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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

海老原嗣生氏  

2021-10-31 21:05:41 | 文化

>産経新聞 >書評 『ジョブ型雇用社会とは何か 正社員体制の矛盾と転機』 本家と乖離 日本の人事論 > 2021/10/31 10:30

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>ジョブ型の人事制度を導入―。 >昨今、こんな言葉をよく目にする。 >もともと、この語は欧米の雇用システムと日本のそれを比較するために用いられたものだ。 >欧米がジョブ型、対して日本はメンバーシップ型という。 >ジョブ型に変えれば日本型雇用の旧弊を清算できるだろうと、企業は好んでこの言葉を使う。 

 

旧弊の清算は難しいですね。日本型雇用の旧弊は奥が深いからですね。    

 

>ただ、それは本物の欧米型とは似ても似つかない。 >そんなカオスの中、「ジョブ型・メンバーシップ型」の名付け親の濱口桂一郎氏が、重い腰を上げた。 >氏の解説はコロラリー(論理的帰結)だ。 >欧米型の雇用は、職務・ポストが明確に決められた限定型契約だ。 >一方日本は、無限定であり、会社の一員となるという身分契約だ。 >これだけのことが、キャリアや社会観でさまざまな違いを生み出す。  

 

そうですね。社畜は終身雇用の正しさを盲信していますからね。    

 

>例えば整理解雇だ。>仕事が決められている契約なら、その仕事がなくなれば解雇は当然。>だから欧米は整理解雇に寛容で、日本はその逆となる。>これは法規制の問題ではなく、契約と義務の合理性でしかない。 >だから「解雇規制緩和」をいくら叫んでも結実はしないのだ。 

 

日本人の根強い自己の序列に対する帰属意識に打ち勝つことは難しい。   

 

>職務契約なら同じ職務を遂行する限り誰でも同じ賃金となる。 >だから同一労働同一賃金は当然の帰結だ。  

 

そうですね。分かりやすい理由ですね。ドライに割り切ることが可能ですね。   

 

>一方、身分契約なら賃金は本人等級で決まるから、同一賃金則は通らない。  

 

日本人の社会は序列社会ですから、同一賃金則は通りませんね。義理と人情の世界では判断の基準が違うからですね。       

 

>残業が多いのは辛(つら)いが、不況時に仕事が減っても「残業削減」で雇用は維持される。>身分契約ゆえに解雇ができない日本社会には、残業は必須アイテムだ。  

 

そうですね。義理 (序列関係から生じる義務) が廃ればこの世は闇だでしょう。日本人は自己の序列には並々ならぬ帰属意識を持っていますからね。   

 

>果ては一般健康診断を企業の義務としているのも、身分契約のためだ。 >欧米なら「職務上起こりうる疾病」に対応した特定健診のみ企業義務となるが、職務無限定な日本は社員の健康管理をせねばならない。 

 

それも、もっともなことですね。序列人間による序列体制の維持の為ですね。   

 

>雇用慣行は系をなし、キャリアや社会全般に影響を及ぼしている。

 

そうですね。社会構造に深く根差したメンタリティの問題ですね。       

 

>ホリスティック(全体的)な視座を持たず、安易に「ジョブ型」というのはやめよう―。  

 

そうですね。安易にジョブ型というのは猿真似になりますね。

言語は伝達の手段であるばかりでなく、考えるための手段でもあります。日本人特有の考えは、日本語特有の性質によることも考えられます。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。無礼講になる。これは序列社会に安住している民にとって恐ろしいことである。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティ (考え方) を有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことには懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが、正一位に達するのは容易なことではない。 

 

>そんな濱口氏の声が聞こえてきそうだ。>濱口氏や私は、事あるごとに「なんちゃってジョブ型」の本家本元との乖離(かいり)を指摘していた。 >そうした批判を受けてか、「日本的ジョブ型」なる語が多用され出した。 >直訳すれば「日本的欧米型」。 >まったく、自家撞着(どうちゃく)にもほどがある話だろう。  

 

そうですね。日本流欧米型の解釈ですね。仏作って魂入れずですね。   

 

>(岩波新書・1122円)

>評・海老原嗣生(雇用ジャーナリスト)  

 

 

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鈴木博毅氏  

2021-10-30 22:13:03 | 文化

 

>日本人はなぜ「集団の考え」に染まりやすいのか? >鈴木博毅:ビジネス戦略コンサルタント・MPS Consulting代表

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>日本では、どのムラに所属するかによって、「物の見方」や善悪の基準が大きく変わる。  

 

そうですね。日本人は群れて暮らしていますからね。    

 

>これは「いじめ」を引き起こしやすい構造であり、日本社会を歪める元凶ではないだろうか。 >なぜ日本人は集団の物の見方に感染してしまうのか。 >なぜ個人の見方は、いつの間にか乗っ取られてしまうのか。 

 

日本人は無哲学・能天気ですからね。   

 

>15万部のベストセラー『「超」入門 失敗の本質』の著者・鈴木博毅氏が、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をわかりやすく読み解く新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開する。 >日本人はなぜ「集団の考え」に<br />染まりやすいのか? >日本人はどのムラに所属するかで倫理観が変わる  

 

‘When in Rome, do as the Romans do. (郷に入っては郷に従え)’ ですね。       

 

> 日本はムラ社会であり、ムラには独自の善悪の基準があります。 >産業や共同体ごとに独自の論理があり、それぞれに「独自の物の見方」があるのです。> 政治家の善と国民の善は同じではないかもしれません。 

 

日本人はなれ合って暮らしていますからね。なれ合って暮らしている人たちには自己が無い。だから、普遍的な考え方には慣れていませんね。   

 

>特定の利権産業団体の善が、市民にとって悪であることもあります。 > 山本七平氏は、日本人はどのムラに所属するかで善悪の基準がコロコロ変わる「情況倫理」に陥ると指摘しています。 

 

情況倫理の解明には、空気の研究が必要ですね。  

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘していますね。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。    

 

> 一方、その対比として、山本氏は西欧の「固定倫理」も紹介しています。 > メートル法のように、規範を非人間的な基準においてこれを絶対に動かさない場合は、その規範で平等に各人を律すればよい。 >この場合の不正は、人間がこの規範をまげることである(*1)。 > 固定倫理をイメージするために、次のような解説もしています。 > 餓死寸前に一片のパンを盗もうと、飽食の余興に一片のパンを盗もうと、「盗み」は「盗み」として同じように処罰される(*2)。 

 

そうですね。法の支配する社会ですね。     

 

> しかし日本社会の情況倫理では、「餓死寸前で一片のパンを盗む行為は、同情の余地がある」という“物の見方”がある場合、罪は軽くなります。 >逆に、「裕福な者が余興のために一片のパンを盗むのはけしからん」と見るならば、罪は重くなるのです。 > 日本の犯罪報道を聞くと、殺意があったか否かが罪の計量に影響を与えることがわかります。 >被害者の悲惨な結果はまったく同じであるにもかかわらずです。 >情況倫理が働く日本社会では、集団の物の見方で行為への評価が違ってしまうのです。 

 

そうですね。人治主義の世の中ですね。    

 

>情況に流された人間は、有罪か無罪か?   > 情況倫理について、山本氏の指摘を見てみましょう。 >「あの情況ではああするのが正しいが、この情況ではこうするのが正しい」(中略)、 >当時の情況ではああせざるを得なかった。 >従って非難さるべきは、ああせざるを得ない情況をつくり出した者だ(*3) > これは、「特定の物の見方」に支配された集団に放り込まれたことで、自分も倫理の基準を変えざるを得なかったのだ、という釈明、言い訳と捉えることができます。 

 

そうですね。意思の無い人間はそう考えざるを得ませんね。    

 

> 山本氏は、これを一種の自己無謬性、責任が自分にはないという主張だとしています。 

 

そうですね。自己無謬性があるために、我々日本人には病める魂の救済は必要ないですね。    

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。恣意の人間は指導者になっても権力を持たたせると危険である。人人はできるだけ権力の少ない指導者を望んでいる。すると、指導者は床の間の置物のようなものになる。彼の唯一の業績は '任期中に何もしなかった' ことであると任期終了時に評価されることになる。  

日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意がある。恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。無責任でしかない責任者の権力はできるだけ小さいほうが良いので、日本人は権力の所在についての考えが疎かである。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。…… どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

日本人の未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。ノー・アイディアで暮らすことに不便を感じない。 

 自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と大きく変わることがない。  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば、その人は当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる国の人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

 

> 情況の創出には自己もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠如している状態なのである(中略)、

>この考え方をする者は、同じ情況に置かれても、それへの対応は個人個人でみな違う、その違いは、各個人の自らの意志に基づく決断であることを、絶対に認めようとせず(*4

> なぜ情況が生まれたことに、全員が加担したと言えるのでしょうか。  

 

日本人には意思がない。意思がなければ自己も無い。他人任せの世の中です。    

 

> 共同体の物の見方の形成は、参加者たちがその考え方を放置して、反論や批判をしなかったことが原因の一端だからです。 >誰かの言葉にあなたが反対せず、別の視点を投じなかったことが、集団の情況(物の見方)の支配を加速させたのです。

 

そうですね。言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

> さらに言えば、集団の情況にのみ込まれるかどうかは人によって異なり、当然、共同体の物の見方に流されない人もいます。>集団の情況にのみ込まれるか否かは、実は100%個人の決断であり、悪いほうに倫理基準を変えた自己の責任を情況のせいにしているだけなのです。   

 

そうですね。   

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

だから、’自明の理 (self-evident) である’ といった内容の強調の仕方を日本人はしない。  

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

周囲の気分・雰囲気を敏感に感じ取る態度が忖度 (推察) として日本人に高く評価されている。

‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

日本人は思考を停止しており自己の意思を働かせることなく万事受け身で対処するのが基本姿勢となっている。 

 

>(注) >1 山本七平『「空気」の研究』(文春文庫) P.123  >2 『「空気」の研究』 P.123  >3 『「空気」の研究』 P.108  ?4 『「空気」の研究』 P.112113


安井元康氏  

2021-10-29 21:34:38 | 文化

 

>東洋経済オンライン  >「大学に行く意義」を問う子に親は何を言うべきか  人生の武器を得るための期間なら無駄じゃない  > 安井 元康 2021/10/27 19:00

>大学に行くことの意義について、うまく説明できるように知恵を授けてください。 >現在、高校生になる息子がいます。 >息子から「やりたいことが特にあるわけではないが、かといって大学に行くことの意義が良くわからないので、受験勉強はしたくない」と言われ、返答に窮しています。 >まだ1年生なので時間的な余裕はあるものの、確かに今どき良い大学、良い会社じゃあるまいし、私自身もパンチというか、気の利いた回答ができずに今に至っています。 >せめて大学ぐらい卒業したほうが何かと有利なので、理由はともかく、私としては大卒の資格は有してほしいのですが、「良くわからないけど行け」では説得できず、また自身も、この時代に大学になぜ行くべきなのか整理ができておらず、お知恵を拝借したく連絡いたしました。よろしくお願いいたします。 >会社員 S  

 

受験勉強が大学進学への強い足かせになっているようですね。入学試験は選抜の為の試験であって学問とは直接関係がありませんね。試験が無くて好きなことのできる大学があると良いですね。わが国も試験地獄のない国を見習うべきでしょうね。      

 

>大学は人生を歩む上での準備期間   >大学に行くことの一番の意義は、さまざまな勉強や経験を通じて自分自身の人生における選択肢を探し、同時に自身の将来の選択肢を広げるということでしょう。  

 

そうですね。大学では哲学を学ぶことになりますね。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  哲学 (philosophia) 愛する (philos) + (sophia)’  すなわち学問愛ですね。  

 

>自分自身の可能性を探り、そして可能性を広げるための4年間であり、その後の人生を歩むうえでの準備期間ともいえます。  

 

そうですね。我々は考える人’ (the thinking man) になる必要がありますね。その後の人生に役立ちますね。   

 

> 大学を卒業するという事実そのものに価値はありませんし、テストで良い点数を取ったとか、そういったこともあまり意味をなしません。 >それがどんなに良い大学であっても、人生を切り開くうえでの武器にはならないのです。

 

そうですね。学問は世俗的な目的にはあまり役立ちませんね。     

 

> それよりもむしろ大事なのは、在学中の4年間をどう過ごすかで、それによって大学に行くという行為がその後の人生において価値にも、無駄にもなりうるのです。 

 

大学での哲学の勉強は人生初の難関ですね。自己の哲学を作ることは容易ではありませんからね。落伍者も出るでしょう。      

 

> それは資格取得でも同様で、いわゆる難関資格の取得がそのまま人生を切り開く武器にはなりません。  

 

そうですね。難関突破のつわものと言うだけでは社会に通用しませんね。そのような人は思考を停止している受け売り専門の人ですからね。       

 

>大卒者にせよ、資格保有者にせよ、簡単にいってしまえば「その他大勢」であり、労働市場においては飽和気味なのです。  

 

その他大勢は没個性の人間の群れですね。  

 

> そのような状態ですので、大学卒業という事実だけをもって、自己の差別化を図ることはできません。 >まして、その後の人生の成功を保証するものでも決してないのです。

 

そうですね。日本の社会の序列順位の争いには役立ちませんね。   

 

>ですから、何の目的意識もなくなんとなく大学へ行き、なんとなく卒業するのでは、かけたお金も時間も無駄になってしまうというものです。 

 

やりたいことを持って大学の門をくぐるべきですね。やりたいことが無ければ、大学に行っても仕方がない。やりたいことができた時に大学に行けばよい。一生が勉強ですからね。何も慌てて入学することはない。         

 

> だからといって、大学へ行くことがまったくもって無駄かというと、そんなことはありません。 >冒頭で申し上げたとおり、時間をどう使うかによっては価値にもなりうるのです。 > 在学中の4年間をさまざまな分野の勉強や研究に費やしたり、アルバイトやインターンなどに積極的に参加したりすることで、自分が何に興味を持ち、何に楽しさを感じるのかを知ることができれば、その後の人生において大きな武器となるはずです。

 

そうですね。できることなら大学に進学した方が良いですね。大学に入って論文を書くことを練習すると良いですね。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>就職活動で始めるのは遅い  > そういった行為を通じて、職業や生き方という面で自分にとってのリアルな選択肢を探すことは、非常に有益でしょう。 >就職活動の段階でこうしたことを始める人もいますが、それでは遅いのです。 

 

卒業後、とりあえず借りの仕事を見つけて、本業についてじっくりと考えてから再就職する手もありますね。何事も経験ですからね。      

 

>大学での勉強や生活と、その後の人生の選択肢を考える行為を切り離して考えてはいけないのです。 

 

大学の生活と卒後の生活は切り離して考えても良いのではないでしょうか。大学の生活はいわゆる教養のためですから、いかなる職業に就いても役立つ可能性がありますね。職場を渡り歩くと昇進が早くなります。      

 

> そう考えると、大学に通う時間は人生をスタートするうえでの準備期間ともいえます。 >当然、その後の人生の選択肢と密接につながっているべきなのです。  

 

高度な職業人となる為には、さらに大学院を出る必要がありますね。   

 

> 幅広い分野での勉強や経験を通じて、自分自身を知ることで、自分にとってのリアルな選択肢が考えられるようになります。  

 

そうですね。理屈の付け方などはどこにいっても変わりませんからね。総合雑誌の内容を理解するのと同じやり方です。       

 

>また、さまざまな分野での勉強や経験をすることで、選択肢そのものを広げることも可能でしょう。> 極論をいうと、大学に入る前に今後の人生においてやりたいことが明確であれば、大学に行かずにそのゴールに向かって早く走り出せば良いのです。  

 

そうですね。大学を頼りにするばかりが能ではありませんね。      

 

>反対に、まだ何をしたいかがわからないという場合は、大学に行って、その期間を人生において歩むべき方向性を探る旅とすれば良いのです。 

 

大学に入学する前に社会で働いてみるのも為になることでね。そして、やりたいことが見つかったら、その時に大学選びをして入学するやりかたもありますね。      

 

> Sさんのお子さんはまだ将来、歩みたい方向性が定まっていないということですから、それを探るために、さまざまな分野の勉強ができ、また、さまざまな経験ができる大学生としての身分を経て、徐々に明確化していくのが良いのではないでしょうか。

 

そうですね。若いうちに冒険をするのが良いですね。   

 

> 4年間でできるだけ多くの興味を持ち、できるだけ多くの経験を積むべきです。>始めたことが途中で嫌になったり、興味を失ったりしたら、いくらでもやり直しができます。 

 

そうですね。人生は長いですからね。私の友達には休学届を出して南米旅行をした人もいましたね。  

 

> 繰り返しますが、ただ単に大学に行けば人生切り開けるわけではありません。 >その期間に自分自身の可能性を探し、可能性に気がつけるような時間の過ごし方が大切なのです。 > そのための期間と位置づけて、自分探しの4年間として捉えると良いのではと思います。   

 

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  そうでなければ我々は、つかみどころのない人間になる。   

大学などの高等教育機関で自己の論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)   

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。 

 

>Sさんがそのような考え方で、うまくお子さんの将来の可能性を引き出す手助けをされるであろうことを、応援しております。  

 

私も応援致します。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

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デンマーク  

2021-10-28 21:09:48 | 文化

>常に8割超す投票率 政治と向き合う北欧の小国 日本への教訓は  > 毎日新聞 2021/10/28 06:00

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> 北欧のデンマークが誇る数字がある。 >84.6%」。 >2019年の議会選挙(1院制)の投票率だ。 >1953年に憲法が改正されて以降、議会選の投票率は8割を切ったことがない。 >主要な選挙の度に有権者の関心の低さが指摘される日本からすると驚くべき数字だが、その秘密はどこにあるのか。 

 

日本国民は政治音痴ですからね。    

 

> 「政府への信頼が厚いこと。 >そして、政治や議員との距離が近く、投票することで政治に影響を与えることができ、自分の生活にプラスになる。 >そういう感覚を持っていることです」。 

 

日本人の人間関係は馴れ合いを基にして成り立っていますからね。無哲学・能天気ですから客観性がないですね。      

 

>ピーター・タクソイェンセン駐日大使は、高投票率の理由を簡潔に述べた。 > デンマークは「清廉な国」と言われてきた。 >世界各国の汚職の度合いを調査する国際NGO「トランスペアレンシー・インターナショナル」が発表した20年の「腐敗認識指数」では、約180の国や地域のうち、ニュージーランドと並んで最も政治腐敗の度合いが低かった。  

 

デンマークは清廉潔白な国ですね。    

 

>ちなみに日本は19位。 >デンマークは前年も首位になっていた。 

 

彼等の清廉潔白は揺るがないですね。    

 

>自分の一票が影響を与えられる  > 理由を更に探ると、53年に2院制から1院制に変わったことが挙げられるという。 >政権交代が起こりやすくなり、「ねじれ現象」もなくなり、有権者の1票が政策に影響を与える感覚が得られるようになったようだ。 

 

我が国の地方議会のようなものですね。  

 

> 「興味深いのが……」と前置きしてから、タクソイェンセン氏はデンマークの、欧州連合(EU)欧州議会選挙での投票率を取り上げた。 >この投票率は議会選挙ほど高くなく、以前は4050%台で推移してきた。 >だが、19年には前回(14年)の56.3%から66.1%へと急激に伸びた。 > 「今までは(EUの本部がある)ブリュッセルで起きていることは遠い場所でのこととして考えられてきたのでしょう」とタクソイェンセン氏。 >ところが、16年に英国が国民投票でEU離脱を決めたことから、それ以降のデンマーク国民は「(英国の)離脱が実際に日常生活にどう影響を与えるのか考えるようになったことが(投票率アップの)背景にあるのではないか」と推測する。  

 

考えがなければ行動も無いということですね。何処の国にも当てはまることですね。        

 

>十代から政治の議論を続け、意識を育む   > 次に挙げた理由は「義務感のような投票への権利意識の高さ」だ。 >デンマークでは子どもの頃から自分の意見を伝え、議論する大切さを教えていく。 >社会問題についても積極的に議論させる。  

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

>また、日本の中学生に相当する年代になると、選挙のプロセスだけでなく、民主主義の価値や、異なる政治的な立場についても学ばせて議論させる。 > 議会選挙の時期には模擬選挙が催されて、生徒たちは実在する政党や候補者に投票する。 >19年の議会選挙では気候変動が大きな争点になったが、これは模擬選挙などを通じ、若い世代からの圧力が影響したからだという。 > 日本では、政治教育について議論される際にしばしば「生徒が教師の考えに影響されてしまう」との懸念の声が上がる。  

 

 '日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。'  (ウスビ・サコ)  

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。 

 

>だがタクソイェンセン氏は「政治教育に限らず、何事においても教師の影響は大きいのではないでしょうか」と、その存在を否定しない。 >「私たちは教師に操作されたのではなく、良い経験をさせてもらったと思っています」と振り返る。

 

すると日教組による教育指導は日本人にとって良い経験ということになるのかな。   

 

> デンマークでは、18歳で成人した後に初めての選挙を迎えると、国会議長からお祝いの手紙とデンマーク憲法の解説冊子が郵便で送られてくる。 >現在ではほとんどの行政手続きが電子化されているが、この手紙と選挙の投票用紙は昔ながらのものだ。 >この手紙は参政権を得た外国人やデンマーク以外にルーツを持つ人々にも送られる。 >その狙いは「異なる文化を持つ人にも民主的なプロセスに参加してもらうための一環だ」という。 

 

民主主義は大切ですね。    

 チャーチルの名言 「民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」    

 

>若い世代の経験不足も許容できる  > 18歳で被選挙権も得られるデンマークでは、若い政治家が活躍している。 >19年に史上2人目の女性首相となったフレデリクセン氏は41歳で就任。 >18年には、東部ホルベック市で24歳の女性市長が誕生した。 >タクソイェンセン氏は、日本でも若い世代が早くから政治活動に参加できる場を増やすことが大切だと説く。 > デンマークでは若い政治家の「経験不足」を懸念しないのだろうか。  

 

我が国の政治は処世術を駆使して主導権を手に入れる戦いですからね。政治哲学のない政治屋の処世術には経験不足が致命的に作用しますね。    

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。 

 

>そんな疑問をぶつけると、「確かに経験はないかもしれません。でも若い政治家が活躍するデンマークや他の国は悪い国になっているでしょうか」と切り返された。  

 

無哲学・能天気の国は悪い国かもしれませんね。つかみどころのない政治家に信頼が得られないからです。   

 

> 日本は31日に4年ぶりの衆院選を迎える。 >過去3回の投票率は50%台で推移してきたが、「日本の人々に何かメッセージは」とタクソイェンセン氏に尋ねると、短く簡潔な答えが返ってきた。 >「まず投票することです。 >自分の社会に影響を与えたければ、より良い社会にしたければ、民主主義の国では投票するしかありません」 

 

日本人には意思がない。だから、能動が無くて受動ばかりの生活を送っている。自分が社会に影響を与えることなど想定外になっている。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)      

 

>【日下部元美】

 

>デンマーク > 国土面積は約43000平方キロ(自治領のグリーンランド島とフェロー諸島を除く)で九州とほぼ同じ。 >人口は約581万人。 >近世から絶対王制が敷かれたが、1849年に立憲君主制に移行。

>童話作家アンデルセンの出身国として有名だ。 >玩具メーカー「レゴ」は1932年にデンマークで創業した。 >「レゴ」はデンマーク語の「leg godt(よく遊べ)」からきている。 >「デザイン大国」としても知られ、特に日本ではデンマーク製の家具が人気だ。

 

 

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曾和利光氏  

2021-10-27 16:20:08 | 文化

>東洋経済オンライン  >学生に「何を学んだのか?」を聞かない企業の失態 なぜサークルやバイトのことばかり聞くのか?  > 曽和 利光 2021/10/26 10:30

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>「どんなサークルに所属していたの?」「どの企業のインターンシップに参加した?」など、学生の採用面接で「学業」について聞かれることはあまりありません。 >いったいなぜ企業は、彼らの学習態度を軽視しているのか? >履修データセンター代表の辻太一郎氏と、人材研究所の曽和利光氏による新書『日本のGPAトップ大学生たちはなぜ就活で楽勝できるのか?』より一部抜粋・再構成してお届けします。[GPA: Grand Point Average]

>本章の筆者(曽和)は今年で50歳、いわゆる団塊ジュニア世代です。私が大学生だった頃は、授業に出る学生は今ほど多くはなく、人によっては(私も実はそうでしたが)テスト以外は授業にほとんど出ずにアルバイトやサークルなどの課外活動ばかりしているということも珍しくありませんでした。 >そのため、日本の大学は「レジャーランド」「パラダイス」であるとマスコミなどでも揶揄されていました。

 

大学生は4年間をキャンパスで遊んで暮らさなければならなかったのですね。英米流の高等教育はわが国には根付きませんでしたね、       

 

> そんな時代にまじめに授業に出ていい成績を取っている人は、今考えると偏見も甚だしいと思うのですが、「せっかくの与えられた自由を謳歌せずに、勉強ばかりしているガリ勉」と就活などでは必ずしも評価されていなかったと思います。 > また残念ながら私の知る限りにおいては、現在でも企業の人事の多くはいまだにそう考えています。

 

我が国には、人手不足の話はあっても、頭脳不足の話はないですね。  

 

>「何を学んだのか」を尋ねない日本企業の現状  > その証拠に企業の採用面接では、今でも多くの面接官がアルバイトやサークル、インターンシップなどの課外活動のことばかり質問してきます。 >学業や成績のことについて、きちんとヒアリングをする面接官はそれほど多くはありません。

 

学業の話は敬遠ですね。尋ねても理解できないから。   

 

>学業に関する活動に重きを置いているならば、このようなことにはならないはずです。 > 学業とは単に知識をインプットする受動的な行為であり、それを「ガリ勉」のごとく、いくらしていたからといって、企業に入って仕事で成果を出せるかどうかにはあまり関係ない、それよりも、キャンパスを飛び出して、自分で何かを能動的に行うことのほうが大切などと考えているのかもしれません。  

 

日本の教育はいわゆる物知りを育てる教育ですからね。教官は学生の思考停止状態を問題にしませんね。   

 

> そのため、「どんな授業を受けてきたの?」「なぜその科目にしたの?」「そこで何を学んだの?」とは聞かないのです。   

 

学生の興味の内容は大切ですね。好きなことをやらせたら人は疲れ知らずですからね。        

 

> しかし、実は状況は変わっています。 >私たちの頃とは異なり、今の大学生は皆、きちんと授業に出ているのです。 >学生の本分は学業ですから、当然と言えば当然ですが、これは今時の学生がまじめになったことが理由ではありません。 >文部科学省の方針が変わり、いわゆる「シラバス厳格化」が進んだことがそもそもの原因です。 > 「シラバス」とは、講義要項のことです。[syllabus]   >その科目を担当する大学教員が1年間、あるいは半年間の授業計画を、学生に伝えるためのものです。>内容としては、講義名、講義内容、スケジュール、担当教員の氏名、講義のねらいや目標、講義の形式、必要な教科書・参考書、評価方法、その講義を受けることができる学年など、講義に関する情報が記述されています。 > 冊子の形で配られることもありますが、近年では、大学のホームページや学生用のマイページで閲覧できるようになっているところもあります。 >この「シラバス」を明確化することで教育課程を体系化し、きめ細かな指導を行うことで単位制度を実質的なものとし、さらに成績評価も厳格に行うことで、学生が本気で学び、社会で通用する力を身につけるようにしようという試みが「シラバス厳格化」です。  

 

わが国の教育改革ですね。   

 

> これまで日本の大学は「入難出易」(入学するのは難しいが、卒業するのは容易という意味)と言われてきましたが、そのために大学教育が人材の育成につながっていないと批判されてきたことを改善しようということで、大いに趣旨には賛同できることです。> 「シラバス厳格化」は、言い換えれば「ちゃんと授業に出て、こういうことを学ばないと単位は出ません」となったということでもあります。>それを受けて、実際に授業に出席している学生の人数はどんどん増えており、2020年卒の学生において自分が登録している授業の8割以上に出席している割合は84.7%になっています。 > また国立教育政策研究所の調査によれば、学生は授業や研究、予習・復習などに1週間で約27時間を使っています。平日平均で約5時間です。  

 

日本の教育はいわゆる物知りをつくる教育ですから、その卒業生は受け売り専門の人になりますね。    

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)     

 

>今の大学生は勉強するのが当たり前      

> 一方、アルバイトは週10時間未満、クラブ・サークルは約4時間と、やはり学業が主になっている実態がわかります。 >大昔の学生にとっては、授業とは「出ても出なくてもよいもの」であったのが、現在の学生にとってはもうすでに「出なくてはならないもの」となっており、学業への注力は半ば選択の余地はなくなっているのです。 >そうであれば必然的に、授業に出ていることの価値も、そこで成績を出すことの意味も変わってきます。 > 「出なくてもよい」という選択肢があるのであれば、授業に出ている人は「勉強が好きな人」と考えることができるわけですが、授業に出なくてはいけないのであれば、そうはなりません。 >学生が「授業には毎日出ています」と言うと「まじめな人なんだなあ」と思う企業の採用担当者はいまだに多いのですが、その解釈は間違っています。 >授業に出るということは、学生にとっては強制力のある「義務」であり、今ではもう「ふつう」のことなのです。     

 

我が国は、頭脳流入の国にならなければならないですね。それにはわが国の研究環境を良くすることが必要ですね。

生活環境が劣悪であると難民流出の国となる。生活環境が良好であると難民流入の国となる。

研究環境が劣悪であると頭脳流出の国となる。研究環境が良好であると頭脳流入の国となる。 

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容は見ることはできないが文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  そうでなければ我々は、つかみどころのない人間となる。   

大学などの高等教育機関で自己の哲学の作成に励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も尋ねられた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。 

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

 

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