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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

教養

2016-03-25 11:48:17 | 教育

>理系、いわゆる自然科学は人間と自然界との関係を追及することで、「物質的に」より良い世界を作って来た。
>対して文系、つまり社会科学や人文科学は過去の歴史や人間の行動、そういったものを紐解いて来た。
>その目的は「精神的、文化的に」より良い世界を作ること、すなわち「より良い社会、より良い生き方」を追及することだと思う。

米国では高度な職業人を育成するために、法学校 (law school)、医学校 (medical school) などの大学院 (graduate school) に学士 (bachelor) を入学させて職業訓練をさせている。

>海外の学会で、日本の学者は日本人同士で固まってしまうという話を以前よく耳にした。
>その一因はもちろん英語力だったわけだが、「専門以外の話ができない」というのも大きな原因らしいと聞く。
>つまるとこちゃんとした教養教育が行われていないのだ。今の政府は海外の大学でどれほど教養教育が重視されているか知らないようだ。

井の中の蛙大海を知らずということか。心ここにあらざれば、視れども見えず。(None are so blind as those who will not see.)
哲学 (非現実) が無いので、目先 (現実) の話しかできない。つまるところ、教養が無い。
非現実の内容を示す文章を作るには、時制が必要。英語には時制が有って、日本語にはない。
非現実の文章が作文できないと、正しい考え(内容)ができない。矛盾を文中から排除できないからである。だから、科学そのものができない。
英米では、哲学博士 (Doctor of Philosophy; Ph. D.) となって、はじめて科学者として認められる。

>大学を出た大多数の人間は、自分の専攻分野とは直接関わりの無い職業に就くだろう。そこで物を言うのが教養ではないのか?
>教養、つまり全般にわたる基礎的な知識は、あらゆる思考の上で必須のものだ。

現実の内容は頭の外にある。
非現実の内容は頭の中にある。非現実の内容は、考えの内容である。
あるべき姿は、非現実の内容である。
日本人は、現実肯定主義であるから、非現実の内容は、常に想定外になっている。だから、無哲学・能天気である。我が国では、インテリは頭でっかち・曲学阿世になっていて、’ああでもなければ、こうでもない’ と力説する。自分は、どうであるかを言わないので、相手に対して説得力がない。無教養・低民度を表している。
非現実の内容を作るには、時制のある構文が必要である。時制は英語にあって、日本語にはない。

>大学をただの職業訓練校にして、即戦力という名の働きアリ量産装置にしてしまったら何ら新しい地平は生まれない。技術革新も社会の発展も無い、競争力の欠片も無い国が残るだけだ。

実学 (技術) は現実の内容であり、哲学は非現実の内容である。
実学は中等教育で行われ、哲学には高等教育が必要である。
中等教育の充実により、我が国は技術立国となった。
高等教育の低迷により、我が国は指導力を持たない国として今日に至っている。

日本人には哲学が無い。だから、我が国の政治家には政治哲学が無い。それで、彼らは政治音痴になっている。
大同 (非現実) が無いので、小異 (現実) の激突に明け暮れる。議員は、離合集散を繰り返し、小異を捨てて大同につく余地が無い。未来社会の建設を目的とした大同団結ができない。団結といえば、無哲学な翼賛会を思い出すのみ。まさに、小人の国である。

矛盾があれば考えは成り立たない。矛盾が無ければそれは一つの考えであり、各人の内容の違いは、それぞれの意見の違いとなる。非現実の内容が理解できなければ、こうした個人主義自体も理解できない。

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自分探し・世界探し

2016-03-23 05:27:32 | 国際・政治
>「自分探し」とは、謙虚に自分を見つめ、これまでの自分を検証して、自分自身をよく知ること、即ち「自己観照」することです。
>そして、「ありたい自分」「なりたい自分」を目指すために どんな「考え方」や「観点」が必要なのか、それを妨げているものは何なのかを、従来の価値観に囚われずに見つけ出すことです。

‘上とみるか、下とみるか’ の判断に慣らされている日本人には、謙虚になることが難しい。これは、日本語に階称 (言葉遣い) があるためである。自己慶賀の内容に酔いしれると、すぐに有頂天になる。
「ありたい自分」「なりたい自分」は、’罪穢れのない自分’である。贖罪により魂は救済される。
意思のないない人間には、罪穢れはない。その人は無心・無罪である。例えば、死刑執行人は殺意がないので、殺人罪には問われない。意思のないところに責任はない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制がない。だから、日本人には意思が無く、罪の意識が極めて薄い。このような事情で、我が国には、贖罪のための宗教 (キリスト教) は育ちが悪い。
だが、日本人には恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有る。罪悪感は弱くとも、良心の咎めることは数多くある。そこで、供養をする。供養は広く行われていて何回も繰り返されるが、その内容の詳細は朧げなもので、深刻な反省には至らない。

自分を中心にした考え方では、新しい世界は開けてこない。自分たちを中心にした考え方でなくては社会性は無く、その内容はグローバルにも、ユニバーサルにもなにらない。’自分さえ善ければ’、’独りよがり’ にとどまりがちである。
‘あるべき姿の世界’とか、’自分の作りたい世界’ の内容を考えよう。そして、’来るべき世界’ の内容を友達と語り合おう。民主的な未来社会に関する建設的な話し合いで、その意思を示し合おう。片務を考えることなく、相互を考えよう。
この活動には、世界観が必要である。世界観の作成を妨げているものは、時制のない言語 (日本語) である。時制のない言語では、非現実の内容は語れない。世界観は非現実の内容であるから、日本人には想定外となっている。英語を学んで、この難関を突破しよう。

矛盾を含まない文章は、正しい文章である。それが非現実の内容であっても、正しい考え方である。正しい内容が語れるように英米流の高等教育を受けて訓練しよう。さすれば英語圏の人々と建設的な協力ができる。


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日本語学習の難関

2016-03-20 09:30:11 | 国際・政治
>漢字の学習をされているAさんが来られて3ヶ月が経ちました。
>毎週、休むことなく来られているし、漢字の勉強を続けたいという気持ちは変わらないようなのですが
>最近、家での予習・復習を全くしなくなったようです。
>復習をしないので、せっかく覚えた漢字も次から次へと忘れて行ってるようで
>せめてそれを食い止める為、教室では復習ばかりになってしまっています。

日本人が世界で指導的貢献をするためには、日本語を理解する人の数を増して、世界の共通語にしなくてはならない。
日本語の有用性を認識した、第二言語としての日本語を学ぶ意気ある学習者に親しみある言語に我が国語を変えなくてはならない。
日本語の学習者に日本人だけを対象にして考える時代は疾うに過ぎ去った。
日本語は特に習得が難しい言語というわけではない。だが、その表記法には大きな問題がある。
特に非漢字圏に人たちには、漢字表記が日本語の学習の妨げになっている。
漢字を使用すると、振り仮名・送り仮名の問題も生じる。
日本語を、トルコ語のように、ローマ字表記にすべきである。この改善策は、その場で効果を発揮する。
漢字圏の人口は、非漢字圏の人口よりも少ない。新しい概念は、最近、主として非漢字圏から多く入ってくる。
漢字は漢人 (中国人) の考えを示すために作られた文字で、非漢字圏の人々の考えを表していない。
漢字の数が増えないのは、中国人に新しい概念が生まれないからである。彼らは、異文化の概念を漢字で表現する努力をしない。
日本語の外来語も ‘エア・メイル’ とカナ書きにせず、’AIR MAIL’ と原語で表記すれば、世界中で通用する。
’コーヒー’ を ’COFFEE’ と表記することにより、英語に親しむようにする。知識の源 (英語の出版物) と直接接触を保つことにより国際人の育成につとめる。
地名なども、’東京’ と漢字を使わずに ‘TOKYO’ とローマ字表記にすれば、世界中で通用する。

日本語のかな漢字表記法は、我が国の国際貢献に対する大きな足かせとなっている。
我が国の政治家はこの問題に真摯に向き合って解決を図らなくてはならない。優柔不断・意志薄弱ではいられない。現実に対処せよ。



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大和魂・精神主義

2016-03-18 02:29:30 | 教育
>自分で決めた道だから、言い訳なんてせずに、ただひたすら歩けばいい。
>一理ある。だけど、自分で決めた道だから、自分のペースで歩いたっていいし、時には休んだっていいと思う。
>自分で決めた道だから、言い訳なんてできないけれど、他の誰かにとやかく言われる筋合いもない。

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語には時制がない。だから、日本人には意思がない。だが、日本人には恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有る。恣意は日本人の精神になっている。
意思には文脈があるが、恣意には文脈が無い。恣意は文章にならないから、内在する矛盾を取り除くことができない。他の人との議論もできない。恣意は腹の底にたまる。たまったものは、腹芸で表現する。切腹もある。
広く自己のアイデアを提唱することはない。我が国の神は意思を示さない。人も意思を示すことはない。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
その結果、恣意は、‘何が何でも、、、’とか、 ‘自分さえ善ければ、、、’ の思いになる。
日本人は、その精神・根性を鍛える。かくして、優柔不断・意志薄弱な人間は頑丈な大和魂の人に変身する。
ただ特攻・玉砕戦法を繰り返していれば、我が国運は開けるものと固く信じていた。精神主義である。必勝祈願をする。
‘我が国は精神力ではアメリカに勝っていた。だが、物量作戦に負けた’、と敗因を説明する人がいる。物量を整える精神の力というものは、考えられないのであろうか。
堪え難きをたえ、忍び難きをしのんで恣意の実現に励めば、南の島に雪が降る。
日本人の励みには文脈が無く、軌道修正が利かないので、きわめて危険な人生である。
英米人のように、リーズン (理性・理由・適当) による判断を使うと、時代の閉塞感も軽減できる。


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非常に興味深い事実

2016-03-11 21:38:44 | 国際・政治




山本七平は「『空気』の研究」のなかで、日本人のメンタリティの欠点を指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

これは、’意思’ (will) 対 ‘恣意’ (self-will) の問題である。
明確な根拠に基づく ‘意思’ の方は、文章で表すとかできる。だから、矛盾が淘汰でき、正しい考えになる。
根拠はもっぱら空気とする ‘恣意’ (私意・我がまま・身勝手) は、文章で表すことができない。文章に表せないものは、考えでない。矛盾でもない。
恣意は、文章にはならないから、考えの埒外である。だがしかし、それは気分・雰囲気となって現実に現れる。そして、その場の空気を読む人たちにより察知され、大きな感動を与えるものとなる。
意思は、未来時制の文章内容であり、非現実の内容である。この現実離れをした内容は日本人に親しみが無い。
一方、気分・雰囲気は現実の内容であるから、実況放送・現状報告の内容となる。かようなわけで、日本人の最終的決定は現実に流されざるを得ない状況にある。無言の圧力を受けているというのか。浪花節の内容か。これは、時制のない現実肯定主義の欠点である。その理由は、付和雷同して正しい考えを見捨てるからである。

理解ができないときには、’訳が分からない’ という。日本人のいう ’訳’ (わけ) というのは、事の次第・成り行きのことである。実況放送・現状報告の内容 (things-as-they-are) である。だから、確たる行動指針にはならず、日和見主義になる。他人からの信頼を得ることが難しい。
英語のリーズン (理由・理性・適当) は、それとは違って、あるべき姿 (things-as-they-should-be) のことである。日本人の口からは、この時制に基づくリーズンは出てこない。
哲学を示して、その実現の意思を自ら示す。この誓いが人々の信頼を勝ち得る方法である。
日本人には哲学が無いから、政治家にも政治哲学が無く、’あるべき姿’・’行き着く先’ (大同) を示せない。それで彼らは政治音痴になる。議員は小異にこだわり離合集散を繰り返し、処世術を頼りにして、恣意で行動する。

日本人には意思がない。意思決定に難渋している。だから、無為無策でいる。座して死を待つ。挫折する。意思のあるところに方法がある。 (Where there’s a will, there’s a way) ‘意思が無ければ、挫折もないのではないか’ という人もいるが、挫折はある。意思はないが、恣意が有る。堪え難きをたえ、忍び難きを忍んで恣意の実現に励めば、南の島に雪が降る。



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