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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

教育改革

2019-10-31 14:48:53 | 教育
(略)
>2020年の教育改革について山下慎也氏はこう語る。> 『2020年に学校の勉強が大きく変わります。 > 今回の変化は「脱ゆとり」どころの騒ぎではなく「教育の明治維新」と言われるくらいの大きな変化ですが、まだまだほとんどの保護者の方にとっては「教科書が変わるだけでしょ」程度にしか思われていません。

政府の掛け声だけでなく、本当にわが国の教育が変わると良いのですがね。

> 今回の変更の一番のポイントは、これまでの「どれだけ知っているかという知識重視の学習」から「どう考えるかという思考力重視の学習」に変わるということです。』

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。話の内容を知るには、その文章を文法に照らし合わせて理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) をもって、理解に代えている。
しかし、忖度と理解は、似て非なるものである。忖度は聞き手の勝手な解釈の内容であるから、話者に何の責任もない。議論にならない。現実直視になっていない。
現実直視にならないことを非難すれば、忖度の主は、’だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と反発する。だから、忖度の主の発言は歌詠みになる。

> 明治以来の富国強兵をもとにした日本の教育制度がようやく変わろうとしている。>これは、ITやAIによって大変革を迫られているビジネス界からの要請もあったという。

わが国には人手不足はあっても、頭脳不足は存在したことがないですね。これは、日本語脳の特殊事情によるものでしょうね。

>しかしながら、未だに親や教師の世代には、旧来の価値観を是とする人たちが多くいる。> 一流企業に内定したのを蹴(け)って、まだ小さなベンチャーに入ろうとする子どもを止めるのは、たいてい親だからだ。

そうですね。たいていの親は、現在と同様な未来の安定を望んでいますからね。

> 「20分より先の未来を考えるなど時間の無駄だ」(ジェフ・ベゾス)> 一寸先も分からないようなこの大変化の時代は、前例踏襲が得意な「記憶再生能力」の高いだけの旧来型の官僚タイプの人たちが役に立つわけがない。

有職故実は、昔からの仕来りですね。

> 自分の頭で考え、発想し、その場で即応できる自律型の「行動できる人」でなければ、これからの大変化の時代を生き抜くことはできない。> 自分で考えて行動できる子どもを多く輩出(はいしゅつ)する国でありたい。

そうですね。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.
しかしながら、日本人には、意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳には未来時制は無く、日本人には意思がない。
仕方がないから、日本人は無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。これを見て、精神修養の必要性を感ずる日本人は多い。
武芸を通して精神修養を行うと、動作の素早い人間は育成できるが、リーズン (理性・理由・適当) を持った人間はできない。意思決定 (理性判断) はできずに、恣意決定 (盲目の判断) をするようになる。この問題を解決しなければ、わが国の教育問題の解決は進展しないでしょうね。
'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)


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オッペケペ

2019-10-31 01:21:19 | 文化

>「オッペケペ」というのはなんだろう。> 概念的に説明すると、明治20年前後、壮士芝居の系譜をひく書生仁輪加(にわか)をはじめた川上音二郎(1864~1911年)が始めた壮士節で、オッペケペ節といわれ、自由民権思想をそういう一種の歌謡の形にのせて鼓吹し、大いに客席の人気を博したという。

真面目な話には、ならないようですね。駄洒落のようなものか。

> 彼がオッペケペ節をひっさげて芸人になったときは、明治の自由民権運動が挫折した時期であった。>書生が風俗的存在になり、自由民権思想が白熱期を過ぎて、自由民権を唱えることが、もはや風俗現象でしかないという頽廃期にこれを芸能化した。> (中略)>このなかで、演説という1点だけにしぼって、この頽廃現象を考えてみてもいい。

演説は、文章内容である。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

>演説というのは、開化の明治期が輸入した最も重要な技術種目の一つで、しかもついにものにならず、今なおものになっていないというあたりに、オッペケペの問題を考えることができるであろう。> 英語のスピーチを演舌または演説という日本語に仕立てたのは福沢諭吉である。>福沢は演説を重視し、門人にそれを勧め、明治8年(1875年)には、三田に演説館を建てた。
>しかし、不特定多数の大衆にものをいうという習慣が日本になく(真言僧の説経以外に)、さらには政治のなかに論理を持ち込んで、それを修辞によって聴衆に理解させ、さらには鼓舞させるという習慣が日本の過去の政治に皆無で、それだけでなく日本語そのものの言語的伝統にもそれがなかったため、たわいもない扇動や詭弁、もしくは乞食節調へ陥りがちで、ほとんど実を結ぶことがなかった。

残念でしたね。

>結局は政治は論戦や雄弁によって動かされることがなく、楽屋での取引で動かされていく。> 裁判でさえそうである。

日本人には、文章内容の理解というものが一般的でない。普通は、理解ではなく忖度 (推察) で行く。忖度と理解は似ていて非なるものである。忖度は、聞き手の勝手な解釈で、現実直視になっていない。だから、話者には、何の責任もない。議論にならない。談合になる。

>川上音二郎が少年のころ、弁護士を志したことがあるようだが、日本の法廷の習慣では、弁護士は決して雄弁である必要はない。>文章をボソボソと読んでいくだけでいいのであり、検事も判事も同様である。

皆の衆が伝統の踏襲をしていたのですね。

>これがもし、明治のときに英米法が採用されていたとしたら、どうであろう。>弁護士も検事も陪審員という大衆代表を口説かねばならぬため、よほどの雄弁が必要だったかもしれないが、さいわいにしてドイツ法を採った。>もし英米法を採っていたとしても、日本語の世界に習合されていって、ひょっとすると陪審員と内々で談合するという法廷習慣が生まれたかもしれない。> 日本語は訥弁であり、演説よりも談合に向いているのである。

そうですね。意思は、議論で決着する。恣意は、談合で決着する。日本人には意思がなくて、恣意がある。

>歌舞伎や文楽などの世界でも、論理的対立ということで芝居が進行するのではなく、肝心なところは浄瑠璃という唄によって、論理的手段よりも情感に訴える手段で観客は納得させられていく。

西洋人は、意思の疎通を図り相手の理解を得る。日本人は、恣意の疎通を図り相手の忖度を得る。

>ということからみれば、自由民権運動の退潮期に出てきたオッペケペというのは、節まわしでもって雄弁の代用をしていく。> 雄弁という西洋の概念は、最少の時間に最大の観念を表現する技術であるとすれば、日本はこれとは逆に、最大の観念を伝えるには沈黙する方がより効果があるという精神風土の国であり、歌舞伎の場合、あるいは今日の高倉健のヤクザ映画の場合でも、その沈黙の場面が唄として情感に訴えられていくのである。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。この鉄則は、わが国においては意識されていない。

>要するに、明治20年代に大いに風靡したオッペケペとは、演説のできない国の産物ということで計量したほうが、正確な目方がでるかもしれない。

そうですね。意思の内容は、文章になる。だから、議論の対象になる。恣意は、文章にならない。意味がない。だから、歌を歌うか沈黙になる。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」.




整った自然

2019-10-30 17:30:59 | 文化

(略)
>■日本人は自然災害と共生してきた
> これに対して、日本では多くの地域に住むスズメバチでさえも、死を招く可能性がある。>スズメバチによる刺し傷は、猛烈に痛い。>同様に、全国のあちこちの海にいるクラゲは悲惨な痛みを与えることができ、時には一部のヘビと同様に、刺された人を入院させてしまうことさえある。>そして、田舎で遭遇するホラー映画から出てきたような巨大な有毒ムカデ(トビズムカデ)を忘れてはいけない。>長さ30cmまで成長し、かまれると激しい痛みや悪寒、発熱などを引き起こす。> 日本は自然災害も頻繁に起こる。>巨大地震や津波、地滑り、台風、火山、そして洪水――。>もちろん、こうした自然災害は世界各国で起こっているが、日本はまさにこうした災害と「共生している」といえる国だ。

そうですね。’天災は忘れたころに来る’ ではありませんね。

>2011年に東北地方で起こった東日本大震災は、世界で記録された中でも最も大きな地震のひとつであり、世界で最も洗練された耐震対策を誇っている日本でも、約1万6000人の死者、2500人以上の行方不明者を出した。>1923年の関東大震災では、震災、火事、火災旋風などでも14万人以上が死亡した。>2016年の熊本地震も、2017年の九州の大雨に起因する激しい洪水も、街を破壊し、多くの人の命を奪った。>日本はつねに、こうした大きな自然災害と歩んできた国なのである。

そうですね。

>そう考えると、日本ではなぜ自然が、恐怖、あるいは、畏怖の念を持たれているのか理解できる。

そうですね。自然は、日本人が抵抗できるような相手でありませんね。

>欧米にある多くの国と異なり、自然災害という面においては、日本は本当に危険なところなのである。

そうですね。’地震・雷鳴・火事・親父’ でね。

>もちろん、日本人が自然にある種の恐怖感を抱いているからといって、日本人が自然との深い結び付きを感じていないとか、敬意を表していないということではない。>自然は恐ろしいものかもしれないが、同時に日本人にとって大事なものであることは間違いない。

そうですね。自然は恐ろしいものではありますが、なれ合うことも必要ですね。

>それは、前述のとおり、自然が日本の芸術やライフスタイル、文化、信念などにしみこんでいることを考えれば明らかである。

それは、日本人のメンタリティ (考え方) に依存していますね。

.>■日本人の自然への考え方は尊敬されている
>こうした日本人独自の自然に対する考え方や概念は、欧米人のそれとはだいぶ違うが、最近は少しずつ広がり始めている。

そういうこともあるでしょうかね。

>自国文化と違うからと言って敬遠されるのではなく、日本的な考え方はむしろ尊敬されているのである。

日本的な考え方は、現実を直視した考え方ではありませんからね。いうなれば、忖度 (推察) ですね。忖度は、自分勝手の内容です。現実直視がなされていません。そのことを批判すると、だって、本当にそう思っていたのだから仕方がないではないかと、言い返えされます。だから、議論にはならない。歌詠みになる。個人の感性に立脚しているので、わが国はブランド・ネームのある社会になっています。これが、中国人の社会と違うところです。
‘全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。’ というだけでは、理解のできないものがあります。論理のない非言語の世界です。

>たとえば、日本庭園や日本の美術、文学、インテリアデザインは世界中にファンが多くいるし、神道や禅といった宗教に基づいた自然を尊重する姿勢や、自然に関連している武道の考え方は、外国では大変興味深いと思われている。

非言語の世界は、大変興味が深いですね。以心伝心・不立文字でしょう。

> 私自身は、自然は美しいものという感覚を子どものころから持っていたが、日本に来るまで自然というコンセプトをしっかりと熟考する機会はなかった。>日本という独特の文化はその機会を与えてくれた。

日本人もオレゴンに行ったら、自然を考え直す機会を得ることができかもしれませんね。

> 「整った自然」は、自然とつながりながら季節の変化を楽しむ最も安全な方法だろう。>だからこそ、風景式庭園、盆栽、生け花、季節の花(桜や梅など)が重要なのだ。>これは日本独自のものであり、凄まじい迫力を有する自然に対する深い敬意を表しているものと感じる。

整った自然は、日本人が自然の中に共存する方法でしょうね。日本人には、世界観がない。だから、この世の ‘あるべき姿’ の内容を考えたことは無い。日本人は、常に自然を受け入れて補修・修復のみに力を尽くしています。


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4つのブレーキ

2019-10-16 10:47:30 | 文化


(略)
> 確かに、日本の社会には、秩序と安心がある。>しかし、それが人々の幸せに結びついていない。>それどころか、この秩序と安定が日本人を息苦しくさせていく。

お変わりのないことが、何よりなことと考えられていますからね。

>秩序と安心があまりにも長く保たれていくと、人々はやがて過度に「空気を読む」ようになり、秩序と安心を乱すことができなくなる。

日本人は、無哲学・能天気ですからね。

>その結果、自分の心を無意識に縛る心理的なブレーキが生まれる。>そうなると、環境が激変して自分も変わらなければならない時が来ても変われない。> 今の日本には閉塞感、無力感、先の見えない不安感、自信喪失が蔓延しているのは、決して見過ごしていい現象ではない。

そうですね。日本語の特性によるところが多いようですね。

>■日本人を縛り付ける4つのブレーキとは?
> <ブレーキその1:前例主義>前例がないことをやると批判されるという意味である。新しいことをしようとすると、前例がないので誰もが「自制」する。あるいは自制させられる。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本人には意思がない。だから、受動ばかりで能動がない。前例に従えば、受動の保証は確実に得られる。だから、日本人の能動は払拭される。

> <ブレーキその2:横並び主義>まわりを見回して、まわりと違うことはしないということだ。あるいは、敢えてまわりに合わせるということだ。まわりに合わせるために、自分の行動を調整する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本人には、あるべき姿 (非現実) の内容がない。だから、現実対非現実の比較ができない。批判精神 (critical thinking) というものがない。
勢い、現実対現実の批判ばかりになる。世俗的であり、内容が ‘どんぐりの背比べ’ になる。だから、話をしても感心されない。

> <ブレーキその3:事なかれ主義>衝突が起きそうになると衝突を起こさないように我慢するということだ。正しいか間違っているかはともかく、自分が我慢して場を収める。あえて軋轢や衝突を起こさないために、自分を抑制する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本人には、意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) による行動は危険である。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ が正しいとされている。

> <ブレーキその4:先延ばし主義>サラリーマン社長のやっていることを見てもよく分かる。自分の任期中は「つつがなく」過ごせればいいので、面倒なことやリスキーなことはすべて先に延ばしてしまう。先に延ばすことによって自分の身分を保身する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

意思のあるところに、方法・仕方がある。Where there’s a will, there’s away. 日本人には、意思がないから仕方がない。無為無策でいる。
無為無策で過ごす方法は、’先送り’ と ‘積み残し’ なよる保身である。とかく、この世は無責任。

> 日本の社会にこの4つが強固に機能しているということは、つまり日本人は強固に抑圧されているということなのである。

そうですね。日本語の特性により強固に抑圧されていると考えられますね。
我々日本人は、日本語と英語を良く学び、より良き考え方を身に付けるべきですね。

(略)
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比較の問題 2/2

2019-10-13 05:50:35 | 教育

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。これは、楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するには、その文章の理解が必要になる。これは、骨が折れる作業である。だから、通常日本人は理解をしないで済ませている。その代わりに、忖度 (推察) を使う。
忖度は、理解に似ているが全く別の代物である。忖度は、聞き手の勝手な解釈である。現実直視になっていない。だから、その内容には、発言者は責任がない。だから、議論にもならない。独りよがりは、どうすることもできない。現実直視が欠けていることを指摘すれば、’だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ という答えが返ってくる。だから、事態は改善しない。ちょうど、戦時中に ‘日本は必ずこの戦争に勝つ’ と言う人の発言を聞いているようなものである。わが国は、理性判断不在の世界である。このような状態であるから、外国人に対して有効な説得力を持たない。 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。

、、、ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章により表現される。その内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) により表される。これら三世界の内容は、果てしなく展開が可能である。だから、その人の世界観になる。
人生のはじめには、非現実の世界は白紙の状態である。だが、この白紙の状態は、誰しも気になることである。だから、各人が少しずつその内容を蓄えて行く。
思春期になれば、言語能力が飛躍的に伸びるので、英米人は考える人になる。高等教育を受ける適齢期になる。彼らは、自分の哲学を作る為に大学に進学する。他人の哲学を手に入れるために大学に進学するのではない。かくして、彼らは、学士・修士・博士の称号を得る。自分自身の非現実 (考え) の内容を基にして現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主となる。
各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 私は、’哲学とは何ですか’ と何回も日本人のインテリから尋ねられた。だが、英米人からそのような質問を受けたことはない。哲学とは、’考え’ のことである。歴史に関する考えは、歴史哲学になる。政治に関する考えは政治哲学、宗教に関する考えは宗教哲学、科学に関する考えは科学哲学、人生に関する考えは人生哲学、などなど。 日本人と英米人には、哲学 (考え) に対する親しみやすさに違いがある。この違いが、わが国の英米流高等教育発展への大きな妨げになっている。その上、わが国特有の序列競争の激しさが加わって学問の本筋への熱意がそがれている。
時制は、英文法にあって、日本語の文法にはない。だから、日本人には非現実の内容が無く、批判精神がない。そして、英米流の高等教育への進学にも意味がない。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)



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