馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

山岳遭難と救助隊との関係Ⅲ 昭和42年クリスマスイブ 立山から槍ヶ岳縦走に出発。

2020-08-14 05:59:52 | 日記

 

表題ブログに入る前に

 

北アルプスで滑落死から2年後。閑話休題。

 

のエピローグを語らないといけません。

不正追及で軽食喫茶で皿洗い始末記です。

 

 

サラリーマン時代の屈辱に耐えて

 

さて、山岳遭難と救助隊との関係

愛知大学山岳部北アルプス遭難死です。

愛知大学山岳部薬師岳遭難事故

 

私が大学山岳部入部する4年前に起きた山岳部員13名

凍死遭難です。

大学山岳部遭難史上、最大の悲劇です。

 

公的救助隊との関係では、実働部隊探索には関与しません。

誤解してはいけません。

あくまでも、主体は大学山岳部とその関係者です。

捜索、遺体収容は関係者が実働です。

個人山行による遭難であれば

公的機関は手伝い援助はあります。

愛大生遺体薬師沢で発見 痛恨の分岐点 -愛知大の山岳部13名の捜索隊同行記-[昭和38年3月] 中日ニュース No.480_2

 

いつかある日


 

13名遭難死から4年後

その数倍にも及ぶ困難と恐怖の

立山から槍ヶ岳縦走を敢行します。

 

山岳雑誌には何度も掲載される記録です。

 

 

再掲

昭和42年クリスマスイブ 立山から槍ヶ岳縦走に出発

12月24日(木)クリスマスイブ

この年齢になると、クリスマスイブとは縁がとんとありません。

20代の頃も女の子とクリスマスイブを過ごすこともなく

キリスト教系の学校だったが、敬虔なクリスチャンでもなく

キャンパスラウンジでクリスマスダンスパーティーも開かれたが

誘うべき彼女もいなかった。

 

書棚から

昭和45年1月発行の山岳月刊誌

岳人を引っ張りだした。

 

 

黄ばんだ表紙に 特集「積雪期縦走」の見出し。

 

大学体育会山岳部の記録が掲載された。

あの日の暗い思い出を見つめた

クリスマスイブの想い出に浸る。

 

今から48年前1967年 昭和42年12月24日

上野駅 20時35分発急行黒部に乗車した。

恐怖の厳冬積雪期 縦走の始まりだった。

サポート無しで立山から槍ヶ岳までの縦走。

4年生4名3年生2名2年生3名1年生2名。

11名の隊列。

過去にこのコースでの長距離縦走の記録は無かった。

私は1年部員

1年部員は8人に入部したが

この山行に恐れをなして退部する者、拒否する者がいて

1年生は二人だけとなった。

下山後、1年部員が二人だけだったのは

足手まといにならず遭難への危険が回避されたと思った。

富山駅から富山地鉄に乗り千寿ケ原からケーブルをアイゼンで登り

美女平に着いた。

ここから、白一色の世界を彷徨うことになった。

弥陀ヶ原の雪原を40キロのリュックを背負い

ラッセルして豪雪 猛吹雪、視界ゼロでの正しく雪中行軍で

6日間かけて室堂に到着。

12月31日 立山アタック。

見上げる急峻な氷の峰

アイゼンが食い込まない堅氷

氷を油で塗装したような40度の斜面を

ピッケルとアイゼンで3点確保しながら登攀。

立山下山中 私の眼の前で、2年生が烈風でよろけてスリップ

下で止めようとした二人も巻き込み滑落した。

私は恐怖の叫び声と泣き声を発した。

幸い岩に3人共激突して制止。

捻挫の状態のまま縦走を続行。

大晦日から 吹雪で動けず

寒さと恐怖で眠れずツエルトで紅白歌合戦を聞く。

 

 

一乗越し、五色小屋、スゴ乗越を走破して

翌年、1月6日薬師岳山頂に立つ。

当時4年前に薬師岳で愛知大学山岳部が

遭難して全部員13名が死亡した。

日本山岳登山史上最悪の遭難死だった。

 

幕営した時の温度はマイナス18度

 

烈風での体感温度はマイナス36度になる。

1月12日双六岳の小屋に入る。

その日から猛吹雪が続き、一歩小屋を出ると吹き飛ばされる状況。

 

6日間停滞する。

18日が最終帰京日だったが、トランシーバーでの応答も出来ず

伝令も出せなかった。

1月19日 午前2時 星空だ。

風も止んでいた。

 

主将が「良し 行ぞう」

極度の緊張はマイナス18度の体感も感じなくなっていた。

紺青の空に槍ヶ岳の穂先は雪も寄せ付けず

凛として仁王立ちしていた。

 

青氷壁にアイゼンを食い込ませながら登攀するが

疲労でピッチはあがらない。

 

槍の肩に11時40分着く。

槍沢はデブリの海だ。

 

 

雪崩発生を防ぐため、2年生を先頭に、4メートル間隔で

声を出さず、静かに駆け下る。

 

疲労と栄養失調と凍傷で

顔面はただれ、目は飛び出していた。

先頭でのラッセル交代も5m程で交代。

17時半 横尾避難小屋着。

ここから2名の伝令を上高地に出すが

疲労のため途中でビバーク。

 

1月20日 吹雪のない雪道を

気力だけでラッセル。

誰もが無言。

釜トンネル手前で登山者が数名登って来る。

 

目の前に現れたのは、OBの捜索隊。

OBから「おい、お母さんが心配しているぞ」

私は、堪えきれずに声を出して泣いた。

 

1月21日 中の湯に宿泊。

頭上に焼岳の煙を眺めながら露天風呂に浸かった。

22日 帰京。

学長先生 顧問教授 OB関係者

新聞記者 TV局報道部が新宿駅で出迎えた。

 

大学と個人宅に報道関係の電話が入ったのを

後で聞いたのだ。

帰京日が私の誕生日だった。

30日間の行程は未だ破られていない。

 

現在のような冬山登山装備もなく

羽毛寝袋、羽毛服ではない

綿入れのジャンバー

テトロンの防風衣

 

間もなく 半世紀

セピア色になった写真を今宵

当時のクリスマスイブに想いを馳せる。

三途の川を渡った先輩達もいる。

1年部員で現在も在籍は私だけ。

転落死、病死、退学、退部で

一人になってしまった。

 

コメント一覧

錫杖
http://blog.goo.ne.jp/toraai
急行 黒部があったんですね。
それにしても凄まじい冬山合宿ですね
鉄の集団と呼ばれた山岳同志会以上の行動を行っているのではありませんか
 室堂迄6日間のラッセル 40kgもの荷物を背負って想像を絶します。
 冬期小屋が当時はありがたかったことでしょうね 厳冬期の西鎌尾根を槍ケ岳に向って一歩一歩標高を稼ぎとっていく様子。
よくぞご無事で上高地に帰還されたことか
 夏路を知ってるわたしにはあのロングトレイル ただただ感動するしかありません。 横尾街道も長かったことでしょうね
芳野満彦さんが徳沢に越冬していたくらいの話ですね
 感銘しました。