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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

教育関係者の猛省

2017-11-30 12:01:41 | 教育
>学校は同じ能力・同じ事が出来る平均的な人間を作ることをその制度の目的としていますが、これ自体が政府の人間の思い上がりだと私は感じます。

学校は、没個性の取り扱いになっていますね。えこひいきに対する生徒の監視は厳しいですからね。

>教育を施す側の人間たちの思い通りにならない児童生徒を劣等性呼ばわりし、授業などについて来るのがさも当然のような風潮が蔓延しているのです。

そうですね。上位下達の訓練ですね。

>しかし、児童生徒は教師や学校の「物」ではありません。1つの個人であり、自然界の中の一員なのです。>同じものなど存在しないのが本当の自然である 

そうですね。同感いたします。

(略)
>しかし、こと教育にしてみればどうでしょう。>学校という空間の中で教師の授業ペースについていくことが出来ない子供は「駄目な子」扱いされます。>文部科学省が定めた学習指導要領の内容を理解できない子供は出来損ない扱いされ、学校という空間から疎外感を感じる事になるわけです。

学校は人間尊重の精神に欠けていますね。

>無意味な競争をさせて「勉強できる子供」・「従順な子供」を選別し、勝者と敗者という差別意識を根付かせるなどということが当たり前になっているのが学校です。

‘上とみるか、下とみるか’ の判断は、日本人のメンタリティになっていますからね。物の上下の品定めは、勝負で決めるのが公平であると考えられています。無意味な競争などは、あまり気にならないところでしょう。いうなれば、序列○○です。
日本語には階称 ‘言葉遣い’ というものがあって、上下判断は日本人の強迫観念の域に達しています。それは、’人を見損なってはいけない’ からです。日本人の礼儀作法は序列作法になっていて、自分の序列判断が社会に受け入れられなければ、礼儀正しい日本人にはなれません。外人・非国民と考えられます。これは、ぜひとも避けたい状態です。

>人間だって自然界を構成する1つの存在であり、同じ人間は誰一人として存在しません。 >名前はごく稀に同姓同名があるかもしれませんが、顔も肌の色も、身長も体重も体力も違います。>そして個人の性格だって勿論違います。>理解力や記憶力・目的や価値観なども違うということは小学生でも分かるはずです。

そうですね。我が国における個人主義の理解と尊重が必要ですね。

>それを学校という場所では全く同じときに同じ事ができるのが当たり前という圧力をかけ、子供を同じ機械の部品のように作り変えようとしているのです。

規格製品の大量生産を得意とする国ですからね。自然の自由は無いですね。手つかずの自然を楽しむ趣味も無いようです。

>これは教師や学校などのいわゆる「管理する側」の人間たちの都合でしかないのではないでしょうか。

価値観の違いによるものでしょうね。

>児童生徒1人1人をかけがえのない個人として尊重し大切に育てるという発想ならば、学校という場所で監理・競争・服従を強制しているはずがありません。

個人主義の徹底は、我が国においてはまだまだですね。日本語は、個人の発想を抑制する傾向にありますね。

>全ては「政府の学校」の関係者たちの思い上がりでしかないのです。

そうですね。教育関係者の猛省を促したいですね。 


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虚像批判

2017-11-29 10:16:28 | 文化

>今日も暇でネットを見てみたら、ホリエモンが井筒監督を「人間として最低”という記事が飛び出す。
>提供者は日刊スポーツ。
>スポニチにはもっとまともな日本語が書ける記者はいないのかね?
>それはともかく内容は井筒が何処かの雑誌に「最近の映画は売り上げ重視で表面だけとらえた虚像作品ばかりだ、もっと実のあるものを」と述べたのが、ホリエモンのカンに触ったらしく「虚像が未来の産業を作って行くんだ、虚像批判は過去の遺物」と反論。

虚像は頭の中にある。実像は頭の外にある。両者は所在が異なるので、内容は同じにならない。虚像を実像に変換できれば、未来産業の道は拓ける。だから、考える人は必要です。
我が国は今、人手不足である。しかし、頭脳不足の話は聞かれない。
人手不足は実像の世界の不足である。頭脳不足は虚像の世界の不足である。虚像に対する不足感 (要求) が無ければ、我が国には夢も希望もない。

(略)
>現在はどの時代でしょうか?顕かですが「虚」の時代です。>経済は虚経済そのもののアベノミクス。>政治には「虚」そのものの小池「希望」が現れ、テレビをつければどこを見ても虚業の典型である芸能人だらけ。

夢も希望もある政治家ですね。変換の実力はあるのでしょうか。

>政治家もみんな芸能人化を志す。>この時代を筆者は「タレントクラシー(芸能人支配)の時代」と呼ぶのです。

政治家も芸能人も人気で成り立つ職業ですからね。

>井筒監督の評論は日本人がこのまま”実”を忘れ”虚”に奔れば、上で述べたように日本はヒラヒラだらけになって何処かへ跳んで行ってしまう危機感からきているのです。>そしてこの危機感は、ワタクシを含め同年代の、どちらかといえば左翼ではない保守派知識人に共通する感覚だ。

足が地についた考え方ですね。

>一方の堀江は、虚と実の関係は無視し、今の時代の価値の最大化のみを考えるスタンスである。>これをプラグマテイズムという。

うまくゆくと良いですね。

>この前提には現在社会のベースをなす要件が常に一定で、そのための資源の供給も安定確保出来ることである。>この前提が少しでも崩れた時、その世界はパニックに陥り崩壊する。>1920年代のアメリカがまさにそうだったのだ。>だから堀江は現在の超低金利、米ロ中三国の力の均衡、アベノミクスの永続を前提として”虚業”の発展を願わざるを得ないのである。

前提の永遠を願うわけですね。他力本願・神頼みですか。

>現在問題になっているメーカーの検査データねつ造。>一般にはこれを”実”の問題と思うかもしれないが、これこそ”虚”が作った犯罪なのである。

羊頭狗肉ですね。虚を実で裏付けできるのが実力です。

>検査済証など幾らでも偽造できる。>これこそが意味のないヒラヒラなのだ。

信なくば立たず。信用がなければ、定食屋の飯も食べられません。ヒラヒラに意味を持たせるのは人間です。

>このヒラヒラをありがたがることこそが”虚”なのである。

虚人の世界には住みたくありませんね。無力感にさいなまれます。

>以上転載終了


未来の発想

2017-11-28 14:32:03 | 文化
>環境ビジネスコンサルタントのパイオニア!菊池功ブログリンクより引用
>-----------------------------------------------------------------
>皆さま、どうだろう?>これからも自社は現状の延長線上で大丈夫だろうか?>成長曲線を描けるだろうか?>こう聞かれた時に、>「現状のままで充分だ!」>「何も変えなくて良い!」>と自信に満ちている企業は少ないのではないかと思う。>と言うのも、企業というものは何かしらの課題・問題点を>必ず持っているものだからだ。>・組織を変えないといけない・・・>・取扱商品を変えないといけない・・・、>・幹部の意識を変えないといけない・・・、>・社内の仕組みを変えないといけない・・・、> 企業により様々だろう。>しかし、実際に変えられる企業は少ないようだ。

そうでしょうね。変革は難しいでしょうね。

>現状のままでも何とか行けているからである。>そして、変えた場合のリスクがあるからだ。>そういう時、「変わるリスク」と「変わらないリスク」、どちらのリスクが高いだろうか?>間違いなく、短期的には「変わるリスク」が高く、長期的には「変えないリスク」の方が高いだろう。

そうですね。

>ヒトには3種類いる。>・周りが変わる前に自ら変化するヒト> ・周りが変わればそれに従い(仕方なく)変わるヒト> ・周りが変わっても自らはかたくなに変化することを拒むヒト>これだけ時代そのものが変化していく中においては、周りが変わる前に積極的に自らを変化させていきたいものだ。

日本人に積極性があればよいのですがね。

>ある意味、変化する「勇気」と言うか、決め切る「勇気」と言うか、別な言い方をすれば、捨て去る「勇気」が今求められているようだ。

日本人には意思が無い。意思が無くて、恣意 (私意・我がまま・身勝手) がある。意思決定の代わりに、恣意決定を断行するときわめて危険な状態に陥りますね。無謀な発進ですね。意思があれば、その文章内容も明らかになり、リーズン (理性・理由・適当) の確認ができます。リーズナブルな方策が承認されることになります。ですから、蛮勇の危険は避けられます。

>過去の延長線上で考えるのではなく、「将来こうなるだろうから、今、こうする!しなければいけない!」>そういう考え方を持つべきだろう。>そして、将来求められるビジネスは何か?を考えて、「だから、今からこれを準備する」と考えることが必要だ。

未来の発想は、日本人には難しいでしょうね。日本語には、未来の内容に載せる構文がない。それで、未来に関する内容が表現できません。

>「過去・現状がこうだから今もこれをする」>これは過去発想。

伝統的な有職故実の勉強ですね。

>それに対して、「未来・将来はこうなるだろう、こうすべきだ!だから、今はこれをする!これをしなければいけない!」>こちらは「未来発想」。

現実離れをした話は、日本人には信じがたいでしょうね。’話にうつつ (現) を抜かしてはならない’ と言われていますね。

>過去と現状に流されてはいけない!

非現実 (哲学) の内容を持っていないと、現実 (処世術) に流されるのではないでしょうか。

>是非、「未来発想」を持ち続けて欲しい。

そうですね。西洋人は大人になると、’考える人’ になる。
‘我々はどこから来たか。我々は何者であるか。我々はどこに行くのか。’ といった哲学的命題に自分自身の答えを探すようになる。
これは、印欧語の文法には、時制 (tense) というものがあるからである。特別な努力をすることなく、そのように考える。言語は、考える道具だからである。
文法の枠組みに従って、非現実の世界 (過去・現在・未来とか、前世・現世・来世) というものに内容を与えようと考えるようになる。
だから、各人が、それなりの考えを持つ人間になる。考えの実態は見ることが出来ない。ただの話である。ただし、それを信じるためには、正しい (矛盾を含まない) 考えかどうかを見分ける必要がある。

これに対して、日本人は、大人になっても無哲学・能天気でいる。
日本語文法には、時制というものが無いので、脳裏に現実以外の内容を蓄える余地がない。現実の実態は、頭の外にある。だから、見ることが出来る。見ればわかる。見ることが出来ないものは、現実の世界の嘘である。だから、日本人は、考える人にはならない。文法の枠組みが無いので、未来の内容を文章にすることが出来ない。だから、未来に関する発想は難しく表現もできない。哲学の勉強も難しい。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。時制という文法の枠組みが無ければ、想いはバラバラな単語のままである。歌詠みの様なものである。意味もなければ、矛盾の指摘もできない。想いは、哲学にはならずして、空想・妄想になる。おかげで我が国は、漫画・アニメの大国になることが出来た。
だから、未来に関する実りある発想は難しい。変革も難しい。だから、元の木阿弥か。この困難を乗り切るために、英米人の考え方を積極的に学ぼう。



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若者へのメッセージ

2017-11-28 05:10:57 | 教育
>ニュースイッチより以下引用です
> リンク
> どうなる日本の科学(7)米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授・中村修二氏
(略)
>ー研究者を目指す若者へのメッセージを。
>「工学系を目指す若者は、まず日本から出ることだ。

そうですね。温室育ちは、ひ弱な花 (fragile blossom) ですね。

>そして企業を経験することを薦める。

‘少年よ、大志を抱け’ (Boys, be ambitious!) ですね。

>ただ日本は半導体や家電、太陽電池など、どの産業も地盤沈下している。

そうですね。どの産業も停滞・沈下ですね。太平の眠りに入りますね。

>学術界も産業界も沈んでいく国に留まり、それでも支援を求めて国にすがりつく日本の大学研究者にどんな未来があると思うか。

他力本願・神頼みが日本人の基本になっていますね。一寸先は闇。日本人には、未来時制の文章を展開する力はないでしょう。

>若者には自分の脚で立ち、生き抜く術を身につけてほしい」

本当に、そうですね。英米に留学し、彼らと交流することが生き抜く術を獲得する基本になります。

>「本来、こんなにも悲惨な状況に置かれていて、米国なら市民が政府を訴える。

本当に、そうですね。アメリカは自由の国ですからね。彼らは、自己主張が強いですからね。

>このインタビューは日本で読まれる限り、私の言いっ放しになるだろう。

そうですね。反応は無い。声なき民の声は聞こえてこない。実に寂しいですね。

>官僚や政治家、市民、日本は誰も動かない。

日本人には、意思 (will) が無い。意思のあるところに方法 (仕方) がある。(Where there’s a will, there’s a way.)
意思は未来時制の文章内容ですが、日本語文法には時制 (tense) というものがありません。ですから、日本人には意思が無い。だから、日本では誰も動かない。

>米国なら司法を通じて市民が社会を変えることができる。

そうですね。‘We can change!’ ですね。市民に意思もあり、国には夢と希望がある。

>日本は何も変わらない。

お変りのないことは良いことで、天下泰平の世の中の証です。我々は、泰平の眠りの中にいます。
我が国には何でもあるが、ただ、夢と希望が無い。

>それが当たり前だ、仕方ない、と思っているから沈んでいるということに気が付くべきだ。

そうですね。同感です。意思が無ければ、方法 (仕方) はありません。ですから、我々はそれが当たり前で、’仕方がない’ と思っています。英語を勉強して、英米人の発想法を獲得しましょう。このやり方が、閉塞からの突破口になります。

>一度すべて壊れなければ、若い世代が再興することもできないのだろう」

わが国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。日本人には、責任感 (sense of responsibility) というものが無い。
意思のあるところに、責任がある。罪もある。深い反省にもなる。無意思の人には、責任を問うことは出来ません。人は死んでも、死刑執行人には殺人罪は問えない。彼らには、殺意というものが無いからである。何回国がつぶれても、意思が無ければ、我々は元の木阿弥になるでしょう。だから、我々には、意識改革が必要です。英語の勉強が必要です。英語の考え方が必要です。英作文の練習が必要です。さすれば、我々は英米人と議論もできます。夢と希望のある国に住むことも可能になります。

>(聞き手=小寺貴之)
>引用終わり



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官僚

2017-11-27 01:33:22 | 政治


>森友問題で“忖度”という典型的な官僚世界の用語が注目を浴びた。>官僚の世界では、上司に対して“忖度”が出来ない官僚は無能人材と云う事である。>議員・官僚の権力構造は、人事権を武器に忖度させる事で組織が維持されている。>権力構造を無くさない限り、不透明な力関係が無くならない。

政治に透明な力関係が必要ですね。その不透明性は日本語の曖昧さに起因しているかもしれませんね。

> 郷原信郎が斬る>リンク>(引用開始)
>***************
>官僚の世界における“忖度”について「確かに言えること」
>森友学園の土地取得をめぐる問題に関して、「忖度」(そんたく)という言葉が話題になっているが、この言葉は、典型的な官僚世界の用語であり、日本の官公庁や官僚的体質の企業等に所属したことがない人にはなかなか理解することが難しいようだ。
>外国特派員協会での籠池氏の講演の際に、この言葉がなかなか理解されなかったのも無理はない。

忖度 (推察) は、聞き手 (下位者) の勝手な解釈であるから、発言者 (上位者) には責任は有りませんね。正しい作文、正しい理解の言語の道を完全に逸脱していますから、外国人の理解は得られないでしょうね。

>過去に、23年間、検察という官僚組織に所属した経験に基づいて、私なりの理解で、この「忖度」という言葉について、「確かに言えること」を書いておこう。
>①「忖度」は、される方(上位者)にはわからない。
>「忖度」というのは、上位者の意向を、本人に確認することなく、もちろん、指示・命令を受けることもなく、推察して、その上位者の意向に沿うように行動することである。

いわゆる、’気を利かせる’ ということですね。’おもてなし’ のようなものかな。サービス精神のある公務員ですかね。

>他人にはわからないように行うところに本質がある。

日本人の精神活動は、文章などにより表すことは出来ない。人の心から心へと直接に伝えられるのですね。(以心伝心・不立文字)

>少なくとも、間違いなく言えることは、「忖度」は、される側にはわからないし、わかるようなものであれば「忖度」とは言わない。

おもてなしの心のようなものですね。

> 直接確認し、指示・命令を受けるのであれば、「忖度」をする必要はない。

そうですね。言語機能を活用すればよいですね。アニマルには、忖度で行くしかありません。

>「直接、意向を確認しにくい関係・内容」、「確認して指示を仰ぐことに差し障りがある事柄」であるからこそ「忖度」が行われる。

そうですね。恣意 (私意・我がまま・身勝手) の場合には文章にならず、直接、確認することに差しさわりがありますね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>森友学園の件では、財務省理財局、近畿財務局、大阪府等の職員の「忖度」が問題にされているが、彼らは、まず直接的には、それぞれの組織のトップないし幹部の意向を「忖度」するわけだが、さらに、そのトップないし幹部の意向が、「『安倍首相の意向』に沿う意向」であろうと「忖度」しているのではないかが問題になっているのである。つまり、「忖度」が何重にも積み重なっている。

勝手な解釈の上に、勝手な解釈がなされているわけですね。意向の内容は、意思ですか。それとも、恣意ですか。

>②「忖度」は、行う本人も意識していない場合が多い。
>「忖度」というのは、終身雇用制、年功序列制のピラミッド型官僚組織の中で、役人が生き残り、昇進していくために、わきまえておかなければならない「習性」のようなものであり、有能な官僚であればあるほど、意識しないで、自然に上位者の意向を「忖度」することになる。

文章にならない内容は、脳裏にも意識されにくいですね。

(略)
>だから、「忖度」をした人に「忖度をしたでしょう?」と聞いても、それを肯定する人はあまりいないのではないだろうか。

過去 (非現実) の内容は文章にならず、疾く風化します。

>③「忖度」で違法・不当な行為は行われない
>「忖度」は、官僚が、その「裁量の範囲」で、上位者の意向に最も沿う対応をするものである。

我が国の官僚の裁量権は、大きいのだそうですね。これも、恣意のある上位者には都合のよいことですね。

>裁量を逸脱する違法・不当な行為は、後々、それが指摘されれば、処分等のリスクにつながるため、意図的には行わない。

裁量の範囲を大きくしておけば、違法・不当な行為も少なくなりますね。

>「忖度」は、上位者に報告や指示・命令を仰ぐことなく行うのであるから、違法・不当な行為のリスクは、すべて下位者が負うことになるからだ。

そうですね。指示・命令を勝手に解釈することは許されませんね。指示・命令が無ければ、勝手な解釈も存在しません。

>「忖度」で行う範囲は、裁量権の及ぶ範囲内で、最も上位者の意向に近いもの、ということになる。>「忖度」したかどうか、というのは、その状況と、行われた行為が裁量の範囲の中で、最も上位者の意向に近いかどうか、という客観的状況から、推認を働かせるほかないのである。

そうですね。忖度したかどうかは、あいまいなものですね。

>④ 官僚は「忖度」で評価される。
>官僚の世界で、上位者から評価されるのは、違法・不当ではない「裁量」の範囲での方針決定について、上位者に方針を確認したり、判断を仰いだりせず、その意向を「忖度」して動ける人間である。

上位者から評価されるのは、気の効く人ですね。

>上位者にとっては、そういう人物こそ、上位者の意向・方針を、上位者の手を煩わせることなく実行してくれるので、大変好都合なのである。

都合の良い恣意的な協力者ですね。

>しかも、それは、今回のように、「忖度」によって行った対応が問題にされた時には、実際に問題に関わっていないので、上位者にとって、リスクを最小化できるという面でもメリットがある。

上位者の立場は、‘気をきかせろ’ ではなくて、’仕事に励め’ でしょうね。

>そういう意味で、官僚の世界では、「忖度」の「習性」を身に着け、それを確実に行える人物が、「能力の高い官僚」と評価され、いちいち上位者の意向を確認しなければ対応できない人間は「無能」と評価されるのである。

正しい (矛盾を含まない) 作文と正しい理解を正道とする言語の道を外れていますね。

>以上のような「忖度」についての基本的な理解を前提とすれば、国会で「忖度した事実がない」と答弁している安倍首相は、官僚の世界における「忖度」の意味を理解しているとは思えない。> 一方で、野党側が、参考人招致や証人喚問等で「忖度」の事実を明らかにしようとしているのも、あまり意味があることとは思えない。

文章の存在しない世界について、議論で決着はできませんね。

>「忖度」というのは、組織内に、「磁場」のように存在し、物事を一定の方向に向かわせていく力であり、それは、官僚にとって特別のことではなく、しかも、違法・不当なものではなく、裁量の範囲内でやっているだけであるから、「忖度したか」とか、「それが、具体的にどの程度影響したか」ということ突き詰めようとしても、その解明はほとんど無理である。

日本文化の研究になりますね。以心伝心・不立文字の世界は、言語の機能を逸脱しています。

>むしろ、その「磁場」の存在の背景となっている、権力構造そのものの問題を考えていくしかない。

なにしろ、無哲学・能天気の国ですからね。政治に哲学が無くて、処世術がある。政治家 (statesman) がなくて、政治屋 (politician) がいる。

>現状で言えば、官僚の世界が、終身雇用制、年功序列制が維持されるピラミッド型組織で、内閣人事局に各省庁の幹部人事権が握られ、それを動かす政治の世界が、国会は与党が圧倒的多数、その与党の党内も、小選挙区制のために、公認候補の決定権を持つ党幹部に権力が集中しているという状況は、まさに、最も「忖度」が働きやすい構図であることは間違いない。

政治を ‘阿吽の呼吸’ でやるのですね。以心伝心・不立文字では、議会は成り立ちませんね。’文章にして語れ’ です。

>むしろ、重要なことは、今回の問題がまさにそうであるように、行政の透明性を高め、その手続が問題になった時に、「忖度」が働いたかもしれないプロセス自体を公開することである。

関係書類を証拠として保存しておくことですね。手続きが問題になった時に、書類を公開すれば、透明性は高まります。


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