馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

8月4日は同期の北アルプス滑落死命日。

2020-08-04 12:34:19 | 日記


昭和43年3月 今から52年前

北アルプス前穂高北尾根

雪稜を登攀した。

https://kgfreeguide.com/mountaineering/maehodakadake1.html

4年生一人3年生一人2年生一人

私を含めて1年生二人。

下山中、疲労でアイゼンを引っ掛けて滑落。

上の先輩は後に6大学の学部長になった。

重いテントを担いでいたため、手足が動かず

制御不可能、頭が下になり雪稜を落下する。

下にいた上級生は滑落を止めるかと思ったが

横に飛んで避けた。

ぐんぐん、谷底へ向かうのがスライド写真の如く

雪、岩の姿が変化するのを冷静に見た。

このまま、岩壁に突撃するのだろう。

突然、頭が落ちた。

落とし穴のようにハマった感じだ。

偶然にも風穴があり突っ込んだのだ。

リュックがクッションと支えになった。

上級生は上から見ているだけ。

戻ると先輩は言った。

「あの勢いでの滑落では止めることは出来ない」。

「二人共滑落する」。

何とも冷たい言葉を平然と口にした。

夏場シーズンであっても、一般登山客には難しい登頂。

岩稜でピッケル、アイゼン、ザイル技術が必要。

 

今から47年前、山岳部同期は夏の北尾根で滑落死。

8月4日は命日。

24歳で黄泉の谷を渡った。

私は同期の3倍の年を重ねた。

かなりのスピードで同期が迎える三途の川に近づく。

 

下記は記録です。

 


39年前 同期の北アルプス滑落死

2014年8月31日

6月22日(金)夕方 5時 学生時代友人が藤沢からやってきた。

2010年7月末に柳橋事務所で、その年6月25日に食道癌で亡くなった同期を

偲んで飲んで以来だった。

又 五反田ユーポートでの偲ぶ会に出席できなかったことを悔やんでいた。

昨年来、スカイツリーを見ながら青春無頼の昭和42年入学、46年卒業

その後41年の歳月の人生を語り合いたいと思っていた。

昭和43年2月 当時1年生 4年生を送る。

彼は体育会サッカー部に所属、夫人も大学同期だ。

定年後も日々忙しく動いている。

元気で羨ましい限りだ。

居酒屋で飲み歓談するより事務所でゆったりと

酒酌み交わすのが楽しく気楽だ。

胃袋に酒が注ぎ込まれるに連れ、青春は走馬灯のごとく廻る。

しかし彼から古井戸の底に溜まった水のように

淀んでいた記憶が、今宵の宴で湧き上がった。

彼の口から語られる思い出に当惑した。

 

昭和48年8月4日北アルプス前穂高北尾根で滑落死した

体育会山岳部同期がいた。

大手重機メーカーに勤めて2年目の夏だった。

 

その同期の思い出を語りだした。

今宵飲む彼はサッカー部に所属ではあったが体育会執行部に出向していた

転落死した山岳部同期も同じく体育会執行部に出向した。

体育会執行部にテニス部から小柄なチャーミングな女性が入ってきた。

私は大学2年生で山登りに熱中していた。

年間160日間も山での合宿だったので

授業も出ず、他クラブの学生は顔が分かる程度しかなかった。

昭和46年卒業 皆社会で出て無頼の青春にお別れした。

2年後の8月4日 同期が転落行方不明と言う突然の電話だった。

山岳部時代も彼は肩を脱臼する致命的な状態があり

現役部員としての活動は少なかった。

その同期は高校山岳部も在籍していたので 高校OB隊員として登山したのだ。

 

私の思いは意外だった「なんであいつが北アルプスに行ったんだ」

大学山岳部員だった頃は 冬山、ロッククライミングは避けていた。

昭和48年8月6日、私は前穂高北尾根を辿り、4峰と5峰のコル(鞍部)から

奥又白谷を30メートルザイル4本繋げて下りた。

残雪と岩に挟まった同期を見つけ、寝袋に入れて

大学山岳部現役部員がザイルでコル(鞍部)に引き上げた。

私はザイル無しで登り出した。

上から怒鳴り声がした。

遺骸を鞍部に置き、ザイルが再び私に向けて下ろされた。

自分では大丈夫だとの思いもあるが、二重遭難になりかねなかった。

私はザイルを巻き付けた。数人の部員がザイルをたぐり寄せている。

私はゆっくり残雪を踏みしめ、ガレ場でのスリップに注意した。

「絆」と言う字がある。

糸が半分と書く。

上では山岳部員が私の安全確保のためザイルを握り締めている。

私も反対のザイルを体に巻きつけている。

互いに紐を半分づつ持って見えないが、私の動きに合わせ

ザイルを引く、止める、緩める等を繰り返す。

そうやって命を繋ぐのだ。

  

 

遺骸を二つ折りにしてリュックで背負い、涸沢のテントで満天の星空の下、二人過ごした。

翌朝、上高地に軽自動車がやって来て遺骸を松本まで運んだ。

私は徒歩で島々まで下り、松本駅に着いた。

遺体は検死後、焼かれ父親が骨壷として持っていた。

一緒に夕方の急行アルプスで新宿駅に着いた。

その新宿駅には関係者が出迎えていた。

私は2日間睡眠を殆どしていなかった。

今 微かな記憶には、今宵飲んでいるサッカー部の同期と夫人がいた。

 

遭難死から39年が過ぎた。

24歳で旅立った。

若葉の頃

 

 

生きていれば63歳だ。

なぜ、あいつが北アルプスに登ったのかは私も疑問だった。

昭和44年頃 丹沢の何処か?

左享年24歳 右享年51歳

 

彼は語る。あいつは「○○に惚れていた」

しかし思いは叶わなかった。

体育会執行部で3人は共に活動したのだ。

その惚れた女性が今の妻だ。

「俺達の結婚式に列席して写真を一杯撮り、祝福してくれた。

新宿駅で会って披露宴の写真を渡された」。

「これから北アルプスに行く」と告げられて別れた。

次に会ったのが新宿駅で骨壷に入った彼だった。

 

そうだったのか、あいつは悲恋の思いを断ち切ろうと

北アルプスに出かけたのだ。

神経質で、それこそ石橋を叩いて渡るほど慎重だったあいつが

油断もあったのだろうがザイル確保せずに

命まで断ち切ってしまったのだ。

転落した場所は井上靖の小説「氷壁

の舞台となったナイロンザイル切断転落事故現場だった。

 

2年前、食道癌で亡くなった友人の墓を見守ってくれる

大学同期の女性も体育会執行部にいて、当時の事を話してくれた。

転落死した同期が体育会執行部にいた彼女が大好きだったが

振り向いてくれなかったと教えてくれたのだ。

 

今、手元にある当時の遭難報告書を読み返した。

日時、員数、登山ルートが記録され

滑落時の状況が記録されている。

しかし遺体収容の記録は殆ど書かれず

私は人夫扱いでその他協力者1名になっている。

涸沢のテント場で警察救助隊から

一人残って遺体と一晩過ごして欲しいとの要望。

誰もが押し黙ってしまった。

同期の友達がいるでしょう?

警察官は言った。

高校生時代同期は俯いていた。

私が名乗りでた。

その夜、救助隊の方から、非難された。

「あんた達は、周囲に多大な危険と迷惑をかけたのに

お礼も謝罪もせずに下山した」。

「社会常識が欠けているのじやないか」!

「誰も差し入れをくれと言ってる訳じゃない」。

私は非礼を詫びた。

翌朝、遺骸は車で運ばれたが

私は乗車拒否されて上高地まで歩いた。

島々から長野電鉄に乗り、松本駅に着いた。

皆 駅に集まっていた。

誰とも話したくなかった。

何もか考えたくなかった。

やりきれない虚脱感が新宿駅まで続いた。

高校山岳部の技量ではザイル確保無しで登る力はなかった。

大学山岳部に救助依頼する以外何ら手立てはなかった。

しかし対外的にはズサンと未熟を露呈させるため

極力抑えたかったのだろう。

その後、一周忌の連絡、墓の場所さえ教えてくれなかった。

 

私も又、心に歯石のようにこびりついたワダカマリがあった。

大学同期の夫婦にもずっと吐き出せない心の重荷を背負っていたのだった。

遭難報告書には記録されない行間の空白には埋めることの出来ない

悲しみが潜んでいたのだ。

 

彼の語りを聞き続けた、私も他の関係者も知らない事だ。

井上靖の小説「氷壁」も事実を元にしたが本当に似たことが起きたのだ。

 

仕事と叶わぬ恋に揺れる苦悩を山で癒そうとして

糸を束ねた絆も持たず、結ぶこともせずに

逝ってしまった。

だが、悲恋の痛手に耐えて新しい恋の始まりもあったのだ。

葬儀の席で泣き続ける若き女性がいた。

遺稿集に彼女は綴っている。

昭和45年3月

北アルプス蝶が岳

左 本人         韓国遠征

  

私と彼との交際はたった七ヶ月という短い期間でした。

悲しい結果に終わりましたが、私は彼とのめぐり逢うことができて心から

良かったと思っています。

彼は、生前私をとても大事にしてくれました。

とてもしあわせでした。

正直言って、ケンカをしたこともありませんでした。

すべて良い想い出ばかりです。

彼はいまも私の心に生きています。

私は夏の夕暮れ時の雲が大好きです。

じっとながめていると、雲が山のように見えることがあるからです。

雲をながめていると、いまでも彼が元気に山に登る姿が目に浮かびます。

そして、これからも毎年夏がおとずれるたびに、

彼のことを想い浮かべるでしょう。

何時までも良い想い出として。

 

これを書いた女性のその後は知らないが

心にしまい込んで結婚したでだろう。

 

同期のご夫妻が転落死した男を忘れることなく

祈り続けてきたのだ。

ありがとうございます。

 

私も彼の山行に隠された純な心を知り

穂高の峰を遺骸を背負った虚しさは消え

稜線を覆う霧は寝袋に包まれた彼を乾燥から守り

流れる雲は遺体収容の隊列の汗を吹き飛ばした。

昭和43年3月 北アルプス前穂高北尾根

下から2番目 私

同期は昭和48年8月4日 左ピークから滑落

 

今は旅立ってしまった二人。

もう一人はは51歳の時脳腫瘍で死去。

生まれ故郷の

立山連峰を仰ぎ見る富山平野の

田の畦道に立つ墓から雪煙巻き上がる

峰峰を見ているのだ。

昭和45年3月北アルプス蝶が岳

 私は真ん中にいて何を見ているのか?

奥の同期は地図を眺め思案!51歳で死去 

立山連邦を仰ぎ見る富山平野の墓に眠る。

手前はのんびり食べているが、2年後正面の穂高で滑落死。

両端の友へ 合掌!

参考記録

クリック↓

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/94a5f2815feb21f6ef483f283e3e0f8d