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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

名言 二首

2015-10-13 05:03:18 | 日記
・> 為せば成る、為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)

意思のない人間の歌である。
為せば成るとは限らない。矛盾があれば為しても成らない。
考えから矛盾を除去するには、文章が必要である。
日本語には未来時制がない。だから、未来 (非現実) の内容は文章として表現できない。
‘筋が通る通らない’ を問題にせず為すことになるから、行き当たりばったりの行為となる。
だから、耐え難きをたえ、忍び難きをしのんでも、為して成らぬことが多い。


・> やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず  山本五十六 (やまもと いそろく)

治者崇拝を利用した、’意思のない人間’ に対する上からの教化である。相手は自立した人間ではない。12歳の大人か。
上からの与えられた民主主義、上からの与えられた自由、上からの与えられた平和などなど、多数の実例がある。
意思がないので、自発性もない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自発であっては、なお困る。
恣意には筋がない。文章がない。片言・小言・独り言になる。話が通じない。個人主義がなくて、利己主義がある。伝統的な滅私奉公で対処することになる。
おとなしくしているのが良い。待ちの政治か、静観か。常に受け身の立場。意思のないところに方法はない。

高等教育は、自己の意思を表現させるものでなくてはならない。意思の表現は生きる力になる。



・> 私 [武田邦彦先生] は日本の文部省(現在の文科省)はないほうが良いと思っている。その理由は、文部省がないアメリカや実質的に「指導」をしないヨーロッパの国の教育がなかなか高いレベルにあるからでもある。
・>特に自主的で創造的な心を持つ子供を育てるためには、文科省を止めるか、最低でも文科省が「学習指導要綱」や「学習方法」などについて「指示する」というやり方を止めることが大切だろう。(引用終り)




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歴史に学べ

2015-08-08 01:21:31 | 日記
原爆の投下の悲惨さを語る者は多い。現実の内容を語れば、聴衆はもらい泣きをする。見ればわかるからである。
一億総玉砕の悲惨さを語る者は少ない。非現実の内容を語っても、聴衆は身震いしない。見てもわからないからである。
トルーマン大統領は、総玉砕よりも原爆を選んだ。彼は、自分の判断の正しさを確信している。

現実肯定主義者には、現実離れした内容は、信じられない。洞察力が無い。何事も、やってみなければわからない、なってみなければわからないのか。喧伝すれば、非戦闘員は ‘人民の盾’として有効に作用するのか。ならば、武力は必要ない。沖縄のひとに尋ねてみよ。

洞察力に欠けた人は、指導者には適していない。指導者に導かれて海でおぼれ死ぬネズミの大群の例もある。過ちを繰り返さないためには、先見の明が必要である。歴史を学ぼう。後知恵の民であってはならない。そして、過ちを指摘しよう。我が身を助ける。



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'とらえどころ' とは、何か

2015-07-31 05:25:10 | 日記
意思は未来時制の文章内容であり、日本語には時制がない。だから、日本人には意思がない。
自由とは、意思の自由であり、責任とは意思を自由に働かして物事に対処する事である。
日本人には、意思がないから、自由にも責任にも関係がない。我が国は現代社会になれないのか。
自分が相手の意思を求めることもなく、相手から自分が意思を求められることもない。
意思は各人で違っているが、わが国には意思に関する個人主義がない。
意思のある所に方法があるが、無意思の社会であっては、人類に広く影響を及ぼす個人は育たない。
人間に'とらえどころ' がない。'とらえどころ' とは、意思の内容のことである。
日本語の学習ともに英語をも学び、国民が意思の内容を表現できるようになることが我が国の現代化につながると考えられます。

日本人には意思がないが恣意 (私意・わがまま・身勝手)がある。意思を許そうとおもえば、恣意を許すことになる。'自由のはき違え' が起こる。
恣意は、どこの国においても許されるものではない。我が国においては、恣意には '滅私奉公' で対処する。不自由を常と思えば不足なし。恣意の違いには意味がない。これは利己主義 (egotism) である。
このようなわけで、我が国においては個人の意思を示さない状態が民主的であると、歓迎されている。衆愚的か。
日本人の社会では、責任者を探すのに苦労する。個人の意思を認めないから、責任を持つ個人を指し示すことができないのである。冴えた社会には成らない。指導者を変えても、革新的には成らない。
国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。常に意思決定に難渋している。決断の遅れが深刻な問題を引き起こすことも多い。

カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。 どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)


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永久革命論

2015-07-17 16:06:58 | 日記

日本人には意思がない。
意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制がない。
だから、日本人には自律意思がない。
優柔不断・意志薄弱に見える。

意思があれば、加害者意識 (罪の意識) も湧いてくる。
意思がなければ、加害者意識は強くない。アニマルのようなものか。
だが、被害者意識だけはある。謝罪がなければ恨みを生ずる。これが、実に恨めしい。
罪の意識がなければ、謝罪もない。謝罪があれば、それは自虐となる。
恨みを避けるために我々は供養をする。

英語には時制がある。
時制のある文章内容は、非現実である。
だから、文章の内容も個人個人で違っている。個人主義を認めることになる。
主体的思考が可能になる。民主政治も衆愚政治に陥ることなく行われる可能性がでてくる。

意思の違いがなければ、個人の違いも認めがたい。
意思の内容を表明する個人もいなければ、それを個人に求める者もいない。
だから、集団の中に意思の存在を示す指導者が育たない。だが、序列制度の親分は育つ。
意思のない親分には責任がない。とかく、この世は無責任。

意思のある所に方法はある。(Where there's a will, there's a way).
意思のないところには方法がない。だから、親分は、無為無策でいる。
恣意 (私意・わがまま・身勝手) はあるのだが、恣意にはリーズン (理性・理由・適当) がない。だから、リーズナブルな説明責任を期待することはできない。
恣意により、自ら望むことなく危機に陥る民族である。

・> 「丸山は国家の方向が国民の自律意志に基づいて決定されるべきだという考えを持っていた。国民の判断と主体的思考を基礎に、時間がかかっても民主主義を実現させなければいけないということだ。これが丸山の『永久革命論』だ。彼は徹底的に合理主義的な知識を基盤とする近代主義者だ。彼の哲学には、他のアジアの国々の固有の民族主義を害する行為を日本がしてはいけないという内容もある。敗戦後の日本の混乱した状況で、彼の主張は当時の日本社会で大きな反響を起こした」


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恐ろしいこと

2015-07-17 00:26:59 | 日記
聖書は神の教え。論語は孔子の教え。新憲法はマッカーサの教え。それぞれ、キリスト教・儒教・九条教の原点となっている。いくら新憲法は自分たちの憲法であるとは言え、原典の内容を書き換えることは、無哲学・能天気の日本人にはできそうにない。与えられる事は喜ぶが、自ら生み出す力に欠けている。だから、文章の内容が現実に合わなくなれば、勝手な解釈をする。すると、違憲は合憲に見えてくる。ノーはイエスに見えてくる。
都合が良い。日本人のご都合主義が発揮される。言語・文章では、行動の歯止めがかからない。日本人が、かねてから恐れていたことが起こってしまった。勝手な解釈の暴走により、国はひっくり返る。日本人のお粗末である。これが習慣に成っていては、文章の意味を練る励みに意味はなくなる。我が国民の作文能力は低下する。民度の低さは、文章の意味を正しく読み取る力と、自分の考えを明確に表現する能力に欠けていることである。

カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)

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