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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

母語を太らせる

2018-03-29 22:51:51 | 教育
>アメリカの植民地であったフィリピンでは英語が使えないとビジネスマンとしても公務員としても教師としてもジャーナリストとしてもよい職には就けません。>だから、地位のある人たちはみんなみごとな英語を話します。

そうですね。日本人でも、フィリピンに英会話の練習に留学する人が大勢いますね。

>フィリピンの生活言語はタガログ語です。>でも、タガログ語ではビジネスをすることも政治や経済について語ることもできません。>そのための語彙が母語にはないからです。

我が国のように、カナ文字外来語に相当する様なものは、存在しないのですかね。

>フィリピン人のある大学の先生がこう語っていました。>「英語で話せることは実利的(practical)であるが、母語では話せないことは悲劇的(tragical)だ。」

フィリピンは、英語という第二言語の実利をたくさん受けているにもかかわらず、それは残念なことですね。

>なぜ悲劇的であるのか。>それはこのような言語環境に置かれている限り、フィリピン起源の政治理論や芸術運動が出現する可能性が絶望的に低いからです。

我が国では、漢字やカタカナ外来語などを入れて、日本語を太らせる努力をしているのですがね。フィリピンでは、母語を太らせる努力は出来ない状態にあるのですかね。

>知的なイノベーションは(ほとんどの場合)母語による思考から生まれてくるからです。>母語が痩せ細っていれば、知的なイノベーションは始まらない。

何かタガログ語文法には、我々外国人には知られていない致命的な欠陥 (?) があるのでしょうかね。タガログ語の基本的な文は、主語+述語ではなくて、主題+叙述ですね。

>例えば僕たちは母語でしか新語(neologism)を創ることができません。>新語というのは、勝手に作れるわけではありません。>条件があります。>それは生まれて初めて耳にした語であるにもかかわらず、聞いた瞬間に母語話者たちにはその語義もニュアンスもわかるということです。>だから、あっという間に広がる。

例えば、‘アジャパー’ というようなものですかね。

>これは外国語ではできません。>自分で新語を作ってみても(例えば、不規則変化は覚えるのが面倒だからこれからは“I went”ではなく”I goed”にしようと僕が提案してみても)「そんな言葉はない」と冷笑されるだけです。

そうですね。我々の忖度 (推察) 範囲を超えていますね。

>新しい言葉を創れないということは、新しい概念や新しいロジックを創ることができないということです。

例えば、漢人 (中国人) は、漢字を作って漢文を表す。新しい概念や新しいロジックには新しい漢字を使わなくてはならない。漢字の数を制限することは、中国人の母語の富裕化を阻害することになりますね。

>創造的なアイディアが思い浮かんだ時のことを思い出せばわかります。>それは「喉元まで出かかっているのだけれど、まだ言葉にならない」というもどかしさを伴う経験です。>アイディアは身体の奥の方から泡のように湧き出てくるのだけれど、まだはっきりしたかたちをとることができないでいる。>最終的にそれなりの言葉になるのですけれど、それは手持ちの言葉を引き延ばしたり、押し拡げたり、これまでそんな語義で使った前例のない使い方をしたことでようやく達成されます。

漢人は、前例のない漢字を作らなくては、それを表現できないですね。

>創造的な概念がかたちをとる時には母語もまた変容する。>知的創造と母語の富裕化は同期する。>言葉を使うというのは、そういう力動的なプロセスなのです。

そうですね。ギリシャ・ローマ時代の様なものですね。彼らの考えは、今でも西洋で生きています。

>道具を使うのとは違います。>鋏を手に持っている時にその新しい使い方を思いついたら、鋏がその思いに合わせて形状を変え、材質を変え、機能を変えるということはあり得ません。
>その「あり得ない」ことが母語においては起きる。

我々漢字圏 (日本・韓国・中国) の人たちは、漢人 (中国人) の力動的なプロセスの影響を受けていますね。

>それを考えれば、母語の運用がいかに生成的なものであるかが想像できると思います。>そして、この知的創造は(例外的な語学の天才を除けば)母語によってしかできません。

母語にもいろいろなものがあるようですからね。タガログ語の様な言語では、知的創造はそれほど容易ではないのでしょうね。

>既存の言葉を引き延ばしたり、押し拡げたり、たわめたり、それまでにない新しい語義を盛り込んだりすることは母語についてしかできないからです。

横文字外来語も立派な我々の母語ですね。外来語の力も借りて、母語を太らせた方が良いですね。英語の ‘presentation’ は、日本語の ‘プレゼン’ になるのかな。

>ですから、母語が痩せ細るというのは、その言語集団の知的創造にとっては致命的なことなのです。

そうですね。知的創造には母語を太らせる努力が必要ですね。

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時代遅れ

2018-03-28 23:15:08 | 教育

>「90年代後半から始まった情報革命に構造的についていけなくなった」という部分は、政府による大企業優遇政策、雇用規制、大企業が今でも持ち続けている終身雇用制と年功序列、霞が関や大企業が天下りとして作ってしまった星の数ほどの特殊法人・子会社・関連会社が、人材の流通を阻むだけでなく、ベンチャー企業からビジネスチャンスや資金を奪っており、それが結果として、世界に羽ばたくベンチャー企業を日本から生み出すことを難しくしているという構造的な問題があるという意味なのです。

我が国に関する実況放送・現状報告を何回繰り返しても、現実から逃れることはできませんね。考え (非現実) の内容を現実の内容に変える意思が必要です。意思は未来時制の文章内容ですが、日本語には時制というものがありませんので、日本人には意思がありません。それで、優柔不断・意志薄弱に見えます。無為無策でいる。意思のあるところに方法 (仕方) がある (Where there’s a will, there’s a way.) のですが、意思が無く、仕方がないので、日本人は諦めています。だから、構造的な問題を解決するのが難しいのです。

>つまり、もう少し分かりやすく言えば、高度成長期に作られた教育システムと社会システムが、変化の早い情報時代になって時代遅れになっているにも関わらず、そのシステムの中で成功して来た人たちや企業が抵抗勢力となり、Microsoft、Google、Apple、Facebook、Amazon のようなソフトウェアを武器にして社会全体を飲み込んでしまうようなベンチャー企業の誕生を阻んでいるのです。

そうですね。我々にとって、お変りの無いことが天下安泰のしるしですね。家内安全・商売繁盛ですね。ところで、世界観は、過去・現在・未来の世界の内容(非現実)を考えることです。言語に時制というものがあると、これらの三世界を綺麗に分けて考えることが出来ます。無ければ世界は動かない。日本語には、時制が無い。だから、日本人は過去の世界から抜け出して、来るべき世界に備える構想は、持ち合わせていません。教育システムも、社会システムも、時代を先取りすることは難しいのです。これは、メンタリティ (考え方) の問題ですね。

時制は日本語にはありませんが、英語には有ります。ですから、英米流の高等教育を受ければ、情報時代に対処することも可能になります。我が国でその留学の教育成果が発揮出来ないのであれば、外国で発揮したらよいです。インド人は、外国においても知的産業に貢献しています。彼らは、頭脳不足の国で、働いています。人手不足はあっても、頭脳不足を生じない我が国の国柄を改めるには、この際、英米人から考え方を学ぶのが最良の方策でしょうね。


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決断

2018-03-28 11:06:41 | 文化
(略)
>とにかく、生徒は、何も考えなくて良い。>決断するどころか、判断する必要もない。>決められたところに、決められた時間に、決められた物をもって行けば、とりあえず、授業を受けることはできる。>そして、予め決められた問題を、予め決められたとおりに解き、予め決められた正解によって採点される。>自分で問題を設定したり、先生や教科書を捜す必要はない。>必要ないどころか、そんなことをしたら、学校社会からはじき出されてしまう。

マニュアル通りに働く人間の育成ですね。

>しかし、本来一番大切なのは、自分で問題を見出し、自分で先生や教科書を探し出すことである。

そうですね。人間には自主性が必要ですね。

>それが本当の勉強であるはずである。なにもかも用意されていたのでは勉強にならない。

そうですね。学生に自主性を持たせずに押し込むように教えることを ‘spoon-feed’ というのでしょう。

>学校では、何でもかんでも、予め決めておいて、その決められた事に従って行動する事を要求する。>これでは、変な話、決められた事以外、決められなくなっている。>決められた事を決められたように決めるというのは、自分の意志の働きが効かない。>自分の意志で決めたのでなければ、決断したことにはならない。>だから、決められた事を決められたように決めるのでは、決断したことにはならない。

無理もないことですね。日本人には、意思 (will) が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思が無い。だから、優柔不断・意志薄弱に見えます。学生をハキハキした態度にさせるには、号令でやるしかないのでしょう。

(略)
>要するに、決断したのか、しないのか曖昧なままにしておいて、結論を先送りにする。>それでおいて既成事実を積み上げていき、あたかも決断をしたかのよう錯覚をしているのである。>たが、振り返ってみると何も決めていない。

きっと我々は、既成事実の追認に追われた生活をしているのでしょうね。

>少なくとも、自分の意志、意識の上では決断をしていない。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。考えは、非現実の内容である。非現実の内容は、時制のある文章になる。日本語には、時制というものが無い。日本人には考え (非現実) というものがない。だから、大人になっても無哲学・能天気のままでいる。

>だから、責任もない。

自己の意思を表明すると、当事者・関係者になる。表明しなければ、傍観者にとどまる。声なき我々は孤高の人か。
死刑執行人は、人は死んでも殺人罪に問われない。彼らには、殺意が無いからである。だから、彼らには罪が無い。
同様な理由で、日本人には罪が無い。日本人には、意思が無いからである。日本人の行動を規制するのは、恥である。恥は、序列順位の下位にあることである。恥を雪ぐ為に、日本人の行動が決まる。

>責任がないというより、責任をとれない。

意思のない人には、責任が無い。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思が無ければ、仕方がないので諦める。無為無策でいる。
説明責任は、意思の内容の提示である。意思が無ければ、その内容も存在しない。だから、説明責任は果たせない。とかく、この世は無責任。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。
日本人には、意思が無くても恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有る。だが、恣意は、意思と違って文章にならない。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままである。文章にならないので、意味もなければ矛盾も指摘できない。頭には上らずに、ただ、腹の底にたまっている。’おめえらに、俺の腹の底が読めてたまるか’ という。高文脈文化 (high context culture) の産物である。だから、国際間の意思疎通も考えられない。

>自分に責任がないと思うから、人の所為にする。

だから、恨み・つらみ を口にする。浪花節調であることが、皆に喜ばれている。

>人の所為にするから反省もしない。

意思のある人間には、加害者意識が有る。加害者意識は罪の意識にもなる。罪の意識は、深刻な反省を伴うことがある。だから、加害者は以後の行動を変えることになる。それで、学習したことになる。

>これは、何も学んでいないのと同じである。>決断できない者は、何も学べないのである。>優柔不断で、煮え切らない者は、何も学べない。

そうですね。優柔不断・意志薄弱な民族であっては、どうにもなりませんね。

>学ぶためには、決断力を養わなければならないのである。>この様な決断力は、教科書からは学べないのである。

そうですね。意思のない日本人には、意思決定ができない。だから、意思決定の替わりに恣意決定をする。恣意の強化法として、意地・根性・大和魂を鍛える。これを精神主義と呼んでいる。そして、無謀に走る。言い訳はできない。

>しかも、学ぶためには、追いつめられてする決断ではなく、前向きな決断が重要なのである。

そうですね。能動的な行動の決断が重要ですね。それには意思が必要ですね。日本人には、意思が無い。だが、英米人には意思がある。だから、我々には、英米流の高等教育が必要です。

>決断しなければならない環境や状況だから決断すると言った受け身の決断では、主体的な意志の力が働かない。

受け身の姿勢が恣意決定の要因になっていますね。おとなしくしていることが出来ない。

>それは、決断するのではなく、決断させられたのである。

能動の決断ではなくて、受動の決断ですね。’止むに已まれぬ大和魂’ かな。

>主体的な意志の力が働かない限り、責任感もわかない。

そうですね。意思が無ければ、責任感もない。とかく、この世は無責任。

>それでは何も学べないのである。

そうですね。だから、自主性が必要ですね。
(略)


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序列判断・理性判断

2018-03-26 18:49:06 | 学問

>学歴が社会で役に立たないことは周知の事実。

そうですね。学歴社会でありながら、学歴が社会では役立ちませんね。

>この状況だからこそ、大学は学生にとって魅力のある方針を打出さなくては生き残れないはずだが、日本の最高学府である東大では自身の権力争いに終始しているようだ。

そうですね。権力が彼らの最大の関心事だからでしょう。

>こんなことしかしていない総合大学に意味があるのかと感じてしまう。

一般の日本人にとって大学の中身を吟味することは、非常に難しいですね。

>受験生がこの現実を知れば、学歴信仰の幻想が覚めるのではないかと期待して、以下に紹介する。

そうであれば、良いのですがね。

>□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
>教養学部は黙ってろ!東大教授の「学部間差別」厳しすぎる裏側 ここまで露骨だとは…>リンク

序列メンタリティをもつ人間は、その環境により、自分の気分・態度が大きくなったり・小さくなったりしますからね。驚くには、値しないことかもしれません。

>○東大の学部の中で、最も特異な位置にあるのが、教養学部である。>東大の1~2年生は、教養課程を駒場キャンパスで学び、多くは3年生になって専門課程に進むと本郷キャンパスに進学する。>しかし、一部「後期課程」に進む学生は、駒場に留まる。それが教養学部だ。>蓮實重彦名誉教授や松原隆一郎教授など、メディアで発信する有名教授がいることから、一般的なイメージはいい。>学生からの人気も高い。>東大では、教養課程から専門課程に進む際にテストの点数が参照されるが、教養学部は進学に必要とされる点数が高いのだ。

それは、おめでたいことですね。

>○入学時の偏差値を引きずる>ところが、教授のヒエラルキーの中では、「枠外」に置かれてきたのだという。>前出の文学部教授が解説する。>「本郷は『東京帝國大学』の延長、駒場は『第一高等学校』の後継 。>そのため教養学部は『別の学校』と見なされ、駒場の教授は『高校の先生+α』と見なされている面がある。

駒場は、下と見られた。忖度 (推察) による盲目の判断ですね。

>教養学部が戦後に発足した際、本郷で『優秀でない』と見なされた教授が送り込まれたという来歴がいまも影響しているんです。

世俗的な ‘上と見るか、下と見るか’ の結果に日本人は、大変敏感ですね。

>コンプレックスを抱いている教養学部の先生も多い」'97年から4年間、教養学部で教鞭を取った蓮實重彦名誉教授が東大の総長となったが、それでもその「遺伝子」を取り払うのは難しいという。

劣等感・優越感は、なかなか消えませんね。我々は、感情的な民族ですね。我々の国語・日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから、’上と見るか・下と見るか’ の判断は、始終必要になっています。’人を見損なってはいけない’ ということで、上下判断の習慣を取り払うことは非常に難しいですね。

>教養学部と同じく微妙な位置にあるのが、「物性研究所」や「大気海洋研究所」など、「附置研究所」である。>前出の薬学部の元教授が解説する。>「学部に所属しない研究所のことです。>ノーベル賞を出すような研究所もありますが、学部に所属しないのは『王道』ではないとして軽んじられがちな側面もある。予算が縮小される中、研究費を削られやすいのです」

‘王道’ という言葉を聞いて行う忖度 (推察) ですね。気分・雰囲気による結果ですね。趣味には、根拠がありません。There is no accounting for tastes. ですから、これは議論になりません。

>こうして存在するヒエラルキーのなかで、教授たちはお互いに優越感を抱いたり、卑屈になったりと、人間ドラマを繰り広げているのだ。

母語に階称 (言葉遣い) があると、優越感と劣等感に始終煩わせられますね。その煩いが意味のないことであるとは、どうしても結論できない。序列判断に習熟すると、理性判断が消えて無くなるからです。それが、我が民族の深刻な問題です。

>東京大学生産技術研究所の沖大幹教授が言う。>「かつて理学部に『自分たちは神と対話している。工学部の人は社会と対話しているよね』と言う教授がいました。>自分たちは崇高な真理と対峙しているが、工学部は俗世を相手にしているというわけです。

知的な日本人と言えども、’ものの上下’ には敏感ですね。忖度の効果にも大きく左右されますね。

>でも、最近は大学でも社会との対話を求められるようになり、理学部の方々は少し窮屈かもしれません」

意味のないことで、窮屈になったり、自由になったり、先生方も忙しいものですね。これも、感受性の問題ですかね。

>前出の文学部の現役教授は悲しげにこう語る。>「残念ですが、大学入学時の偏差値で負けている法学部や経済学部の先生には、強くものを言いづらいところがある。

我が国においては、偏差値がインテリから下々に至るまで大きな影響を及ぼしていますね。暗記力に力が入ると、創造力が消えて無くなりますね。創造力を働かすのは、暗記力を働かすよりは面倒なものですからね。創造に慣れた人には、これも楽しいものですがね。

>実際、法学部は威張っていますしね。>学部の歴史や規模によって序列をつけようとする教授の声も聞きます。

何から何まで序列判断で行きますね。単純ではあるが、拙い判断ですね。外に、重要な判断は無いのですか。理性判断 (rational judgment) は、どうですかね。

>『薬学部は新しいから地位が低い』といった話もよく出ますから」

モノの上下に、理由をつけるのですね。リーズン (理性・理由・適当) を述べて、自己のリーズナブルな答えを提示することは出来ないものですかね。リーズナブルな内容には、外国人も耳を傾けるのですがね。この方針で行くなら、国際人になれます。

>幼い頃から受験競争を勝ち抜いてきた極めて優秀な頭脳を持った集団だからこそ、いつまでも順位がつく偏差値的な争いから抜け出せない――それが東大教授の性なのかもしれない。

そうですね。上から下まで、序列メンタリティ (考え方) の犠牲者ですね。その原因を明らかにして、その理解を広め、救国運動を展開しなければなりませんね。
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序列メンタリティ

2018-03-26 03:47:23 | 日本語脳
>○医学部が君臨
>「普段はほかの学部との接点が少ないので、それほど意識することはありませんが、学部間のヒエラルキーを突きつけられる瞬間があります。入試問題やカリキュラムの検討を行う『委員会』です。各学部の教授がそれぞれの利害を背負って出席し、主張するからです」薬学部の元教授は民間の研究所の一室でこう述懐し始めた。元教授が続ける。「会議室に居並ぶ教授たちの発言を見ていると、学部間の『階級』は明らかです。所帯(学生数や教授数)の小さな学部の主張は通らないし、そもそも発言するのもはばかられる空気がある。私も入試問題の決定に際して『求める学生像』を主張する機会がありましたが、工学部や医学部の教授にやんわり否定される。理屈はつけられるのですが、『所詮、薬学部だろう』という思いが透けて見えたものです」

そうですね。知的と思われている日本人であっても、序列メンタリティには逆らえませんね。
‘上と見るか、下と見るか’ の判断は、日本人の生活にどこまでも付きまとってきますね。上下判断には、日本人は敏感ですから、常に喜びと悲しみを与えてくれていますね。
日本語には階称 (言葉遣い) というものがあって、上と見るか・下と見るかの世俗的判断が無いと、言葉も正しく使えないことになります。ですから、世俗的ではあろうとも、序列に関する知識は常に心得ていなくてはなりません。意味のない序列であることを、大衆にいくら説明して見せても事態は好転しないでしょうね。日本語脳が本能的に序列思考を求めているからでしょう。これが、日本人の分別というものです。
日本人の礼儀作法も序列作法になっていて、序列のない所には礼儀も存在しない。’ものの上下’ を知らなければ、礼儀正しい日本人になることもできません。
人を見損なってはいけないということで、序列順位に関する知識の収集には余念が無い。この努力を怠れば、しっぺ返しを食らって、出世の道が閉ざされる。そう思い込んでいる。序列に関する知識は、強迫観念の域にまで高められています。これは、強制によるものではない。序列人間だけにある苦悩でしょうね。

>東大教授といえども、その内部に序列があることは第1部で見た通り。>それに加えて、東大という組織には、所属する「学部」によってもヒエラルキーが厳然として存在し、弱小学部の教授は学内政治において口を開くことすら許されない。>では、どの学部が発言権を持っているのか。医学部の元教授が言う。
>「ある種の特別な地位を保っているのが医学部です。東大が'04年に独立行政法人になって以来、国からの補助金は削られ続けている。附属病院を抱え、カネを稼ぐことのできる医学部の教授がどんどん発言権を強めています。'12年の発表では、附属病院の収入は約412億円で、これは大学全体の収入の17.5%です。加えて、意外と影響力を持つのが、医学部教授たちの『患者』のステータス。皇族や政治家を患者に抱えている教授もいる。それが独特の権威に繋がっていくのです」そうした医学部の教授にとって、文系の学部の教授は完全に「格下」として認識されている。ある文学部の教授は、医学部教授とのやりとりを振り返って、投げやりな調子でこう語った。「複数の学部の教授が集まった会議で、医学部教授から『まあ、あなたも教授だから、意見を聞いておきましょう』と言われたことがあります。はなから同じポジションであると認識されていない。しかも、医学部教授は威張り慣れている。彼らは講座の頂点にいて人事権も裁量権もあり、普段から皇帝みたいに振る舞っている。カネも人事権も持たない文系の教授は、そういう時に強く言い返すことも叶わない」

まるで ‘白い巨塔’ ですかね。我々の序列メンタリティは、世俗の上位者を自ら大きくして、下位者を自ら小さくしていますね。平らな (横社会の) 人間関係は、日本人の大学教養では解決できないでしょう。これは、階称のある日本語が元凶になっているのでしょうね。だから、日本人にも英米の高等教育が必要となるのでしょうね。教育方針を変えれば、我々の序列メンタリティも和らぐことと思います。日本人としての新しい世界を観ることが必要です。


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