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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

個人の尊厳

2017-04-28 21:12:11 | 教育
>地上戦を体験した沖縄においては歴史の教訓に基づいて、「個人の尊厳」を真に実現するように教育すべきである。

本当にそうですね。同感いたします。
何事も個人の判断が基本ですね。個人が確立しないところが、我が国の問題であります。個人のリーズン (理性・理由・適当) に基づく確かな意見が得られません。
この国がひっくり返った時にも、その責任者は出なかった。誰が責任者で、どう判断を間違ったのか。それが、今に至るまではっきりしません。とかく、この世は無責任。

>「公」への貢献は教育基本法に定めている通り、各人の「人格の完成」を深め、自主的になされるべきであって、人間を道具のように「公」のために利用すべきではないのである。(垣花豊順)

まさに、そうですね。個人の’自主的’ な態度が大切ですね。’Independent’ (自主・独立) は、アメリカ人が子供を褒めるところの褒め言葉でもあります。それができるのが、親の望みです。
「公」という口実で、個人を道具のように使うなど、情けないことですね。自分自身の「公」の内容を社会に対して明らかにする個人 (政治家) の存在が必要であります。
しかるに、日本人は本来、無哲学・能天気ですから、社会の ‘あるべき姿’ など説明できません。’あるべき姿’ は、’今はない姿’ であり、非現実の内容です。
現実のみを考える日本人にとって非現実の内容は、嘘・本当の嘘に当たる。’そんなこと言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と現実肯定主義者は反論して顧みない。日本語文法には時制というものが無いので、非現実の世界を文章化することが出来ません。それを語る者もいなければ、尋ねる者もいません。だから、哲学の教育は我が国では成果が上がりません。英米の高等教育は、我が国に移植不可能な状態にあります。
個人判断を可能にするには、自己の哲学 (非現実) を持つことが必要であります。自分はどのような世界・社会に住みたいかという、その内容です。その非現実の内容を基準にとって現実の内容の適不適を判断します。それができれば、個人が確立したことになります。その人を信頼することができます。
しかしながら、非現実の内容の文章ができないと、過不足のない (矛盾を含まない) 考えにはなりません。日本語では時制が無く、文章ができないので、やってみても矛盾を排除できな無いので、絵空事になってしまいます。だから、誰にも信じられない。万事休す。
現実のみしか頭の中にない人間は、現実の内容を基準にとって物事を判断するより外ありません。すると、現実に流されます。没個性の社会には、責任を持って答えてくれる個人の見当たらない悲劇が発生します。
民主主義は、最低です。しかしながら、これより優れた政治制度は現在のところ発見されていませんので、我々はこの制度を採用せざるを得ません。民主政治は衆愚政治に陥りやすいので、気をつけなくてはなりません。他をみて、それを基準とする人間ばかりでは、衆愚は避けられません。我々一人ひとりに哲学が必要です。さすれば、信頼できる個人が確立します。人格の完成になります。
民主主義は多数決原理で成り立っています。自主的な判断をする個人の割合が多いほど信頼できる国になります。外国人からも信頼を得て国際社会において、名誉ある地位を占めるに至ることでしょう。



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責任感

2017-04-26 17:34:50 | 政治


>権利の意味は正しいということであり、その権利の行使を「自由」という。

自由意思による行使ですね。

>私たちがよく使う自由の意味は勝手気ままという意味が殆どであろう。

日本人には意思が無い。だが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) がある。意思の自由は、自由のはき違えですね。

>ではなぜ勝手気ままにできるのか、それは世間において正しいと認識されているからである。

意思の内容を明らかにする必要がありますね。立候補者の様なものですね。

>正しくないことは自由勝手にはできないのである。

どこの国でも、恣意の自由は認められませんね。

>ゆえに正しいことを行使するのが自由である。

そうですね。リーズナブルの言動が必要ですね。理性の教育が必要です。

>自由とは正しい言動ならば自由勝手にどうぞと言う事である。

意思が明らかにならないと、’自由にどうぞ’ とはならないでしょうね。

>そして自由とは常に、この世を良くするために使われるべき言葉であり、悪くするために使う言葉ではない。

この世においては、何が良いのか、悪いのかを十分議論しなければいけませんね。理想の未来社会を建設するには議論が必要です。

>“報道しない自由がある”などと悪用してはならないのだ。

夢と希望を与える未来社会の内容は報道しなければいけないことでしょう。

>基本的に権利には義務が、自由には責任が伴うと言われている。

権利を要求すれば義務を伴うし、自由意思のない人には責任感もないでしょう。

>自由だけでなく行動・発言には常に責任が伴うのだ。

意思のある人間は、自己の意思を示すことにより責任者となることでしょう。

>このことを最近の日本人はすっかり忘れている。

日本人には意思 (will) は無いが、恣意 (self-will) がある。これは、アニマルと同じ状態であります。
恣意は、バラバラな単語のままで、文章にはならないので、意味が無い。矛盾も指摘できない。本人は小言・片言・独り言として恣意を発する。
恣意の自由を主張する者は、自由のはき違えになります。

>すべての言動には責任が伴うのである。

自己の意思を示せば、当事者・関係者となる。自己の意思を示さなければ、傍観者にとどまる。意思表示が大切です。

>昔の日本には権利や自由という言葉はなかった。>しかし何の不自由もなく社会は回っていた。

そうですね。万事、不自由を常と思えば不足なし、ですね。意思が無いから、意思の自由は不要です。

>なぜなら間違ったことをやれば腹を切って責任を取るという文化が日本社会にはあったからである。

間違いは誤りであり、過ちを犯した者は謝らなくてはいけませんね。

>権利や自由や人権などの言葉が西洋から輸入され責任が片隅に追いやられ日本社会は本当に軽薄になってしまった。

そうですね。とかく、この世は無責任、ですか。この国が、ひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

>「何かあれば責任を取る」という文化が薄らいで、権利だ、自由だ、人権だと叫んでいる欧米国家以上の「無責任国家」になった。

自己の意思を示せば、その人に責任がある。日本人には、意思が無いので、責任感も湧かない。
意思は、未来時制の文章内容であり、日本語には時制というものがないから、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。

>私たち日本人が“言動には常に責任が伴うのだ”と責任感さえしっかりと認識するようになれば、権利や自由や人権を叫ぶ無責任国家とおさらばし、もう少しまともな国家になれるのだが。

そうですね。意思のない人達には、責任もないですね。英米流の高等教育を受けて、無責任国家とおさらばしようではあませんか。

>責任感の復権こそが日本の復権のカギである。

意思のある所に方法はある。(Where there’s a will, there’s a way). 意思の無いところに、方法は無い。意思の無い日本人に与えられた仕事は、牛馬の苦役の様なものになる。だから、誰も責任者となりたくもなく、責任を取りたくもない。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

昔の日本人は、15歳の見習い乗子の責任は考えられたが、5代将軍と佐土原藩主の責任については考えられなかったようである。つまり、人間序列の順位の高さとその責任の大きさには関係が無かった。これは、意思というもののない世界の出来事である。


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漢字かな

2017-04-26 11:54:51 | 教育

>漢字から広がる世界
>石井式の漢字教育と比較してみると、従来のひらがなから教えていく方法がいかに非合理的か、よく見えてくる。たとえば、「しょうがっこう」などという表記は世の中に存在しない。校門には「○○小学校」などと漢字で書かれているのである。「小学校」という漢字熟語をそのまま覚えてしまえば、近くの「中学校」の側を通っても、おなじ「学校」の仲間であることがすぐに分かる。「小」と「中」の区別が分かれば、自分たちよりやや大きいお兄さん、お姉さんたちが行く学校だな、と分かる。

そういうことになりますね。

>こうして子どもは、漢字をたくさん覚えることで、実際の社会の中で自分たちにも理解できる部分がどんどん広がっていくことを実感するだろう。石井氏の2歳の長男も、お父さんが読んでいる本の2つの文字だけでも自分が読みとれたのがとても嬉しかったはずだ。だから、僕も読めるよ、とお父さんに読んであげたのである。

>このように漢字を学ぶことで外の世界に関する知識と興味とが増していく。本を読んだり、辞書を引けるようになれば、その世界はさらに大きく広がっていく。幼児の時から漢字を学ぶことで、抽象化・概念化する能力、推理力、主体性、読書力が一気に伸びていく。幼児の知能指数が漢字学習で100から130にも伸びたというのも当然であろう。

知能指数と漢字学習の関係は、良く分かりませんね。

>漢字学習を通じて、多くの言葉を知り、自己表現がスムーズに出来るようになると、情緒が安定し、感性や情操も豊かに育っていく。石井式を取り入れた幼稚園では、「漢字教育を始めて一ヶ月くらいしたら、園児たちの噛みつき癖がなくなりました」という報告がしばしばもたらされるという。子供たちのうちに湧き上がった思いが表現できないと、フラストレーションが溜まって噛みつきという行為に出るが、それを言葉で表現できると、心が安定し、落ち着いてくるようだ。最近の「学級崩壊」、「切れやすさ」というのも、子どもの国語力が落ちて、自己表現ができなくなっている事が一因かもしれない。

スムーズな自己表現については、漢字学習との因果関係が私にはまだよくわかりませんね。
今週 (May 1/ May8, 2017) の週刊誌 ’TIME’ には、百人の最も影響力のある人々 (The 100 Most Influential People) の中に、日本人は、都知事の小池百合子氏一人しか選ばれていませんでしたからね。世界第三の経済大国の日本としては、十人程度の人物はいても良いのではないかと私は思っています。影響力にもいろいろありますからね。一概に良いこととは言えませんが。TIMEには、金正恩氏なども入っていましたからね。それにしても、自己表現が漢字学習により向上するようには考えられませんね。

(中略)

>漢字かな交じり文の効率性
>漢字が優れた表記法であることは、いろいろな科学的実験で検証されている。日本道路公団が、かつてどういう地名の標識を使ったら、ドライバーが早く正確に認識できるか、という実験を行った。「TOKYO」「とうきょう」「東京」の3種類の標識を作って、読み取るのにどれだけの時間がかかるかを測定したところ、「TOKYO」は1.5秒だったのに対し、「とうきょう」は約半分の0.7秒、そして「東京」はさらにその十分の一以下の0.06秒だった。
>考えてみれば当然だ。ローマ字やひらがなは表音文字である。読んだ文字を音に変換し、さらに音から意味に変換する作業を脳の中でしなければならない。それに対し漢字は表意文字でそれ自体で意味を持つから、変換作業が少ないのである。

そうですね。もっともな話です。

>日本人はこの優れた、しかしまったく言語系統の異なる漢字を導入して、さらにそこから、ひらがな、カタカナという表意文字を発明した。その結果、数千の表意文字と2種類の表音文字を使うという、世界でも最も複雑な表記システムを発明した。たとえば、以下の3つの文章を比べてみよう。
>朝聞道夕死可矣/あしたにみちをきかばゆうべにしすともかなり/朝に道を聞かば夕に死すとも可なり
>漢字だけ、あるいは、ひらがなだけでは、いかにも平板で読みにくいが、漢字かな交じり文では名詞や動詞など重要な部分が漢字でくっきりと浮かび上がるので、文章の骨格が一目で分かる。漢字かな交じり文は書くのは大変だが、読むにはまことに効率的なシステムである。

同感です。しかし、それは日本語の場合でしょう。中国人には、そうはゆかない。中国人は、カナが大嫌いです。

>情報化時代になって、書く方の苦労は、かな漢字変換などの技術的発達により、急速に軽減されつつあるが、読む方の効率化はそれほど進まないし、また情報の洪水で読み手の負担はますます増大しつつある。読む方では最高の効率を持つ漢字かな交じり文は情報化時代に適した表記システムであると言える。

日本人だけの社会では、そうかもしれませんね。

>漢字教育で逞しい子どもを育てよう
>英国ケンブリッジ大学のリチャードソン博士が中心となって、日米英仏独の5カ国の学者が協力して、一つの共通知能テストを作り上げた。そのテストで5カ国の子ども知能を測定したところ、日本以外の4カ国の子どもは平均知能指数が100だったのに、日本の子どもは111だった。知能指数で11も差が出るのは大変なことだというので、イギリスの科学専門誌「ネイチャー」に発表された。

知能指数は何の役に立つのですかね。

>博士らがどうして日本の子どもは知能がずば抜けて高いのか、と考えた所、この5カ国のうち、日本だけが使っている漢字に行き着いたのである。この仮説は、石井式で知能指数が130にも伸びる、という結果と符合している。

知能指数の高さが、我々の生活にどのような形で結びついているのでしょうかね。漢文を使う中国人をテストしたらどうなるのでしょうかね。

>戦後、占領軍の圧力や盲目的な欧米崇拝から漢字をやめてカタナカ書きやローマ字書きにしよう、あるいはせめて漢字の数を減らそうという「国語改革」が唱えられ、一部推進された。こうした科学的根拠のない「迷信」は事実に基づいた石井式漢字学習によって一掃されつつある。

言語は本来、聞くものしゃべるものでしょう。音読に都合の良い言語は、言葉の学習に適しています。
日本人の漢字では正しく読めませんね。ですから、役所においても、常に振り仮名表記が義務付けられています。
漢字は漢人 (中国人) のために造られた文字です。中国人以外の人の考えを表現していません。ですから、横文字文化の吸収に伴ってカタカナ書きの日本語が増えています。
漢字は、原則として一字一音です。日本に来た中国人の留学生が一つの漢字に対して日本の読み方が多数あるのを見てびっくりしています。

非漢字圏の人たちも、我が国に研修に来ています。言葉が覚えられなくては研修の能率は上がりません。日本語の漢字かな表記をローマ字表記に切り替えれば、この障害はたちどころに解消します。相手との話し合いが大切です。自分たちだけの処世術は適当ではありませんね。
民主主義の時代には、自由な話し合いが必要です。相手が、言語習得もままならぬ状態に置かれていては、協力して未来社会を建設することも不確かなものになります。
日本語は、特に貴重な言語のように見受けられます。日本語思考によれば、細工物の仕上がりが向上します。技術立国は経済大国になる道筋を開きます。この道は、各国民とも望むところです。ですから、日本語の世界への普及は必要であると考えられます。この特性は、英語では代えられません。
英語による思考をすると、人々から尊敬されます。だから、英語圏からは最も影響力を持つ人たちが多く現れます。日本人も、英語を習得すれば、実学 (技術) と哲学を合わせ持つさらに優秀な鬼に金棒の民になる事でしょう。

>国語力こそ子どもの心を大きく伸ばす基盤である。国語力の土壌の上に、思考力、表現力、知的興味、主体性などが花開いていく。そして国語を急速に習得する幼児期に、たくさんの漢字を覚えることで、子どもの国語力は豊かに造成されるのである。
石井式漢字学習によって、全国津々浦々の子供たちが楽しく漢字を学びつつ、明日を担う日本人としての逞しい知力と精神を育んでいくことを期待したい。

考え方は、文法により規定されます。文法から外れた考え方は誤りとされます。日本語文法には時制というものがないので、非現実の内容を文章に表すことが出来ません。ですから、いつまでも無哲学・能天気の状態でいます。これが、文章・言説により世界に影響力を及ぼす力に欠ける日本人の障害になっています。


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国の権威

2017-04-21 12:57:32 | 政治

>俺は祖国を愛しているんだけど、祖国は俺たちを愛してくれないんだよな・・・・ >日本の新幹線は民衆のためにあるんだな・・・・  なのに中国の新幹線ときたら・・・・
>この二つのコメントは、たまたま同じ年の3月に開業した九州新幹線と今月開業した自国の「(北京=上海)高速鉄道」の違いを、九州新幹線のCMを通してシナと日本の決定的な違いとして率直に感じた思いを素直に綴ったのだろうと、敬天は思うのです。

‘中国人は、’祖国に対して片思いだ’ ということですね。

>まず「俺は祖国を愛しているんだけど・・・・」はシナ人民の思いをこれほど象徴的に表した言葉は無いと感じるのです。>「(今の政府を見れば)日本だって似たようなものじゃないか」と言われるかもしれません。確かに、国の権力という観点で考えれば残念ながら日本もシナも似たようなものです。しかし、日本には「国の権威」という「国の権力」を超越した存在があります。

我が国の超国家主義 (国粋主義) の内容の話になりますか。

>つまり、天皇であります。シナでは「俺は国を愛しているんだけど」の思いを返してくれる存在はありませんが、日本にはその思いを返してくれる天皇のご存在があります。>今回の大震災でもそうでしたが、天皇は「国民の不幸は自分の不幸」と共にしてくださいます。

確かに、我が国には国を代弁する声がありますね。それは、天皇のお言葉ですね。

>国民が国を愛すると同時に天皇も国民を愛して下さるから、国民の安全を第一に物事が進められてきたのが日本の歴史です。新幹線然りです。>これはどんなにシナ人が逆立ちしても叶わないことです。>日本にあってシナにないもの――アメリカにも言えますが――国の権威です。

我が国は、権威主義 (authoritarianism) の国ですね。

>国に権威が無いということは、あるのは「権力と金」だけということになります。

シナ・アメリカは金権主義の国ということになりますか。

>たとえば、アメリカには国の権威がありませんが、例えばプロテスタントという宗教的権威と法治主義という法的権威が厳然と存在しているおかげで社会的不正に一定の歯止めをかけ、国民の利益と生存権を守ろうとするシステムが機能しています。>しかし、宗教的権威も法的権威もないシナにあるのは権力=金だけです。

シナは金権政治 (plutocracy) ですか。

>話は横道に逸れますが、アメリカが日本に絶対に敵わないと認識していることは、国家権力はいうまでもなく、「宗教・法」という権威を超越した、国家として絶対的権威(=天皇)が日本にあるということだそうです。この絶対的権威は誰も否定できないと認識しているそうです。

我が国は、序列制の国ですからね。日本人序列の最高権威は天皇です。でも、日本語の通用する地域にしか、その権威は通じませんね。グローバルでもなく、ユンバーサルでもない。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがありますから、日本人の礼儀作法は、序列に基づいています。ですから、序列のないとことでは、礼儀なしです。
 
>敬天が何を申し上げたいのかといえば、宗教的権威や、歴史・伝統・文化といった人間の拠り処となる権威を否定した社会には、暴力的に獲得し暴力的に維持されている暴力装置としての権力しか存在しないから、人民あるいは国民の生命・安全をものともしない人民にとっては暗黒社会でしかないのが、今のシナ人民共和国そのものだということなのです。

力は正義ですね。(Might is right). 正義の内容が問題になりますね。力による平和もありますからね。

>そして、例えば仕事や旅行などで高速鉄道など公共交通機関を利用するという、日常的生活においても、脆弱な安全性の下に人民が大きなリスクを負わなければならない国って、「どうよ?」なのです。>その「どうよ?」に集約されているのが「日本の新幹線は民衆のためにあるんだな・・・・  なのに中国の新幹線ときたら・・・・」に尽きると思うのです。

中国人の方が我が国民よりも、’今だけ・金だけ・自分だけ’ の処世術にたけているようですね。
 
>自衛隊を(国家権力における)暴力装置と発言した与党の偉い人がいましたが、敬天に言わせれば、現代においては人間社会の伝統的権威を否定しイデオロギーと私兵を使った暴力革命による権力そのものが、暴力装置と定義されるべきなのです。

権威主義は良くないですね。民は盲目の人になっています。この国をひっくり返して、国民に塗炭の苦しみを味わわせた時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

>そして、人民の安全性を無視した、権力と金にまみれた「暴力装置」に支配された国家に、世界に賞賛される国家プロジェクトを構築できるはずはありません。

中国は、覇権主義の国です。中原の鹿を追う覇者の国の伝統があります。暴力装置に歯止めがかかりません。
特亜三国 (日本・中国・韓国) は無哲学・能天気の民の住む地域です。これらの民の言語には、時制というものがないので、非現実の内容を文章にすることが出来ません。
民は、現実しか信じていません。現実肯定主義者になっています。’あるべき姿’ を主張する者に対しては、’そんなことを言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と反論し受け付けません。
‘あるべき姿’ は非現実の内容です。現実の内容は小異になるが、あるべき姿は大同になる可能性があります。小異を捨てて、双方が大同につけば未来への道が開けます。お互いに大同に注意を集中しないと提案もなく、小異の争いに明け暮れることになります。これが、現在の北東アジアの不安定要因になっているのでしょう。
ですから、特亜三国の人々も哲学を持つことが大切です。それには、英米の高等教育が必要です。英語の文法を勉強すると、正しい考え方を否応なく教えられます。英語を使えば、過去の世界、現在の世界、未来の世界という非現実の三世界の文章内容 (世界観) の枠組みを脳裏に作ってくれます。ですから、非現実のあるべき姿の内容を未来の世界として考える余地ができます。民は考えに奥深くなり、’烏合の衆’ は、’考える人’ になることができます。未来社会に対する夢と希望が湧いてきます。



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道徳の授業

2017-04-15 13:24:42 | 日本語脳
>子どもの頃、道徳の授業ほど気持ちの悪いものは無かった。

そうですね。教師による説教ですからね。問答はありませんでしたね。上意下達の習慣を励行するのみですね。

>いいこと風の内容や、現実から遠く離れた場面で強制される感じ。

現実から離れた話は、我々日本人には受け入れられませんね。退屈します。
日本語には時制というものがないので、非現実の内容は文章になりません。日本人には、非現実の世界は想定外になっています。
だから、日本人脳裏には ‘あるべき姿’ の世界がありません。’あるべき姿’の世界は、 ‘今はない’ 世界だからです。それで、日本人は、無哲学・能天気になっているのです。
自分自身の ‘あるべき姿’ が無いので、それと比較して、現実を批判することが出来ない。だから、判断力を持たない。付和雷同する人間のままでいる。

>人が人として成長する、誰かを想う、みんなの為に行動できる。

それはアニマルも同じですね。みんなの為に行動できる。種族保存の本能ですね。

>それは、生産を含んだ社会過程でしか学べない。(学ぶというより適応)

実学 (技術) の様なものですか。それは、今まで我々・日本人がやってきたことでしょう。それはそれで、日本が成功してきたこと。
だが、英米流の高等教育にはなりませんね。

>この世の中の混沌と、人間力の低下を、学校という社会から遮断された空間で、架空のお話しの中でナントカしようとしているが、なんだか相変わらず、教師という人種がお遊びしかしていないと感じる。

無哲学・能天気の人々の世の中は、混とんとしていますね。人間に固有な知力も低下します。考える人になるのには、俗社会から隔絶されることも必要でしょうね。大人の教育には、大学村のようなところが良いでしょう。

>ましてや、道徳を教科化し、評価までするという。

自分自身で ‘あるべき姿’ の内容を考えることが大切ですね。各人にそれぞれの哲学が必要です。さすれば、判断力のある人間が育成されます。烏合の国から脱却できます。今は民主主義の時代ですからね。自分自身で判断できる人が多いほど、政治の質が高められます。
自分が考える人になれなければ、外から教え込むしかないでしょう。徳目を暗記させる。伝統的な中国式でしょうね。試験地獄が待っています。その努力は袋小路になっています。

>とにもかくにも、早いこと、「学校」という狂った場から飛び出すのが一番の人間力アップに繋がると強く思う。

学校から飛び出す必要はないでしょう。学校でソクラテス式問答法 (対話法) をすると良いでしょう。真理の探究・教育の手法になります。人間力がアップします。


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