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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

新教育の実現

2017-03-28 10:29:16 | 政治
>ヨーロッパでは産業革命以降に学校教育の制度が始まります。それは質の高い労働者と、規律を守る兵士を育てるための教育でした。

実学の時代だったのですね。

>その結果、産業では世界を制覇するほどの発展を遂げると同時に戦争に突き進み、社会は壊滅状態になったのでした。ヨーロッパの人々が社会の再興をかけて新しい教育の可能性を追求したことは想像に難くありません。

物質文明の壊滅ですね。

>とはいえ市場の拡大はその後も続き、従来の学校教育制度が主流のまま新教育の流れが細々とつながってきたというのが現実のようです。

市場があれば、職業教育も必要ですからね。従来の学校教育制度もつながるでしょう。

>そして現在、市場の拡大は限界を迎え縮小過程に入っています。環境破壊や人々の精神破壊が社会の存続を脅かす危機として立ちはだかっています。まさに社会の再興をかけた新教育の実現が喫緊の課題になっているのです。

課題はあっても答えがない。それが再興に関する問題ですね。

>有能な労働者でも規律正しい兵士でもない、これからの社会をつくっていくことのできる人を育てること。これが新教育にかける私たちの期待なのだと思います。

私達の期待は、考える人を育てることでしょう。烏合の衆でない個人を育てることだと思いますよ。
特に日本人は、自分の考えを述べることが難しい民族です。その内容は、文章・言説にはならず、心から心に伝えられるものだと思い込んでいるからです。その分考えもおろそかになる。
以心伝心・不立文字は日本の宗教にもなっています。序列思考と忖度 (推察) の存在は、我が国の行政制度の運用を混乱に陥れています。
序列思考と忖度は、日本語文法と密接に結びついていて、その克服には並々ならぬ苦労を要するものと予想されます。
いずれにしても、改革の着手は必要です。



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忖度

2017-03-27 10:42:00 | 政治


>官僚の「忖度(そんたく)」支配。これを続けるの?司法もその仲間?無責任体制の根源はここ。

日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) がある。これはアニマルも同じである。
意思は未来時制の文章内容として明文化されるが、恣意は、バラバラな単語で、明文化できない。恣意は文字・言説をもって伝えることが出来ず、心から心伝えるものである。
その結果、恣意は小言・片言・独り言となっている。文章にならなければ意味もなく、したがって矛盾も指摘できない。
意思が無ければ、意味もなく、責任もない。意思のない国では、恣意の忖度 (推察) が重要な役割を担うものと言うことができる。

>(前略)

>今回の森友学園の認可と、国有地の払い下げが、どれほど異常なスピードで進められたものであったか、作新学園の船田元議員がテレビで指摘していました。

意思が無いので、優柔不断・意志薄弱に見える。決断はきわめてスロー。しかしながら、官僚による権力者の恣意の忖度は、心から心へときわめて有効で迅速に働きますね。

>官僚たちが、時の権力者の思いを忖度する。そして、国家の許認可のために、一斉に動く。

官僚たちが、時の権力者の恣意を推察する。そして、国家の許認可のために、一斉に動く。以心伝心ですかね。勝手な解釈ですね。

>明治維新後、神聖不可侵の「天皇」の絶対権威を使って、権力者(軍部・官僚・財界)の意向を、臣民に強制した。このときから、官僚たちの「忖度」は始まっている。

日本人には意思がない。だから、権力者の恣意 (私意・我がまま・身勝手) を読み取ることに心を奪われている。これが、官僚の立身出世の道となるのか。権力の私物化ですね。

>戦前の反省から始まったはずの戦後の日本国家は、主権在民のはずだったが、「忖度」は、そのまま残っていた。このときの総理大臣が、当然、日本国家では最高権力者だったが、その人間が指示を仰ぐ人間がいれば、「忖度」は、その指示の発令者に向かっていく。自民党の結党時から、そこには、アメリカのCIAがいた。田中角栄以後は、さらに詳細に指示を出すジャパンハンドラーがいたのだろう。

日本人には哲学が無い。総理大臣にも哲学が無い。だから、他人の指示を仰いでポチになる。

>では、民主党政権のあとの、第二次安倍政権のときに、なぜ、これが異常に膨らんだのか?>しかも、メディアまで、完全に従わせた。 

‘今だけ、金だけ、自分だけ’ の処世術に特に長けていたのでしょうね。

>「忖度」で、行政の各司(つかさ)の担当責任者が、どんどん法の枠を越えて、物事を進める。

遵法の精神が無いのですね。法律は文章で意味がある。恣意は文章にならず、推察が必要となる。官僚には法律以外の指示が必要となっているのでしょうね。

>これに対するチェック機能が、全くなかった。司法も、「忖度」する側=官僚の味方だった。

合法であっても不適当か。法の網を潜り抜ける技術の開発が進んでいるのでしょうね。

>そして、この日本列島には、それを正す手段がなかった。今回、アメリカにトランプ政権ができて、ようやく露見した。

トランプさんは何事にも型破りですからね。

>つまり、これまでは、皆、少しでも権力に近づくものは、この「忖度」の輪の中に入っていたのだ。

以心伝心では、哲学にならない。

>この状況を正すとすれば、それは、行政の最高権力者個人の、人間性、人格、力量に頼るしかないのか?

最高権力者の人格は大切ですね。だが、国民の民度も大切です。だから、一朝一夕には改善できませんね。

>この部分を、法的に、規制できないのか? 

日本人にも、意思の表明が必要ですね。意思の表明が無ければ、法的な規制も難しい。
日本人には意思が無いのであるから、官僚も恣意で動く。恣意は文章にならないのだから、意味がない。矛盾も指摘できない。証拠にもならない。 

>少なくとも、今回の森友学園の校舎建設に関わる、3通の契約書を存在させ、それを許したままにする、国家の制度(行政のありかただけでなく、司法も含める)では、「私物国家」のそしりが、今後も続く。

恣意 (私意・我がまま・身勝手) により規則を運用すれば、私物国家になりますね。

>悲しいことだ。 

歌詠みの題材にもなるでしょうね。

>中央集権化の中で、国有財産の分配のみならず、軍事行為も、エネルギー政策も、農業も、医療も、国民とは離れて、「忖度」官僚たちが制度をかってに運用し、実態を作っていく。

忖度は自分勝手な解釈ですね。とかく、この世は無責任。

>しかも、結果に対し、だれも責任をとらない。

自分には意思が無いのだから、当然、その責任はとりません。この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。

>こんな統治体が、世界の中心になれるはずはない。 

そうですね。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開国論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない。’ (あるアメリカの国務長官)
‘日本人は頭が良いのだ。要領が良いのだ’ では、済まされませんね。信用がない。



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生存の時間

2017-03-26 10:01:46 | 日本語脳
>経済活動の時間は外在的な時間であるために時計で計ることができ、世界中の人びとが共有できます。
>そのような時間は、ベルクソンによれば「現在」という点の一次元的な集合であって、現在、現在、現在・・・・と瞬間が切れている現在の集まりなのです。

日本人が、’まだか、まだか、まだか・・・・・’ といらいらしながら待つことですね。ナウな感じがしますね。一寸先は闇、過去は疾く風化する。

>そのように切れていることによって、開始と終了の時を計ることができるので競争の勝ち負けを決めるために使うことができます。
>ですから、外在的時間は「競争の時間」でもあります。また、同じ理由によって利子の計算に使うこともできます。

‘今だけ、金だけ、自分だけ’ の処世術の応用で勝ち負けが決まる。

>一方、居場所において「生きていく」時間は内在的な時間であり、人間が、自分が生きていくことを「行く河の流れ」にたとえるときに意識される時間であり、ベルクソンの言葉を使えば、切れずに続いていること自体に大きな意味がある時間なので純粋持続と呼ばれました。
>その実態は、主客の二つに分離できない自己の〈いのち〉そのものを感じていることから現れるものですから、外に取り出して測定することはできません。
>それは居場所において生きているときに感じる時間、すなわち「生存の時間」なのです。

悠久の大河の流れを前にしているようなものか。日の下に新しきものなし。

>現在のように、どんな存在も経済成長に結びつけて解釈してしまう社会に生きていくことが苦しさを感じさせる理由は、「生きていく」という存在のために必要な「生存の時間」が「競争の時間」に置き換えられてしまい、前後が切れた「生きている」という状態に置かれるために、〈いのち〉が続きにくくなり苦しくなるからです。

我々は、勤め人のように時間を売って生活しているのですね。’競争の時間’ の中にも、’命の洗濯’ をする時間が必要になりますね。

>「生存の時間」を取り戻すためには、どうすればよいでしょうか。それには、苦しくても、できる範囲で自分の〈いのち〉を、地球という〈いのち〉の居場所に与贈し続けることです。与贈を継続していれば、やがて〈いのち〉の「ドラマ」が生まれて「生存の時間」が広がっていきます。 

時間を売ることなく生活できると良いですね。我々にとっては、定年後の生活のようなものか。楽しみですね。



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春風一過

2017-03-21 17:10:25 | 政治
>在日と左翼たちがさまざまに姿形を変えて新聞、テレビ、政治、市役所、大学、日教組などに髑髏を巻いています。さらに図書館という公的機関が、購入される図書の多くが左翼の価値観で占められています。つまり図書館という公的機関によって国民が知りえる情報に制限が加えられているということです。それからもう一つ在日左翼がキリスト教会にもすっかり根を下ろしています。

西洋風の価値観ですね。

>左翼の常套句は「すべての人間は平等でなければならない」「世の中のあらゆる差別をなくさなければならない」この言葉を聞けばほとんどの人は抵抗することはできません。

哲学ですね。日本人には、難しい考え方ですね。

>そして在日左翼はみんな微笑みとともに近づいてきます。左翼の誰もが純粋で真っすぐで、正義感にあふれているように見えます。

‘純粋である’ ということは、’処世術に長けていない’ ということですか。

>しかしよく考えてみてください、地球上に存在するすべての人間は、決して平等の運命にあずかれるようになっていません。ひとりひとりの運命の違いは神以外にはどうにもならないのに、左翼たちは運命の不平等を社会の不備や政治のせいにして善人たちを左翼に染めていきます。

もし、社会の制度の不備や政治の貧困が原因であるならば、それは改善の余地がありますね。理想に向かって励むことは、人を幸福にすることではありませんか。

>全ての人間は生まれながら不平等や差別の運命から逃げることはできません。金持ちの家に生まれる人、極貧の家に生まれる人、人間は出発点から大きな違いやハンディが存在しています。

人間万事不平等ということですか。我々の努力の余地がない。現実肯定主義では閉塞感にさいなまれますね。’我らはどこに行くべきか’ に答えを出すべきでしょう。

>しかしそのハンディを恨んで社会や政治に転嫁して日本人でありながら、日本人としての国民意識を投げ捨てて、よその国がふりかざすタテマエを信じると、祖国に害をなす売国奴となり果てます。

自国の理想の実現に向かって励みましょう。頭の外側の内容 (現実) と頭の内側の内容 (理想) が一致いることは、まず無いでしょうがね。改善の余地はあるでしょう。

>日本の共産主義者や社会主義者が反国家の姿勢をとり、反日本の構えを見せ、日本国に背き、日本国を非難し、常に日本国の過去と現在を攻撃する人たちは、祖国に害をなす売国奴になっていることにきがついていません。

そうですね。建設的ではありませんね。消去法の達人が多くいますね。未来社会が脳裏に描かれていないから、その建設は考えられませんね。
悪いところがあれば改めればよい。我が国は、さらに良くなる。

>日本の左翼の多くは不思議と東大や京大など一流と言われている大学出身者が多くいます。この人たちが日本の中心にいて日本国をリードしていきます。戦後左翼全盛時代、自分たちが国民を教え導いてやっているのだとうぬぼれる優越感で新聞や評論家などは左翼風の説教をまき散らしていました。

頭でっかちになっている人たちですね。詰め込み教育の成果でしょう。

>国民も彼らの出身校や肩書を見て、頭の良い人たちが言っているのだから間違いはないと信じてしまった。

権威主義ですね。自分で考えるよりも、相手の言うことを信じる方が楽ですからね。

>左翼は「日本人は愚かで考えなしで思慮分別に欠けているから、常に説教をしないと神聖な憲法第9条をないがしろにするからいつも怠りなくタガをはめてやらなければならない」と日本国民を徹底して見下していました。

階称(言葉遣い)ある日本語によれば、序列メンタリティは避けられませんね。権威を笠に着るようになる。

>しかし戦後70年国民もやっとアホで間抜けなのは左翼の方だと分かってきました。人間平等の極致を実現するはずの共産主義が、実際には世界史上に空前の圧制と虐殺を生んでいたのです。そして「国民を守るために防備に熱中するから相手国の敵愾心をそそるのであって防備さえしなければ先方も安心して、こちらに敵意をもたなくなる」という左翼の理想主義への幼稚な傾斜、誰でも首をひねるアホな理論に振り回されてきたのです。

そうですね。力は正義ですね。(Might is right.) 強者の怒りは抑止力となる。

>世間は、大衆は、あくまで真にものを見ようとはしません。その出身校や経歴で判断しています。例えば僧侶を見るときその人格能力というものを吟味せず、ただ、その「外形」すなわち袈裟に尊敬をはらい、供養もします。このことはなにも僧分に止まらず、新聞、テレビ、評論家、大学教授、その他、広くは社会的に地位の高い人たちの意見が正しいと信じてしまいがちです。

内部がない。外形にとらわれる。気分・雰囲気に流されやすい。信心・信念ですか。

>さて自分はふと自分自身にかえる。自分はしかしどうだ。自分はいったいこの社会で何をしているのか、どんな役割を占めているのか、輝きのない、ほんの一人の老人にすぎない。日本という弱弱しい国の、その一角に立つ枯れかかった樹木にすぎないではないか!

みじめですね。人は力を合わせて生きるものです。頑張りましょう

>しかしこの貧弱な存在を措いて自分にはどこにも世間に立つべき場所はない。私にとってはただ、この拙いブログを掘り下げ、これを掘り下げてゆくだけが、私のなしうる唯一つの、仕事だと信じています。

貴方は、考える人ですね。尊敬します。

>私は常に自分の胸に言い聞かせます.自己の弱小を忘れて何か世間のお役に立ちたいと思いますが、私はふたたび自分の弱小を恥じます、自分はやはり自分の力しかない。

我々は、身分相応で良いのではありませんか。

>人生の潤いというものは、決して自分だけの境地に安立している者に味わう事は出来ない。すすんで、自己の一身一命を投げだせば、自分の中に宗教的な心のときめきを感じます。そこに私はいつ死んでもいい自覚をかすかにうちに感じます。

我々は、共に助け合って生きるものなのでしょう。

>そしてブログを書き始めてから強迫され続けた結果うつ病になり長く苦しめられました。生きてゆくことは、一日を送り、一日を迎えるということは、まこと,死の領土にちかづいているということです。いかに盛んなる者も、かならず衰える日のあるという、なんとも抜きさしのできない、逃げることも、どうすることもできないところの一つの哲学を与えられました。

生物は生死を繰り返して進化してきました。生まれ変わりが無くては、我々は姿を変えられません。

>つまり死についてのたしなみとか、しつけであります。生きる事だけが生命の全体ではないこと、真実に生きるためには身命を惜しまぬ心境のあることを知りました。

我々の願いは死後も残ります。願いは死なない。

>春風一過、春の風がなごやかに頬をなでるというような、のどかな気持ちで静かに死んでゆきたいものです。

願わくは 花のもとにて、、、、ですか。同感です。


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情けない

2017-03-17 00:59:58 | 日本語文法
>原発災害も放射能汚染も国民を見殺しにしようとしている政治家と官僚も看過して、このまま傍観者を続けるつもりなのだろうか?

傍観者ですね。自分の意思をしめす人は、当事者・関係者となります。意思を示さない人は、傍観者にとどまる。
意思は、未来時制の文章内容として示される。だが、日本語には時制がない。だから、日本人には意思がない。日本人は蚊帳の外。
政治家は、有権者の標本のようなものでしょう。政治家の思慮のなさは、有権者の思慮のなさを反映しているといえるでしょう。

>それとも食べ物、大地や海が放射能に汚染されていても安全だとでも思っているのだろうか?

日本人には、序列メンタリティがある。序列判断は、日本人の強迫観念になっています。世俗の上位の事柄にとらわれて、現実直視ができない。敗戦を終戦と捉えるようなものですね。現実軽視の風潮が、災害をより大きくしています。

>ほんと情けない。

我々は、変わらなくてはならない。(We can change!) そうでしょう。

>日本人に希望を持てなし、期待も出来ない。

そうですね。希望は未来の内容であります。だが、未来の内容は、日本人には想定外となっています。
未来の世界の内容は、未来時制の文章として語らなければならない。ところが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人は未来が語れない。我々は ’声なき民’ にとどまっています。だから、お先真っ暗であります。
我々には、未来構想が必要です。さすれば、希望が持てる。期待できる。

>もちろんこの中には、脱原発・反原発のデモに出ている人たちもいるだろう。

政治に対する意思表示は大切なことですね。

>しかし、そのデモも子供を連れていたり、犬や猫を連れていたりする勘違いしている奴らもいる。>デモは政治活動だという事がわからないのだろうか?

政治には、個人の意思表示が大切ですね。身なりではないでしょう。我々の意思の内容でしょう。

>ほんと情けない。>こんな情けない国にいると自分もレベルが低くなりそうだ。

皆さん似たようなレベルの人間ではないですか。心がけさえ変えれば、さらに立派な国になります。我が国には国内の紛争が少ないから、その分発展に力を集めることが出来ます。

>外国に移住する事を本気で考えなければならないのかも知れない。

情けない人は、移住先でも情けない生活をするでしょうね。日本人が海外に出て、偉大な国を作った話は聞いたことがありません。意思が無ければ、社会建設のための力も発揮できないのでしょう。本人の自覚が大切ですね。意識改革というのかな。


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