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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

学歴信仰

2017-12-31 00:08:51 | 日本語文法
>日本の資本主義は、労働力の信用によって基礎付けられ、労働力の信用は、学校制度への忠誠と信用として根拠付けられてきた。

序列社会の我が国においては、学校は上意下達の精神を継承していますね。

>学校制度を支えたのは、学歴の価値に対する信仰であり、学歴信仰を根拠付けたのが、受験制度である。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。階称を上手に使い分けるには、世俗の ’ものの上下’ を知る必要があります。ですから、学歴がその基準として通用するのであるならば、その上下を知る価値は大きいということになります。

>そして、受験制度が学生の価値を支配し、加えて日本人の価値観を深く支配してきた。

無哲学・能天気な日本人の価値は、実社会における有用性で決まりますからね。学歴は、我が国の位階制度の様なものか。。

>大学受験は落とすための試験である。

そうですね。入学志願者の選抜試験ですね。試験結果に差がつけば、それで用済みですね。

>誰もが大学を目指すようになると、試験を難しくして振るい落とすしかなくなる。

そうですね。民の向学心が旺盛になると、大変なことになりますね。

>大学受験を繰り返すごとに、入試問題は奇妙に難解さを増していく。

そうですね。大学側は、入学志願者の差を求めているのですから、内容よりも差を重視していますね。

>それに対応すべく、学校の勉強も、塾の補習も受験に照準を絞らざるを得なくなる。

そうですね。無意味なことが悪循環になっていますね。

>そして、受験にしか役に立たない知識の習得が学校での役割となっていく。

全ては、処世術の一環として存在していますね。浪人生活で遊ぶ、学生生活で遊ぶということになりますかね。勉強をする暇はありません。

>かくして、家庭も学校も塾も大学受験に成功することが最大課題とばかりに収束していく。

現実の困難を乗り切る方策で手一杯すね。非現実・教養・哲学が無い。

>その結果、大学ランキング、合格率の高い高校ランキングなど序列ができてくるが、卒業することに全く意味の無い大学は、当然のように実社会からは全く相手にされない。

縦社会においては序列判断が全てですね。それ以外の知識には価値が無い。学問 (哲学) が無い。

>全ては、受験制度という一点において、大きく狂っている。>受験制度によって作り出される学歴信仰も、空虚な幻想に過ぎない。

そうですね。学歴信仰は、空虚な序列信仰の一形態であり幻想です。序列社会に住む日本人には、どうしても序列の目安が必要です。それは、人を見損なってはいけないからです。日本人の礼儀作法は、序列作法になっています。 ’上とみるか・下とみるか’ の判断を誤ると、礼儀正しい日本人にはなれません。序列なきところに礼儀なし。ですから、日本人の上下判断は、強迫観念の域に達しています。これは入試地獄へと通じています。

>空虚な受験制度に振り回される子ども達の悲鳴はとうに限界に達している。

そうですね。限界に達していますね。時流に流されることなく理想を追求する指導者が我々には必要です。私は、日本語の階称 (言葉遣い) を批判する日本人に出会ったことがありません。外国人は、階称を難しいという。これは、何度も拝聴いたしました。



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インド人

2017-12-29 14:29:51 | 学問


>インドの教育について、紹介します。>リンク
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>世界最高レベルの理系大学 >写真を拡大 >インド工科大学デリー校。世界最高の研究水準と評されている。

我が国の大学改革に役立つヒントがあるかもしれませんね。

>インドと聞いて、みなさんは何を想像するだろうか?>かつては「カレー」や「神聖な牛が道を闊歩している姿」「ガンジス川での沐浴」や「ヨガ」あたりが代表格だったかもしれないが、近年では「ITエンジニア大国」、そして話題の「インド式算数」を挙げる人も多いはずだ。

インド哲学は、仏教の教えとして、奈良時代に我が国にも伝えられましたね。前世・現世・来世の内容は、非現実 (哲学) の内容として、彼の国では庶民に至るまで考察の対象になっています。彼らは、伝統行事として沐浴して瞑想します。彼らは、昔から ‘考える人’ でありました。

>インド政府人材開発省が2008年に発表したところによると、アメリカにおいては航空宇宙局(NASA)の科学者の中の36%がインド人だ。

今や、インド人は、時を得た感じですね。非現実という哲学の内容を脳裏に構築できる人は、科学者に向いていますね。

>また、博士号保持者の38%はインド人で占められ、米マイクロソフト社の職員のうち34%がインド人。

彼らの博士号は、哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) ですね。哲学は、非現実の内容を取り扱う学問であり、伝統的に彼らの得意な分野ですからね。現実の世界では見ることのできない零 (zero) も、非現実の世界では、当然なこととして確認できます。

>外科医の10%がインド人だし、一方、英国では医師の40%以上がインド出身だ。

哲学のできる人は、教養のある人ですね。高度な職業人になる適性があると言えるでしょう。

>これらのデータから見ると、インド人は知的で、特に理系の分野では非常に優秀であることがわかる。

そうですね。彼らは哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) ですね。インド哲学は彼らの国が本場ですから、英米の経験哲学にも親しみがあるのでしょう。英米人が、’自分はインド哲学に興味を持っている’ と語るのを、私は何度も聞いています。

>この国で最難関といわれるインド工科大学(ITT=15の国立高等教育機関の総称)には、大学で講義が行われない試験休み期間になると、世界中の有名企業がリクルーティングにやってくる。

インド工科大学は、頭脳労働者の売り手市場となりましたね。インド人の頭脳労働は、実社会で貴重な役割を担っていますね。

>たとえばヤフー、インフォシーク、シティバンク、シーメンス、IBM、メリルリンチなど160社が教室を借りて、各社2日間で企業説明会から入社試験・面接まで行い、一気に採用まで決めてしまうのだ。

我々の地球村は只今頭脳不足ですね。無哲学・能天気の我が国にある人手不足とは、だいぶ様子が違いますね。

>グズグズしていたら優秀な人材を他社に横取りされてしまうので、決定権のある役員も欧米の本社からやってきて、即決。>採用された学生たちの多くは欧米に渡るが、初年度から年収1千万円を約束される人も少なくない。

頭脳労働者は高給取りですね。日本人も、頭脳を使って働く習慣をつけましょう。さすれば、我が国の人手不足も解消することでしょうし、賃上げも可能になるでしょう。
我が国の大学改革は、頭脳を使うための改革でなくてはなりませんね。



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思考停止

2017-12-28 22:33:53 | 文化

>・内閣府によれば国家戦略特区とは⇒「世界で一番ビジネスをしやすい環境”を作ることを目的に、地域や分野を限定することで、大胆な規制・制度の緩和や税制面の優遇を行う規制改革制度です。>平成25年度に関連する法律が制定され、平成26年5月に最初の区域が指定されました」と定義づけされている。>その通りに読めば頭をフルの使う追求課題山積のプロジェクトとなる。

野心的なプロジェクトですね。

>・今治市への加計学園/獣医学部設置の決定経緯から、安倍首相による国家戦略特区制度の私物化の一端が顕わにされた。>何で今治が、なんで獣医学部が、なんで加計学園が、これは強力な安倍官邸主導と官僚組織内の忖度によって繋がったもので、国家権力の私物化は誰の目にも明らかであろう。

安倍首相の処世術によるものですね。

>そして官僚組織を貫く各段階の下級役人による忖度(裏ルートの指揮系統)があって、権力の私物化が成り立つことも見えてきた。

日本人には意思 (will) が無い。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思が無い。
だが、日本人には、恣意 (私意・我がまま・身勝手) がある。恣意 (self-will) は文章内容にはならないが、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) で表される。相手はそれを忖度 (推察) で受ける。それができなければ、空気の読めない人間になります。

>・また、森友学園の用地売却や開設認可問題では、官邸トップに対する異様な忖度ぶりを目の当たりにしたが、官僚組織の裏ルートが各級役人の忖度によって成り立っていることも見えてしまった。

高文脈文化の特徴ですね。日本の様な高文脈文化においては、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがあるから、忖度 (推察) が必要になります。

>・この様な役人の忖度とは、役所ぐるみの思考停止と言い換えることができる。

日本語は、現実描写のための言語です。非現実の内容は、文章にはなりません。非現実の内容は、考えの内容であります。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。日本人には考えが無いのですから、思考停止ということになります。

>上位の意向を暗黙のうちにキャッチした、短絡思考がその本質だ。

日本人の精神活動は、文章では表すことが出来ません。それは人の心から心へと直接伝えられるものです。以心伝心・不立文字です。文章を介さないから、短絡思考というのでしょうかね。

>国税庁長官に納まった局長答弁のように、周りまで巻き込んでいかんともしがたく思考停止に追い込む罪深い行為だ。>・序列圧力が働く権力体組織では、この様な風潮は罷り通ってきたようだ。

序列社会の上意下達ですね。これ以外に方法は考えられないでしょうね。

>上司に対する部下の忖度の本質は、思考停止と追求放棄にある。

‘長い物には巻かれろ’ と言われているではありませんか。日本人は、もともと’考える人’ には向いていませんね。

>裏スジルートの意思決定のゆがみ以上に、成員の追求力が麻痺させられてしまうのが問題である。

ドイツのような低文脈文化においては、 伝達される情報は言葉の中で全て提示される。正確性が必要とされる言語であるから、全ての考えは文章になる。我が国の文化は、これと真逆の位置にあります。ですから、成員の追求力が麻痺します。

>権力体組織に罷り通る忖度とは、成員の思考を停止させる麻薬か毒物なのだ。

文章内容のある世界には、理解がある。文章内容のない、単語ばかりの世界には、忖度 (推察) がある。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」(引用終り)


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母語

2017-12-27 22:32:35 | 学問

>ノーベル化学賞(2000年)を受賞した白川英樹・筑波大学名誉教授は、科学や芸術などの学問を日本語で学び、考えることの大切さを説いている。>「言語にはコミュニケーションの道具としてだけでなく、考えるための道具としての役割がある。>人は母語で学ぶことによって、より核心に迫った理解ができる」と語る。>日本人は古来、大陸の漢字文化を学び、江戸期以降は欧米の科学知識を意欲的に日本語に翻訳して学問体系をつくり上げてきた。>現代の日本人が、世界の学問を容易に母語である日本語で学ぶことができるのは、先人たちによるこうした血のにじむような努力のおかげなのだ。

そうでしょうね。

>白川氏はノーベル賞を受賞後、「日本語で自然科学を学べる幸せ」についてずっと考え続けてきた。>日本人が日ごろ気付いていないこの恩恵は、歴史上どのようにして可能になったのか――昨今の英語教育早期化への見方なども含め、その思いを伺った。

時宜を得た探訪ですね。

>■意表突かれた質問、「なぜ日本にはノーベル賞受賞者が多いのか」
>――白川先生がこの問題への関心を深められるようになったきっかけは、ノーベル賞発表の際のある出来事だったとお聞きしました。

>白川 ノーベル賞受賞の一報は2000年10月10日の夜9時半ごろ、わが家に通信社からかかってきた電話でした。>その後も電話が鳴り続け、テレビでもテロップが流れました。>しかし、ノーベル財団から正式な連絡は何もないので、その夜は電話線を外して寝ることにしました。>翌早朝から報道陣が家を取り巻き、近所迷惑なので、7時ごろから玄関先で応対しました。>午後からはインタビューや取材を受け、来宅したスウェーデン大使館の人からやっと正式に受賞を告げられました。>その取材があらかた終わった後、香港の経済誌の特派員が帰り際に、「ところで」と1つ追加質問をしました。>「欧米諸国に比べると、日本人の受賞者は少ないけれど、アジア諸国と比べると断然多い。それはなぜだと思うか」というものでした。>意表を突かれた私は、とっさに「日本人は日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」と答えました。

そうかもしれませんね。それはアジア諸国と比べると断然多い理由でもあり、欧米諸国に比べると少ない理由であるかもしれませんね。

>頭の中にあったのは、アジアではインド、シンガポール、マレーシアなどは英国の、ベトナムはフランスの、インドネシアはオランダの植民地になったことから、各国はそれぞれの旧宗主国の言葉を使って学校教育をしているということでした。

アジアでは、自国語を使って学校教育ができないのですかね。

>つまり学ぶための言語と、ふだん生活で使う言語(母語)が違う。

それは、文語と口語が同じにならないようなものでしょう。

>この2つの言語は本来、学問を究める上で別々であっていいはずがないのです。

言語の特性は、様々ですからね。都合の良い言語を使ったらよいでしょう。航空交通管制は世界中通常英語で行われていますね。

>日本は欧米の植民地にされずにすみましたから、母語で学問ができるアジアでは珍しい国なのです。

そうですね。

>■丸谷才一氏の新聞コラムを読んで自説の正しさを実感
>――とっさに答えられたことが、先生のその後の思索のテーマになったわけですね。
>白川 そうです。その後ずっと、もし私の独りよがりな考えだったら困るなと思っていました。>すると2002年7月31日の朝日新聞文化欄に、作家の丸谷才一さんが書いた「考えるための道具としての日本語」という文章が載りました。>言語を「思考のための道具」と「伝達のための道具」に区別し、思考のための道具としての日本語がなおざりにされていると警告を発するコラムでした。

日本人の精神活動は、文章内容には表せないでしょう。人の心から心へと直接伝えられていると聞いていますがね。これは、以心伝心・不立文字です。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。文章にならない日本人の精神活動は、バラバラな単語 (小言・片言・独りごと) により発せられる。相手は、それを忖度 (推察) で受けている。
ですから、日本語は ‘思考のための道具’ にもならず、’伝達のための道具’ にもなっていないのではないでしょうか。

>これを読んで、私があの日特派員に言ったことは正しかったのだと思いました。

「日本人は日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいる」は、以前から指摘されている事実ではありますが、果たしてその効率というものは、どのようなものでしょうかね。

>自然科学に限らず、人文科学、社会科学、芸術を究めるには、自然や人間をしっかり観察して考えなければなりません。

日本人は、理解の代わりに忖度 (推察) を使いますからね。この傾向は、現実直視には際して大変な弱点になっています。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、理解の代わりに忖度を使うことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>私たちは母語である日本語を思考の道具として使い、そのことを実践しているのです。

忖度は、自分勝手な解釈です。議論になりません。独りよがりの態度の原因になりがちです。これは日本語を思考の道具として使う場合に、注意しなくてはならないことです。

>ノーベル賞受賞者の出身国と人数を調べて、どこで学び研究してきたか、考えてみました。>2000年時点でのアジアにおける受賞者(物理学、化学、医学・生理学の3賞)は、日本が6人(湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈、福井謙一、利根川 進の各氏と、私・白川英樹)で、母国の大学で学び研究した人たちです。>他はインド1人、中華民国3人、パキスタン1人ですが、母国で学び研究したのはインドのチャンドラセカール・ラマン氏(1930年物理学賞)だけで、残る4人は米国や英国での研究成果が受賞対象です。>つまり母国で学び研究した受賞者の比率は日本と他のアジアでは、6対1なのです。

そうですね。しかし、アジアにおける比較だけで、どれほどの意義があるのでしょうかね。

>それ以降、日本は16人が3賞を受賞しましたが、他のアジア諸国は中国人の屠呦呦(ト・ユウユウ)氏(2015年医学・生理学賞)だけ。>通算するとその比率は22対2に広がります。この事実からも母語でしっかり学び、深く核心を突く考えを身に付けることの大切さが分かります。

話をアジアに限れば、そういうことになりますね。
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心情

2017-12-26 13:34:08 | 文化
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落 (>のついた文章) のように述べています。

>、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。

そうですね。現実から得られた忖度 (推察) ですね。忖度は本人の勝手な解釈ですから、その内容は現実離れしていますね。
現実の内容は、頭の外にある。忖度の内容は、頭の中にある。両者は所在が違うので、内容も同じにならない。忖度は理解になっていない。
‘だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ という言い訳は、現実の理解とは関係が無い。忖度は、現実直視になっていない。

>そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、 

そうですね。日和見主義の追求のようですね。独りよがりによる自己慶賀といったところでしょうね。’神風が吹く’ ようなものか。

>西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。

現実を理解する内容は、現実から忖度 (推察) する内容とは違いますね。忖度の内容は、現実を離れて談合で決めることが出来ます。

>つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。

そうですね。現実に関する自分勝手な解釈は許されませんね。日本人の場合は言語環境が不完全で、文章で ’理解する’ というよりも、バラバラな単語を材料にして、忖度 (推察) に耽る。これは空気の研究というべきか。現実離れして、現実を忘れる。付和雷同は、我々の真の力と言うべきか。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、その心情の事を指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。

文章が無いのであるから、意味もなく、矛盾さえも指摘できませんね。ですから、日本人の脳裏の内容は、哲学にはならずして空想・妄想・幻想になる。日本人は、思春期が来て、言語能力が発達しても、’考える人’ にはならない。’物思いにふける人’ になる。我が国は、風流な歌詠み文化の国なのか。
文章は理解につながり、議論につながっている。バラバラな単語は忖度 (推察) につながり、談合につながっている。文章の世界は言語の世界であるから、英米は書物の輸出国になった。単語の世界は非言語の世界であるから、製品を通して世界に輸出された。
日本人の精神活動は、文章に表すことが出来ない。人の心から心へと直接伝えられる。以心伝心・不立文字。物に込められた日本人の心は、国際間の言語障壁をものともせずに乗り越えて、直接外国人の心へと伝えられている。非言語の威力は我が国を技術立国にしたうえに経済大国にまで押し上げた。

>ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。

矛盾を含まない考えは、すべて正しい。矛盾を含む考えに、正しいものは無い。文章が無ければ、意味もなく、矛盾も指摘できな。日本語には、非現実 (考え) の内容を表す文章が無い。だから、日本人は考える人になる事が難しい。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、バラバラな単語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)

そうですね。’矛盾を育むことなかれ’ は、学問の成り立つ根本原理ですね。日本人の英米流の高等教育に対する価値はきわめて低い。我が国で、大学不要論の出てくるのも無理はないのでしょうね。この無理解を克服することは、極めて難しいようです。東は東、西は西か。



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