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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

伊藤嘉明氏  

2021-07-31 11:01:19 | 文化

 

>ビジネスパーソンが出世をして、ビジネスリーダーや経営者を目指すなら、自分で仕事の成果を出すだけでなく、周囲を巻き込み、人を動かして成果を出す力――つまり、リーダーシップを身に付ける必要がある。   

 

そうですね。  

 

>さて、リーダーシップにもさまざまなスタイルはあるが、こんな話を聞いたことはないだろうか。 >「私は性格的に、強気で引っ張って行くタイプだ。 >学生時代の部活でもそうだった」 >「強権を発動するようなことは嫌だから、私は周囲の意見をまとめていくタイプだな」 >このような考えは、はっきり言って幻想である。 >なぜなら、リーダーシップのスタイルは、その人の性格や好みで変わるようなものではないからだ。

 

そうでしょうね。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人に説明責任はとれない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。 

 

>リーダーシップのスタイルと性格や好みは無関係  >実は私 [伊藤嘉明] も、このような幻想を持っていたことがある。>30代半ばまでは「みんな、俺についてこい!」という感じの、兄貴分的なリーダーシップのスタイルを踏襲していた。

>このノリに部下たちも応えてくれて、私の部署は記録的な成果をたたき出した。>日本コカ・コーラでは最年少部長に抜擢され、デルでは8期連続赤字だった部門を7期連続予算達成の常勝軍団にしてみせた。

 

ものすごいですね。   

 

>高校時代、野球部のキャプテンをやっていたこともあり、私はこうした体育会系のノリが、私のリーダーシップのスタイルだと思っていたのだが、実はそうではなかった。 

 

体育会系のノリは恣意 (私意・我儘・身勝手) の高揚でしょうね。   

 

>そのことに気がついたのは、40歳になってSPE(ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)に入社したときだ。>当時のSPEの業績はどん底にあり、経営者のポジションで同社に参画した私に与えられたミッションは、過剰な人員を削減しつつ、事業を再生させることだった。[SPE: Sony Pictures Entertainment Inc.]   

 

大変な役割ですね。    

 

>少なくない数のリストラを今からするというときに、「みんな、俺についてこい!」というスタイルは通用しない。

>リーダーシップのスタイルは、その人の性格や好みではなく、今いる状況や、与えられたミッションによって変わるのだ。  

 

そうですね。体育会系のノリは通用しませんね。指導者の理性判断が必要ですね。    

 

>私は、性格的に言うと、みんなでワイワイやるのが大好きな人間だ。   

 

それは馴れ合いですね。馴れ合いとか‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることですね。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>デル時代には、部署の旗を作って、みんなの名前と目標を書いてオフィスに張っていたほどだ。 

 

楽しい毎日でしたね。   

 

>でもSPEに入り、日本代表に就任してからは、部下と親しくなることを極力避けた。>お昼も、夜も、社内の誰とも食事に行かず、つねに独りでいることを徹底した。>なぜなら、一緒に食事をすれば、「この人と自分は気が合う」とか、「この人は今、家庭環境が大変だ」とか、情が移ることがあるからだ。>そうした個々の事情を、経営判断に差しはさむわけにはいかない。

 

そうですね。   

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)        

 

>だが、私も人間だ。 >そうしたことがわかってしまうと、知らず知らず、バイアスがかかってしまうかもしれない。>事業再生に必要な人は誰で、そうでない人は誰か。 >そのことを見極める際に目が曇っていては、プロ経営者として失格である。 

 

そうですね。   

智に働けば角が立つ 情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ とかくに人の世は住みにくい。   

 

>情に流されてはいけないが、情を失ってもいけない  >経営者は、好かれることと、嫌われることの両方ができて、初めて本物だ。   

 

それは役者が芝居をするようなものですね。   

 

>一部門の管理職レベルであれば、「みんなに好かれるリーダー」でもうまくいくだろうが、事業や会社をまるごと管理するポジションに立てば、時には冷酷な判断をする必要にも迫られる。  

 

そうでなければ、国の指導者などは務まりませんね。   

 

>経営者になりたいのであれば、人気者になりたいとか、みんなに好かれたいという思いは捨てるべきだ。 

 

そうですね。それに比べて政治家は人気をひどく気にしますね。経営者も政治家も上の人であることには違いがないのですがね。

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を大衆に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っている。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。     

 

>役職が上になるほど、非情な決断にも迫られるし、心を鬼にして言うべきことを言う状況にも立たされる。 >肝心なところで情に判断を迷わされるようでは、経営者失格である。 

 

そうですね。国民の人気取りに終始して大切な国を亡ぼす政治家もいるでしょうね。 経営者にはそういう人はいないですかね。      

 

>ただし、情に流されてはいけないが、情を失ってはいけない。  

 

激戦の最中に歌を詠むのはどんなものですかね。   

 

>「人の気持ちに判断を左右されない」ことと「人の気持ちがわからない」ことは、まったくの別物である。>そして、部下や社員は、それを見抜いているものであり、後者のリーダーには、誰もついてこないのだ。

 

気持ちの分からない人間と心中するのは嫌ですね。    

 

[伊藤嘉明 X-TANKコンサルティングCEO/X-TANKインダストリーズCEO。 タイ・バンコク生まれ。サンダーバード国際経営大学院MBA、国際経営学修士。 タイ国オートテクニックタイランド、日本アーンスト&ヤング・コンサルティング、日本コカ・コーラ、デル公共営業部本部長兼米国本社コーポレート・ディレクター、 レノボ米国本社エグゼクティブディレクターグローバル戦略担当役員、アディダスジャパン上席執行役員バイスプレジデント兼営業統括本部長、ソニー・ピクチャーズエンタテインメント、ホームエンタテインメント日本・北アジア代表を経て、2014年ハイアールアジアグループ代表取締役社長兼CEOに就任。16年、X-TANKコンサルティングを設立し、CEOに就任。17年から2年間、ジャパンディスプレイ常務執行役員 CMOとして経営に参画。194X-TANKインダストリーズを設立し、CEOに就任。 現職に至る。]  

 

 

 

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成毛眞氏 2/2  

2021-07-29 03:18:52 | 文化

 

>採用する側としては高学歴の学生を採用しておけば、“東大ならだめでもしかたがないね”と人事担当者も社内にいいわけができた。>TOEICの点数での足切りなどを採用基準に設けた企業もあったが、これも採用の手間とコストを軽くしようという学歴と同じ理屈だ」

 

我々は個人の意思に着目すべきですね。その目的のためには面接試験 (interview) が重要になりますね。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人に説明責任はとれない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人には被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。

日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は贖罪を語らない神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人は嫌いです。それは陰気のもとになる。 

罪の意識のない人には、魂の救済も必要でない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) も見事に失敗しました。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。’自由のはき違え’ となる。だから、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。 

欧米人は哲学と意思により行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は (口実・言い訳・言い逃れ) である。本音は、(私意・我儘・身勝手) である。だから、現実の中に行為がうずもれて低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

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> しかし、就職のために激しい受験戦争が繰り広げられていた時代から、日本は超高齢化社会へ突入。>本書が伝えるところによると、日本の総人口は2019年で126167000人(10月時点)と9年連続でマイナスとなり、2040年には11000万人程度に減少。>その内訳を見ると、3人にひとり以上が65歳以上の老人で、働ける人(生産年齢人口)の数も減少が加速。>2040年の日本は、慢性的な働き手不足になるといいます。>「少子化が進んだ今、若い人の人口が減り、売り手市場になった。>学歴が持つパワーは、就職戦線でかつてほどはなくなってきている。>これからはなおさらだろう。

 

真の学歴は頭脳不足を補うために用意されるべきものでしょうね。それを人手不足の補いに利用しようとする考え自体が間違っていますね。      

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

>2040年には、18歳の人口は今と比べて8割にまで縮む。>そもそも、企業側の、学歴に基づいて大量採用して、そこから優秀なヤツが育てばいいという旧来型の採用モデルは現在でも破綻しつつある。>学歴があればどうにかなる社会は、完全に過去のものになる」  

 

そうですね。無哲学・能天気の人々の住む学歴社会には意味がありませんね。ああ空しい。    

 

> 子どもたちが“就職のための学歴”の呪縛から解放される近未来の日本。 

 

日本人は階称の虜になっていますね。日本人が学歴以外の序列を見つけることもまた困難でしょうね。   

 

>喜ばしいことと思いながらも、“学歴”というわかりやすい物差しをひとつの羅針盤として育ってきた親たちは、いったいどのような道を子どもに示せばいいのでしょうか。 >著者は次のように語ります。 >「就職に学歴が関係なくなるのだから、これからは、親も子どもに、それぞれが好きなことを見つけて、好きな仕事や自分の人生を創造する後押しをしてあげるべきだ。  

 

そうですね。我々日本人には個人主義の理解が必要ですね。言語の役割をその機序 (mechanism) に従って説明するのが解決法に役立つでしょうね。    

特亜三国 (日本・中国・韓国) の民には、現実があって非現実がない。現実を内容とする文章はあるが、非現実を内容とする文章が存在しない。だから、技術 (実学) があって、哲学 (考え) がない。考えの内容は人様ざまであるので、個性的になる。だが、特亜三国においては、英米流の高等教育が成り立たない。現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣をしたことになる。非現実の内容を現実の中で実現すれば、それは創造になる。特亜三国の民は、模倣が得意で創造が苦手である。だから、模倣の競争には参入者が多く、創造には少ない。模倣の競争は没個性の競争であり過酷なものになりがちである。アニマル風の競争である。個性を伸ばそう。創造力をつけよう。そして、ゆとりある人間らしい生活をしよう。   

 

>学校や塾も行きたくなければ行かなければよい。>代替案としてオンライン教育が整備されるのは間違いないのだから」

 

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>2040年を待たずして、子どもたちの教育環境はもちろん、親たちの働く環境も劇的なスピードで変化を遂げているコロナ禍。

 

われわれ日本人は遠い未来の行き着く先を示すべきですね。その実現に努力する。そして世界をリードする。       

 

>20年先を見通すための知識、そして体に染みついた固定観念をアップデートするためのヒントが、本書には詰まっています。

 

興味がありますね。   

 

>著者プロフィール   

>成毛 眞(なるけ・まこと)さん:1955年北海道生まれ。

>元日本マイクロソフト代表取締役社長。

>1986年マイクロソフト株式会社に入社。

>1991年、同社代表取締役社長に就任。

>2000年に退社後、投資コンサルティング会社「インスパイア」設立。

>現在は、書評サイト「HONZ」代表も務める。

>amazon 世界最先端の戦略がわかる』(ダイヤモンド社)、『アフターコロナの生存戦略 不安定な情勢でも自由に遊び存分に稼ぐための新コンセプト』(KADOKAWA)、『バズる書き方 書く力が人もお金も引き寄せる』(SB新書)など著書多数。

>構成/金澤英恵   

 

 

 

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成毛眞氏 1/2  

2021-07-29 02:55:52 | 文化

 

>2040年に“学歴社会”は終わる...子どもの未来に絶対必要なものは?   >7/21() 7:16配信

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>20年前、今の世の中がどうなっているか想像できていた人はどのくらいいるでしょうか? > iPhoneが発売されたのは今から13年前。>それからあれよあれよという間にスマートフォンが主流となり、インターネット環境が整備され、日本人の生活も様変わりしました。>薄型テレビの登場には「『ドラえもん』の“壁掛けテレビ”キターー!」と驚嘆していた筆者 [金澤英恵] ですが、それもありし日の思い出。>「もう、時代のスピードについていけない……」と呟いたところで、確実に未来はやってきます。

 

未来は我々が作るものですね。そうでなければ希望もない。      

 

>“未来の世界”に一抹の不安を抱える筆者のような方にぜひ参考にしていただきたいのが、元日本マイクロソフト代表取締役社長の成毛眞さんが執筆した『2040年の未来予測』。 >本書は、「今」のデータや状況を分析することで、20年後の世界、そして日本がどうなっているかを教えてくれる一冊です。>今回はその中から、成毛さんが考える“日本の学歴の未来”についてご紹介します。

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>日本では学歴の意味がなくなる   >著者は本書の中で、「日本では、これから2040年に向けて、学歴の価値は下がっていく」と明言。>衝撃的な一言のようにも思えますが、日本の大学進学率を見るとすでにその傾向が表れていると言います。 

 

もともと我が国には意味のない学歴が存在するからでしょうね。  

 

>「そもそも世界的に見ると、日本はもはや学歴社会ではない。>受験制度も私が学生の頃と大きな枠組みは変わっていないし、国際比較すると日本の教育水準は大幅に低下していることがわかる。>OECD加盟36か国の大学進学率の平均は58%だ。対して、日本は49%にとどまり、下から11番目だ(※)。>別に大学に進学しようがしまいが個人の勝手だが、バブル崩壊の処理に追われている間に、世界から日本が取り残された現実は覚えておいた方がいいだろう」

>※国立大学協会「2019年国立大学法人基礎資料集」より。>カナダ、アメリカはデータが提出されていない  

 

もともとわが国には英米流の学問はない。 それが元の木阿弥に返ったのでしょうね。    

 

> 1990年代に起こったバブル崩壊による日本経済の急激な後退。>その「失われた20年」の間に、日本の教育は世界に水をあけられてしまったというわけです。

 

経済 (脳の外) の影響ばかりではなく、脳髄 (脳の中) の問題にも関係しているでしょうね。   

 

>さらに、大学生の学習傾向とその理由についても次のように言及します。>「大学生が勉強しないのも同じだ。>大学生の平均学習時間は小学生よりも短いという統計調査もある。   

 

() しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)       

 

>なぜ勉強しないかというと理由は簡単で、勉強しようがしまいが、大半が入社する企業での処遇がほとんど変わらないからだ。   

 

そうですね。無哲学・能天気で暮らすのであれば、企業の処遇は勉強の量には関係がないですね。   

現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。アニマルでもわかる。考える必要がない。だから楽ちんである。   

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。それは見ることができない。その内容はただの話である。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

文章の内容は文法に従ってその単語を逐一理解しなくてはならない。これは骨の折れる仕事である。だから、通常日本人は文章の理解をしない。馴れ合いで済ませている。   

馴れ合い・‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることである。

() しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)     

 

>アメリカでは大卒と博士課程修了者は初任給が約5割違うが、日本の場合、よくて2割程度だ。  

 

日本ではインテリが企業の役に立っていないということでしょうね。    

 

>学生にしてみれば金も時間もかけようと思わないだろう。>むしろ、理系ですら博士まで進学すると給与があがるどころか就職口も減るのが現実なので、誰も進学しようとしない」 >知識と専門性を深めることができる大学という学びの場。>しかし、どれだけ大学で勉学に打ち込んだとしても、就職すれば環境も報酬も「新卒」と十把一絡げにしか扱われない日本。

 

それは日本人社会が学問を軽視している動かぬ証拠ですね。   

我が国には人手不足は生じても、頭脳不足の生じた話はない。きっと、頭脳不足を人手により間に合わせる習慣があるからでしょうね。   

 

>学びへの情熱はいつしか、「○○大卒」と履歴書に書ければいいや、という気持ちにすり替わっても無理はないかもしれません。

 

そうですね。日本人は名を見て実を見ていない。    

 

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> 「結局、多くの人が大学に行こうとし、熾烈な受験戦争まで起きたのは、大学に行くことが就職するためには必要だったからだ。 >日本は戦後長い間、右あがりの成長を続けた。 >“いい会社”に入ることができれば安泰だったのだ。

 

熾烈な受験戦争はわが国の学問の発展には関係がありませんね。学歴重視は嘘も方便のようなものですね。   

いい会社いいは、序列順位のことですね。ただ漠然と下のものほど割が悪いという言い伝えから来ているのでしょうね。身分格式の感覚に囚われていて個人の幸福とは直接関係ありませんね。我々は個人の幸福を重要視すべきですね。自分の好きなことに励んでいる人は、疲れを知りませんね。

 

>もちろん、大学に行かなくても就職口はあったが、安定して高い給料がもらえる“いい会社”は競争率が高かった。>そして、なぜそこで競争が起きたかというと、大企業の席が少なかったからだ。 

 

寄らば大樹の陰ですね。個人主義の抜け落ちている社会の格言でしょうね。      

 

>つまり、人口が増え続けたから、“いい会社”の採用枠に対して応募する学生が圧倒的に多かった。>大勢の中から少数を採用するため、企業は採用基準を設ける必要があった。>それが学歴だった」   

 

序列順位を使った選別法は、わが国の序列社会における人間のごく一般的な選別法ですね。在り来たりであり没個性ですね。       

 

> ポスト団塊ジュニア世代であり、就職氷河期世代、失われた世代と言われた筆者 [金澤英恵] も、この「大学に行くことが就職するためには必要だった」という時代の空気はひしひしと感じていました。 

 

これは物事を深く考えない人たちの起こす社会現象でしょうね。    

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

だから、’自明の理 (self-evident) である’ といった内容の強調の仕方を日本人はしない。  

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

周囲の気分・雰囲気を敏感に感じ取る態度が日本人に高く評価されている。

‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

日本人は自己の思考を停止しており万事受け身で対処するが基本姿勢となっている。 

 

>大企業への就職は、もはやそれだけで揺るぎのない未来を手に入れた“勝ち組”のようなもの。

 

没個性の人からなる勝ち組はさぞかし人生が空しいでしょうね。   

 

>「正社員になりたいなら学歴がないとお話にならない」――この最低条件は“いい会社”に限らず、多くの企業にとって同じだったように思います。>「もちろん、必ずしも“高学歴=仕事ができる”わけではないのはみなさんもご存じだろうが、手間やコストをかけずに採用するには、学歴が最もわかりやすい指標となった。  

 

そうですね。日本人には最も分かりやすい上下の指標が常に必要ですね。上下の証拠を見せれば文句が出ない。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 

 

 

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大前研一氏  

2021-07-22 16:15:44 | 文化

>KON888「中国共産党/太平洋・島サミット~今の中国は『負けん気』だけで突っ走っている」 >2021712 中国共産党 太平洋・島サミット

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>台湾統一まで見据えて、突き進む中国  >中国共産党は1日、北京市の天安門広場で創立100年の記念式典を開きました。>その中で習近平国家主席は、香港での全面的な管轄権を持ち、台湾独立の企みを断固として粉砕しなくてはいけないと強調。 

 

中国の勢力範囲の人間は中華思想のもとで暮らさなくてはいけないということでしようね。  

 

>また、米国を念頭に「偉そうな説教を絶対に受け付けない」とし、「外部勢力が私達をいじめ圧迫することも決して許さない」と述べました。>香港を掌握した今、台湾統一は中国に残された任務であるというのが、習近平国家主席の演説でした。   

 

中華思想は上からの目線によるものですかね。  

中国は中原の鹿を追う伝統的な覇者の国である。覇者の物語は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

 

  

>非常に興奮した話しぶりでしたが、説得力はそれほどなかったと私は感じました。

 

話の内容が自己中心的ですからね。    

 

>米国を牽制する発言をしていましたが、確かに米国も欠陥だらけですから、中国側から指摘されても仕方ない側面もあります。

 

それは横並びの比較ですね。これは非建設的であり、閉塞感と無力感を諸国にまき散らしていますね。日本人も似たような傾向を持っていますね。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。          

 

>しかし、中国には欧米諸国からも批判が向けられています。   

 

漢民族の自己中心的な考えは世界中から批判されますね。   

 

>決められたことを守らない国とは、国際的なイコールパートナーとして一緒に歩めないという厳しい意見も出ています。

 

中国は武力政治 (power politics) の権化ですからね。 決められたことには拘束されませんね。       

 

>中国は米国のみを対抗馬として考えているようですが、今一度自らの姿を鏡で見て省みて欲しいと思います。

 

そうですね。三蔵法師に仕える前の孫悟空のようなものですね。天下無敵の態度ですね。      

 

>中国共産党は1921年、上海で結成されました。>その後、何度も国共合作を試みたものの成功することはありませんでした。>当初は国民党の方が力を持っていましたが、徐々に毛沢東が力を発揮し、反対派を粛清していきました。>第二次世界大戦で日本が敗戦した後、統一政権樹立のため重慶で国共会談も行われましたが、両軍が衝突して結局内戦に発展してしまいました。>最終的には、蒋介石が敗北し、国民党は台湾へ逃れました。>その後、共産党による支配が続く中国は、特に鄧小平以降の「一国二制度」が上手く機能して、科学技術の分野でもビジネスの分野でも、大きな発展を遂げました。>GDPも世界第2位になり、人口はインドと並んで世界トップです。>いまだに軍事技術の分野では世界一の米国に見劣りしますが、あらゆる分野で米国に追いつく勢いを見せています。>こうした結果を見ていると、共産党は「計画経済」を着実に実現していると言えるかもしれません。>その実行力は素晴らしいのですが、世界各国から見ると、その計画の中身があまりに自分勝手すぎると感じるところがあります。

 

中華思想の人は、自己中心的ですからね。   

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北てき (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。    

 

>国際化社会の中でリーダーシップを発揮したいのなら、中国はリーダーとして尊敬を集める国になるべきであり、そういう意識を持つことが重要だと思います。

 

そうですね。中国は改心以前の孫悟空ではいられませんね。    

アフリカには大勢の大人が仕事も無くぶらぶらしている。だから、‘アフリカに工場を作って人を雇ったら彼らも助かるだろうに’ と私が言ったら、’彼らは字が読めないから危険で機械を触らせることができない。だから、人は大勢いても依然人手不足なのだ’ という答えがJICA海外協力隊の人から返ってきた。

それと似たようなことが漢人 (中国人) についてもいえる。彼らは、漢字圏を出て外国人と仕事ができない。外国人は漢字の読み書きが出ないから、漢人主導の建設作業に文盲同様な人は参加させられない。中国の被援助国である外国においても中国人だけで仕事をする。だから、中国の内外において彼らは漢民族が優秀であることをいやがうえにも知ることになる。そして、彼らは ‘漢人優位’ (hanren supremacy) の信念を持ち続けることになる。

 

>それを理解せずに「負けん気」だけで突っ走っているのが、今の中国だと感じます。

 

同感です。彼らは自信満々ですね。      

 

>そんな中国が民主化したらどうなるのか?という議論があります。>私は、民主化した中国には崩壊以外に道はないと思います。

 

中国に本当の革命が起こるのですね。    

 

>今の中国は、13億人の国民を力と恐怖で無理矢理に押さえつけている状態です。  

 

そうですね。恐怖政治ですね。    

 

>民主化したら、国民を押さえつけることは不可能でしょう。>形式的には民主化したものの名ばかりで、強権支配を続けているロシアと同じようになると思います。

 

そうですね。ごまかし (camouflage) の民主化ですね。      

 

>あるいは、中東に広がった民主化運動「アラブの春」の後、リビアが群雄割拠状態へ陥ったように、中国国内が割れる可能性が高いでしょう。>さながら、春秋戦国時代になってしまう気がします。 

 

中国は、紀元前770-紀元前221年にまで戻るのですね。漢民族の言語による障害が大きく関係しているでしょうね。   

 

>思い出したように3年に1回だけサミットを開催しても無駄  >太平洋地域にある18の島国・地域と日本による国際会議「太平洋・島サミット」が2日、オンラインで開催されました。 >その中で菅首相は7月中旬以降、太平洋の島嶼国に合わせて300万回分の新型コロナワクチンを提供すると表明。>また、影響力を強める中国を念頭に、透明性の高いインフラ整備を打ち出しました。 

 

中国が動かなければ日米も消極的になるでしょうね。   

 

>台湾統一に向けて、中国は台湾を国際社会から孤立させようと圧力をかけ、2019年にキリバスとソロモン諸島が台湾と断交して中国と国交を結んでいます。 >今では、島サミットに参加する16カ国のうち、台湾と外交関係を保つのはツバル、マーシャル諸島、パラオ、ナウルの4カ国のみになっています。 

 

中国は影響力の強い国ですね。   

 

>こうした中国の動きに、日本は米国と協調しながら対抗しようとしています。 >しかし、本気で対抗したいなら、そもそも3年に1回だけ思い出したように島サミットを開催するだけでは無理でしょう。 >島サミットをもう少し頻繁に行わなければ、意味がないと私は思います。 

 

そうですね。中国に対する日米の受動的な動きは気になりますね。    

 

>ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアという3つの地域に区分されていますが、それぞれ利害が対立していて関係性も良好とは言えません。>私はこれらの地域に何度も足を運んだことがありますが、現地を知れば知るほど、統治するのは非常に難しいと感じていました。>メラネシアにある資源もそこそこですし、完全に観光に依存しているポリネシアは、今非常に厳しい状況のはずです。>ミクロネシアの島々は、何かしらお金を生む仕掛けがなければ今後やっていくことは非常に難しいでしょう。  

 

そうでしょうね。   

 

>日本は第1次世界大戦後、パラオを委任統治していました。 >そういった歴史的な背景があるパラオに対してさえも、十分強固な関係を築けているとは言い難いです。 >3年に1回だけ思い出したように島サミットを開催しても、どんな効果が期待できるというのでしょうか。 >日本政府は、本当に彼らの悩みが何なのか?ということを理解していないと思います。

 

私にも彼らの悩みの内容は分かりませんね。   

 

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>※この記事は74日にBBTchで放映された大前研一ライブの内容を一部抜粋し編集しています

 

 

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岡田豊氏 2/2  

2021-07-20 13:31:25 | 文化

 

>過去や歴史やこれまでの価値観に縛られず、権威に忖度せず、依存せず、自分の頭で自分が良いと信じるやり方を考え、創り、行動する。   

 

そうですね。だが日本人は・奥ゆかしい(深い考えがあるようにみえる)。実は、奥 (考え) がない。だから、浅薄である。日本人は、無哲学・能天気である。政治家には、政治哲学がない。我々の未来社会の有様を大衆に言って聞かせる術がない。だから、政治音痴の状態を脱することは難しい。日本人には、儀式 (作法) ばかりがあって、教義 (考え) というものがない。だから、作法ばかりにこだわって、これを励行する者が権威者となる。子供の時には宮参り。結婚式はキリスト教。葬式は仏式でやる。全ての行為は、気分・雰囲気で決めらてれる。思考を停止している世の中では、作法の墨守を通してしか自己を顕示する方法がない。  

 

>この行為を私は「自考(じこう)」と呼んでいる。>「自考」で、人々は自分の個性と自由と居場所を取り戻し、楽しく生きる。  

 

自考は良いことづくめですね。だが、日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

 

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人に説明責任はとれない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。  

 

>他人の「自考」も受け入れる。 >その自由で楽しいパワーは、社会のあらゆる分野でイノベーションを起こすはずだ。 >停滞した経済が息を吹き返す契機にもなる。 

 

自考比べですね。日本人には意思がない。恣意の自由は自由の履きちがえになり、何処の国でも許されない。だから恣意の日本人は、今も昔も、不自由を常と思えば不足なしになる。   

 

>201810月、ノーベル生理学・医学賞に選ばれた本庶佑・京都大学特別教授の言葉は強烈だ。 >「教科書に書いてあることを信じない。 >常に疑いを持って、本当はどうなってるんだ、という心を大切にする。 >つまり、自分の目でものを見る。 >そして納得する。 >そこまで諦めない」。 >過去に誰かがつくった教科書を信じず、自分が納得するまで諦めないでというメッセージ。 

 

納得できる社会が良いですね。疑惑を晴らすことのできない人ばかりでは心も曇ります。   

 

>自ら実践してきた「自考」を、研究者を目指す子どもたちに呼びかけた。 >◆「自考」を育み、実践する人たち >(中略) >「大事なのは解けることではないし、説明が分かることでもない。 >頭を使うことです」と宮本 [哲也] さん。 >なぜ頭を使うことが大事なのか。 >「それはもう、自分の人生を自分らしく生きるためには必要じゃないですか。 >それ以外に自分らしく生きる方法はありません」。 

 

そうですね。考えの内容は人それぞれです。だから個性が表れる。自分で考えない人々の社会は没個性的ですね。      

 

>宮本さんは高校を中退。 >「自考」しながら自分の生き方を見い出してきた。 >「成功よりも、成長し続けたい」と今も言う。 >(中略) >◆全員が「出る杭」になる日本に  >もし、日本に「自考」が広がっていたら、新型コロナの国産ワクチンはもっと早くできたかもしれない。 >アップルやグーグルに匹敵する企業が日本に生まれていたかもしれない。 >原発事故は防げたかもしれない。 

 

タラレバの話は尽きることがありませんね。   

 

>日本は過去の成功体験から抜け出せずにきた。 

 

日本人は未来の内容が想定外になっている。だから既成事実の追認と人の後追いばかりの生活をしていますからね。これは失敗をしない要領の良いやり方であると考えられています。      

 

>古びた過去と決別し、ゼロから自分で創る。>私たちの考える力で、これまでの私たち自身と社会のありようを変えてみる。

 

それは大切なことですね。だがしかし、日本人には世界観がない。来るべき世界を熱い心で語る習慣がない。     

日本人の世の中は夢幻の如くになっている。眼前 (現実) の世界とそれ以外の非現実の世界とで出来ている。それ以外の世界は、夢 (未来) の世界と幻 (過去) の世界になっている。日本語には時制がないから、非現実の過去の内容も、未来の内容も文章の内容とはならず、つじつまの合う考えとはならない。だから、日本人の未来と過去は、はかなく当てにならない。それで感傷の材料になっている。

だが、英米人の非現実は確かな考えの内容となり、公式の発表として通用する。キング牧師 (Martin Luther King Jr.) ‘私には夢がある’ と主節で言った。そしてその内容を未来時制の文章 (従属節) を使って明らかにした。

「私には夢がある。それはいつの日かこの国が立ち上がり、真の意味でのこの国の信条、つまりすべての人は平等に作られたというこの国の信条にみあう国になることを」とキング牧師はワシントンD.C.の巨大なリンカーン像の前で群衆に語り掛けた。

I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal."   

「私には夢がある。いつかジョージアの赤い丘の上で、昔の奴隷と奴隷所有者の息子たちが兄弟のように一緒にテーブルにつくことができるようになることを……」

I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.

日本人はそもそも「夢(dream)」とか「信条(creed)」や「信念(conviction)」という言葉が嫌いである。だから、つかみどころのない人間になっている。日本ではこれらは歯の浮くような言葉に聞こえる。非現実 (考え) の内容は、日本語の内容としては意味がないからである。考え (構想) の内容がつかめない。それで日本人は政治音痴になっている。

だが、アメリカ人の多くはそういう言葉が確かな内容であり語られることを期待している。だから、過去のアメリカのリーダーたちもこれらの言葉を自分たちの演説に盛り込むことを常とした。  

 

>「自考」は日本人と日本にとって最強の“切り札”になると確信している。  

 

我々は考える人’ (the thinking man) にならなくてはなりませんね。全ての人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.      

 

>大学や学校に行かず、迷い、立ち止まる若者と話す機会が最近、増えた。 >そこで「自考」を勧める。 >コロナ禍で当たり前の日常や信じていたものが崩れた今は「自考」の絶好の機会だ。

 

そうですね。見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実を語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。

 

>本当は何がしたいのか。 >どう生きたいのか。 >ゼロから考える。 >あなたを苦しめていた過去、モノサシ、慣習と決別する。

 

非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現したら、それは人間だけが持つ創造力を発揮したことになります。   

特亜三国 (日本・中国・韓国) の民には、現実があって非現実がない。現実を内容とする文章はあるが、非現実を内容とする文章が存在しない。だから、技術 (実学) があって、哲学 (考え) がない。考えの内容は人様ざまであるので、個性的になる。だが、特亜三国においては、英米流の高等教育が成り立たない。現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣をしたことになる。非現実の内容を現実の中で実現すれば、それは創造になる。特亜三国の民は、模倣が得意で創造が苦手である。だから、模倣の競争には参入者が多く、創造には少ない。模倣の競争は没個性の競争であり過酷なものになりがちである。アニマル風の競争である。個性を伸ばそう。創造力をつけよう。そして、ゆとりある人間らしい生活をしよう。 

 

 >他人と比べるのはナンセンス。 >やりたいことを自由に見つければいい。 >自分を守り、自分のやり方と自分の居場所を創っていい。 >エゴとは違う。 >自分を守ることができれば、他の人も守れるからだ。 >そうした人が増えれば、日本は、笑顔と活力と知恵があふれる社会に生まれ変わる。  

 

あるべき姿の世界がはっきりしないと社会に関する建設的な話し合いは無理でしょうね。   

 

>そんな話をすると、若者の表情は崩れ、少し笑ってくれる。 >その学校が合わないなら、別の居場所で待ってくれている人たちがいる。>新しい道はいつでも見つけられる。 

 

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含まない文章は全て正しい考えを示している。考えの内容は人によりけりである。だから、正解は一つではない。色々ある。   

 

>会社の評価に一喜一憂し、生き様を変える必要はない。

 

そうですね。家畜・社畜の生活よ、さようなら。見栄と外聞から決別しよう。      

 

>職場が苦しく、やりたいことができないなら、職場を変革するか、自分で起業すればいい。 >歳を重ね、夢がかなわなかったと諦めるのは寂しい。 >第二の人生こそ、これまでより輝きたい。 >政府のコロナ対応が不十分で住民を守れないなら、自治体は独自の知恵で行動すればいい。 >「自考」の時だ。  

 

そうですね。無哲学・能天気ではいられない。能動的な人間になろう。          

 

>「自考」してみると、例えば、アベノミクスが推進した多額の財政出動や異次元の金融緩和が、考える力を奪う対症療法にすぎなかったと気付く。 >出る杭を叩いて可能性をつぶすより、全員が出る杭になるように育てる方が良いと思い付く。

 

そうですね。未来の社会を建設する方向で行きましょう。   

 

>100人の生き方をたった3本のモノサシで測るのはやっぱり息苦しい。>100人全員の100本のモノサシを創りたい。  

 

そうですね。私達には自己判断が必要ですね。そうすれば、現在の衆愚政治から脱出できます。わが国には (利己主義でない) 個人主義が必要です。        

 

>私たち全員が自分のやり方と居場所を見い出し、それぞれの持ち場で、自分と日本の未来を切り拓く源泉になる。>自分のやり方を創っていいのだから、きっと楽しい挑戦になる。

 

そうですね。自分のやりたい事をやる時には自然と力が入りますね。楽しい人生を送りましょう。満足する良い結果が得られます。   

 

 

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