 政治


>教育勅語は、その冒頭の一句「我ガ皇祖皇宗、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ」からしてデタラメである。「皇祖」は天照大神または神武天皇を指すとされるが、古事記の記述によれば、神武は何の大義もなく九州から近畿に攻め込み、殺戮とだまし討ちを繰り返したあげく奈良盆地の一角を占拠した侵略者に過ぎない。神武が「徳ヲ樹ツル」など、冗談としか言いようがない。

勝てば官軍である。力は正義である。(Might is right).

>もちろん「皇宗(歴代天皇)」がずっとこの国を治めてきたわけでもない。そんなことはこの「勅語」を起草した者たち自身、重々承知していた。なにしろこの「勅語」が発布されたわずか四半世紀前はまだ江戸時代であり、現に徳川家の将軍が天下を統治していたのだ。
>幕末維新期の一般庶民にとって、そもそも「天皇」など知らないか、知っていても関心の対象外だった。だからこそ、明治の初めから10年代にかけて、民衆に天皇という存在を知らしめ、その権威を見せつける全国巡幸が必要だったのだ。いわば、天皇の顔見世興行である。

いよいよ西洋諸国に対応する国造りですね。

>中略
>このインチキな冒頭部に続いて、「勅語」は (1)親孝行しろ、(2)兄弟仲良く、(3)夫婦も仲良く、(4)友達は信じ合え…と、12項目にわたって「徳目」を説教する。これらの徳目は、時代背景を考えればまあ常識的な内容で、当時の感覚では当たり前の道徳と言っていいものだ。実際、同じような内容は江戸幕府も諸国に高札を立てて説教していたし、寺子屋でも社会生活上の常識として教えられていた。

徳目は、商売繁盛・家内安全のようなものか。処世術を行うときの口実に使われている。その結果は、今だけ、金だけ、自分だけになる。その場限りとなるのは、’あるべき姿’ を内容とする世界観を日本人は持たないからである。世界観の内容は非現実であるから、日本人には縁が無い。我が国においては、前世・現世・来世の内容に展開が無いのもそのためである。その内容は現実離れしていて、日本人には信じることが難しい。日本語には時制というものがないからである。我々は非現実の内容を文章としてとらえることが出来ない。だから、日本人の知恵は、処世術 (現実) の域にとどまっている。

>中略
>だが、教育勅語においては、これらの「まっとうな」徳目は、例えてみれば毒薬を包む糖衣のようなものでしかない。教育勅語が何としても「臣民」の頭に植え付けたかったのは、これらの徳目の最後に置かれた「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」なのだ。お上がいったん戦争を始めたら、それがどのような戦争であれ、天皇(を頂点に頂く支配階級)の利益のために命を投げ出して戦え、ということだ。これに先立つ11項目は、これを「まっとうなこと」と錯覚させるために置かれていると言ってもいい。

皇民化教育の規範書ですね。序列メンタリティは抜けませんね。臣・吉田茂より
日本語には、階称 (言葉遣い) がある。上とみるか・下とみるかの上下判断は避けて通ることが出来ない。人を見損なってはいけない。我々の上下判断は、強迫観念の域に達している。
日本人は礼儀正しい。その礼儀作法も序列作法で成り立っている。上下判断ができなければ、礼儀正しい日本人にはなれない。序列なきところに礼儀なし。貴方は非国民になれますか。

>もちろん、自民党をはじめとする極右勢力が教育勅語を復活させたがるのも、この最後の「徳目」があればこそのことだ。 教育というものの威力は実に恐ろしい。この「勅語」がすべての学校に「下賜」され、無謬の道徳規範として強制されるようになってからアジア太平洋戦争の敗戦による破滅まで、たった55年しかかからなかったのだ。

国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。責任観念が無い。
意思が無ければ、責任もない。日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思が無い。
意思のあるところに方法がある。(Where there’s a will, there’s a way). 意思の無いところには、解決方法がない。無為無策で座して死を待つのか。玉砕か。序列に連なることにより日本人は意思疎通を得て序列協力の力を発揮する。
意思 (will) はないが、恣意 (self-will) (私意・我がまま・身勝手) がある。意思は文章になるが、恣意は文章内容にならない。バラバラな単語のままで腹の底にたまっている。小言・片言・独り言として発せられる。文章にならないから、意味もなければ矛盾もない。だから、下位の者は忖度 (推察) で行動する。リーズン (理性・理由・適当) などは初めからないので、説明責任はとれない。曖昧な言語と忖度は表裏一体をなしている。
恣意を鍛えて意地・根性とする。無哲学・能天気であることも幸いしている。日本軍は強かった。我々は、先の大戦においてアメリカの物量作戦に負けたが、精神力 (恣意の力) では勝っていた。上位の者の目指す恣意の実現に各員奮励努力すれば、南の島に雪が降る。


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国語力

2017-07-24 11:39:47 | 政治
>100万円の寄付があったこと、大阪府庁や政権各部局が異例のスピードと価格で決済を繰り返したこと、籠池流に云うなら安陪総理の姿が見えてから神風が吹いたこと、庶民の9割はこれらひとつ繋がりで理解している。

そうですね。関係のありそうな事柄ばかりですね。

>それを打ち消すには、廃棄したとするメモの提出と関係者への聞き取りが求められる。>破棄したとか、無かったと突っ張る限り政治と官僚不信は増幅される。>介入の事実が有れば総理大臣も国会議員も辞めると安陪首相が大言壮語した以上、国家機関の関係者は開き直って強弁するしかない。>国民を愚弄する強弁を繰り返すから、国の民心はどんどん膿んでいく。

そうですね。安倍首相の人気も落ちています。

>日本社会の寄り合いの歴史を振り返れば、江戸期の郷村集落から江戸幕府の老中など幕閣の会議にまで、そして昭和期の戦後であっても、自己主張や多数決を避けて粘り強く構成員の賛同を諮る合議体運営であった。

日本人には意思が無いのであるから、自己主張はできませんね。

意思は未来時制の文章内容ですが、日本語には時制というものがありません。それで、日本人には意思が無い。我が国には意思の内容を尋ねる者もなければ、主張する者もいないです。だから我が国には、個人主義が無い。意思のない世界は自然そのものに見えています。人々は事の成り行きを粘り強く待っています。

>みなが賛同出来るまで粘り強く合議体の運営に勤める以上、相手の立場や心中も大切にしていたに違いない。

本人には意思はないが、恣意がある。意思は文章内容にならないから、意味もなければ矛盾も有りません。ただ、腹の底にたまります。だから、談合を繰り返して腹の探り合いをしなくてはならないのです。文章にならないものは、議会・議論にはなじみません。

>人の心を推し量る(忖度)のは、共同体の一員として大切な参加姿勢であったに違いない。

以心伝心・不立文字の伝統に従って、忖度 (推察) は共同体に重要な役割を果たしてきました。

>日本人に固有ないわゆる忖度とは、縄文気質に根ざした仁義信が前提にあるのではなかろうか。

持前の縄文気質で輸入文化の真似をするのは難しいですね。横文字文化は、正確性が必要とされる言語で表現され、伝達される情報は言葉の中で全て提示さますからね。

>だから民主主義/個人主義を信奉する外国人記者クラブの面々は、忖度の翻訳に苦労したということだろう。

我が国においては、民主主義は衆愚政治、個人主義は利己主義になりますね。

>そして官僚が拠りどころとする日本の行政法は世界に冠たるザル法と云われ、法の解釈やその執行範囲は官僚の裁量権がとても大きいといわれる。

日本人には意思はありませんが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) があります。恣意は文章になりません。腹の中にたまっています。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) による裁量権により生きてきます。日本人は、曖昧な言語を使って仕事をしています。責任者は、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達します。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。それだから、’言った、言わない’、の話で言い争いになる。伝達される情報は言葉の中で全て提示されています、でなければ議論は決着しません。これは、我が文化の ‘身から出た錆’ でしょうね。

>だから忖度による権限行使の範囲が広い、その屁理屈や言い逃れの狡猾さが官僚の能力評価軸ともなってしまう。

そうですね。話に筋が通らないから、人間としての信頼度が低い。屁理屈・言い逃れ・狡猾では立つ瀬がない。哲学が無く、持ち前の処世術を駆使して切り盛りすれば、’今だけ・金だけ・自分だけ’ の結果となる。現実にとっぷりと浸かった人生ですね。

> 縄文気質に根ざした「人の心を推し量る」日本人の心のあり様と、日本官僚の裁量権の大きさが重なり合い、今回の事件が生み出されたのであろう。

そうですね。日本語と縄文気質とは大いに関係が有りますね。

>マスコミを牛耳った一強政権といわれる安陪首相側近のお友達事業に対し、ゴマスリ官僚の悪しき「忖度」はこの事件だけに止まっているとは思えない。

そうですね。これは日本文化そのものを表しているのでしょうね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」









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AI時代

2017-07-23 13:57:56 | 政治



>2017年5月に刊行された『そろそろ、人工知能の真実を話そう』〈早川書房〉。PHOTOGRAPH BY KAORI NISHIDA
>新しい社会のあり方をIT企業に託していいのか?

思考停止の新しいやり方ですね。

>「インターネットは、情報の民主化というよい結果をもたらした一方、IT企業という新たな権力を生み出しました。そのことに対して、ぬぐいがたい気持ち悪さを覚えたのです」

そうですね。気持ちが悪いですね。

>いわゆるIT企業による「プラットホーム資本主義」に対してガナシア教授が感じた違和感は、次第に大きくなっていった。
>「IT企業は、民主的な手続きから逃れる立場にあります。もちろん、彼らのサーヴィスを使わないということはできますが、それは選挙の投票とは違います。すでに起きている現象として、権力のあり方がIT企業に移り、国家より力を持ち始めてはいないでしょうか」

政治家は、権力をIT企業に渡してはなりませんね。我々の社会には、民主的な権力者が必要です。IT企業は、民主政治へのサービス提供に徹すべきです。

>ガナシア教授が問題視しているのは、決してIT企業そのものではなく、「政治システムとして何が正しいか?」という点である。

民主主義が正しいですね。政治家は政治システムを通してIT企業を利用しなくてはなりませんね。

>「自分たちの生き方を自分たちで選ぶ。そのような市民社会における基本的な権利が脅かされています。これはIT企業の台頭だけでなく、そもそも近代国家における統治の原則が崩れつつあるという背景もあるでしょう」

政治家が意思の内容を実現するために、ITを大いに利用しなければなりませんね。

>ある意味、IT企業が中心となって「新しい社会」がつくられようとしているなか、彼らのAIがわたしたちを“監視”する範囲が、今後ますます広がっていくことは間違いないだろう。もしそのような可能性があるのなら、哲学者がAI時代に果たすべき役割とは何なのか? さらに言えば、来たる未来において、哲学者はどのようなことを考えるべきなのだろうか?

哲学者がAIを駆使しなくてはなりませんね。

>「まず今後100年という時間軸で考えると、政治的に根源的な変化が起きるでしょう。そもそも国家というものが、ポジティヴにも、ネガティヴにも変わってくると思います。さらに言えば、わたしたちが当たり前だと思ってきた古典的な概念もどんどん変わっていくでしょう。たとえば、『友情』という概念はSNSの登場によって再構築されていますし、『通貨』もビットコインの誕生で再定義されています。あるいは『クルマ』も、いまや4つのタイヤがついたパソコンになろうとしています。テクノロジーの進展と未来をどう考えるのか、そこに哲学者も加わらないといけません」

そうですね。同感です。

>「わたしたちはある意味、政治の大転換を目にしています。いまや巨大企業が権力を握りしめ、国家はやせ細ってしまいました。そのような時代に、わたしたちはいかにして権力を監視し、どのような政治システムをつくりあげるべきでしょうか?」

民が権力を手放すのは、恐ろしいことですね。

>繰り返すが、ガナシア教授の問いかけは、決して単なるIT企業批判ではない。もしかするとわたしたちは、AI時代にふさわしい社会システムを考えるうえで、まだ言葉にすらなっていない新しい概念を探しているのかもしれない。そうだとすれば、概念の発明を行う哲学者ほど、力になるものはいないだろう。

そうですね。同感です。いつの時代にも哲学者は必要ですね。我々は考える人にならなくてはならない。AIは現実の鏡であって、非現実の内容 (考え) を主張しない。

>「ルネサンス以降、哲学の分野では、近代化への理想が揺らいでいた」とガナシア教授は著書の終わりで述べている。その一方で、技術者と科学者は、近代化への夢を体現し続けてきたとも。

我々は、目先・手先の技術の進歩に気を奪われていましたね。だが、我々には夢が無い。夢は自分の頭を使って見るものです。

>しかし、流れは完全に変わった。「テクノロジーの進化が、必ずしも人類を幸せにするわけではない」という悲観論が出ているいまだからこそ、哲学者は希望を語り、人々の視線を上げるべきではないか。言うまでもなく「希望」は、目指したい未来から逆算して、蓋然性の高い議論を積み重ねて生まれるものである。

そうですね。「テクノロジーの進化が、必ずしも人類を幸せにするわけではない」ということですね。テクノロジーなら殺人マシンもできる。
‘我々はどこから来たか’。’我々は何者であるか’。’我々はどこに行くのか’。の過去・現在・未来に関する哲学の命題は、今も昔も変わりませんね。

>…さて、ガナシア教授の未来への洞察を学んだいま、わたしたち一人ひとりがこれから考えなければいけない「問い」を記して筆を置くことにしよう──わたしたちは、どのような未来を目指したいだろうか?

我々一人ひとりが、自己の哲学を持つことが必要ですね。民主主義の世の中において、未来社会の内容に人民の支持を得て、協力して実現して行くことになるでしょう。



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